どうやら、皆本と離れると死んでしまうらしい。まったくもって意味が分からないうえに、理解したくもない。一体どういうことなんだこの診断を下したヤブ医者は今すぐ表に出ろてめぇの頭がおかしくないか俺が触診してやるよと強気の姿勢も辞さない構えなのだが、いかんせんどうにもこうにもこれが如何ともしがたいほどの事実であるから反論の余地すら残されていない。おとなしくこの結果の前で正座して、しおらしげに頷くのみ。どちらかというと、頭がおかしくなってしまったのは俺の方な訳だ。
まさに言葉の通り、俺は皆本光一という人間から物理的な距離を置くと、徐々に酸素が失われていくように緩慢な苦しみに襲われ生体機能が低下していく。ただ診断を下されて、あきらめてくださいもう末期ですと肩をたたかれただけならやりようもあったかもしれないが、既にそれら諸々の症状と苦しみについては実地で体験済みなので、呆れの言葉も罵倒の言葉もでない。喚き立てたところで病人が発狂したかと思われるのがオチだ。
生体制御を有する俺がまさか、自分の体の自由がきかなくなるとかありえないだろと言葉を失ったのも今となれば懐かしい。だが、皆本がいなくなれば息ができなくなるし胸が苦しいしなんか死にそうになるし、それを正常に戻そうとする恒常的生体制御も効かなくなるし、もう踏んだり蹴ったりも甚だしいのだ。
この特定疾患に指定されてもおかしくないくらい奇妙な病気の原因は不明。外科手術をすれば治るのか服薬で何とかなるのか、そんじょそこらの医者よりも優秀な俺にでも分からぬのだから、そこら辺の生半可なやつらでスムーズに完治まで一緒に頑張りましょうだなんてなるわけがなかった。
ただ一つ、分かることがあるとすれば、通常時は正常に働いている筈の内向きの能力である生体制御に、外的妨害や他種の超能力による無効化を引き金にしてではなく、純粋にブレーキがかかること。皆本という特定の人物から離れる事により発露する症状ということを加味して、まあ胸に手を当てつついろいろな自問自答やら自己診断やらを下していくと、何となくではあるけれども、なによりもの病巣は俺の心というものなんじゃないだろうかという結論に行き当たった。まだ確証も持てないし、すべてが五里霧中の手探り状態なので、これを解であると大声で触れ回るつもりはない。いや、決して保身のためではないですよ。ええ。
しかし、精神分析のスペシャリストである超度7のサイコメトラーの紫穂ちゃんには、いい年してライナスの毛布ね恥ずかしいとひどく冷め切った視線とお言葉をいただいたので、俺の推論は当たらずとも遠からずということなのだろう。こんなときばかり冴え渡る自分が憎い。どうせなら壮大なるエラーをたたき出してくれた方がどれだけ救われたことか。
「おい、聞いているのか賢木」
呆れをたぶんに含んだ、嘆息。向けられる視線はチクチクと俺を責めている。ええ、もちろん聞こえております。皆本くんが目の前のソファに座っているのにその声が聞こえなかったとしたら、ただでさえ重傷な俺がさらなる病を抱え込むことになる。昔から健康だけは揺るがなかったというのに、そんなハンディまで背負ってたまるか。
「あー、本日は俺のためなんかにお時間を割いていただきありがとうございます。しかも、こんなにも分厚い資料まで用意していただいて」
こわいくらいに真剣な鳶色の瞳から逃れるように咳払いをして、仰々しくも頭を下げてみせると、当事者のおまえがそんなふうでどうするんだよと険の混じった声でぼやかれる。それを黙殺して、膝のうえでずっしりとした重さで自己主張をしている、参加者二人だけの賢木修二のこれからを検討する会の資料へと視線を落とした。それは、いったいどれだけ時間をかけたんだというほどに分厚くて、読む気すら失せる。まず表紙をめくると目次があり、いままでの時間系列ごとの変遷にはじまり、現在の状況、俺の病状について、皆本と離れると一体どんな問題が発生し、どのように体が異常を訴えるのかということが事細かにまとめられていた。さらに、そこから派生する俺の体の問題と日常生活のなかでの問題、そして現状考えられる最良の対処方についてが明記されている。しかもそれより後に、賢木修二が精神、肉体ともに健康的な生活を送るための五十条みたいな文字が見えたんだけど。え、まさか五十も約束事を決めたのかと二度見してしまう。恐ろしく思いながら手早くページをめくる。目に飛び込んできたのは、第一条という文字だった。
第一条、女性との奔放な関係を清算し、自粛すること。この場合の自粛とは、賢木修二の定めた範疇ではなく、皆本光一が定めた基準に従うものとする。詳しくは後述参照のこと。また、許可なくこれを破った場合には罰則をあたえる。という、俺の人権無視も甚だしいものだった。皆本と離れると死んじゃうことと俺が女性関係を清算することにどんな関連性があるのか。それを明記することなくこのような規則を作るのは横暴というものだ。世の為政者だったとすれば、革命の契機になってもおかしくない。
