しんと静まり返った部屋の中に、我先にと全力疾走するようなタイピング音が響く。
 作業が思うように進んでいないのか、一定のリズムを保っていたそれが乱れる度に舌打ちがまじることがあった。
 タイピング音とマウスのクリック音。そしてその静寂への合いの手のように入る苦悶のうめき。そろそろ寝たい、帰りたいな、本当は今日彼女とデートだったはずなのにという悲痛な訴えは、どこかで協定でも結ばれているかのようにすべて黙殺されむなしく部屋にこだましただけだった。その悲壮さを際立たせる静けさは、通常勤務を終えた常勤と交代した夜勤組や、エスパーとノーマルの共存のために自由意志でデッドレースこなしている善意の人などの、最小限の人員のみになったバベル内を支配していた。
 前者か後者かといえば、締め切り間近の仕事が間に合いそうもなくなし崩しに後者に振り分けられてしまった賢木も、モニターのライトに照らされながら、チルドレンたちの実験数値と画面を行き来しながらにらめっこを繰り返し、終わりの見えない試算を重ねていた。どうせ終わらないなら、この場の残業組は全員俺と同じ末路をたどれという、ある種の残念な連帯感に飲み込まれそうになっていた彼は、とうの昔に日付変更のラインを越えてしまったことを知らせている時計をみたときに、付け焼き刃でたてたスケジュールが押しに押していることにようやく気づいた。そして、自分の作業能率の悪さにいらだち、セットも崩れた頭髪をかき乱す。そのままデスクに肘を突いて手のひらに顔を埋めると、この場で最大の敵である眠気が迫ってくる。甘くやさしい誘惑の手。咄嗟に、このままではいけないと立ち上がった。
「賢木先生、まさか……」
 向かいのデスクで同じ苦しみを味わっていた研究員が、震えた声をあげた。賢木を見上げるその瞳には、まさか裏切りはしないだろうなという怨嗟さえ感じる陰が見え隠れしていた。サイコメトリーを発動させていないのに、這い寄るような負の感情に背中がぞわりとふるえる。そして、その一人の反応をきっかけにして、賢木は研究室内の全員の視線の集中砲火の餌食となった。
 このままでは生きてはこの部屋を出られないという謎の危機感に襲われた彼は、ひきつった笑みを浮かべて、ちょっとトイレ行くだけだからと己の生理現象を盾にして逃げるように研究室を後にした。
 夜間は動いていない部署もおおいので、昼間に比べれば廊下もどこか薄暗く、静寂を飼い慣らした無機質で高貴な女性のようだった。もしもナンパするとしたらどういう手段つかって籠絡していこうかと、廊下攻略法を頭の中でこね出した段階で、自分はそうとう煮詰まっているのだろうと乾きを訴えている目を休めるように瞬きを繰り返し目頭をもんだ。
 研究室から一番近かったトイレに足を踏み入れると、賢木を歓迎するように一気に電灯がともり眩しすぎるそれが網膜に突き刺さる。
 節電・節水・トイレは職員全員の憩いの場ですと、小学校にもあったようなポスターの文字を惰性で目で追いながら手洗い場の端に手を付いて鏡をのぞき込んだ。煌々とした蛍光灯の明かりを反射した鏡に、疲労の色を隠すつもりもない賢木の顔が映り込んでいる。浅黒い肌はどこかはりがなく、目の下には薄くクマがあらわれていた。連勤中日の残業。その言葉を聞いただけでも気が遠くなる。疲れ切った自分の顔をみるだけでも飽き飽きとして、両手に顔を埋めそのまま座り込んでしまう。一度気を抜くと、いままでわざと気づかぬ振りをしていた疲労が堰を切ったように押し寄せてきた。
「もう帰りてぇ」
 切実な心の叫びだった。しかしそれも研究室にこだまするだけの苦悩の声と同じく、トイレの壁に反響して投げ捨てられた。賢木の置かれた現状を変えてくれるわけもない。
 ゆっくりと心の中で十を数え、体の中にわだかまりまとわりつくだけの疲労を吐き出すように深呼吸をする。
