電気を落とした部屋の中に衣擦れの音がまぎれる。
さらりとしたそれが残響したあとに、自分の吐き出したため息が重々しく響いた。柔らかく洗い上げられたシーツも備え付けの寝間着もどことなく身に馴染まない他人行儀な浮ついたものを感じさせる。眠らなければと思うほどに、手の届かない場所へと逃げ去っていく睡魔に見限りをつけて、もう一度寝返りをうつと、締め切ったカーテンの端からかすかにネオンサインの名残が差し込んでいた。
出張六日目。外部機関への出向と称しての、バベルと協力関係にある研究所での助っ人もひと段落ついて、明日の朝にはホテルを出てその足で特務課へと戻ることとなっていた。六日間なれない環境での作業と約一週間のホテル暮らしで疲労は溜まっているし、与えられた仕事をようやく完了させて肩の荷が下りたという気楽さもあるのだが、どうにもこうにも目がさえてしまっている。それどころか、体がうずうずするというか痺れているというか、なんだか落ち着かない。
既に数えた羊は五十匹を越えている。そろそろ羊小屋も空になりそうだ。無駄な抵抗と分かりながらぎゅっと瞼を閉じて掛け布団の中に潜り込んだが、暑苦しくて心地いいとはいえなかった。枕が変わると眠れないなんて、繊細でかわいげのあることを言うつもりはないが、やはり自分の家が一番だなと実感してしまう。
子供たちと寝食を共にする生活は雑音と騒音とまあそれ以外の生活音が入り混じって静寂などというものが裸足で逃げていく状態だから、この状況に落ち着かないものを感じているのかもしれない。夜陰は物音を飲み込みながら部屋の中を静けさで埋め尽くしていく。音のない部屋の中では、ベッドが軋む音さえやけに大げさに感じられた。
でも、それでも、こんなにも目がさえてしまって体が疼くのにはもっと違う問題があって、もっと違った意味での欲求の発露であるということはなんとなく分かっていた。部屋の中に残る僅かな光を遮断するようにぎゅっと瞼を閉じて、わだかまっていた呼気を吐き出す。熱を持ったそれは湿り気を帯びていて、目に見えぬものを乞うようにだらしがな い。
この部屋の中には自分しかいないとわかっているくせに、その確証を得るように聞き耳を立てる。シーツを握り締めていた手のひらがべたついて気持ちが悪い。それでも、あの子達はこの場所にはいないんだという開放感にも似たものが躊躇うだけだった僕の狡さを後押しする。これは、生理現象で、ただの処理で、男ならば誰しもが経験することで、そこに罪悪感をいだくほうが自意識過剰というものだ。
呪文のように繰り返す自己弁護を饒舌なだけの頭の中でこねくり回して、その勢いのままに下肢へと手を伸ばす。強く閉じた瞼の奥に思い浮かべるのは、僕にだけ優しい妄想の類。情欲を煽るように淫蕩な、分かりやすい性欲処理としての女性像を思い浮かべながら自分の欲望を高めていく。詰めていた息を吐き出して、シーツへと額をこすりつける。徐々に熱を持ち始めた場所を擦り上げながら、漏れそうになる声を飲み込んだ。下肢から得る刺激が強くなるほどに、自分の中にあったためらいが薄れていく。理性よりも、分かりやすい快楽を求める情動が強くなるのを感じた。
既にたちあがりつつある性器をしごきあげて、露になった先端を押しつぶす。神経そのものに触れられたような痺れに内股に力が入って、掛け布団を挟み込んでしまう。
空想の中の彼女を抱こうとしていたはずなのに、自分を興奮させるために思い描いていた妄想はおざなりになり、いつの間にか僕の記憶に焼き付けられたよく知る男へと姿を変える。皆本と、低く聞きなれた声音が脳裏に響いたような気がした。そしてそれに触発されたように浅黒く節くれだった指先が、僕に触れる。全て現実ではない空想であり妄想。なのに、ただその光景を思い描くだけで堪らなくなった。
自分の手のひらがいつの間にか、僕の見に馴染む男のものへと変化して、下肢からは僅かにぬれた音が漏れる。喘ぎにまぎれるように吐き出したのは、僕を追詰める男の名前だった。途切れ途切れだったそれに、震える背筋を丸めて唇を噛み締める。逡巡はあった。そして、羞恥が勝った。でも、それを上書きして、乞うように彼の名前を確かなものにした。その途端に、下肢ではなく頭の奥が痺れて、尾?骨のあたりがぎゅっと収縮する。一度、禁忌であったはずのものを口にしてしまえば、躊躇いなどは飛び越えてただ純粋に快楽を追い求めることが出来た。
浮き上がった血管を押しつぶして、竿の部分を擦る。その度に腰の奥にじんじんとした切ないものがわだかまっていく。堪えることのできなかった喘ぎに、余計意識が煽られて自分が興奮していくのを感じる。汗が肌を滑り落ちていくくすぐったささえ性感へと変換することが出来た。
括れをしごいて先走りにぬれた先端を手のひらでくるりと撫ぜると、焼けるような痺れが背筋を走り抜けて堪らずに唇を噛み締めた。本当に、おまえってやらしいと、耳元で笑われる。それは自分の妄想でしかないと分かっているのに、よく知るがゆえにリアリティを伴って僕を苛む。
