まとわりつくような浮遊感。どことなくすべてが頼りなく不安定なはずなのに、四辺が曖昧模糊として自分という存在の境界が徐々に欠落していくのに任せて、ずっとこのままでいたいとすら感じる。落下しているのか浮遊しているのかも定かではない。とろとろととろけていくようで心地よかった。薄い皮膜を通しようやく俺の元にたどりついた感覚は緩慢なもので、幾重にも重ね薄められぼんやりとしたものしか手元に残らない。このまま意識も落ちていくのかと思ったのに、かくりと首が揺れたことで、ああ俺はいま眠りそうになっているのかと思い至った。それを自覚すると覚醒に一歩近づいた体が反旗を翻すように、眠気が強くなる。自然とおちていく瞼を、何とか開けると、目の前は闇だった。だが、目がそれになれると、酷く遠い場所に雲母か螺鈿かを砕きちりばめたかのごとくきらめくものたちが敷き詰められ、絢爛すぎるきらいのある絵に描いたような光景が広がっていた。さながら蝶が白銀の燐粉を振りまきながら縦横無尽に飛び回った名残のようだ。
小さく息を吸って吐き出す。寒くもなく暖かくもなく、適温に保たれた外気が口内の水分を奪い、それを補填するように唾液を嚥下した。動きを重ねるたびに、徐々に戻ってくる感覚。視覚の次は聴覚だった。穏やかな女性のアナウンスが、それこそ眠くなりそうな旋律をバックにして反響しながら流れてくる。
夜空に輝く赤い星が見えますか?
夜空、というキーワードに、ああそうだここはプラネタリウムだったなと今更みたいなことを思い出した。別に俺はこんなところまで眠りにきたわけではなく、折角の休日だし皆本と一緒にどこか遠出でもしようかと思ってあいつの家に遊びに行ったら、どうしてだか暇を持て余していたチルドレンたちを伴って近所のプラネタリウムへと行く羽目になったのだ。どうしてこうなったのか、あまりにもスムーズにそして俺の抵抗は全てなかったこととされたので思い出して楽しいものでもない。
薫ちゃんたちがちょうど学校で星の動きと星座の勉強をしたのだと漏らしたのがきっかけだったのだろう。勉強と言われれば薫ちゃんなんかは渋るかと思ったのに、プラネタリウムという単語には目を輝かせて、行きたい行きたいと乗り気になったのだから、この場所には眠気を誘うだけではない何か他の魅力があるのだろう。昨日も急患やら手術やらを切り抜けた俺としては、知識欲どころか睡眠欲ばかりが刺激される結果となった。知るということに対して、どのような類のものにでも目を輝かせる皆本ならば、アナウンスに従って彼女が求める星を探しているのかもしれない。
さあ、見つかりましたかと、教壇の上に立つ女性教師のように落ち着きはらった声音に手を引かれるように、また目を閉じてしまいそうになるが、何とか痙攣する瞼を押し上げて擬似的に作り上げられた無限のように見えて有限でしかない切り取られた夜空を見上げた。すると姿勢を変えた拍子に、自分が座っていた座席に更に深く体が沈みこんでいって、もうここで眠ってください寝心地は最高ですよといわんばかりの角度になる。天井を見上げやすいようにという親切設計なのだろうが、いまはそれが逆効果だ。
やはり限界かもしれない。これは大人しく一時の睡眠を貪るしかないと自然と出た欠伸をかみ殺すと、隣から軽い咳払いが聞こえてきた。もう一度欠伸をすると、今度は嗜めるように肘で脇腹あたりをつつかれる。もう己に匙を投げてあとは眠気に身を任せるのみだったのに、一体なんなんだよ。
重い瞼を擦りながら隣を見やると、暗闇になれた視界が俺の方を盗み見ている皆本を捕らえた。いつだって空が明るく、夜気が尻尾を巻いて逃げていく都会なんかでは、見られそうもない、宝石をはめこんだような星空には正答を示す矢印が表示されていた。それは確かに赤く輝く星を指している。この星ですわかりますかと、催眠導入音楽さながらの静やかなアナウンスにまぎれるように皆本が俺に体を寄せて耳元で囁いた。
「折角なんだからおきてろよ」
耳元に触れる吐息がくすぐったくて、首をすくめてしまう。責められているわけではないが、なんとなく呆れられているような気はする。折角も何も、ここへきたいとお願いしたのは俺ではないだろうと、ちょっとした反感が首をもたげてくる。