 賢木がいま抱え込んでいるのは、ザ・チルドレン関連の業務。特にリミッターに関係ある部分の仕事だ。最終的に自分が完成させたデータは彼女たちの運用主任である皆本のところに報告することになっていた。そして、賢木がいま手こずっている仕事が終わらなければ、皆本の仕事も先には進まないのだ。もしかしたら、あのワーカホリックも残業していたりしてと想像してみると、賢木も少しだけ愉快な気分になってくる。気分転換なんて大それたものではないけれど、人間なんて現金なものだ。こんな単純なことで、さっきまでの弱気の発言を前言撤回してしまいたくなってきている。
「もう少しだけがんばるか」
 真実など知りもしないが、少しでもやる気がでるなら自分の都合のいいように考えた方がいいに決まっている。気合いを入れるように立ち上がった賢木は、皆本もがんばってるんだしなと勝手に彼の残業を確定させてトイレをあとに戦場へと帰還した。


 緊張感の漂う室内。少し前よりもタイピング音が乱れがちなのは、みなの集中力も限界へと達しそうだからなのだろうか。そんななかで賢木は、勢いよくエンターキーを押すと、自分かいましがた完成させたデータをすごいスピードで確認する。不備がないかサイコメトリーをかけたところで、勝利宣言をするように背伸びをしてイスのキャスターを後ろに滑らせた。
「やった! 俺様一抜け!」
 静寂と苦悶という危うい均衡で保たれていた秩序を派手に打ち破った賢木の終了宣言に、研究室内がにわかに騒がしくなる。
「くっ、先生おかわりなんてどうですか?」
 隣に座っていた研究員が賢木にすがるように手を伸ばした。しかし、それに捕まるものかと身を翻し立ち上がる。だが、賢木が自由になるのをよしとしない新手が彼の肩を優しくたたいて菩薩のように柔和な笑みを見せた。もちろん、口から紡がれるのは甘言とはほど遠い、残業延長戦への誘いなのだが。
「そうそう、オレまだ処理の終わってない書類がこんなに」
「ばっか! せっかく解放されたのにこれ以上仕事増やしてたまるか。俺は皆本じゃねぇんだぞ!」
 肩を並べ助け合うはずの同僚からの猛攻に頭を抱えた賢木。そんな彼のフォローにはいるように、いままでモニターの前から微動だにしなかった女性職員が、勢いのよい男子職員を手で制しゆるく頭をふった。化粧だけではカバーしきれない憔悴が、彼女の浮かべた笑みを儚げなものにする。
「あなたたち、明日は非番でしょ。賢木先生は朝出で診療が入ってるのよ」
「うぇ、嫌なこと思い出させるなよ」
 女性の言葉を引き金にして、賢木に向けられるのは同情の視線へと様変わりする。賢木自身もこらえ切れない苦しみに打ちのめされたように、頭を抱え嘆息した。いままで賢木を追い込めようとしていたはずの職員達は、むしろこれから敗北の決まった戦地へと向かう戦友を見送るように眉根を寄せて、がんばれよと口々に励ましの言葉くれる。
 時計が指す時刻は夜半を過ぎ、既に終電などとうの昔に終わってしまっている。貨物列車くらいしか走っていないだろう。電車通勤ではない賢木としても、自宅にもどるほうが効率の悪い時間だ。
「まあ、そういうことなんで仮眠室いってくる。もしも用事があったら携帯に連絡頼むわ。でも出来る限り連絡してくるなよ。絶対にだ」
「おい、連絡していいのか悪いのかどっちなんだよ」
「言わなくてもわかれよ。連絡してくるな。急患の場合はべつな」
 じゃあと欠伸をかみ殺し軽く手を振って研究室をあとにした賢木を、羨望と同情交じりの視線が見送っていった。


 労働基準法なんていうものが裸足で逃げていくような労働時間を耐え抜いた賢木の体は、疲労の限界を訴えていた。薄暗く照明の絞られた仮眠室へと足を踏み入れると、さっさとベッドを確保して倒れこむように横になる。スプリングの軋む音さえ耳に心地いいほどに、体がベッドにたどり着いたことを喜んでいる。仮眠室にはいくつかのベッドが並んでいたが、そのどれもが未使用であることを知らせるようにカーテンが開かれていて、仮眠室を悠々と使用していることが分かったが、睡眠を欲しているだけの彼にはそんなことは関係なかった。
