「愛してる」だなんて、二度と言わない

 賢木修二は愛多き男だった。
 自然を愛し機械を愛し釣りを愛し、伸びやかに生きる人間の命を愛していた。そしてそれらの愛の多くは、世の美しい女性にあますことなく向けられていた。彼がそれをいつ頃意識したのかは知りようがないし、もう本人にとっても忘却の彼方であるかもしれないが、呼吸をするように自然に、明日も太陽がのぼるように当然に、魅力的な女性を愛しまた愛されたいと思っていた。
 だがそれは、過去の話。多くのものを愛し、そして愛されることを当然のことのように享受していたはずの賢木修二はいつの間にかなりを潜め、彼の中に海のごとく満ちていたあまやかな愛というものは枯れ果てた泉へと姿を変えた。美しい女性に心乱されるようになったきっかけは曖昧なのに、自分の心が凍り付いたそのときの情景温度色合いだけは嫌と言うほどによく覚えている。いっそ忘れさせくれとさえ思うのに、意識した瞬間それは忘却から一番縁遠いものへと変質してしまった。美しい絵を額にいれて飾り付けるように、賢木の心の中にはそのときの風景がずっと立てかけられていた。
 学校帰り。鉄鋼が熱されとろけていくような夕焼けの中で、その頃彼がとてもいとおしく思っていた少女と肩を並べて歩いていた。賢木ははにかむように笑う彼女の横顔がとても好きだった。だから、彼女を少しでも笑わせようと思って隣に並んでなんでもない会話を交わしながらいつだってその横顔を伺っていた。隣にいることを許され、受け入れるように笑みを見せてくれる少女と共有する時間は、賢木にとって自分の能力が発露するまえにもどったような気持ちを味わわせてくれるとてもとても大切なものだった。
 何がきっかけかは覚束ないが、まるで突き動かされるみたいに、夕焼けのせいだけではなく紅色に染まったやわらかそうな頬に、触れてみたいと思った。だから、躊躇うことなく指を伸ばしたのだ。普段なら遠慮する他人との接触。賢木はそのときばかりは自分が接触感応能力者であることを忘れて、ただ一人の男として慈しむべき対象に触れたいという希求に支配されていた。だから、指を伸ばした。いま思えばこそ、隣で笑っていてくれる少女ならば自らを受け入れてくれるという甘い甘い幻想を抱いていた節もあったのだろう。だがそれは、所詮幻想でしかなく、突きつけられるのは残酷なばかりの現実だった。
 弾かれる彼の指先。驚きに見開かれた彼女の黒曜石の瞳。息を呑んだ賢木に取り繕うように笑った少女はごめんなさいと掠れた声で謝ってみせたのに、それはもう形だけの謝罪でしかないということを賢木は知ってしまった。なぜなら彼は超度6のサイコメトラーで、触れればその気持ちをつまびらかにすることが出来るからだ。もちろん、一瞬の接触で彼女という人間の全てを覗き見ることが出来るわけじゃなかった。ただ、強く念じていることが皮膚という皮膜を突き破って賢木の心の突き刺さったのだ。触らないで、見られたくない、嫌だ。何よりも強くそして複雑さを伴わない単純な感情だったからこそ、何よりも色濃く賢木の中を塗りつぶしていった。もちろん、誰だって触れられて、心の中なんて覗き込まれたくなんてない。なのに、どこかで信じきっていたのだ。この少女ならば自分のことを受け入れてくれるだろうと。共有してきた時間の中で、そこに何らかの信頼関係に似たものを積み重ねてきたような気がしていたのだ。
 それでも。いや、だからこそ余計に。賢木という人間個人をみることなく、エスパーというくくりの中に押し込みそれを嫌悪するその少女の黒曜石の瞳に、いいようもない恐ろしさと、己が社会からはじき出された異物であり、圧倒的少数者であるという最終宣告を下されたような気がした。
 そのあと、少女とどのようにわかれたかなど賢木の記憶の中には残っていない。ただ、そのときの記憶だけが何度も何度もリピートされ、壊れた再生機のようにあたたかな頬から読みとった恐怖と嫌悪を追体験する。
 そうたとえば、賢木の中に何らかのスイッチがあったとしたなら、それが切り替わるような音がしたことだろう。カチリと、ひどく冷たくかたい音が。
 それから賢木修二は、愛多き男から、恋多き男になった。与えるのではなく求めるように、慈しむよりは消費するように、迷子の子供が母を捜して周りの大人の顔を手当たり次第のぞき込むかのごとく、目視することも触れることもできないなんらかを探してたくさんの女と恋をするようになった。枯れ果てた泉を、またあたたかなもので満たしてくれる人を探すみたいに。