いつもならばこういった公共の場でのマナーを遵守する皆本ではあるが、現在このプラネタリウムは俺たち二人とチルドレンの三人で貸切状態だ。しかもガキどもは誰もいないこの空間に大はしゃぎで好きなところに陣取りしていたので、俺たちと離れた場所に座っている。そういった気安さも手伝って、こんなふうに声をかけてきたりしたのだろう。そして、まあどうせ俺たちしかいないんだしちょっとくらいいいよなという気持ちを持ってしまったのは俺も一緒だった。だから、身を寄せてきた皆本に、軽くもたれかかってねむいと正直な感想を告げる。すると、嗜めるように賢木と呼ぶ声が耳朶に触れた。よく知る皆本の声音。声量を控えめにしているせいか、とても柔らかく耳に心地いい。それがまた俺の眠気に拍車をかけた。深いまどろみの中に誘うようなそれに、こくりと首が揺れる。
「おまえの声、すきだな」
ああちょっと間違えたかもしれない。もしかしたら気持ち悪いと思われてしまっただろうか。でも、口にしたことをやっぱなしなんて取り消しに出来るわけがなかった。俺の不安を裏打ちするように、頭を預けていた皆本の肩がびくりと揺れる。息を呑んだような気配が伝わってきて、なんて誤魔化したらいいだろうかと戦略的撤退についてぼんやりと思いをめぐらす。すると、奇妙なものをみるような訝しげな視線を向けられてしまった。
「なんだよ急に」
「いや、正直な感想をちょっと」
「感想って」
ぎしりと座席が軋む音がした。アナウンスが空に瞬く星の説明をしているのが聞こえてくるが、それら全てがどこか遠く、傍にある皆本の気配ばかりに神経が持っていかれてしまう。黙り込んだまま、それでもずっと俺を見つめていた皆本が、俺の耳元に唇を寄せた。
「君の声のほうがすごく魅力的だと思うけど」
意趣返しの言葉かとも思ったが、羞恥も臆すこともなく言い切った皆本は、こちらの反応を楽しんでいる素振りもない。思わず二度見してしまうと、想像していたよりも皆本の顔が近くにあって、暗闇の中にあるというのに俺とは違った意味で造作の整った端正な顔がやけにはきりと見えた。子供っぽいわけではないけれども、どこか幼く柔らかな印象に外見は人の内面の一番外側であるというのもあながち間違いではないのだろうとどうでもいいことに納得してしまった。まじまじと、リラックスしたふうの皆本を見つめると、驚きに目を瞬かせ逆にどうかしたのかと問われる。素直に吃驚したんだなんて供述してしまうのは癪で、皆本の耳を引っ張って何でもねぇよと強がりを吐き出した。
「やめろって、くすぐったい」
「なんだよ、俺の声、すきなんだろ」
なあ皆本と、もったいぶったようにトーンを落とした声で囁くと、ひっと変な声の後に体を押し返されてしまう。女の子たちには、修二の声って甘くて素敵なんて評価されるのに、失礼なやつだ。
皆本が身じろぎをしたせいで、足がどこかを蹴りつけたのか大げさな音が響いた。いくら俺たちの貸切だといっても、悪戯が見つかってしまったような居た堪れなさを感じて、二人して動きを止めて顔を見合わせてしまう。反響していった音が尾を引いて消えたのちに、体から力を抜いてだらりと座席に背中を預けた。何が楽しいのかもわからないのに、自然と頬が緩んで笑ってしまう。そして皆本も、静かにしろよともっともらしいことを言っているくせに、その声はどこか笑いを含んだものだった。
肘置きに肘をついて、手ぐすね引いて俺が落ちてくるのを待っているまどろみと戯れながら、皆本の気配を探る。不真面目な生徒でしかない俺とは対照的に、鳶色の瞳は熱心に擬似的に作り上げられた夜空を見上げている。こんなかったるいアナウンスに教えていただかなくたって皆本の頭の中にはすべての星の配置と星座、そしてその由来となった神話についてインプットされているだろうに律儀というか頭固いっていうか、根っからのお勉強大好きっ子なのだろう。
暗闇の中で薄青く見える皆本の横顔。憔悴しきっているようにすら感じられる。それが、落とされた照明の加減でしかないということは分かっているし、俺が勝手に邪推しているだけに過ぎないことも重々承知している。でも、それでも、いま皆本に触れてサイコメトリーを発動させたならば、心のどこかに巣食う決して晴れることのない苦悩の片鱗に掠めるようにのみ触れることが出来るのだろう。現実にある夜に眠れないとするならば、こうして擬似的に作り上げられた夜空の下でくらい、そしてこれも独り善がりな我侭でしかないのだろうけれども、できることならば俺の隣にいるときくらい、苦しむことなく泥のように眠ってくれればいいのにと思う。そうすれば皆本の隣にいる、結局何もできやしない俺が少しだけ救われた気持ちになるのだ。皆本のためになんだってしてやりたいと思うのに、それすら自己満足へと繋がっているのだと思うと人間とはどこまでいったって業の深い生き物だと言わざるを得ない。こればっかりは普通人も超能力者もかわりはしない。
