うららかな昼下がり。煮詰まっていた実験もようやく望む結果をはじきだし、一番の山場を越えて、ここのところ寝不足続きだった自分を労わって、研究室ではなく慣れ親しんだ自宅のベッドで眠れそうだと足取りも軽く長らくの住処を後にしたところだった。珍しくESP研究科のほうへと顔をみせていた賢木さんが、少しいいかと至極真面目な顔をして僕のことを呼び止めるものだから、もしかして何か重大な問題かと(たとえば、リミッターの調子が悪いだとか、超能力の制御が上手くいかないだとか)一も二もなく頷いて、手を引かれるままに既に人が出払ってしまった彼が所属している研究室へとお邪魔することになった。この時間は教授は講義だし、ほかの面子も忙しくていないからとりあえず適当なところに座ってくれと促されるままに、来客用のソファと思わしき革張りのそれに腰掛けて、神妙な面持ちで僕の向かいに座った彼の様子を伺った。頭を抱え、重々しいため息をついて、言葉を選ぶように唇を舐めるその姿を見れば、彼が抱えている問題がかなりの重要な案件であるということは想像に難くなかった。いつだって年上の余裕で僕のことを翻弄してからかって、先回りして余裕綽々で笑っていることの多かった彼が、こんなにも動揺しているさまを僕の眼前に晒すというだけでも稀有なことだというのに、更に僕に助けを求めているというのだ。ただそれだけで、これは酷く薄汚く不謹慎な話なのかもしれないけれども、賢木さんに自分を必要としてもらえているようで、すごくすごくうれしかった。だから、彼の逡巡を打ち破るみたいに、身を乗り出した。
「あの、なんだって手伝いますから」
 難しい顔をしてテーブルの上の灰皿を睨みつけていた賢木さんが顔を上げて僕を見た。瞬いた黒茶色の瞳に浮かぶのは、困惑。僅かに首をかしげ、考えるような間を置いた彼に、自分のセリフがこの場には不似合いなもののように思えてきて、一気に頬が熱くなるのを感じる。でも、この気持ちは嘘ではない。賢木さんが困っているというのならなんだってしてあげたかった。いや、手伝わせて欲しかった。
「えーっと、僕の勘違いかもしれませんけど、何かお困りのことがあるようでしたから」
 唸り声を上げて頭を抱えた賢木さんは、すごく言いにくそうに閉口してそれでも、申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせて勢いよく頭を下げた。
「おまえにしか頼めないことなんだ! すっげぇ面倒なことになるかもしれないんだけど、話だけは聞いてくれないか?」
 ええいままよのノリで吐き出されたその言葉に、思わず笑ってしまう。響いた僕の笑い声に、賢木さんが怪訝そうに首をひねって眉根を寄せた。おかしいやつだと思われてしまっただろうか。それはいやだ。だから、何がちがうかもわからないのに違いますと前置きをする。
「そんな頭なんて下げないでください。なんだって手伝いますって言いましたよね」
「本当にいいのか?」
「はい。もちろんです」
「後悔しないか?」
 やけに重々しく問いかけてきた彼に、只ならぬものを感じて無意識に唾液を嚥下する。黒々とした影を落とした土色の瞳に、射抜かれる。まるで、これから待ち受けるものに対する覚悟を問われるかのようだ。
「仰々しいですね。もちろん後悔なんてしません。そんなに出し惜しみされると逆に気になってくるじゃないですか」
「出し惜しみとかそんなんじゃねぇよ。これでも気を使ってだな。でも、言ったな! 後悔しないって言ったな?」
「ええ、まあ」
「じゃあいくぞ!」
 テーブルに勢いよく手を付いて前のめりになった賢木さんが、逡巡をかなぐり捨てた真剣な表情で僕の名前を呼んだ。だから僕も、はいと威勢よく返事をして姿勢を正してしまう。見つめ合うこと十秒、膝の上においていた僕の手を賢木さんの手のひらが握り締めた。思わぬことにどうかしたんですかと彼を見やる。だが、彼は深呼吸したかと思うと、僕の疑問に答えることなく衝撃的な言葉を投げつけてきた。
「俺と婚約破棄を前提に婚約してくれ!」
「はっ?」
「いや、だから、婚約破棄を前提に、」
「えっ?」
