そろそろ正体をなくしはじめた飲み会会場は、普段冷静沈着な公務員の仮面を被っている職員たちの醜態やらなんやらを囲いつつターニングポイントを迎えようとしていた。俺の隣に座っている生真面目な医療研究課の中堅看護師に狙いを定めてアタックしてみると、普段はあまり芳しくない返事しか返ってこないのに、今日は距離感が近いというか、悪くない手ごたえを感じる。
柔らかいし可愛いしやっぱり女の子って最高じゃん。そういう彼女たちを見て気持ちが動かされるというのはやはり、男として遺伝子に組み込まれている本能なのだろうから如何ともしがたい。いくら職場の飲み会といえども、アルコールが入れば、いつもは鉄壁のガードを誇っていたり、俺に素気無くしたりする子達も、ちょっと箍が外れたり、俺に付け入る隙を見せてくれたりするから、なおよし。ここでなんの成果も手にすることなく帰るのは、ただの意気地なしか皆本くらいのものだ。
「なあ、飲み会終わったら二人でどこかいかない?」
 酔いが回り出したせいで、頬が赤くなった彼女の顔を覗きこんで密やかに囁く。いままで俺の話に無邪気な笑顔を見せていた彼女は、一転して動きを止めて悩むような素振りをみせた。色鮮やかなカクテルが注がれたグラスを握り締める手のひらに力が入る。それでも、俺を見つめている黒曜石のような瞳は熱っぽくて、そこにあるのは嫌悪というより興奮だ。これはいけると確信して、もう一押し踏み込むように、彼女との距離をつめる。ねえと、口を開こうとした瞬間に、ダンとグラスがテーブルに叩きつけられる音が耳をつんざいた。
 にわかに盛り上がりだしていた個室が水を打ったような静けさに支配され、全員が音の発信源へと目をやる。口説き落とそうとしていた彼女も、一気に酔いがさめたように俺の向こう側へと視線をやった。しかも、そののちにちらりと俺を見たのはどうしてなんだ。
「賢木」
 地を這うような皆本の声。どう考えてもそれは、さっきの音の発信源と同じ場所から聞こえてくる。
これは、よくない。すごくよくない。とてもとてもよくない。振り返るべきか、否か。いやもう選択権はないわけなんだけれども、できれば振り返りたくない。手にしていたグラスの結露でべたつく手のひらが気持ち悪くて、俺に向けられる視線の集中砲火に背筋が震えた。
「賢木!」
 びくりと肩がふるえる。さっきよりも乱暴なそれに、ふわふわと心地よかったはずの酔いなどさめてしまった。
 ゆっくりと深呼吸して瞼を閉じる。しかし、この現実が変わるわけもなく、ああこれはもう終わったなと諦念すら感じながら、もったいぶるようにゆっくりと後ろを振り返った。
「み、皆本くん? 賢木ですけど」
 すわりきった鳶色の瞳に負けてはならぬと、ビールのグラスを握り締め俺をねめつけていた皆本を真っ直ぐに見つめる。すでに酔いが回りきっているのだろう。普段は白い肌が真っ赤に染まっている。
「こっちへこい」
「えっ?」
「いいからこっちへこい!」
 完全に普段の温厚な外面をかなぐり捨てた皆本の怒声に、周りがざわつくのがわかる。あんなの皆本さんじゃないって声が聞こえたんだけど、おまえいま誰かの夢を打ち砕いたぞ大丈夫なのか。
「皆本さん、あの。俺何か悪いことしましたか?」
 年下とは思えぬ迫力を伴った皆本に自然と声が震え敬語になってしまうことを責められる人間がいるだろうか。いや、いないだろう。姿勢を正して、手のひらを握りこむことで恐怖をやり過ごす。しかし、皆本は自分の隣の席をダンと拳で叩いて、いいからはやくここに来いとのたまった。皆本の隣に座っていた、俺の予想によると、皆本に淡い恋心を抱いていた事務員の女の子が、涙目になりながらひっと息を呑んでその場から離れていってしまった。いま、恋心が砕け散る瞬間をこの目で見てしまった。だが、このままいくと皆本によって俺が粉々にされそうなので、勇気を出して立ち上がり、鬼か修羅か判断しかねる迫力の皆本の隣に座った。もちろん正座で。
「賢木修二、参上いたしました」
 場を和ませようと、とっときの笑顔で宣言するが黙殺される。つらい。いたい。無言がグサグサ突き刺さってくる。あと、周りの視線が痛くて既に感覚が麻痺しつつあった。そんな俺を後目に、グラスの半分ぐらいまで注がれていたビールを一気に煽った皆本は、口元を手の甲で拭うと、完全に酔っ払いでしかない鳶色の瞳で俺を見た。
「僕は言ったはずだよな。飲み会だからって、羽目を外すような真似はするなと」
「はっ、はい。そのようなお言葉をいただいたような覚えはあります」
「じゃあ、自分がそれになんて答えたか覚えてるか? もちろん、覚えているに決まってるよな」
 アルコールを多量摂取したはずなのに喉がからからだ。渇きを癒すように唾液を嚥下して、俺を凝視する皆本にこくこくと頷く。もちろん覚えております。この店に入る前に、飲み会だからって女の子に余り声を掛けまくるなとか、誠実さにかける行いはするんじゃないとか、なんなの皆本は俺のお母さんか彼女なのという注意をいただいたのは記憶に新しい。