俺の知りもしない苦悩を抱えるおまえのために、俺のできる精一杯のことをしてやりたい。たぶん、いや絶対に、俺はそれじゃあ足りないくらいに皆本に与えられてきただろうから。
「こんど、子守唄でも歌ってやるよ」
いろいろと無茶のある星座の配置と成り立ちについての解説に耳を傾けていた皆本が、俺の方を見た。なんだか気恥ずかしくなって、それから逃れるように投影機によって映し出された人工の空を見上げる。
「よく眠れるように、とっておきのやつ」
クスクスと密やかな笑いが俺たちの間に落ちる。ああ、これも冗談だと思われてしまったのだろうか。それが、言いようもなく悲しかった。俺の好意を笑うなんて酷いと、冗談めかして一矢報いてやろうと思ったのに、そんな小さな抵抗しか出来ない俺をあざ笑うみたいに一人分の重みが肩にかかる。よく知るその重さと体温に、そちらへと視線をやると、瞬いた鳶色の瞳とぶつかった。その瞬間に、訳もわからぬ衝動が体の中を駆け抜けていって、胸の辺りが苦しくなった。その苦しみを吐き出そうとしたのに、それさえままならなくてせめて我が身に閉じ込めるように吐き出し損ねた呼気を飲み込む。
夜空に一等美しく明るく輝く星が見えますか?
歌い上げるように朗々とした女性の声が響く。頭上に光る星々の光はすべて等分に明るく見えただけなのに、柔らかく穏やかな笑みを浮かべたそいつから目が離せなくなる。ありがとうと、皆本の口元が言葉を発することなく形づくった。君が隣で歌ってくれるのなら、たぶんよく眠れるよと、屈託なく言った皆本に、胸を突かれたような気がした。さっきまでの苦しみを上書きするような衝動。痛みではなく、衝撃。でも、それは長く反響し俺の中に波紋を描いていく。ゆらゆらと小石でも投げ込んだようにたゆたうそれらは、形もないくせに形がないからこそ深く根付くような、いや元から俺の中に深く根付いていた物たちを変形させて、新たなものを作り出していく。
「そんな顔して、どうしたんだよ」
そんなって、どんなだよなんていってしまえればよかったけれども、俺の中で起きた天動説が地動説に移り変わったような衝撃にもうそれどころじゃない。何も知らず、純朴に俺に笑いかける皆本に、息を呑んだ。
「すきだ」
日向にあって太陽を追いかけるような向日葵のごとき笑顔を浮かべていた皆本が、初めて異国の言葉を聞いたかのように呆然とする。それがなんだかおかしくて、俺に寄りかかってきていたまだ現状を理解できていない皆本にもたれかかった。
「すきだよ、皆本」
最初から台本でも用意されていたみたいに、舌に馴染む言葉たち。レンズの向こう側の瞳が、瞬いて、俺を映す。
言葉を失ったようにパクパクと動く唇は、もしかしたら俺の名前を呼びたかったのかもしれない。真っ直ぐに俺だけを映すそれが好ましくて、ずっとこのままならいいのにと幼い子供のようなことを考えた。
ああ、すきだなと、そう思った。
そうだ、たぶん、俺は、こいつのことがすきなんだ。声に出して初めてようやく理解が追いついた。ずっと誰も整理しないままに投げ出されたままだったブロックたちに一つのパーツを組み合わせただけで、全てが予定調和であったようにすとんと自然にいろいろなものがまとまっていく。そしていままで、俺が皆本に対していだいていた名づけられないたくさんの衝動たちが点と線を結んで美しい弧を描いていく。当然のようにずっとずっと隣にあった見慣れたもの触れなれた体温感覚、そしてそれら全て、いや皆本光一という人間がやけに色鮮やかに、闇の中にあるというのに、なによりも美しく見えた。それは絶世の美女に出会ったとかそんな即物的なものじゃなくて、ただ単純にきれいでいとおしくて何よりもいつくしむべきもののように思えたのだ。
「さかき?」
たどたどしく、震える声音。拒絶ではなく、混乱。優秀な脳を著しく追詰めた俺は、更なる爆弾を投下するように皆本の肩を抱いて距離を縮めた。チルドレンが遠くに座っていてよかったなと頭の隅で掠めるように考えて、大多数の時間を彼女たちの保護者として過ごす皆本を自分の腕の中に閉じ込め繋ぎとめる。じんわりと広がる、苦しいくせに痺れを伴うあまやかな感情に突き動かされるように口をついて出たのは、あいしているよという、もう言い訳のしようもないようなチェックメイトの言葉だった。