「な、なんだよこれ! 俺に世捨て人になれってのか!?」
俺たちの間にあったテーブルの上にそのページを開いて断固拒否するというアピールをすると、なぜだか笑みを深くした皆本が俺の手元をのぞき込むことなく自らが定めた規則を暗唱してみせた。淀みないそれは、まるで異国の言葉のように聞こえる。
「これからは、おまえのことも考えて僕たちと一緒に暮らしてもらうことになるんだ。多感な年頃の女の子三人を抱えてるのに、手本になるべき大人がだらしがないなんて許されるわけがないだろ」
「べつに俺が女にだらしないのなんていまにはじまったことじゃねーし、ガキどもだってわかってるだろ!」
自分の罪を認めたようでやるせないが、背に腹は代えられない。皆本がいないと死ぬが、酸素がなくたって人間死ぬではないか。そんな今更と言い募るが皆本は無慈悲にも首を横に振って、まっすぐに姿勢を正し、怯みもしない。むしろ、大義は我にありとでも言いたげだ。
「これは、きみのためでもあるんだ」
いや、むしろ俺を殺しにくるようなものだろうと反論しようとすると、それを皆本が奪い取った。
「僕たちが離れられないのは、賢木だってもうわかってるだろ?」
皆本が平然と口にしたそれは、戯れなどではない。離れられないという言葉がやけに重くのしかかる。知らぬうちに手を握りしめていた。比喩や婉曲ではない。皆本は俺を突き放しても何の問題もないが、俺は皆本から離れられないのだ。生殺与奪の権利の大部分を皆本の手にゆだねてしまった。ぶるりと、訳の分からぬ悪寒が背筋を走った。ようやく生々しいまでの実感が、追いついてくる。こいつがいないと、生きられない。そして皆本は、そんな俺を切り捨てられるような人間ではない。突きつけられたその事実に、喉がなった。ただ単純な真実であるはずなのに、そこから別のものを掬い取ろうとする愚かな自分を何とか飲み込んで、肯定を返す。ひどくかすれた声だった。だが、皆本はそれに気づくことなく、自分を落ち着けるようにわずかにずれたネクタイをととのえながら言葉を続ける。
「僕と離れると生体機能に不都合がでるということはわかっているが、逆にいえばそれだけしかわかっていない。離れる距離や程度、具体的な機能停止までの時間、何故こうなってしまうのか、すべてが謎だ。こんな状況で、きみにもしものことがあって、僕がすぐに駆けつけられない場所だったらどうするんだ。まざまざ死ぬのか? そんなの僕は絶対に嫌だからな」
ねめつけるように断言した皆本に息をのむ。
「それは、そうだけど」
もっともすぎる正論に、反論も思いつかず口ごもってしまう。俺だって喜び勇んで死にたいわけじゃない。俺ばかりがわがままを言っているようで居たたまれなくて、場をごまかすように手首のリミッターに触れる。それは皆本が俺のためにチューニングしてくれたもので、触れているだけで少し体が楽になるような気がした。
皆本が小さくため息をもらす。言葉を選ぶような間が痛い。皆本が座り直したのか、ギシリとソファがきしむ音が不協和音のように響いた。
「無理を強いていること、突然こんなことになってつらいのもわかってる。それでも、いやだからこそ僕は賢木の為に精一杯のことをしたいんだ」
重大な案件に向かうように真摯な表情。サイコメトリーしなくても、皆本が俺を思う気持ちが伝わってくる。なのに、白くあたたかな手のひらがそっと伸ばされて、リミッターに触れていた俺の指先に重ねられた。言葉にするよりもたしかに皆本の気持ちが俺の中に入り込んでくる。超度3程度まで押さえているのに透視できるということは、それだけ強く皆本がそれを抱いているということだ。俺を想う気持ちを。
僕にできることなら何だってするよと、とどめを刺すみたいに皆本の優しい声音が耳朶に触れた。いっそ手を振り払ってしまえたらよかったのかもしれない。なのに俺はこの男がいなければ生きていかれないのだ。
一緒にがんばろうと苦痛をこらえるように、眉根を寄せ俺の手を握りしめた皆本にひたひたとした罪悪感がわき上がってくる。
「すまない。おまえに迷惑かけちまって」
「いやいいんだ。迷惑なんかじゃない」
少しだけ困ったように笑った皆本に、おまえが思っているようなたぐいのことじゃないんだといってしまいたかった。俺が抱く罪悪感はもっと根深くてもっと汚い。それをもっともらしい謝罪でコーティングするなんてひどい欺瞞だ。一時でも、こいつから離れられないという俺に架せられた楔に見いだしたのは、仄暗い喜びだった。
全部吐き出してしまえたらいいのに、狡く意気地のない俺は、それらのひとかけらさえ言葉にすることができない。だからこんなふうになるまで追いつめられ、必死になってつなぎ止めてしまったのかもしれない。こんな最悪な方法で。