 最初は信じていた。自分を取り囲む世界はそこまで悲観し悲嘆するものではないと。次第に信頼は疑心になり、疑心は絶望へと姿を変えた。そして賢木は自分が信じていたものが、愚かな希望的観測でしかなかったことを知った。いくら求めても、求めても、見つからなかったのだ。暗い森の中をただただ、あたたかい光を求めてさまようように、遠くに見える街の光へとたどり着こうと必死だった。星の光のように手の届かぬそれは、賢木の足下を照らすことはなかった。そこへと至るために必要な切符を彼は失ってしまったのだ。望む望まざるに関わらず。
 幼くまだ成長過程にあった彼の心は、いともたやすく傷つき疲弊した。だから真摯さは軽薄さに、愛をこう気持ちは分かりやすい性欲へと移り変わり、もう打ち捨てられた廃墟のように、変わり果ててしまった。好きという言葉も愛しているという情熱的な吐露も、ただ形式的な音の羅列になり、覆されることを前提とした戯れの一部へと落ちていった。
 だから、賢木修二は恋多き男になった。そして、彼の心の奥を突き動かすような「愛している」なんて言葉を二度と口にすることはないだろう。



ただいま、さよなら、また今度


 戸惑い、混乱、圧倒。そして、ぬくもり。賢木修二にとって皆本光一は未知の生物だった。
 和を重んじるという名の下に他を排斥し、そこに連帯感と自分の居場所を見つけ、同調圧力を絆と美しく換言してしまう狭い島国を抜け出し、自由を掲げる実力社会に殴り込んだときも、いままで身を浸していた閉塞的雰囲気との違いに衝撃を受け、それなりの感銘を覚えた。(もちろん、集団生活に馴染めば身に受ける理不尽は変わらぬものだと、さらに深く落胆もしたのだが。でも、その嘆息を代価としたとしても、皆本との出会いは賢木にとって余りあるものだった。)
 皆本との邂逅は新たな世界を知る衝撃を上回るほど劇的なものだった。荒れ狂う嵐を前に呆然とし、さらにその後に残された被害地をみて言葉を失い、時間差でようやく自分の感情が追いつくような三段階構えの衝撃だ。
 まずそのたぐいまれなる才気。
 噂だけは耳にタコができるくらい聞いていた。流布し伝播していく情報は得てして大袈裟になっていくのが世の決まりというものだが、それを差し引いたとしてもあまりある秀才だった。頭ひとつどころか二つ三つも飛び抜けている。いったいどんな集積回路を詰め込まれればその処理能力と発想力を得ることができるのか。いや、機械的なものを組み込んでいたとしたのなら、あの自由な想像力は付加されなかったのだろう。皆本が持ちえる頭脳をいっそ覗き見てやりたいと思わずにはいられなかった。
 賢木とて自分が所属していた集団の中では他の追随をゆるさぬ自信はあったが、皆本とはまず生まれながらの才が違うのだと、いっそ潔いほどの爽快感さえ感じた。嫉妬や悋気さえおきない。自らの立ち位置を熟知するからこそ、彼のもつ頭脳に敬意さえ評したくなった。噂は誇張ではない。賢木の目からみても、皆本光一は大学内で秀でた存在だった。なのに皆本はそれを鼻にかけることなく、低俗なやっかみは苦笑混じりに柳に風と受け流し、人好きのする笑みと対話で円滑な人間関係を築こうとしていた。
 皆本の穏和な性格。それがまた、ひどく賢木を驚かせた。もちろん学問に関しては彼も一定のプライドを持っているらしく、己の正しいと思ったことはちゃんと主張する。それでも、相手を否定するようになった場合には、真っ向から打ち砕く無粋なまねをするのではなく、できるだけ角が立たないように理論的かつ穏便に、その解を突きつけられる相手が素直に受け入れられるような物言いを心がけていることが伝わってきた。好青年というのは、皆本のためにある言葉なのだろうと彼の隣に立つことで骨身にしみた。
 もちろんヒートアップすれば相手の気持ちを挫くようなこともあったが、そのあとのフォローと普段の行いから皆本を悪く言う人間はまれだった。しかし、世の中のすべてが善意とそれに似た柔らかなもので覆い尽くされているわけではない。下種の勘ぐりはどこにでも存在していて、皆本はいつだって嫉妬される側の、たとえば皆にとって喉から手がでるほど欲しい美しい花々を抱え込んでいるような、そんな人間だったのだ。言うまでもなく、皆本本人と面と向かって話せば、彼が噂の中にあるような悪辣な人間でないということはすくにわかる。だが、心ない噂はいくつもあった。あるときなど皆本が男色趣味のある教授に自分の体を使って取り入ったなどと、聞いているだけで気分が悪くなることを吹聴しているものがいた。皆本もさすがにこの噂には渋面をつくっていたし、その噂を小耳に挟んだ賢木は腸が煮えくり返るような思いだった。サイコメトリーという超能力を有している賢木が、その能力を悪用したのではと疑心暗鬼に陥ることは、納得はできないまでも、そこに至るまでの屈折した嫉妬心は理解できた。だが、女性にどころが友人関係にまで奥手で控えめな皆本が、そんな手管を使って人を籠絡できるわけがなかった。