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特務課に用意された僕のデスク。ブースごとに区分けされているため、周りからタイピング音やなにやら相談するような声は聞こえてくるが、その姿は見えない。なんとなく一人でいられるようで気楽なのだが、いまは周りにあふれている気配に落ち着かずにそわそわしてしまう。
午前中の仕事は全て片付けて、本当は夕方に手をつけるはずだった書類の整理の大半までもを完了させてしまった。我ながら目を見張るような作業効率で、まわりからも皆本さんどうしたんですかいつもすごいですけど、今日は一段とやる気に満ち溢れていらっしゃいますねと好意的なお言葉をいただいてしまった。それらに素直にそんなことないですよと笑ってみせることが出来ればよかったのに、極個人的な問題のために渇いた歪な笑みを浮かべるにとどまった。
間違っても、やる気に満ち溢れているわけではないし、特段仕事に入れあげているわけでもない。いや、だからといってやる気がないとかそういうわけでもなくて、じゃあなんだといわれれば仕事に対するスタンスは、いつも通りなのだ。どうして、そんなに一生懸命になっているんだといわれると脳裏に浮かぶのは、一言。現実逃避。
もう何も考えたくなくて、じゃあ何も考えなくてもいいようにと死にそうなスピードで仕事をこなしていたのだ。
僕としては無意識だったのだが、薫たちに言わせるとこの一週間くらい、もう少し詳しく言うと、薫たちに賢木をプラスしてプラネタリウムに行った後から僕の作る料理が手の込んだ豪華なものになったらしい。なんだかそういわれると、料理だとか掃除だとかの家事にウエイトを置いている時間が増えた気がする。まあそれもある意味では現実逃避というか、僕にとってキャパシティーオーバーしてしまった、あれだとかこれだとかを整理するために必要な時間だったのだろう。
既に一週間ほど前から、混乱してグチャグチャになった頭の中をデフラグして、一つの案件についての演算を続けているのに、それに対する解というか対処療法というか、僕の方からのアクションというか、まどろっこしいことを置いておいてまとめるとつまり、どうすんのこれって物に対しての結論が導き出される気配もない。それどころか考えれば考えるほどに訳がわからなくなってきて、そろそろ限界を向かえそうだ。
デスクに突っ伏して一人でうなり声を上げたって、時間は無慈悲に過ぎていくだけだ。パソコンのモニターに表示されている時計を確認すると、運命のときまであと少し。ずっとこの先の仕事のことを考えたくなくて、自分の用意した仕事に没頭していたというのに、それだけじゃ現実が変わることもなく、悲しくも時間が迫るだけ。
行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ。
朝目覚めてからというよりも、あの日から通算何回目かもわからないため息をついて携帯電話を取り出し、To do リストも兼ねたスケジュール帳を起動した。今日も朝から予定がつまっていて、それなりに忙しい。というよりも午後から外出の予定があるので、それにあわせて仕事を早巻きで終えなければならなかったのだ。
一日のスケジュールを確認すると、午後にさんさんと輝く、医療研究課賢木と学校検診という文字。詳細情報には、賢木と共に私立六條学院中等部のESP検診に出かけるという旨の記述があった。もっともらしいことが書いてあるが、まあ明け透けに言ってしまえば、超度7の力を適当に誤魔化して超度2程度であるという結果をはじき出せばいいというお仕事だ。毎年恒例で義務教育の間は付き纏う、彼女たちが健全な学校生活を営むためには必須の裏工作。いつも、彼女たちの現場運用主任である僕と、もうほぼ主治医といってもいい扱いを受けている賢木がことの処理に当たっている。この予定を入れた頃はこんなことになるなんて思っていなかっただろうから、特に深く考えずに軽い気持ちで入力していたのだろう。その頃の自分をいっそ殺してやりたい。いまスケジュール上からこの予定を消したって実際問題、僕が賢木とともに検診に向かわなければいけない未来は変わることなく、しかもチルドレン以外には真面目に検診をしなきゃいけないので、そう適当な気持ちで挑むわけにもいかない。