二人だけの室内の静寂が耳にいたい。それは、ひどく惨めな俺を責め立てていた。まっすぐに俺を見つめていた皆本が視線をさまよわせ、瞬く。ためらうように濡れた舌が唇を嘗め、薄紅色のそれが俺の名を呼んだ。
「そんなにつらそうにするな。本当に迷惑なんかじゃないんだ」
「ちがう。俺がいいたいのは、」
「違わないよ。おまえは優しいから、自分が大変なときにも僕を思ってくれる。でも、僕は」
いっそ耳をふさいでしまいたかった。そんなんじゃない。俺はそんなにもできた人間じゃない。俺の唯一の特効薬である皆本のそばにいるのに胸が苦しくて叫びだしたくなった。そんなんじゃないんだと。なのに、困惑と喜びの境界線で揺れる顔をした皆本は、握りしめていた手のひらに力を込めて、つめていた息を吐き出した。
「ほんとうは、うれしいんだ。こうやってきみのやくにたてること」
己の罪を告発する密やかさ。恥いるように揺れる声音。目を伏せた皆本は、俺の手を離すと自分の頭を抱え込んで気分を害したらすまないと絶え絶えに言葉にした。
「すごく、うれしいんだ」
俺を盗みみる瞳に映るのは、叱られる前みたいな頼りなさ。おどおどとしたそれは、保護者としてチルドレンの前に立つときとはちがう、甘えをちらつかせていた。すとんと、落とされたみたいだった。底なしの場所へと真っ逆様に。ひどく薄暗い終わりないところへと落下していくのに、俺の心の中を満たすのは喜びだ。
「くるしい」
興奮を押し殺した不自然な口調だったかもしれない。機械的なそれに、はじかれたように顔をあげた皆本が、俺の手首を握りしめた。そこにつなぎ止めるみたいに。
「大丈夫か?」
「みなもと、くるしい」
吐き出した吐息は熱く、せり上がるものをこらえるように唇をかみしめた。皆本がそばにいないときの苦しみとは違う。これはもっと甘くて、もっとよどんでいて、もっとやるせなくて切ない。自分の心の機微すらつかめない愚か者は、地面にはいつくばってようやく、自分と同じところまで落ちて苦しむ美しいものを見いだしたのだろうか。
あわてて立ち上がった皆本が俺の隣に腰掛ける。勢いを殺しきれなかったのか、黒革のソファが揺れた。自分の方が苦しそうな顔をした皆本に手を握りしめられて、まだ足りないだろうと無理矢理押し込むみたいに距離を詰めて抱きしめられた。皆本の体温とかぎなれたにおいに、無意識のうちに唾液を飲み込んだ。
俺は、こうしなければ、生きていけないのだから、しかたない。そう、しかたないのだ。
これは、俺が、いきるために、必要なものなのだ。
「賢木、平気か?」
心配そうな皆本がのぞきこんでくる。柔らかな黒鳶色の髪に指を絡め、後頭部に手をやってそのまま抱き寄せた。おまえがいると、楽になるありがとう。こうやってそばにいてくれて本当にうれしいよ。形のよい耳元に直接囁くと、吐息が触れるのがくすぐったいのか皆本の体がかすかにふるえた。
「この距離でもってことは、コンディションの関係もあるのか? しばらくはおまえのそばにいることにするよ」
「ああ、ありがとうな」
少しだけ苦しげな声を作って、演じてみせる。それにころりとだまされた皆本に、無理は禁物だからと子供にするように頭をなでられる。まるで幼い時分に母に慈しまれ抱きしめられたように気持ちよくて、身を寄せた。皆本が隣にいる。ただそれだけで体がジンジンとして胸の奥がうずいた。これもまた終わりのない病だ。
皆本がいないと、俺だめみたいとすがるみたいに吐き出すと、ずっとそばにいるからと俺の背中を撫でたその手のひらから、言いようもない喜びの感情が伝播してきて思わず顔を上げる。優しく微笑んだ皆本が鳶色の瞳に俺を映していた。熱っぽいそれと口元に浮かぶ穏やかな笑みが不釣り合いで、俺をひどく混乱させる。どうかしたのかと皆本が首を傾げ、熱に浮かされたような恍惚としたものが一瞬で消え去る。まるで先ほどまでのものが幻であったかのように、いつもの母親じみた包容力をみせる皆本が目の前にいるだけだ。
人間なんて自分が得た情報を都合よく組み立てて、望むままの結果を導き出す欲深い生き物だ。だから、俺もそういう生き物としての性を持っているとわかっているはずなのに、それでも、そこにどうしようもない優越と陶酔の破片を垣間見てしまった気がした。皆本につなぎ止められた楔の反対側を確かに喜びさえ感じながらその白い手が握りしめているように思えてしまったのだ。
たぶん俺は、ひどく薄暗い笑みを浮かべていることだろう。だから、苦しげに腕の中で身じろぎをした俺を案じてくれる皆本に、自らの中から溢れ出してしまったエゴイスティックな欲望の顕現を見られてしまうことがないように、ぎゅっと同じ男のものでしかない、なのに何よりも俺を突き動かす逞しい体を抱き寄せた。