そんなことができたとしたら、皆本はもっと楽な生き方や、世渡りの方法を選択することができたのだろう。だからこそ余計に、彼を知り彼に全幅の信頼を寄せるからなおさら、そのような醜聞にしかならぬことを吹聴する輩の低俗さと無神経さと、己を省みることのない愚かさに、こらえきれない憤りを感じた。皆本が動かぬのならいっそ自分がと考えて、皆本に内緒でその噂を流している愚劣な人間を一人ひとり罰してやろうかとまで考えたが、突然皆本に呼び出されたかと思うとまだ話してもいなかったその計画を、不穏なことを考えているんだとしたらそんなことは絶対にしないでくださいとたしなめられてしまった。まさかどうしてばれたんだ、こいつは普通人ではなく実は超能力者だったのかと賢木が呆然としていると、賢木さんの考えることなんてすぐに分かるんですからと、仁王立ちになった皆本が眉根を寄せて床を踏みつけた。
 最初は畳み込むように、そうやってすぐに暴力に訴えるのは賢木さんの悪い癖です。その癖をどうにかしていかないと、いつまでたったってマイナスにしかなりませんよと、教師のごときことを言っていたのに、いつのまにか僕のためなんかに、わざわざあなたの評価を貶めるようなことをしていただかなくても大丈夫ですと、お説教なのか謝辞なのかも分からぬような言葉を向けられ賢木の腹の中で飼いならしていたはずの凶暴な怒りが拍子抜けしたように萎んでいってしまった。年下の皆本に気圧されてしまったのが忌々しくて、偽悪ぶるようにありがた迷惑ってことかと眉を上げて肩を竦める。すると皆本は、はあと重々しいため息をついて頭痛を堪えるように頭を抱えてしまった。肩を落とした皆本は、むしろその逆ですよと、何でわからないのかなあと賢木の察しの悪さに苛立ちを隠すことなく口早に言った。
 本題に触れぬ遠回りな日本人的会話のキャッチボールに、賢木はだからつまり何が言いたいんだよともどかしささえ感じながら、次の言葉を選んでいる皆本を見た。その視線を真っ向から受け止め、ありがとう嬉しいですとはにかむように笑った皆本の表情が、賢木の中であの夕焼けの中に浮かぶ少女の横顔と重なる。胸の奥が締め付けられるように苦しく、追体験のようにあの嫌悪が蘇ってきた。そして、自らがまたあの時と同じ過ちを繰り返そうとしているのではないかという事実に気づいてしまったのだ。優しく笑う皆本。やわらかそうな黒鳶色の髪。触れたいと思ったそれを飲み込んで、そして這い上がってくる臆病な幼い己を、もうずっと昔からそうしてきたように深く深く手の届かない場所まで押し込めた。泣き叫び悲鳴をあげる自分に耳を塞ぎ目を閉じて、それを黙殺する。気づきさえしなければ、それはそこに存在しないのと同義なのだ。求めても与えられぬというのならば、いっそ求めなければいい。期待して裏切られれば、余計につらくなるだけだ。疼くように皆本に触れたいと思った指先を握り締めて、熱のこもった呼気を吐き出した賢木は、その熱を感じさせない分厚い仮面を被って道化のような笑みを浮かべた。
 いい子ちゃんな皆本クンに毒気を抜かれたよと悪ぶってみせた賢木に、皆本は擽ったそうに笑う。決して笑みを誘うような上品な冗談でもなかったはずなのに、それでも皆本ははいと小さく頷いて、賢木に向かって莞爾として笑った。はい、嬉しいですと。何が嬉しいんだと、賢木にはその感情の変遷が理解できなかった。そして、その笑みをみてえもいわれぬ衝動を抱いた自らの気持ちも。
 折角押し殺したはずの情動が、またざわめいて臓腑の奥からわあわあと騒がしい声をあげる。いくら耳を覆っても内面から聞こえるそれを黙殺することはできない。駄目だと思うはずなのに、これ以上己を追詰める必要などないと思うはずなのに、もう随分と昔に捨て去った類の感情が賢木の中を満たしていくような気がした。それは、彼が欲しくて欲しくて仕方のなかったものの一部だったのかもしれない。
 駄目だと、そう思った。これ以上は、踏み込むなと。
 さあ、ラインを引け。期待はするな。つらくなるぞ。切り捨てられる前に自らが切り捨てろ。ぞくぞくと追い立てられるように、心の中にずっとずっと巣くっている臆病者達がもうこれ以上ないくらいに膿み疲弊した心を打ち砕かれることのないように警報をかき鳴らす。それは賢木にとって、長年の経験が培った本能にも等しかった。だから、それに逆らうことなく行動した。そうすることでしか自分を守ることが出来なかったから。意識的であれ無意識であれ。