「うう、なんでこんなことになったんだよ」
一体僕が何をした。いや、何もしていないから問題なのか。もう何が悪くて、自分が何に悩んでいるのかもよくわからない。それでも、一つだけたしかなことがあった。
賢木は、僕のことが、すきらしい。
あと、あいしているらしい。
ある意味衝撃の事実が、先日のプラネタリウムで星空観察としゃれ込んだときに発覚した。最初あまりにもなんでもないことのようにいわれるものだから、僕だってきみのことがすきだよと、まあいま思えば赤面ものの台詞なんかを流れで返していたらどうにもこうにも僕と賢木の間には大きな齟齬が存在していたらしく、俺のすきってこういうことだよとやけに穏やかな笑みを浮かべた賢木に、掠めるように口付けられた。あと、付け加えるみたいに、俺たぶんおまえとセックスできるとまでいわれて、言葉を失ってしまった。そんな事実知りたくなかったし、教えてくれなくてもよかった。セックスってもしかしてこいつは性別のことでも言っているのと思ったが、それこそが本当にくだらない現実逃避だ。するという動詞にくっついて性別するなんて、意味が分からないにも程がある。まあ、つまり賢木は僕と、その、キスとかセックスできるくらいには僕のことがすきらしい。歯に衣着せぬ物言いとオブラートなど捨て去った抉るような直球勝負の告白に僕は何もかえすことが出来なくて、はあだとかうんだとかそんな中途半端な返事を漏らしただけだっただろう。なんだか、あのときキスされた感覚を思い出してしまって、堪らずに口元を強く拭う。
もう何年単位かの付き合いになるが、そんな話ははじめて聞いた。というよりも、そんな素振りなんて見せていなかったじゃないか。確かにその、僕たちはどちらも、同性の友達としてはちょっとおかしいと周りから進言されることもあったし、そういったことでからかわれることもあった。でも賢木はいつもそれを逆手にとってうけを取ったり、焦ってたじたじになっている僕をからかって遊んだりしていたのだ。
それがなんでどうしてこうなった。考えたことなんて、なかった。だって、あいつはいつも僕の隣にいてくれて、僕の友達で、大切な親友で、なんとなくではあるけれども、そしてこれは僕が勝手に思っていたことではあるんだけれども、たぶんずっとこの先もこの関係は変わることなく続くのだろうなと、少しだけくすぐったくも思っていたのだ。そんな想いさえ巡らせていた賢木から、まさかこんなふうに愛だの恋だのなんてものを向けられるなんて、誰が想像するだろうか。それだけならまだしも、あいつは筋金入りの女好きで、何度殴られても何度振られても、あくることなく新しい女の子たちと関係を持って、いっそ刹那的とでもいいたくなるような駆け引きの中に身を置いていたのだ。その土俵に僕が引っ張り上げられる意味が分からなかった。
本当に、どうしろっていうんだよ。こんなのいくら悩んだって答えがなくて、むしろ求めようとしている答えの方向性もわからなくて、模範解答というものが存在しているのなら是非とも僕に見せてくれないだろうか。しかも、賢木は僕に告白じみたことをしてから、その好意を隠すことなく僕にアプローチをしかけてくるのだ。この一週間何度デートに誘われて、何度すきだあいしていると囁かれたことか。すでにその言葉のありがたみも失せてきた。だが、その効力が消え去ろうとも、賢木が僕のことを思っている事実は消えない。そして、幾度断ろうともめげることのない根性にも目を見張るものがあった。別にデートなんて名づけなくなって、いつも通り一緒に時間をすごして、僕の家で食事でもしていけばいい。それだったら僕だって肩肘はって身構えずに済むし、僕は決してあいつのことが嫌いなわけじゃないんだから、いやむしろあいつの隣は気楽だしすごくすきなんだ。なのにあいつはデートじゃないと嫌だと、駄々っ子のように言う。僕のすきと、あいつのすきの間に、深く埋められない溝があるのが何よりもの懸念事項なのかもしれない。間違っても、賢木を拒絶したいわけじゃないんだ。そんなこと絶対にしたくはないのに。自然とこぼれたため息にまたため息を重ねて、デスクから体を起こす。背もたれにもたれかかると、椅子のキャスターが鳴った。