 これ以上ないくらいに真面目な顔をした賢木さんの、それこそまた鬼気迫るほどの逼迫した声音。だが、言われていることの意味がわからずに、そのまま思考停止してしまう。動きを止めた僕を前にして、どうしてわかんねーのかなと賢木さんはグシャグシャと頭髪をかき混ぜて、もう一度同じことを繰り返した。
「だからですね。是非、この賢木修二と、婚約破棄を前提に、婚約をしていただけないかと、思った次第なわけなんですけれども」
 皆本クンと僕の様子を伺うように顔を覗きこまれる。その表情にふざけているような気配はない。一応ぐるりと研究室内を見回してみたが、隠れて僕のことを笑っている人間はいないようだった。どうかしたのかと問われたので、またいつもの手の込んだ僕をからかうための悪戯かと思いましてというと、こんなに真面目に真摯にお願いしてるのにそれはねぇだろと賢木さんが頬を膨らませて抗議してきた。
 だが、言わせてもらいたい。まずもって、婚約破棄を前提にした婚約という言葉の意味がわからない。いやわからないなりにも、まだ許そう。そこにはまあそれなりの文意もあり、言葉として成立していないわけではない。しかし、しかしだ。それは大事の前の小事であり、瑣末なことであるからして流しておくだけであって、一番の問題は、その前の部分だ。
 平静を保つために軽く咳払いをすると、審判をまつものの緊張感に息を詰めていた賢木さんがびくりと肩を震わせた。
「あの、誰と誰が、その、あれなんですか」
「婚約破棄を前提に婚約?」
「そうです」
「もちろん俺とおまえだけど」
「その俺とおまえっていうのは」
「賢木修二と皆本光一だけど」
 一片の曇もない賢木さんの眼に訝しげな色が浮かぶ。大丈夫か、俺の言葉の意味がわかるかと、至極失礼なことを言うものだから、そんなことよりもあなたの頭のほうが大丈夫なんですかと吐き出してしまいたくなる。なにがどうしてどうなって、賢木さんと僕が婚約することになるんだ。意味がわからないというより分かりたくないというより、そこに意味を求めるのが間違っているんじゃないだろうか。えっ、だっていつの間に僕たちは婚約するような間柄になったんだ。しかも破棄を前提っていうのは、僕ってもてあそばれる側いや、もてあそばれるというのもあれ、つまり、ん?
「あの、僕たちまだそういう段階ではないと思うんですけど」
 僕としては賢木さんを得がたい友人であると思っていたし、彼の隣は居心地もよく、とてもすきだった。賢木さんだって、たぶん僕のことを好意的に見てくれているんだろうなという、まあ僕にだけ優しい希望的観測だって持ち合わせていたのだ。だが、これは違う。それがいつのまにプロポーズという段階まで走り高跳びしてしまったのか。好意はうれしいですがと軽く身を引くと、賢木さんが声を荒げてテーブルを殴りつけた。
「ばっ、ちげーよ! そういう段階どころか、そんな未知の領域に足を踏み入れてもねーわ! そこは立ち入り禁止区域です!」
「じゃあ何で婚約なんですか! これってプロポーズですよね? 破棄を前提にしてますけど」
「そうじゃねぇよ。破棄を前提にしてるところでもうプロポーズとして終わってるだろ」
「じゃあどういうことなんですか。僕には理解しかねます」
「俺だって理解しかねる状況だからこんなに困ってんだろ」
 賢木さんが苛立たしげに腕組みをして居丈高にソファにもたれかかる。その勢いを殺しきれなかったのか、ギシリとソファが軋む音が二人しかいない室内に響いた。耳に痛い沈黙ののちに、困り果てたような彼のため息が落ちる。
「実は、教授の娘さんがたいく俺のことを気にいってくれたみたいで、いま猛アタックをうけてんだよ。それだけならまだしも、その教授も俺のことを正当に評価したうえでかわいがってくれてて、ぜひともうちの娘と結婚なんてしてくれたら嬉しいんだけどなみたいな話がでてる」
「断れないんですか?」
「もう何度も断ってるさ。最初は冗談めかした感じだったのに、徐々に真実味を帯びてきて、こっちも笑ってられなくなったからおまえにこんなお願いをしてるんだ。流石に、婚約者なんていたら向こうだって諦めるだろ」