心理的な距離を物理的に表すように皆本から一歩身を引いて、自分がいだきそうになっていた希望的観測を踏み潰す。呆気なく粉々になった美しく煌いて見えたものの破片たちが、賢木の心に突き刺さり、ちくちくとした痛みを呼び起こす。その痛みと距離感が、なによりも確かに、賢木という人間に与えられた絶望というものを如実にしていた、はずだった。でも、それでよかった。もうおちるところまではおちている。たぶん、賢木にとってこれ以上も以下もない。恒常的に憤り憎み苦しみ嫌悪され異物であると評されるのであれば、それはいつの日か日常となり、感覚も鈍化しなんの抵抗も感じなくなるだろうから。
 ああ、これでいいんだと、自分と皆本の間に、超能力者と普通人の間に、顕然たるものとして存在する距離を、溝を、壁を見据えたときに、賢木は悲しみとも安堵ともつかぬものに微苦笑を浮かべた。これが、自分には、お似合いの場所なのだと。なのに、不思議そうに賢木の名を呼んだ皆本が、少しだけ切なげに眉根を寄せて、賢木が生じさせたその障害をいとも容易く飛び越えるように一歩踏み出した。浅黒い賢木の頬に触れる白い手のひら。レンズの向こう側の鳶色の瞳が、黒茶色の瞳を覗き込んだ。
 賢木さんと呼ぶ、皆本の声が、どこか遠かった。薄いベールでも通したかのような現実感のなさ。それが自分に向けられているものだと、自覚するまでにタイムラグがあった。
触れた、まだ柔らかな手のひらの熱さが、賢木の頬をちりちりと焼く。そのぬくもりが、何よりも、賢木を驚かせた。彼の才気や性格などよりも、その優しいぬくもりとそこから伝わるよどみを知らぬ思念が、閉塞感にのたうち倦み膿み呻き恨みうろたえそして何より涙を流し悲しみの声をあげていた賢木を、ひどく驚かせた。
 何か言わなければと思うのに、賢木の声帯は壊れてしまったんじゃないかと不安になるほどに、凍りついたまま意味ある言葉を発してはくれなかった。ただ、血とも鉄ともしれぬ錆びた味が唾液とともにせりあがってきて喉の奥に張り付いた。
 皆本と、本当は呼んだのかもしれない。鳶色の瞳を瞬かせた彼は、満面の笑みを浮かべて、もう一度だけありがとうございました、賢木さんが僕のために怒ってくれるだけで僕は充分嬉しいです、本当にあなたに出会えてよかったなあと、屈託なく飾り気もなく言った。
 賢木が皆本を信頼するのは、賢木の勝手な独りよがりでしかない。賢木はそれで満足していたし、それ以上のものを望むつもりなどなかった。これで充分なのだと思っていた。だから触れようとは考えなかった。必要以上の欲を出すこともなかった。欲するのは駄目だった。だって、求めたものが返ってこないのはつらく悲しい。橋のかからぬ対岸にある美しいものの輝きが、賢木の暗澹とした足元を照らし出してくれるだけで身にあまるほどの幸福だった、はずなのだ。なのに、皆本は躊躇うことなく橋を打ちたて、当然のように賢木を明るい場所へと引っ張りあげようとする。同じだけのものを返そうとする。
 飲み込み続けてきたものが、決してあふれ出すことのないよう握り締めていた賢木の手のひらが、震える。駄目だと、声高に叫んでいたはずなのに、その戒めを捨て去るように夢現の頼りなさで賢木の手のひらが自らの頬に触れていた皆本の手をとった。
 触れる、手のひら。重なる、ぬくもり。伝わる、感情。そのどれをとっても温かく優しく美しく、如何ともしがたいほどに賢木を揺さぶった。あのとき、あの夕焼けの中振り払われたまま受け止めるもののなかった指先が、ようやく報われたような、そんな気がした。それと同時に、ずっとずっと空っぽだった賢木の中に、薄ぼんやりとした叫びだけを反響させるのみだったがらんどうの内面に、どうしようもなく優しく柔和なものが注がれていく。久しく、いやもう永遠に感じることなどないだろうと思っていた、喜びに胸が締め付けられるその感覚に、たぶん心というものが存在するであろう場所が苦しく声にならない悲鳴をあげた。痛みを堪えるように胸を押さえた賢木に、皆本が心配そうな顔をする。それすらも、賢木の心を揺さぶった。
 たぶん、もう、戻れないだろうと、賢木は思った。
 あまりに美しく、迷いなく、穢れなく向けられるむき出しの感情たちに、もう己は戻れぬのだろうと、泣き笑いのような表情を浮かべて大丈夫だと口にした。あの少女に、そしてそれ以外の多くの人間たちに打ち捨てられ踏みにじられた、酷くもろく慈しむべき温かな感情たちが、渇くばかりだと思っていた賢木の心を、その渇きの反動のように満たしていく。もう己の中には戻らぬだろうと思っていたものたちが、どこに隠れていたんだと吃驚するような速度で賢木の中を駆け巡っていった。皆本と、熱に浮かされるようにその名を呼んだ。はいと、当然のように返ってくる返事。たったそれだけのことが嬉しくて、苦しくて、泣きたくなった。