行くべきか、行かざるべきか、それが問題だ。だが、問題なのは僕の心の中にのみ発生しているのであって、結局この仕事を蹴ることはできないし、ボイコットなんてもってのほかで、つまり後の問題は僕がいかようにして賢木と向き合うかということで、でもそんなの一体僕にどうしろって。好きだ嫌いだの二択を迫られれば答えは一目瞭然。迷う必要なんてない。だがそこにキスだとかセックスだとか、いままで考えたこともなかったことが並べられるのだ。やってみなきゃわからないといって実地で試してみるのか、そんな馬鹿な話はない。じゃあいっそ無理だといってしまえばいいのか。そうしたら、いったい僕たちの関係はどうなっていく。こんなことで、僕は僕と賢木の間にあるものを全てぶち壊してしまうのは嫌だった。だから、賢木が奔放に躊躇うことなく僕に差し出そうとするもの全てをもてあましたまま二進も三進も行かないところで右往左往するしかないのだ。簡単にイエスかノーの選択を下せるような問題だったならこんなにも悩んだりはしなかった。
「皆本さん」
「あっ、はい!」
突然名前を呼ばれて、びくりと体を揺らす。振り返ると、僕に声を掛けてくれた女の子も驚いたように目を丸くしていた。驚かせてしまってすみませんと顔を曇らせた彼女に、いえこちらこそ考え事をしててぼうっとしていたみたいですと、まさか同性の親友から告白されて途方にくれてたんですなんて言えるわけもなく適当に笑って誤魔化した。
「あの、賢木先生がいらっしゃってますよ? たしか、午後から外出でしたよね」
彼女がなんでもないことのようにいった言葉に、ついに来たかと手のひらを握り締めて、戦地へとおもむくような気持ちで首を縦に振った。
「もうそんな時間ですか。じゃあ、僕ちょっと行ってきますね」
「はい、お気をつけて」
いってらっしゃいと笑みを浮かべた彼女に微笑み返して、フロアの出口の方へと目をやると、いつも通り白衣を着た賢木がキョロキョロとフロア内を見渡していた。そして、僕と目が合った瞬間に、こちらに手を振ってふわりと極自然になんでもないことみたいに破顔するものだから、なんだかみてはいけないものをみてしまったような気がして、とっさに視線を逸らしてしまう。あいつなんて顔するんだよ。まるで僕に会えて嬉しいって声を大にしているみたいじゃないか。そのあからさますぎる変化に誰かに見られてはいないだろうなとあたりを確認してしまう。だが、焦っているのは僕だけみたいで、さっき僕に声を掛けてくれた彼女ももうデスクに戻ってパソコンと向かい合っていた。なんで僕ばっかりこんな居た堪れない気持ちにならなきゃいけないんだ。まるで自意識過剰も甚だしいみたいじゃないか。賢木が極普通に差し出す世の規範から外れたようなものたちのせいで、僕ばかりが必死になって僕ばかりが追詰められていくような気がしてしょうがない。だが、それに苦言を申したってそれこそ何も生み出さない意味のない問答だ。最低限の荷物を手早くまとめて、まだだらしのない笑顔を浮かべている賢木の元へと急ぐ。
「迎えに来てくれなくても、駐車場で落ち合う約束だっただろ。機材の準備とか終わってるのか?」
もたれかかっていた壁から上体を起こした賢木には、軽くウィンクをすると、誰に物を言ってるんだよとしたり顔で僕の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜる。乱暴なそれはいつの間にか僕の耳殻をなぞり頬へとたどり着く。やさしく触れる指先がくすぐったくて、そして僕を見る黒茶色の瞳が妙に熱っぽくて、逃れるように一歩身を引いた。
「おい、やめろって。こんなことしてたら変に思われるだろ」
「そうか? 俺らっていつもこんな感じだっただろ。頭撫でようが抱きつこうが、また皆本さんと賢木先生ねって流されるって」
軽く肩をすくめて、もう準備は完了してるからさっさと移動しようぜと伸びをした賢木は、僕の拒絶に気分を害した様子もなくさっさと歩き出してしまった。たしかに、賢木の言うとおりこんなスキンシップは僕たちの間で当然のことだったのだろうか。もうよく思い出せない。一週間前を境にして確かに何かが変わってしまったのだろう。賢木の態度もそうだし、そして僕の中にだって何らかの変革が起きている。気にも留めることなく交わしてきた言葉も温度も熱も感情も、全て別の側面を持っているように見えてしまう自分がなんだか憎らしい。