「いっ、ちが、う、からぁ」
違わないよと、黒茶色の瞳が瞬いて、口元が皮肉げな笑みを浮かべる。こんなのはおかしい。なのに、僕は、僕の親友によって欲望をつまびらかにされることを考え快楽を得ようとしていた。背徳感を飛び超えた先にあるそれ。いいようもない興奮にわななく。もう、止まれるわけがなかった。精液のなりそこないのような透明な液体にぬれた手のひらで自分の性器を追詰めながら、はっはっと犬のように間の抜けた呼吸を繰り返す。気持ちがいい。ただそれだけ。原始的な欲求に理性を明け渡し、夢中になって快楽を追っていく。
「もっ、だめっ、さかきっ」
それを、声にした瞬間に脳裏に、響いた自分の声音に、手の中にあった性器の熱量が増す。それしか知らないみたいに彼の名前を呼びながら、自分が気持ちよくなれる場所を愛撫していく。もどかしくなるような痺れに体がふるえ、体以上に快楽に従順な頭が僕の浅ましい欲望に拍車をかけていく。ぎゅっと足の指に力が入って、酸素を求めて息が荒くなる。脈動の音が大げさなくらいに響いて、それに重なるようにかわいいと、賢木の声がした。もういきそうなのと僕の中で都合よく僕の欲望によってカスタマイズされた賢木が情欲をにじませながら目を細める。それに応えるようにシーツに頭を埋め、ばかの一つ覚えみたいに彼の名前を呼んだ。体を支配するのは淫蕩な高揚。もういかせて、許してと、繰り返しながら、求めているくせにそれをまだ手放したくなくて、限界を迎えそうだった性器の根元をぎゅっと握り締めて、いってしまいそうな自分を戒める。自分の動きと感覚のはずなのに、頭の中でそれは望むままに優しく改変されて、僕と同じように欲望をあらわにした賢木がだらしのない僕を見下ろしていた。
「ふぁっ、賢木、いじわるしないで、ぼく、も、だめっ」
救いを求めるような懇願に、甘く恍惚とした性感が体の中を駆け巡っていく。とろりとした体液にぬれた手のひらが性器を刺激するたびに頭の奥が痺れて、鼻にかかった喘ぎが口を伝った。もう少し、あと少し、いきたいのに、楽になりたいのに、まだこれを終わりにしたくなくて、太股に力を入れて射精感を堪える。逃がしきれなかったシーツを蹴り、ぎしりとベッドが軋む。ぐずぐずと溶けていくような熱にうかされて、根元を締め付けていた指先が緩む。その開放感にもう精液を吐き出すことだけしか考えられなくなる。きもちいいかと掠れた声を夢想して、それにこくこくと首を振る。あの節くれだった指先が僕を愛撫し高めていくのだと思うと、胸の奥が苦しくなって泣きたくなった。あいつは友達で、親友で、なのに。
「ん……きもちい。さかき、さかき、ああっ……むりぃ、いくっ」
ぎゅっと体に力が入って、息を詰める。一際強く陰茎を刺激して尿道口を抉ると、強すぎる性感に瞼の裏が真っ白になってひっと息を呑んだ。収縮した意識が一気に弛緩して、性器の先端に触れていた手のひらをあたたかなものがぬらす。その感覚に、いままで夢うつつだった意識が急速に覚醒して、体を支配していた熱が冷めていく。
荒い呼吸を落ち着けるように深呼吸を繰り返して、ずっと閉じたままだった瞼をゆっくりと開く。さっきまで僕を攻め立てていた賢木はこの場所にいなくて、一人きりの部屋の中で自慰に勤しんでいた愚か者がいるだけだ。途端に、自分が蹴りつけ踏みにじったためらいと罪悪感が湧き上がってきて盛んに自己主張を始め、手をぬらす精液の感覚とべたつく下肢のそれが言いようもなく汚らわしいもののように感じられる。いっそさっきまでの記憶を消し去ってこのまま窓から飛び降りてしまいたい。
「うう、しにたい」
しにたいけど、こんな状態でしにたくない。
じっとりと肌をぬらす汗が不快でたまらない。掛け布団を汚してしまわぬように注意しながらめくると、こもっていた熱と一緒にすえたような臭いが鼻をついてその生々しさに喉の奥が苦しくなった。
何故こんなことをしてしまったのか、虚しさと後悔と羞恥とそれら全てが入り混じって、口舌しがたい倦怠感へと変化し僕の心を苛む。生理現象でただの性欲処理で、でもそこにあいつを介入させるのはそれらだけでは説明のつかないことだった。自分がよく知るべき己のことが分からずに一時の欲望に負けてしまった不快感が先に立つ。結局のところ、言い訳と自己弁護の蓋を取り去れば、賢木を自分の性欲のままに利用した浅ましい己が自己嫌悪の皮をかぶってしおらしげに後悔したふりをしているだけだ。自責の念を軽減するだけの狡賢い己の姿は、まさに非生産的行いによって消費された性の不毛さと虚しさそのもので、静寂さえもが僕を見下し侮蔑しているような気がする。そしてまた、それは許されることを前提とした予定調和の懺悔だ。賢木が僕に向ける混じりけのない感情に逆らうように、背徳感さえも己の快楽へと挿げ替えて、薄汚い欲望を上書きしていく。そのなんと、下劣なことだろう。バベルに戻って一番にあいつと一緒の仕事があるというのに、こんな状態では顔も合わせられそうになかった。