 言葉など見つからない。言いたいことは伝えたいことは叫びだしたいことはたくさんあった。でも、それでも、言葉になどならなかった。全部が全部、信じられないくらいにいとおしく、切なくて、くるしくて、そしてそのすべてが自らのものになったならと願わずにいられなかった。長きにわたり闇の中にあれば、いくら真に望んでいた光であったとしても目を焼くように、賢木にとって皆本はあらゆる意味で劇物のような存在だった。それでもたしかに、目の前にいる自分よりも年下の頼りなさげな普通人の少年が、なによりも愛すべき慈しむべき、それらすべてをひっくるめた尊いもののように思えた。
 これを、この感情を、一体なんとすればいいのだろうか。痺れるように甘く、抉り取られるように苦しい。だが、それら全てを封じ込めて、何も知らぬ磨きぬかれた玉のように艶やかな瞳で賢木を見つめる皆本に笑ってみせた。自然と零れ落ちたそれは、いつものシニカルな斜に構えているときの賢木よりも幼げなもので、それを向けられた皆本は瞠目してそして破顔した。賢木は、その笑顔に胸を締め付けられくらりとした眩暈を感じ、世界が一変するような衝撃に脳髄を揺さぶられた。一瞬たよりなくなる足元。それが賢木にとって唯一の指標であるかのように、自分に触れていた皆本の手のひらを握り締めた。
 もう、駄目だ触れるなといっていたころの強がりなど、賢木の中には残っていない。嫌悪も忌避も悪意もなく触れ合っている手のひらが、じんわりと疼き、皆本に己のすべてを赦され受け入れられたような心地よさに熱のこもった呼気を吐き出した。
 たぶん、賢木修二は皆本光一を愛し始めてしまったのだろう。それがいかような意味であれ、どうしようもないくらいに魅入られてしまったのだろう。それがまた新たな苦しみの始まりであるとして、ようやく己の中に返ってきた甘く温かく柔らかいものたちを、賢木は手放すことなんて、できやしなかった。だから、それら全ての日向のような感情たちに蓋をして、何よりも眩しい皆本光一という人間の体温を、決して忘れることのないように自分の手のひらに焼き付けた。





君のすべてを信じてる



 もしも死にゆくときに走馬灯のように浮かんでは消えるものがあるとするならば、その大部分をしめるのは唯一ひとりの男なのだろうとまどろみに落ちる前の緩慢な思考の中で、賢木は思った。それなりに楽しく、それなりにまじめに、それなりに苦しみ、それなりに絶望し、そして違えようもなくある種の救いを見いだしたこの人生の先はまだ長い。どうやら終わりはずいぶんと遠くに設定されているらしい。ゴールテープの目視は難しく手など届きそうもない。積極的に終わりを考えたいわけでもないから、それに不平不満を訴えるつもりもなく、まあどうせなら苦しむことは少なく楽しく気楽に社会貢献などしつつ、自分の周りの手に抱えられるだけの大切なものたちを護りながら生きていけたのなら、人生を疎み苦しみ投げだそうとしていたころの悲壮感に身を浸していた自分ならば、鼻で笑い黙殺し信じなかったであろうほどに素晴らしいものだった。
 だが、もしもと仮定して、いま人生に終止符を打つというのなら、たぶん思い出すのは、そして最後に言葉を伝えたい人間がいるのだとしたら、迷うことなく一人を選び出すことができた。女好きと浮き名をながし、それで鳴らしている身としては少々もの悲しいものもあるが、皆本という男は、賢木にとって掛け値なくいとおしいくあらがいがたいほどの情動をかき立てる存在だった。
 ようやく一日の仕事から解放されて、夢現の中で考えるのは年下の世話焼きの男のことなのかと苦笑する。だがそこに潜むのはあきれというよりも、くすぐったさに近い。賢木は自分がそこまであの男に浸食されているのだという事実に、甘美な陶酔に似たものを見いだした。じんわりと胸の奥からわき上がってくるものを堪えるようにシーツを握りしめて詰めていた息を吐き出す。ふるりと手先がしびれる恍惚としたものに、一人忍び笑いを漏らす。眠気に理性を明け渡してしまった頭の中は、感情だけに忠実だ。
 ずっとずっと、人生の大半自分の中に飲み込み続けてきたのは、薄汚くどろりとした汚泥と澱ばかりだった。だのに、皆本光一に出会ってから、もっと違うものが賢木のなかを満たすようになっていった。優しくあたたかく美しく柔らかく、そしてときどきどうしようもなく薄汚れていて苦しく堪えがたい。それらすべて、もう賢木の中から失われ、そしてもう己には与えられることはないのだろうと投げ捨ててきたものに付随する感情だった。