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しんと静まり返った室内に僕の足音が響く。もうみんな寝静まっているころだからと意識するほどに、床がきしむ音さえも気になってしまう。自室の電気をつけると、一気に目の前が明るくなって網膜の奥でチカチカとした光が瞬く。見慣れた自分の部屋に、ようやく己の知るテリトリーに戻ってきたような安堵を感じて、胸をなでおろした。それと同時に、先ほどまでのことが現実にあったことなのか、危うく思えてくる。だが、喉元に残る賢木の爪あとと、触れた肌の熱さがすべて夢や幻ではないのだと証明していた。まだ往生際も悪く足掻こうとしている自分を自覚する。たしかに己が気持ちを寄せる人間がこんなふうだったとしたら、百年の恋も冷めそうだ。だとするなら、それでもなお僕に気持ちを傾けている賢木は、相当の物好きなのだろう。好事家にしても、もう少し上質なものに心を動かされてもよさそうだ。
ベッドの上に畳んだまま置いてあったブランケットを手にして、ついでに壁にかけてあった使用していないハンガーに賢木のジャケットをかけておいた。
リビングに戻ろうかと思ったときに、ふわりと何かが羽ばたくような音が聞こえた。覚えのあるその羽音に、もしかしてフェザーかと部屋の中を見回してみても、彼女の姿は見当たらない。疲れているからといって、ついに幻聴まで聞こえてしまったのだろうか。漏れる苦笑をかみ殺して、ブランケットを抱えなおすと、閉めたはずのドアがキィときしむ音が聞こえた。
夜遅くに、バタバタと騒がしくしてしまったから、誰かを起こしてしまったのかもしれない。
「ごめん、起こしたかな? ちょうど、賢木がきてて、煩くしてしまったかもしれない」
振り向きざまに声を掛けても、ドアが開いたはずの廊下の向こう側からは返事はない。誰かいるのかともう一度声を掛けてみても、物音一つ聞こえてこない。僕の勘違いだろうか。いや、それにしたって、ドアが開いてしまっている段階で誰かがいたのはたしかなことなのだろう。同居人の中にこんな悪戯をする人間がいるようには思えないし、その心当たりもない。もしかして、不法侵入者かなにかかと思って体を硬くすると、再度鳥が羽ばたく音が鼓膜を揺らした。幻聴とするにははっきりとしたそれに、ドアの向こうの暗闇に向かって声を掛ける。
「フェザー、いるのか? いるんだとしたら、出てこい。こういった悪戯は気分のいいものじゃないぞ」
沈黙。僕の声だけがころりと転がった廊下には、人の影一つ見当たらない。これは根競べか何かなのだろうか。そっちがそのつもりならと、ベッドの上に腰掛けてドアを睨みつけると、予想していた羽の音ではなくて床を踏みしめる足音が響いた。
「そんなに怖い顔するなよ。久しぶりにあえたってんだから、笑顔くらい見せてくれ」
低くよく響く声には、聞き覚えがあった。どこで、なんて悩む必要もなく、さっきまで僕に愛を囁いていた男のものだ。そして、彼のために手の中にあるブランケットを取りに部屋まで戻ってきたんじゃないか。まさかと思って首をかしげると、もったいぶるようなゆっくりとした歩調で暗がりから僅かな違和感を伴った賢木が姿を現した。
「賢木? 起きたのか?」
腕を組んだ賢木はドア枠に体を預け、言葉を選ぶように僕を見据えて、そうだなあと首をかしげた。なんだかおかしい。賢木だけれども、賢木じゃないみたいだ。僕の知る彼よりも、大人びたというと変だけれども老成したような雰囲気に引っかかるものを感じる。
「眠っていたといえばそうだし、起きたといえばそうだし、どちらかといえば殴りあいの末に出てきたって表現するのが一番正しいのか?」
「どういうことだ」
「どうもこうもそのままだ。おまえにあうまでにはつらくも苦しい道のりがあったんだよ。主に足の引っ張り合いで。あいつらみんな、俺が表に出るっていうと、いい顔しないんだ。統合思念体として一蓮托生だっていうのに酷い話じゃないか?」
