賢木先生、朝から眠そうよね。あ、そういえば賢木先生って今日仮眠室に泊まってたんでしょ。ちょうど一緒になった人がいるらしいんだけどね。
 たぶん、きっかけはこんなやりとりだったのだと思う。たったそれだけのことだったのだ。しかし、運が悪いのか間が悪いのか、それとも普段の行いが悪いのか、いやそのすべてが最悪最強に悪かったのか。話はあっという間にあらぬ方向に転がって、玉突き激突事故の被害は甚大だ。そして、事故の被害が大きいほど世に広まるスピードには目を見張るものがあると相場が決まっているのだ。
どうにもおかしい。
 賢木はちくちくと刺さる視線に首をかしげながら、自らの城である診察室を見回した。見慣れた室内。見慣れた職員。しかし、いつもとちがうのは医療スタッフの反応だ。賢木と目が合った瞬間にあるものは好奇心むき出しの視線を取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべ、あるものはいままでの無遠慮な視線を恥じ入るように視線を逸らす。
 いくところいくところで、こそこそとなにやらを噂されていることはわかっていたが、思い当たる節はまったくない。まさかと思って社会の窓を確認してみたりもしたのだが、ちゃんと施錠もされている。
 じゃあなんだと、見えないものが迫り来るような気持ち悪さに歯噛みしながら、居心地の悪い場所から逃れるように昼食のために診察室を後にした。
 だが、診察室から食堂まで移動する間にも、賢木の影を追うようにそわそわと落ち着かないものがまとわりついてくる。一体何が悪いんだよと、適当にとっつかまえて吐かせてしまおうかと真剣に検討をはじめながらテーブルにつくと、珍しく昼食の時間がバッティングした皆本が賢木の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「おう、おまえもこれから昼飯?」
「ああ、お弁当作れなかったから久しぶりに社食だ。隣いいか?」
「どうぞどうぞ」
 あいていた自分の前の席にご案内するように手のひらをそちらに向ける。仰々しい仕草に笑った皆本は、ありがとうと口にして腰掛けると手にしていた和食定食ののったトレイを置いた。
「あのさ、」
 箸を手にしていただきますと呟いたあとに、少しだけ躊躇うように皆本が口を開いた。味噌汁に手をつけようとしていた賢木の手が止まる。次の言葉を促すような沈黙に、皆本はあーだとかうーだとか言いながら視線をさ迷わせていたが、覚悟を決めたように黒茶の瞳を見据えた。
「あの、昨日の夜はすまなかった」
 箸を握り締めた皆本は昨晩の己の振る舞いを恥じ入るよう頬を染める。
「別にすまなくなんてねぇよ、おまえは悪いことしたと思ってるのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、こういうときはなんていうんだっけ? 皆本くん?」
 肘を突いて手にしていた箸の先で皆本を指さしにやりと口角をあげた賢木に、皆本は呆れたようにため息をついて行儀が悪いぞと嗜めた。
 俺がほしかったのはそんなお言葉じゃねえんだけどと一人ごちた賢木も、皆本の言葉に一理あると悟ったのか、しぶしぶと姿勢を正して仕切りなおすようにさあと彼が望む相応しい言葉とやらを促した。
 皆本は皆本で、賢木に何を求められているのかを悟っているのだろう、そうだね君の言うとおりだとほころぶように笑みを浮かべると、箸をおいて賢木を真っ直ぐに見た。
「ありがとう」
 皆本の言葉に、賢木は満足したように頷く。
 感謝を引き出したかったわけではない。
 ただ皆本の苦しみを謝罪というマイナスイメージの箱に詰め込みたくなかっただけだ。それでも、皆本から真っ直ぐに向けられた好意が嬉しくて自然と頬が緩む。弾みをつけるように、添い寝ぐらいいつだってしてやるよと、皆本を茶化した。
 すると、賢木のまったく予想していなかったところから、きゃあきゃあという無粋な黄色い声が聞こえた。これから更に皆本で遊ぼうと思っていたところに水を差されなにごとかと声のしたほうを振り向くと、見覚えのある女性職員が賢木と皆本を凝視してなにやら話しこんでいる。水の入ったコップを引き寄せて、無関心を装いながら彼女たちの会話に耳を傾けた。
 バベル内ではプレイボーイで名の通った賢木の噂話など、いいものから悪いものまで掃いて捨てるほどあった。その一つ一つを訂正し肯定し否定しまわっていたら日が暮れるどころか年が明けることだろう。今度はいったいどんな噂なんだろうかと、新しい自分に出会うかのごとく耳を向けコップに口を付けた。そして、口に含んだ水を嚥下しようとした瞬間に、自分の耳を疑いそれどころか嚥下するはずのそれを噴出しそうになった。賢木の目の前に座っていた皆本も、そんな賢木を注意するどころか鯖の塩焼きに伸ばそうとしていた箸を取り落とし、硬直する。かしゃんとなった落下音に女性職員のかしましい声音が重なった。
 ねえ、やっぱりあの二人って付き合ってるのよ聞いた? うん、聞こえた添い寝って! 嘘じゃなかったのね、仮眠室の話。うう、私も昨日仮眠室いけばよかったあ。なにいってるのよ、あんたデートだったんじゃないの? ばか、あんな彼氏なんかよりも、イケメン二人の恋の行方のほうが気になるに決まってるでしょ! ちょ、声大きい、聞こえる聞こえる! あーもう、賢木先生は女なら見境ないと思ってたら、ちゃんと皆本さんっていう本命がいたのね。私たちなんてつなぎでしかなかったのよ。皆本さんも皆本さんで乙女系男子の優良物件だと思ってたら、ちゃっかり賢木先生を射止めてるんだもん! いい男がいい男とくっつくなんて世の中不公平じゃない。えー、でも二人って昔からの知り合いなんでしょ、そこのとこ考えていくとこう、なんていうの? 夢が詰まってない? なんか私胸が苦しくなってきたんだけど。
 賢木と皆本の耳を右から左に流れ、その間にある脳に重大なダメージを残していった彼女たちの言葉に、二人の周りにだけ水を打ったような沈黙がおちる。ゆっくりと瞼を閉じて十数えてみても、やはりまわりの世界には何の変化もない。そして、背後にいる女性陣の会話は更にエスカレートしていく一方だ。このままいくと彼女たちの話題の中心である賢木先生と皆本さんとやらは、二世を契るどころか七世あたりまで誓い合いそうな勢いだ。
「あの、さ。どこの賢木先生と皆本さんの話だと思う? 世界にはそっくりさんが三人いるらしいけど」
 引きつった笑顔で精一杯の強がりを吐き出した賢木。冗談にしては寒すぎて、現実逃避としては同情したくなるその言葉に、いままで思考停止していた皆本が落としたままだった箸をなんとか拾い上げた。手の震えを押さえ切れず、拾い上げる途中で、三度ほど箸を地面に叩きつけていたことから、いかに皆本がショックを受けているのかということが伝わってきた。中毒症状を訴えるように痙攣する指先を鼓舞して、一度眼鏡を外し手のひらで目元を覆ってから、再度眼鏡を掛けなおす。もちろん、そんなことをしたって目の前の現実がかわるわけがない。
「た、たぶん。僕たちの知らない、賢木先生と皆本さんだと思うんだけど」
 乾いた笑いがまじった皆本の言葉。それは逃避というよりは切実な祈りのようだ。無駄な抵抗だとは知りながらも、力なくそうだなと同意した賢木だって、今この瞬間なら、存在しているかもわからない神などというものに真摯に祈れるような、そんな気がした。







13・03・03