 賢木修二は今生のなかで、超度6というフィルターをはずした己が必要とされ受け入れられることなどないのだろうとぼんやりと、その陰惨たる事実から視線をそらすように考えていた。いつだって賢木につきまとうのは、超度6のサイコメトラーであるという重圧だった。もうそんなものいらないと、叫んで喚いて抵抗してずっと誰も手の届かぬような一人きりの孤独な場所でただただ何かに脅え何かを威嚇し、何かから自分を守り続けてきた。それら見えぬ影のすべては姿がないからこそ肥大し、増長し、賢木を追詰めていった。たとえば、戯れに繋がる女性たちの中に自分が愛されているという僅かな希望を見出して己を慰め、それでも最後はそれら全てを自らの不実により叩き潰して打ち壊し、やはり自分は受け入れられることはないのだと予定調和の崩壊に安堵した。結局のところ見えぬものばかりに脅え倦んで少しずつ疲弊していった賢木自身が彼の手のひらから多くのものを取り落とし、それ以上に新たなものを掬い上げることをしようとはしなかった。そんな望まぬものばかりを読み取り、必要としないものばかりを掴み取る手のひらに、あの温かな体温を刻み込んだときの衝撃は、いともたやすく賢木のすべてを変えてしまった。だから、いま走馬灯なんていうものがめぐるのだとしたら、思い出すのは皆本光一という男のことだった。
 本当に自分はどうしようもない男だなあと内省して重い体で寝返りを打つと、部屋のドアが開かれて渦中の人である皆本が顔を覗かせた。来客用の布団を手にした皆本は、自分のベッドに倒れこむようにしている賢木を見据えて、眉根を寄せた。
 なんのために布団を運んできたと思ってるんだよ。両手を塞いでいた布団をフローリングの床に下ろして疲れたようにため息をついた皆本は、それでも賢木の寝床を整えるために布団を敷き始めた。疲れてるなら、僕の家にこないで自分の家に帰ったほうがよかったんじゃないのか。落ち着かないだろう。敷布団をしいて掛け布団もそろえ、ついでに枕を完璧な位置にそえた皆本は、呆れたようにベッドに転がっている賢木を見下ろした。いっそ帰れというような口ぶりを裏切るように、賢木を見据える視線は優しい。そういう男だということがいやというくらいに分かっているから、賢木は際限なく皆本に甘えてしまうのだ。自分がこんなふうになってしまうのは皆本だって悪いんだと、子供のわがままみたいな責任転嫁をしてまだぼんやりとしている頭で皆本を見上げた。
 疲れてるから、おまえのところにきたんだろ。なんだよそれ。んー、なんか俺、疲れるとおまえに会いたくなるんだ。神妙な顔をした皆本は、ベッドの端に腰掛けると、ふわあと欠伸をかみ殺した賢木の黒髪に触れた。寝乱れたそれを手櫛で梳いて掠めるように賢木の頬に指を這わせる。更なる接触を求めるように、賢木は皆本に身をすりよせた。おつかれさま。今日も朝から忙しかったんだろ。まあまあ。ちょっと急患が多くて、生体制御も使ったりしたから、いつもよりは働いたって実感あるわ。猫のようにしなやかな体躯を伸ばした賢木に、皆本が口角を緩め小さく笑った。本当に、お疲れ。きみはすごいなあ。そうやって、自分の持つ超能力でたくさんの人を救うことが出来る。優しい声音が賢木の鼓膜を揺らした。その心地よさが、波紋を描くように体中に広がっていく。俺だって、おまえに救われているよと、賢木は声に出すことなく呟いた。皆本がなんでもないことのように紡いだ言葉たちが、賢木の中にある癒えることのないであろう傷の痛みを中和していく。それら糖衣をまぶした賢木のためだけの特効薬を求めるように、皆本の手のひらを取り指を絡める。たぶん、もう中毒だ。過剰摂取だとはわかっていても、やめられない。彼から与えられる甘美なそれらなしに賢木が生きていくことは出来ない。銃を握り、体を鍛えるなかで、いつのまにか硬くなってしまった皆本の指先。だが、そこから伝わる思念の優しさと、温かさだけは何があっても変わることはない。
 おまえに触ってるときが、一番きもちいい。掠れた賢木の声に、皆本が目を丸くしてぎゅっとにぎりしめられた手のひらを引いた。瞬いた鳶色の瞳を見上げた賢木は、悪戯っ子のように笑って、そういう意味じゃねえよと揶揄する。賢木の言葉の意味するところに心当たりがあったのだろう、頬を薄紅色に染めた皆本は恨めしげに賢木を睨みつけた。赤くなって賢木を責める皆本の姿は、まるで初心な少女のようで、手管を知らぬゆえに男心をかき乱すじれったさがある。自らの仕草をそのように捉えられているなんて思いもしないのだろうとまで考えて、さらに賢木は笑みを深くした。勝手に透視るなよと険のある皆本の声が威嚇した。だが、照れ隠しだとわかるそれが、賢木に通じるわけがない。