揶揄するように口角を上げた賢木は、隣いいかと問いかけてきた。もちろん、断るべき理由も見つからないので、小さく頷くと部屋の中に入ってきた賢木が物珍しそうにくるりと室内を見回して、何も変わってないなと本棚に並んでいる本の背表紙を撫でた。それはもう手の届かないところにあるものを懐かしむような、そんな哀愁を感じさせる。だがそれをゆるく頭を振って、打ち消して、僅かな距離を開けて僕の隣に腰を下ろした。その距離感が、いつもとは違って僕の中に違和感が積み重なる。だってそうだ、僕がジャケットを脱がしたはずなのに、こいつはジャケットを着ているし、中にきている服だってリビングで眠っている賢木とは違う。それでも胸元で揺れているリミッターだけは、僕が彼にプレゼントしたものだった。
涼やかな目元には、刻み込んだ年輪を感じさせる皺があって、前髪の分け目も大きく変わっていた。なんで、気づかなかったんだろう。一つ違うところを見つけてしまえば、難易度の低い間違え探しみたいにどんどんと違う場所が目に付くようになってくる。
こいつは、僕の知る賢木ではない。
それでもたぶん、賢木修二という人間なのだろう。彼のためだけに作った一点物のリミッターがそれを証明してくれていた。僕が彼の正体に思い至りつつあるということに気づいたのか、賢木も笑みを深くして僕を覗き込んでくる。瞬く深い土色の瞳は、僕がよく知る賢木と同じ色をしていて、そこにたしかな同一性を見つけたようで、違和感は抱けども恐怖はなかった。
軋むベッドに手を付いた賢木は、僕を見下ろしたままにまとわり付くような視線で僕を見やる。這うようなそれがこそばゆい。
「なんだよ。そんなにジロジロみたって何にもでないぞ」
「いやだって、すごい若いし。なんか皆本がいるし」
「若いって、一日で年取ったら堪らないだろ。あと、僕じゃなかったら誰だっていうんだよ」
「つれなくするなよ。本当は、気づいてるんだろ」
遠回りみたいな会話に終止符を打つように、賢木がはっきりとした物言いで僕の戯れみたいな言葉を切り捨てる。なんとなくではあるけれども、推論がないわけではない。彼の統合思念体という言葉と、さっきまで確かに色濃く残っていたフェザーの気配。そして、確実にいまよりも年齢を重ねた賢木の姿を統合していけば自ずと見えてくるものだってあった。
「君は、フェザーなのか?」
いや、その言い方は正しくないのか。いつも僕の目の前にいるフェザーが統合された人格だとしたら、それを構成するうちの一部なのか、という表現の方がいいのかもしれない。躊躇うこともなく僕の頬に触れた賢木は、僕の思考を読み取ったように、優等生を褒める教師のごとき笑みを浮かべて物分りのいい子と話すのは楽でいいなと僕の頭をくしゃりと撫でた。完全に子供扱いしているとわかるそれに、納得いかないものを感じて払いのけようとすると逆にその手を取られて引き寄せられる。
「わっかいなー、すげぇかわいい」
「な、何言ってるんだよ! なにか用事があって僕の前に姿を現したんじゃないのか!」
「んー、まあそうなんだけどさ。当たり前なんだけど、俺の皆本なんかよりも若くて可愛いんだもん、なんかこうくるものがあるだろ?」
「君の皆本ってなんだよ。いつの間に僕は君のものになったんだ? そういう未来予知は聞いてない。未来をはかなみたくなるような怖いことを言うな」
僕の肩を抱いて距離を縮めてきた賢木から逃れるように声を荒げると、嬉しそうにニヤニヤとした笑みを浮かべた彼が、更に僕たちの距離を縮めて、外から見れば抱き合っていると勘違いされても仕方ないような状態になる。僕が抵抗すればするほどに、それを面白がって賢木が悪乗りするというのは、今も昔も変わらないということなのだろう。
「その反応も変わらなくて懐かしい。俺のものなんかじゃないってのはわかってるさ。でも、こういうときくらい、俺の皆本になってくれたっていいだろ」
謎かけのような言葉を口にした賢木は、寂しげな表情で僕の髪を手櫛で梳いて、その感覚を楽しんでいる。三十代のおまえもいいけど、やっぱり二十代の若いおまえもいいよな。まあ皆本ってだけで俺はもう満足なんだけどと訳の分からぬことまでいっている。
「こんなことをしに出てきたわけじゃないんだろ」
抵抗するのもなんだかあほらしくなってきて、すきなようにさせていると、僕の左手を握り締めた賢木が指先の一本一本を慈しむように辿りながら、言葉を落とした。
「俺はまだ、おまえの隣にいるんだな」
僕の問いの答えにはなっていないそれ。意識的に的外れな答えを返したのか、これこそが賢木の一番伝えたかったことなのか僕にはわからなかった。それでも、僕がよく知る賢木と同じ感覚を持った人差し指が、まるでそこに何か特別なものを探すかのように僕の薬指に触れた。