 重い体をなんとか起き上がらせて白衣をハンガーにかけ、ベッドとベッドを仕切っているカーテンのレールに引っ掛ける。一日羽織っていた白衣は、賢木自身のようにくたびれてしまっていた。外界を遮断するようにカーテンを閉じる。すると、淡かった光も遮光されて真っ暗になった。
「長い一日だったぜ」
 シーツに顔を埋め、約束通りいつ連絡があってもいいように携帯電話を握り締め、そのまま瞼を閉じて意識を舐めるように手招きをしていた睡魔に身を任せた。
 眠りに落ちるまで十秒もかかっていない。そしてその表情は、ようやく幸福を手に入れたように穏やかなものだった。
 だが、そんなはかない安穏は泡沫のうちに砕け散ることになる。
 いったいどれだけ休めたのかはわからないが、夢か現かを漂っていた賢木の意識をたたき起こすように、淡い光が瞼の奥を、そしてカーテンが勢いよく開かれる音が聴覚を刺激した。もちろん、医療スタッフや特務エスパーとして寝起きだけはいい賢木だが、意識は半ば覚醒していたとしても疲労困憊の体は睡眠を求めるように起き上がることを拒絶していた。
「うっせぇ、急患以外起こすなっていっただろ」
 無粋な闖入者から逃れるようにカーテンに背を向け寝返りを打って、篭城を決め込むために布団を被りなおした。しかし、不機嫌を絵に描いたような賢木の声音に怯むことなく、安眠を邪魔する魔の手は賢木の肩をつかむと遠慮なしにゆすった。
 仕事を終えてほうほうの体だというのに、どうして休息をという些細な願いさえ聞き届けられないのかと苛立ちを覚えた賢木は、それを発散するように勢いよくベッドから起き上がる。すると、一番最初にぶつかったのはよく見慣れた同僚の顔だった。
「み、皆本? どうしたんだよ」
 驚きに目を丸くして妙に姿勢よくベッドの上に正座した賢木とは正反対に、薄暗い部屋の中にたたずんでいる皆本の表情は読み取りにくく、柔和な笑みを浮かべていることがおおい彼からはかけ離れた無機質な印象を受けた。賢木は賢木で、突然皆本に奇襲を掛けられる覚えも、呼び出しを受けるような用件も思い浮かべることが出来なくて、何事なのかと腕組みをしている。しかしその裏では、皆本からありがたいお説教をプレゼントされてしまいそうな己の悪行を指折り数えていた。
 皆本はそんな彼に解を与えることもなく、ただ小さく謝罪の言葉を口にするとベッドの端に腰掛けて逡巡するように視線をさ迷わせた。心当たりが十を超えていた賢木は、皆本のしおらしい反応に肩透かしを食らう。
「おい、どうしたんだよ。緊急呼び出しか?」
「急患だよ。君に診てもらいたいんだ」
 低く響く皆本の声。私語厳禁の仮眠室内に投げ出されたそれは掠れていて、幾分かの甘えを含んでいるようだった。急患という言葉に賢木の肩が揺れたが、指示系統がちがう皆本からそんな要請が来ることは稀で、緊急の場合には一番に携帯電話に連絡が来るはずだった。
 いつのまにか枕元に放り出していた携帯電話は着信を告げるランプを灯していない。だとするならいったいどんな謎かけなのだと皆本のことを覗き込むと、冷え切った彼の手のひらが壊れ物にでも触れるかのごとき仕草で賢木の頬に触れた。その指先は、賢木の体温を確かめるように浅黒い肌をなぞり頤から首筋へと回され、皆本は賢木の胸元に倒れこむように上体を預けた。身構えていなかった賢木は、皆本の重みを殺しきることが出来ずに、後手に体を支えることでベッドに押し倒されることを回避した。
 普段の彼らしくない振る舞いを怪訝に思いながらも、急患だとか診てもらいたいという言葉にただ事じゃない雰囲気を感じ取った賢木は、子供をあやすように手のひらと同じく冷え切った皆本の背中を優しくなでた。
「本当にどうしたんだ。急患って」
 皆本の背中をなでる賢木の手のひらに呼応して、二人の距離が縮む。洋服越しに伝わる体温の伝導を逃さぬように賢木の首筋に顔を埋めた皆本は、僕が急患だよと呟いた。濡れた吐息が賢木の首元をなでて、思わず身を硬くする。しかし、賢木の変化に気づかない皆本は、じゃれるように賢木にしがみついた。
「つかれた」
「ん?」
「疲れたんだよ、僕」
 投げ出すように呟かれた言葉。なんでもないことのように囁かれたそれは、それでも漠然とした寂寥を感じさせるには十分で、訳もなく胸の奥がかき乱されるようだった。背中をなでていた手のひらに力をこめて軽く皆本の中を覗くと、体のどこかに異常があるわけでないことは分かった。しかし、彼の言葉を肯定するように体全体を倦怠感が支配していることが読み取れる。もう少し踏み込めば、どうして皆本がこうなってしまったのかを透視することも可能だったが、その一歩をふみ込む前に賢木は己の力を仕舞いこんだ。代わりに、皆本を労わるようにその背中に両手を回して手櫛で長めの黒髪を梳く。
 賢木にとって皆本の内面を覗き込むのは呼吸をするかのように単純なことだ。
 それでもと思う。 それでも、それは越えたくない一線だと。
 賢木は皆本を読み取りたいのではなかった。知りたいという欲求があったとしても、ゴールがいっしょなのだとしても、力を使って踏みにじるように征服するのではなく、言葉を交わし心を開き、時間を共有することで、皆本と向かい合って、人と人として繋がることで知りたかった。
 抱き締めるようにしていた皆本の肩を掴んでその顔を覗きこむと、眼鏡の向こうの鳶色の瞳には心配そうな表情を浮かべた賢木が映りこんでいた。そしてそれを見た皆本も、こんな暴挙に出た自身に困惑するように、少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「生きてるか、急患殿?」
「まあ、ギリギリ」
「ギリギリって。そうか、疲れちゃったか」
 何にとは問わなかった。仕事のことではないだろうということは分かったし、なんとなく、打ちひしがれたようなその雰囲気に感じるものがあったからだ。そして皆本もそれに同意するように、小さく頷いて賢木の肩に額を乗せた。
「今日は夜勤なのか?」
「いや、残業から仮眠室コース。おまえと一緒だよ。研究室のほうを覗いたら、タッチの差で仮眠室にいったって聞いて」
 邪魔かと思ったんだけど、なんだかすごく君にあいたくなったんだよと口にした皆本の吐息が、賢木の首筋をなでる。その言葉の破壊力を、皆本は知らない。そして、賢木自身も自分がどれだけこの皆本という人間に陶酔しているのかといことを理解していなかったのだ。それくらいに賢木は胸をうたれた。一瞬世界が静止してしまったかのように。皆本が自分を求めてくれていたのだということに、鳩が豆鉄砲でも食らったように黒茶の瞳を瞠目させて動きを止めた。
 換気扇の音や、室温をコントロールしている空調の音がやけに響く。賢木は自分の呼吸音や、心臓の動悸のすべてが、皆本に伝わってしまっているんじゃないかと不安でたまらなくなった。女性と初めてセックスしたときにだってこんなに緊張しなかっただろう。
 言葉にするならいとおしい。口にするなら、たぶん意味ある言霊にはならない。まだ自分は臆病だから。だが、自分の胸に身を預けている皆本という青年が、賢木修二という存在にすがるように救難信号をあげてくれたことは、自らの能力によって救える命があるのだと初めて知ったときと等しいくらいの衝撃だった。そしてそれは、自らを肯定された喜びへと直結していた。本当に自分はなんて単純で短絡的な人間なんだろうかと、嘲笑してしまう。
 しかし、賢木の心の中でどんな衝撃的な動きがあったのかをあずかり知らぬ皆本は、動きを止めたまま言葉一つ発しない賢木に不安そうに視線をむけ、やっぱり邪魔だったかと首を傾げた。
「医者の俺が、患者を見捨てるわけないだろ」
 賢木は、自分の内心の全てを言葉にすることも、伝えることも出来ない。
 それが男同士には相応しい感情ではないとわかっていたし、たとえ伝えたとしても何にもないことが分かっていたからだ。それでも、皆本に求められれば、己の最大限を与えたかったし、少しくらいいい思いをしてもいいじゃないかという下心だってある。だから、にっこりと笑みを浮かべ、皆本の掛けていた眼鏡を外しヘッドボードへと乗せて、一日着ていたことでくたびれたスーツを脱がせ、自分の白衣に重ねるように外のハンガーにかけた。
「お、おい賢木? なんで僕、脱がされてるんだ?」
「あー、おまえ朝まで仮眠室コースなんだろ。奇遇なことに俺もだ。そして、俺からの処方箋は、この賢木修二くんの添い寝ね。疲れたときには人肌が一番だろ!」
 言うが早いか、無理矢理皆本をベッドに引きずり込むように二人して倒れこむ賢木。
 最初は急なことに身を捩じらせて逃げようとしていた皆本も、いつの間にか抵抗をやめて、自らネクタイを外し、衿元をくつろげた。皆本の手からネクタイを奪い取った賢木は、それも眼鏡と同じようにヘッドボードへと追いやる。
 カーテンが引かれ、ほとんど光の入らないベッドの中。賢木と皆本はお互いの呼吸が感じられるほど近くで、顔を見合わせていた。何が面白いのかもよくわからないのに、ただ顔を見合わせているだけで愉快な気分になってくる。
「疲れてるなら、寝ろ。少しはましになる。おまえに無理するなんていっても無駄だからな」
 賢木は皆本の両頬を包み込んで、そのまま親が子供にでもするように額に唇を落とした。賢木の唇が触れた額に指先をはわせた皆本は、目を丸くして身じろぎをする。二人の間に衣擦れの音が混じった。しかし、そこに嫌悪の色はなく、それが大胆なくせに臆病な賢木を安堵させた。
 ベッドが狭いからと言い訳のような独り言を呟いた賢木は、そのまま皆本を腕の中に抱きこんで、ただ一言、大丈夫だと呪文でも唱えるように皆本の耳元で囁いた。はやり病みたいなものだからと。賢木の腕の中で抵抗することなく小さく頷いた皆本は、すまないと言葉にすることなく囁いた。
 人間、誰にだってある一瞬だ。
 すべてをやめにして投げ出したくなる。ノーマルとエスパーの絶望的な未来を知ってしまった皆本は、世界の命運をたった一人のなかに抱きかかえている。もちろんまわりの人間を信頼していないわけでも、必要としていないわけでもない。ただただ堅物で怖いくらいに真面目なやつだから、暗闇の中を一人でもがいているつもりにでもなっているのだろう。
 易々と共有することの出来ない秘密を己の中に抱きこむのは、どれだけ苦しいことなのだろうか。サイコメトラーとして抱えきれないほどの人間の悪意も悲しみも喜びも追体験してきた賢木は、己の出来うる限りの想像力を動員して彼の心中を慮ることしかできない。でも、それでもと思う。こうして少しでもぬくもりを伝え、皆本の負担を軽くすることが出来たならと。
「皆本、もう寝たか?」
 いつの間にか一定間隔になった呼吸音。声を掛けても反応がない。静かに呼吸を繰り返し、自分を落ち着ける。乾いた喉を潤すように唾液を嚥下した賢木は、瞼を閉じて自分の鼓動がはやくなっていくのを感じた。
 空気を吸って、吐き出す。
 言葉にしようとしていることを頭の中で諳んじて、さあとぬるく湿った酸素を取りこんだ。あっと掠れたような声が、不協和音のように響く。口にしようとした言葉は意味ある音になることなく、ただ二酸化炭素にまぎれて消えた。もう一度だけ唇を舐め、噛み締める。すきだよ、おまえのためならなんだってするよ。なんて安っぽい。なんてくだらない使い古されたお決まりの台詞。適当に引っ掛けた女にだってもっとましなことを言える。でも、賢木にとってその安っぽい言葉こそ、なによりも真摯な気持ちだった。だから、もういっそ言葉にしてしまいたかったのに、ただ喉がなっただけだった。せめてと、自分の気持ちの一欠けらでも皆本に伝えることが出来るように、彼を起こすことのないように恐る恐るその体を抱き寄せて、希うようにその名を呼んだ。
 たった、たったそれだけ。