 いま疲れてるから、力の制御が上手くいってねぇんだよ、なんなら手ぇ離そうか? ほらと、にやにやとした笑みを浮かべたままに皆本の手を解放した賢木に、それに準ずるようなことを求めたはずの皆本のほうが困惑したように賢木を覗きこんだ。そして離された手のひらに視線を落とし、僅かな逡巡ののちに、賢木にのしかかるようにしてその体を抱きしめる。おい、急にどうしたんだよ。瞠目した賢木は、投げ出したままの手のひらをさ迷わせて自分の上半身を包み込むように抱きしめている皆本を見据えた。皆本の手のひらがベッドに沈み込んで、シーツが乱れる。二人分の重さに、スプリングが軋みをあげた。近い距離に二人の間に熱がこもる。触れている部分から伝わるのは、焦りと後悔と、ほんの少しの羞恥。それを読み取った瞬間に賢木はいっそ笑い出したくなってしまった。本当に、どうしようもなくお人よしのばかだと、笑ってそして泣いてしまいそうだった。これらのやり取りが戯れの延長線上にあるものだということは分かっていた。だが、そんな冗談の一部にも胸を痛め、自分を思いやろうとする皆本が、自分でも恐ろしくなるくらいにすきだった。だから、遠慮なしにのしかかってくる皆本の背中に躊躇うことなく腕を回して優しく撫でてやると、賢木と少しだけ頼りない声音で名を呼ばれた。
 僕に触ってるときが一番気持ちいいんだろ? ああ、そうだよ。すげぇ、安心する。ぐりぐりと皆本の腹のあたりに頭を押し付けて喉をならした賢木に、皆本がくすぐったいよと困ったように笑った。壊れ物を扱うかのように浅黒い首筋に触れる指先。賢木はそのもどかしさを打ち砕くように乱暴に白い手を握り締めて、手のひらの中でもてあそぶ。賢木と、秘め事を漏らすかのごとく囁く声音に顔を上げると、まるで幼子を慈しむように細められた鳶色の瞳とぶつかった。
 同じ体温を共有する行為だとしても、女がベッドの上で猫なで声をあげて賢木にもっととこうてみせるセックスなんかとはちがう。ただ肌に触れ指をからめるだけなのに、じんわりと体の芯が溶けていくような心地よさと痺れが体中に染みわたっていく。僕も、きみと一緒にいると安心できるよ。たまに、やきもきさせられるしふざけるなって思うこともあるけどね。落ちそうになった眼鏡を押し上げて笑った皆本に、賢木は一瞬呼吸の仕方を忘れてしまったかと思った。舌の付け根が痙攣して、うまく言葉にならない。ああだとか、うんだとか、そんなことを吐き出したのかもしれない。夜陰を伴って二人の呼吸音のみに支配された部屋の中に、不恰好な賢木の言葉が投げ出されて、転がっていく。口ばかりは達者なはずなのに、こういうときだけは失語症になったかのような自分が許しがたかった。だが、そんな賢木に更に笑みを深くした皆本は、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔してるよと肩を揺らした。
 屈託なく純朴な皆本の言葉が体温が感情が、何度だって賢木の胸を撃ち抜く。皆本は気楽げに笑いながら、賢木の隣を慈しむが、賢木にとってそれら全てが同じ言葉であれ感情であったとしても、そんな気安く吐き出せるような類のものではなかった。与えられた言葉が、向けられた感情が、嬉しくて苦しくて唇を噛み締めて空回りするばかりの衝動をやり過ごす。
 繋いだ手のひらを強く握って、あいているほうの手のひらで皆本の頬に触れた。柔らかな頬は賢木の指先に馴染み、境界を曖昧にする。いっそこのまま一緒になってしまえればいいのにと考えて、その少女趣味の過ぎた思考を打ち払うように瞼を閉じた。視覚が遮断されてより近くに皆本の気配を感じる。甘いしびれを呼び起こすそれを誤魔化すように身じろぎをすると、賢木が身につけていたペンダントが揺れる。しゃらんという澄んだ金属音に皆本がその音源であるペンダントトップに触れた。
 まだ、つけててくれるんだなと、嬉しそうに皆本が言った。目を開いた賢木は、皆本が手にしていたアラベスク模様をあしらったシルバーの二連リングを見やった。しっかりと手入れされていると分かる光を反射するつやつやとした表面を撫でていく皆本の指先。ちゃんと、磨いてくれてるんだ。物持ちいいな。はにかむようにふわふわと揺れる声音からは、賢木がそれを愛用し大切にしてくれているという事実に、喜びを感じていることが伝わってくる。おまえがくれたものだからだよと、喉物までせりあがってきていた言葉を必死で飲み込んで、これ何にでもあわせやすくて重宝してるんだ、ありがとうなと無難なことを口にした。
 まだコメリカにいたころに、皆本が賢木さんの趣味にはあわないかもしれないですけどと、恥ずかしそうに差し出した誕生日プレゼントはずっとずっと賢木の胸元を飾り続けていた。物持ちがいいとか、重宝してるとか、そんな理由なんかじゃない。もっと切羽詰ったみたいにどろどろとした如何ともしがたい執着なのだ。今年は何をプレゼントしようかと笑った皆本の爽やかさと、相反するそれを飲み込んで、さあ何がいいだろうな楽しみにしてるぜとペンダントトップを握り締める。伝播した皆本の体温の名残が心地いい。
 自分だけを映し、自分だけをみてくれることが嬉しくて、そして賢木の行動が皆本の喜びへと繋がることが何よりもの僥倖のようで、ずっとこうならいいのにと子供じみた考えにいたって、思考まで幼くなったように吐き出した。優待券なんてどうだ。賢木の言葉の意味が分からぬように、首をひねった皆本に、だから皆本光一一日優待券だよと、名案だといわんばかりに賢木が自信満々に言った。しかし、賢木とは正反対に落ち着いた様子の皆本がそれってどういうことだよと、訝しげに眉をひそめた。どうもこうも、言葉どおりの意味だけど? おまえが一日俺の言うことをきくんだよ。なんだよそれ、子供みたいじゃないか。しかも何させられるか分かったもんじゃない。実行する前から渋るようにぎゅうと賢木のペンダントを引っ張った皆本に、誕生日なんだからサービスくらいしろよと賢木が頬を膨らませた。
 子供みたい。確かにそのとおりだと賢木は思った。何もし知らぬ無垢な子供のように、皆本を慕っている自分が、心の奥底に潜んでいる。まるでインプリンティングされたように、皆本から目が離せなくなってしまっている。
 皆本は、賢木を裏切らない。
 もしもそれに等しいものを与えられたとして、皆本から差し出されたものだというのなら、それを愚直にも信じ続けることが出来るはずだ。その解にいたったときに、呼気に紛れ込ませるようにあいしているよと、冗談のような軽さで呟いた。一瞬のうちに霧散していくそれらの一欠けらに、皆本が首を傾げて瞠目する。おまえだって足元から鳥が立ったみたいな顔してる。意趣返しのように茶化した賢木の頬を、皆本の指先が憎憎しげに摘み上げた。痛いやめろと、過剰反応のように笑って、衝動的に口にしたあいしているという吐露をなかったことにしようとする。だのに皆本は、逃れる賢木の尻尾を掴むように、言う相手が間違っているだろうと、言葉にした。
 嫌悪ではない、拒絶でもない、どちらかと言えば困惑であり混乱。せっかく賢木が皆本から逃れようとしたのに、皆本にも逃げるチャンスをあげたというのに、それを棒に振った皆本の朴念仁ぶりを素気無く思いながら両手を伸ばして柔らかな頬を包み込み、賢木の心のうちなど知りもしないであろう皆本の鳶色の瞳を覗きこんだ。間違ってねーよ。俺、皆本のことあいしちゃってるもん。それが自分の口から出たものだという実感は淡かった。それでも言い切ってしまった瞬間に、なかったことには出来なくなる。
 零れ落ちそうなくらいに見開かれた鳶色に、賢木はそんな顔するなよと困ったように笑った。それがいったいどんなものに変化していくのかを事細かに観察するのが怖くて、皆本をベッドに引きずり込むようにして、抱き寄せた。痛いだとか、やめろだとかいう非難の声が聞こえてくる。それが自分が皆本に送った言葉に対する返答だとしたらなんて考えたくはなかった。
 恐怖と幸福が一気に押し寄せてくる。だって、いま賢木の腕の中に、彼がずっとずっと求め続けていたものを閉じ込めることができていて、でもそれを失ったらと思うと、いやそんなこと考えたくないくらいに賢木は皆本光一という男に魅入られてしまっていて、切り札とするにも軽々しく、そして戯れの中の情愛にのみ使用してきた愛しているという言葉が、自分でも見苦しく切羽詰ったように賢木の喉さえ焼くみたいにせりあがって来たのだ。ああ、たぶん、愛しているってこんな気持ちなのだろうと、ようやく自我に目覚めた子供さながらに思った。
 賢木と、いつの間にか抵抗をやめた皆本が、中途半端にベッドに転がった寝苦しそうな状況で、自分を腕の中に閉じ込めている大きな子供の頭をなでた。僕だっておまえのことすきだよ。わがままを言う子供をあやすような、その言葉選びに、俺が言いたいのはそんなかわいらしいことじゃないのにと、皆本に分からぬように賢木は苦笑した。だが、そんな皆本の反応が彼らしくて好ましかった。
 真に賢木が伝えたかったことは、皆本に伝わっていないのだろう。たぶん、賢木のこの気持ちを理解することなんてできやしない。それくらいに自分が重すぎるものを自分の腕の中にいる人間に傾けていることは分かっていた。だが、それでも、そうだとしても、賢木が長きに渡る苦しみののちに取り返すことのできた愛しているという言葉が、皆本の中になにかしらの波紋をえがき残ってくれるというのなら、もうそれ以外には何もいらないのにとこの世で一番美しいものの名前を舌の上で転がした。




お題考えったーさまより
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13・07・30
13・08・15