 自分の導き出した結論に疑問を抱いていないらしい賢木さんは、おまえさえうんと言ってくれれば、俺の未来が救われるんだと断言する。その前の段階にいろいろと大きな壁があることに彼は気づいていないのだろうか。
「あの、女性の方にお願いしてはどうでしょうか」
「駄目だ」
 迷いもない一刀両断。男を婚約者に据えるよりも、賢木さんのただれた女性関係の中から比較的良心的な方をピックアップしてお芝居してもらうほうが現実的であるという僕の判断は間違っていないはずだ。はずなのに、これこそが正統なる解であるとしている賢木さんを前にしているとだんだんと不安になってくる。
「いいか、女は駄目だ。もしも向こうがマジで乗り気になって本当に婚約みたいな流れになったらどうするんだ。俺はまだ人生の墓場に骨を埋めるつもりはない」
「いっそ埋めて身動きが取れないようにしたほうが、いろんな意味で落ち着くんじゃないですか?」
「そんな冷たいこと言うなよ。頼むって。悪いようにはしないから。なんだってするっていってくれたじゃん」
 なあ皆本と、かわい子ぶるように首を傾げようが、媚を含んだ視線を向けられようが、負けてなるものかと姿勢を正す。ここで甘くしてしまえば漬け込まれ、賢木さんのいいように流されてしまうに違いない。なんだかんだでこの人の口の上手さというか、あまりよろしくない部分での手際のよさには何度も辛酸を舐めさせられてきたのだ。
「なんだってにも程度があります。だって考えてみてください。僕たちが婚約するということは公認カップル状態になるということです。いまでも、僕の研究室の人たちにからかわれ、教授にまでそれが波及しているというのに、ここで火に油とガソリンを振りまいて決死の爆破を演じてどうするんですか」
 いまでさえ、シュージはコーイチにベタ惚れなのねとか、コーイチったらはやく観念してシュージとの関係を認めればいいのにとか、勝手に僕も知らない僕と賢木さんの関係についてからかわれているのに、そこに婚約なんていう起爆剤が加わり、更に破棄だなんてことになったら全米も吃驚の超大作ラブストーリーが語り継がれることになってしまうじゃないか。そんなことになったらもう僕は、世を儚んで身投げするしかない。
 あまり前向きに検討する気のない僕に痺れを切らしたように立ち上がった賢木さんが、僕の隣に腰掛けた。ぐいっと肩に腕を回されて一気に距離が縮まる。
「だからいいんだろ。リアリティがあって。急に婚約したなんていっても信じてもらえないから、下地があるほうがいいんだよ。俺、彼氏にしたら最高だぜ? 優しくするし、おまえのために尽くすし、おまえを愛せる自信がある。最高の時間をプレゼントしてやるから」
 無駄に情熱的な口ぶりと視線を向けてくる賢木さんに、頭を抱えそうになる。いったいこの人は何を言っているのだろうか。僕の反応を見極めようとするようにこちらを伺うその表情は真面目そのもので、この状況に微塵も疑問を抱いてないらしい。
「愛してくれなくて結構ですし、だいたいあなたはいまでも僕に優しくしてくれますし、あなたと一緒にいるだけで僕は楽しいです。もうそれで充分ですから」
 べたべた抱きついてくる賢木さんの胸を押し返そうとすると、目を白黒とさせた彼が僕を見下ろしていることに気が付いた。
「どうかしましたか?」
「いや、俺やっぱり婚約するならおまえしかないなっていま思った。なあお願いだって皆本、本当におまえにしか頼めないんだ」
 一体僕の何が彼のスイッチを入れたのか。苦しいくらいに抱きしめられて、頼む婚約してくれと耳元で囁かれた。作ったような低い声に、背筋が震えて、おまえだけだからなんていうその言葉に、少しだけ、ほんの小指の先くらい心が動かされてしまったなんて、信じたくはない。更に信じたくないことではあるけれども、次の瞬間に件の教授がこの研究室に戻ってきて、賢木さんと僕が抱き合っている(というよりも僕が抱きしめられている)ところを見られて婚約どころか既成事実発覚という盛大な勘違いを受けてひと悶着あるというのだから、人生というものはままならない。






13・08・18
13・09・01