 必死に頷いている俺を見た皆本は、そうか覚えていてくれて嬉しいよと、怖いくらいの満面の笑みを浮かべた。その変わりように背筋を寒いものが駆け抜けていく。
「じゃあなんで、約束を守れないんだよ鳥頭! 僕は言ったはずだよな。人様にだけは迷惑をおかけするな、むやみやたらに女性に声をかけるなと。それが早速女の人に声かけて、昨日デートして振られたばっかりじゃないか!」
「いや、ですから、昨日振られちゃったので心機一転、新しい恋を探そうかなって思ったんですけど、あの」
「それが、おかしいって! 言ってるんだよ!」
 皆本がテーブルを殴りつける音に、ひっと変な悲鳴が漏れた。押し負けてなるものかと思っていたはずなのに、既にどうしようもないくらいに敗北してしまっている。
「新しい恋をって言いながら現在進行形で何人と付き合ってるんだ言ってみろ」
「いえ、そのような不実なことは」
「してるよな? 僕の口から聞きたいならいまここで指折り数えてやってもいいんだぞ」
 まずはと利き手をかざして親指を折り始めた皆本を慌てて止めに入るとなんだよ後ろぐらいところでもあるのかと一蹴されてしまった。それはもちろん後ろ暗いところしかないに決まっているだろう。現在進行形で四人の女の子を引っ掛けて、それなりに楽しんでるなんて知れたら、ただじゃすまない。
「違うんだ。誤解しないでくれ皆本」
「なにがだよ」
「いや、なんていうの? それはただのガールフレンドであって、おまえが考えているようなあれではなくて」
「はあ、それで?」
 気のない返事と白い目が痛い。胸に突き刺さる。言い訳は聞きたくないと言外にされている。すでに飲み会は飲み会だったものへと姿を変えて、俺と皆本を囲む会へと進化なんだか退化なんだかわからない状況へと転がってしまっている。普段ならこんな針のむしろみたいな状況になることを好まないであろう皆本も、現状酔いが回りきっていて、周りが見えなくなっているらしい。まさに俺しか見えないってことなのかな。自分で言ってて悲しくなってきた。
「皆本にだけは誤解されたくないんだ。頼むよ。本当に信じてくれ」
 同情に訴えるように弱々しい声を作って皆本の鳶色の瞳を真っ直ぐに見つめる。すると、瞬いたそれがじわりと潤んでやけにきらきらと輝いて見えた。それを手の甲で拭った皆本は、ふるふると肩を揺らして僅かにえずくような声を漏らす。突然のことに理解が追いつかず何事かと助けを求めるように周りを見回すが、皆本を泣かした戦犯であると責めるような視線を向けられただけだった。
「どうしたんだよ、皆本。な、泣くなって」
 皆本との距離をつめて慰めるように背中を撫でて、その顔を覗きこむ。
「泣いてない」
「いや、でも」
「うるさい。泣いてなんかない。きみがそんなふうだから、僕はいつもこんな気持ちになるんだ。コメリカにいたときからいつもそうだ。僕がどんな気持ちで君が女の子と遊び歩いてるのを見てるのか知ってるのか! やめろっていってもやめないし。気のない返事をするばっかりだし。きみに良かれと思っていつも注意してるのに、分かってくれないし。全部全部賢木のせいだ!」
 潤んだ瞳できっと睨みつけられて、息を呑む。力のない拳が俺の胸を殴りつけて、ばかやろうと呂律の回らない言葉が吐き出される。そのままへなへなと俺に倒れこんできた皆本は、もう一度だけ賢木のばかやろうと頼りなく言うと、ぎゅっと俺の服の胸元を掴んだ。皆本と呼びかけてみても反応はない。ぐずるような声が聞こえたのちにとても穏やかな寝息が聞こえてきた。
「賢木先生」
 名前を呼ばれて振り返ると、神妙な顔をしたさっきの彼女が責めるように俺を見つめていた。
「さっきのお話はお断りさせていただきます。踏み込むようなことを言うのは失礼かもしれませんが、もう少し皆本さんを大切にしてあげたほうがいいんじゃないですか?」
「えっ、いや。違うんだ」
 何がちがうのかもよくわからないがとりあえず否定してみる。だが、彼女は冷たい目で俺を見ただけで、こんなに大切に思ってくれる人がいるのに、最低ですと軽蔑の言葉をくれる。それに続いていままで黙り込んでいたやつらが口々に、浮気はよくないだとか、こんなに気の利く恋人はいないぞとか、俺も知らなかったような新事実をはやしたてた。恋人って誰だよ、浮気ってなんだよ。もう完全に誤解じゃないですか。これ、一番駄目なパターンじゃないですか。救いを求めるように、俺の腕の中に射る皆本をゆすってみるが、返事はない。ただ途切れ途切れに賢木のばかといわれただけだった。おい、ばかじゃねーよ、おまえが寝てる間にすごいことになってるぞ。これ、一夜明けたらバベル公認の恋人同士になっててもおかしくないぞ。どうしてくれるんだよ皆本クン!






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