最近付き合い悪いじゃないと詰まらなさそうに女は笑った。もちろんそれは、性別女性が有する高等テクニックのうちの一つで、額面どおりの笑顔という意味で取ってはいけない。どちらかといえば、笑いながら悪態をつくという、ただ嫌味をいうだけのもう一つ上の段階だ。しかし、付き合いが悪いも何も現在進行形で向かい合ってグラスを傾けあっているというのに、人聞きの悪いことを言わないでもらいたい。一瞬溢れそうになった不満を、絞られた照明の薄暗さの下に隠して、首をかしげて小さく笑みを浮かべる。たいていの女は、ちょっと笑ってみせると、あの仏頂面のシュージが私の前でだけは優しく微笑むのなんて、ころりと落ちてくれたりするのだが、もう付き合いも堂に入ってきたこの子はそんな子供だましみたいな方法であやすことができるわけもなく、ちょっと笑顔が強張ってるわよと欠伸をかみ殺しながら指摘されてしまった。
「なんだよ、別にいまさら浮気だなんだって騒ぐような仲でもねぇだろ。てか、俺最近ただれた関係を自重するようになった優等生なんだからな」
 テーブルに肘をついて手のひらに顎を乗せ、足を組む。行儀が悪いとたしなめられてしまったが、遠くの席では大学の学生達のドンちゃん騒ぎが始まっているというのにいまさらだ。俺よりもあっちで羽目を外しすぎて、明日には後悔することになる哀れな子羊たちに救いの手を差し伸べてやれ。
「だからそういうところが、付き合い悪いっていってんのよ」
 露草色の目を細めて、まさか気づいてないのと目の前にある重大な症例を見逃した学生を前にした教官のごとき振る舞いに、俺は一体何を取りこぼしてしまったんだろうかと頭を抱えるが特に思いつくものも無い。もしかしてと手を打ち鳴らして、俺の精一杯の思慮を吐き出した。
「なに、三人でしたいとかそういう高度なおねだり」
「その冗談は、過去最高につまらないわ」
 ダンと、彼女がテーブルの上にグラスを置いた。琥珀色の液体が波打ち、溶けかけていた氷がぶつかりあう。ついでにテーブルの下で、ヒールの爪先で向こう脛を遠慮なしにけりつけられた。痛みにうめき声を上げると、アルコールに濡れた紅色の唇がいい君よといわんばかりの嘲笑にゆがんだ。一応、蹴り付けられた場所を触診してみたが、特に何らかの外傷があるわけでもない。しかし、皮膚の奥から湧き上がる痛みはすぐに消えてはくれない。こんなことで生体制御を使うなんて空しい真似はしたくない。堪えるんだ修二と自分に言い聞かせて、彼女曰く強張っている笑みを浮かべながら、水滴に濡れたグラスを掴んで、喉を潤した。
「あなたが生簀に飼ってる女の子達が、さいきん遊んでくれないって嘆いてたわよ」
「おまえ、生簀はねーだろ。俺が殺される」
「なに、釣った魚には餌をやらない派? もしかしてもうリリースしちゃった後なの? 覚えてないのなら指折り数えて名前でもいってあげようかしら。どうしようもない人なんだから」
 重々しいため息をついて、まずと親指を折り曲げた彼女を慌てて止めると、逆に何よと睨みつけられてしまった。
「だからそういうことじゃねぇよ。根本的な意見の相違だ」
 真剣な顔をして非人間的なことをズケズケといってくる彼女に、俺のほうがたじろいでしまう。ただ俺は楽しく女の子達と遊んでいるだけであって、首輪を付けてるとか囲ってるとかそんなことをしているわけではない。決して。うん、絶対。違う。もしかして、こいつも他の女の子達に嫉妬してるのかと、手持ち無沙汰を紛らわせるようにテーブルを打ち付けていた指先に手を伸ばしてみると、急に触らないでと一蹴されたうえに手を振り払われてしまった。
「まあ、他の子たちが嘆こうが喜ぼうがどうだっていいし、私としてはただの飲み友達って感じだからいらない気を回さないでね。恋愛するなら一途な男がいいって決めてるの」
 あなただってそうでしょと揶揄するように笑って髪をかき上げた彼女は、一体何が楽しいのかも知らないがクスクスと肩を揺らしている。酔いも回っておかしくなってしまったのだろうかと不安になったが、まっすぐに背筋を伸ばして椅子に座っている姿は、いつもと変わらぬ理知的な雰囲気をかもし出していた。紡がれるコメリカ語も訛りもなくきれいなものだ。
「俺だって一途だろ? 向かい合ってる瞬間はその子しか見えてないんだ。いまはおまえしか視界に入ってない」
「それは物理的な視野と視覚の問題なんじゃないかしら。真正面向いてるのに、真後ろが見えてたら病院をオススメするわ」
「だーかーらー、いちいち混ぜっ返すな。だれが眼球と視神経の話してんだよ。なんていうの、気持ちの問題だって気持ちの」
 別の言語でも操ってんじゃないかと思うくらい意思疎通がスムーズに行かないこの状態に頭を抱えて、どう説明するべきかと脳内会議を開いていると、そういう浮気する男の言い訳って興ざめだからそれ以上喋らないで、あなたみたいな男って奥さんが浮気したりすると烈火のように怒ったりするのよね、本当に他人の振り見て我が振り直せって言ってやりたいわと、まだ訪れてもいない未来にまで物申されてしまった。一体俺の何がいけないというのか。どうしてだか瞼の奥が熱くなって目元を覆ってしまった。
「なに、こういうとき彼だったら、賢木さん大丈夫ですかって優しく慰めたりしてくれるのかしら?」
 グラスの端をなぞる白い指先が、テーブルの上に整合性のなさそうな模様を描いていく。そしてそれと同じように俺の頭の中も混乱していた。いつだってシュージと呼ぶこいつが、サカキだなんて鳥肌の立つような呼び方をするわけがなく、というよりもまあ俺が知る中でそうやって俺を呼ぶやつなんて一人しかいないわけで、ていうかなんでこの会話の中であいつの話が出てくるのかというわけで。知らぬうちに握り締めていたグラスがテーブルと擦れて硬質な音を奏でる。それを見つめていた彼女は、高みの見物を決め込む悪趣味な好事家みたいににやにやと俺を覗き込んできた。
「あなた、ああいうのはタイプじゃないと思ってたんだけど、いろんな意味で宗旨替えしたのね」
 艶やかな金糸の髪をくるりと指先にからめて、何でもなさそうに言った彼女に、へっと間の抜けた声を漏らしてしまった。だが、俺の反応などお構いなしに、大人しそうな外見の子だからあんまりもてあそぶのはやめておきなさいよとか、次の相手が男だって分かったら激昂して刺しに来る子もいるんじゃないかしら、月夜には気をつけたほうがいいわね、刺されたら私が処置してあげないことも無いと、至極勝手なことをのたまっている。そのすべての言葉の意味を理解するためには、かなりの時間をもってして彼女に向かい合わなければいけないだろう。
「ちょっと、ちょっとまて。ストップ」
 手のひらを彼女の前で掲げて、ハイスピードで展開していく机上の空言を止めると、怪訝な色をした露草色が俺を映した。
「どうしたのよ」
 どうしたもこうしたも、なんだか俺の知らないところで俺がすごいことになっている気しかしない。ここまでの流れを整理して考えると、俺が付き合いが悪いのは俺のことを賢木さんと呼ぶ人間の登場が関連していて、俺の周りで俺のことを賢木さんと呼ぶのはあいつしかいなくて、あいつというのはつまりあの果敢にもサイコメトリーを逆手にとったお説教をかましてくれた皆本光一クンのことで、俺はいろんな意味で宗旨替えしたことになっていて、えっと、ん? つまり? ここから導き出され答えは? あれ?
「おい、俺はホモじゃない」
「じゃあゲイ?」
「ちげぇよ!」
「バイ?」
「頼む、俺の分かる言語で話してくれ」
 懇願するように顔の前で手のひらを組んでがくりと肩を落とすと、我慢しきれなくなったみたいに彼女が笑った。お腹を抱えて目じりに涙まで浮かべているところをみると、俺は彼女によって遊ばれていたらしい。いや、そうだと信じたい。だが彼女の笑い声をかき消すように、学生の集団がわっと盛り上がりをみせた。気になったわけではないが、大きな音を立てられてしまうと、そちらを見てしまうのが人間の性というものだ。彼女もそうだったのか、わずかばかり気分を害したように苦々しい表情を浮かべて若さゆえの過ちを量産していく学生達へと目を向けた。
「あら、ずいぶんタイムリーね」
 組んだ手の甲に顎を乗せた彼女が、楽しそうに笑いながら言った。何がと問う必要もなく聞こえてきたのは、最近聞きなれたあいつの声で。何でこんなところでと、その声が聞こえてきた方を見ると、学生の一団の中に困惑の表情のまま勧められるグラスを押し返そうとしている皆本の姿があった。何人か見た顔があると思ったら皆本と同じ研究室のやつらの飲み会だったらしい。未成年だからと頑なに酒を飲もうとしない皆本を囃し立てるように周りが盛り上がっていく。こういうときは嫌がれば嫌がるだけ酔っ払いどもは悪乗りしていくというのに、適当にいなすことの出来ない堅物なところがあいつらしくてどうしようもないと呆れてしまう。
「ほんとうにどうしようもねぇな」
「どうしようもないのはあんたの顔よ。顔面崩壊してるわよ。気づいてないのかもしれないけど、人生謳歌してるみたいで安心したわ。でも、感傷に浸ってるみたいな辛気臭い顔よりは顔面崩壊してるほうがマシね」
「おい、どういうことだよ」
 鏡持ってこなかったことが悔やまれると舌打ちでもしそうな彼女に突っかかると、それよりもあっちが盛り上がってるわねと流されてしまう。完全に他人事で楽しんでいる彼女は、綺麗な弧を描いた唇を人差し指でなぞりながら、あなたの大切なお姫様が野獣に囲まれてるわよと、にんまりとけしかけてくる。ここで挑発に乗っては思うツボだとわかっているのに、誘惑に負けて皆本を見ると、鳶色の瞳と視線がぶつかって、レンズの向こう側で瞠目したのがわかった。同時に、賢木さんとあの聞きなれた声で、呼ばれたような気がしたのだ。完全に、俺の勘違いだというのは、分かっているが。
「悪い、ちょっと」
「あら、王子様は大変ね」
 テーブルに肘をついたままひらひらと手を振った彼女はもう全部分かっているからとでも言いたげな含み笑いのままに、どうぞ行ってらっしゃいと見送ってくれる。なんていうか、完全に絶対よくない方向へと解釈されている気がしないでもないが、ちらりと皆本のほうへと視線をやると、相変わらず酔っ払いにからまれていて、チラチラとこちらの方を気にしているようだった。軽く手を振ってみると、安堵したように胸を撫で下ろして、申し訳なさそうに笑う。
「もう戻ってこなくてもいいわよ。私このあとデートの予定があるから」
「なんだよ、俺振られちