昼の休憩時間を知らせるチャイムが控えめにスピーカから聞こえてくる。いままで堅苦しく仕事しているんですという仮面を被っていた部署内が一瞬だけ時を止め、誰が最初に動き出すのかと全員が周りを伺うような雰囲気を見せた。休憩というのはたしかに私たちに認められた正当な権利ではある訳なんだが、お腹が空きましたねと喜び勇んで立ち上がるというのも労働意欲にかけているようで、誰かが休憩にしましょうかと先陣を切ったところにそれじゃあ私もと控えめに便乗するというのがベストだった。それまではまだ仕事に区切りがつかなくてという顔をして、別に必死になっている訳でもないディスプレイに目を光らせているに限る。だが、こういうときに限って人身御供となってくれる人間がいないのだから嫌になる。さあ、誰か立ち上がるのよと周りの気配を探ってみるが、一向に動き出す様子はない。こういうのは最初のタイミングを逃すとただただ間延びするだけなのだ。しくじったかと舌打ちしたくなる気持ちを押し殺して誰も行かないなら私が行くしかないかと財布に手を伸ばそうとすると、思わぬところからあがった声に出鼻をくじかれてしまう。
「あの、これから昼食だと思うんですけど、よければみなさんでこれ召し上がってください。チョコチップのスコーンなんですけど」
 遠慮がちに紙袋のなかから一つ一つ小分けにされたチョコチップスコーンを取り出した皆本さんが、突然すみませんと少し恥じらう遠慮がちに室内を見渡す。予想だにしていなかった申し出に全員が目を白黒させながら、それでもはあだとかうんだとか煮え切らない返事を漏らしてうなずいた。皆本さんの料理がとてもおいしいというのは周知の事実。いただけるものなら断る必要性は感じなかった。女という生き物は甘いものには貪欲だ。
「チョコレートとか駄目だったらすみません。ここに置いておくのでよければどうぞ。実は昨日作りすぎてしまって、さか、いや友人にも分けたんですけど、それでもかなりの量余ってたんで。残り物を押しつけるみたいで本当に申し訳ないですけど」
 あれ、この人って二十代男子だよね? 
 平日に思い立ったようにチョコチップのスコーン作るの? 
 仕事で疲れて帰宅して子供の面倒までみてるっていうのに?
 自分の並べ立てたそれらが重くのしかかり、理解することを拒む。深呼吸して冷静になろうとすると、控えめな笑みを浮かべながら、お茶菓子を一緒くたにしてまとめてある場所へとスコーンを置いた皆本さんと目があった。はにかむようなその笑顔に、軽い目眩を感じる。思わず隣に座っている同期に目をやると、同じように驚愕の表情を浮かべた彼女も、訳の分からぬ危機感に、シャーペンを握りしめていた。
「いま私、女としてなにか大切なものを問われてる気がするわ」
「偶然ね。私も」
 呆然と吐き出した言葉に迷いのない返事が返ってきて、二人そろって多大なるダメージを受けてしまう。あと、友人って言い直してますけどそれって完全に賢木先生のことですよね。昨日任務で朝から晩までべったりで帰ってからもご一緒されていたんですか。そんなふうだから、バベルの女子社員の中で、賢木先生と皆本さんは何かしらの深い関係があるに違いないとまことしやかにささやかれ続けるんですよ。
 饒舌な脳内を打ち払うようにして、取り出した財布を握りしめる。笑顔のままに私たちを打ち負かし完全に屈服させた皆本さんは、その事実を知らぬままに慌てたように時計を確認して、今度はスコーンとは違う大きめの包みを取り出した。これ以上何が攻めてくるのかと本能的な恐怖を感じながら固唾をのむ。さあと臨戦態勢をとった私を裏切るように、控えめなノックの音が部署内に響いた。一気にドアの方に向けられる視線。音の発信源は、目を丸くして取り込み中だったのかと部屋全体を見回す。白衣を着込んで、お役所勤めとしては少々軽薄ともとれるファッションに身を包んだ賢木先生に一番最初に反応したのは、皆本さんだった。
「いや、昨日のお裾分けをしてたんだよ」
「ああ、あれね。まだ山のようにあったもんな」
 交わる視線。お互いに笑みを深くした二人は、その一瞬のアイコンタクトで感じるものがあったのだろう、賢木先生はあんなに鬼気迫る勢いで作るからと皆本さんをからかい、それに対して皆本さんはおまえが突然甘いものが食べたいなんて言い出すからいけないんだろと眉根を寄せた。
 ああそうですか。賢木先生のリクエストが原因だったわけですね。それはたいそう気の利く友人でよろしゅうございます。言葉にできない何かを飲み込む代わりに、酸素を吸い込むと、隣から堅いものを殴打したような音が聞こえてきた。
「とりあえず、おまえが遅いから様子見に来たんだけど、休憩でられるのか?」
「ああ。大丈夫だよ」
 待たせてごめんと申し訳なさそうに笑った皆本さんは、くるりと私たちの方を振り返ると、休憩のおじゃまをしてすみませんでした、じゃあ僕は食事にいってきますねとぺこりと頭を下げてお弁当の包みと思わしき荷物片手に賢木先生の隣に並ぶ。じゃあと私たちに軽く一礼した賢木先生は、皆本さんの手元にあるそれをのぞき込んで無邪気に笑った。
 茶碗蒸しまじで作ってくれたの。もちろん。つくれってうるさかったのはきみだろ。あと肉じゃがも入れたし、厚焼き卵もいれた。まじかよ。おまえは最高だよ皆本。あいしてる結婚してくれ。はいはい、わかったわかった。じゃれつくように皆本さんの肩を抱いた賢木先生と、それをため息混じりに受け止める皆本さんに口舌しがたい漠然とした焦燥が湧き上がってきた。徐々に遠ざかっていく二人の背中。漏れ聞こえる友人同士の会話。なんだかどんな顔をすればいいかわからなくて、迫り来るようだった空腹もどこか遠くへと旅にでてしまった。
「私、久しぶりにお弁当作ってこようかしら」
 一日の折り返し地点にしては疲労の濃い声音が鼓膜を揺らした。ちらりと隣の同期をみると悟りを開いたのかとでも思えるような無表情のままに、遙か遠くへと視線を向けていた。まあその解脱に至るような虚無的心情を理解できないわけでもない。だが一ついっておきたいことがある。
「私たちには、あいしてる結婚してくれって言ってくれる賢木先生はいないわよ」
「そんなのわかってるわ」
 悲嘆にくれるように顔を覆ってしまった彼女の肩を軽く叩いて考える。私も明日はお弁当を作ってこようかしら。






13・07・14
13・09・24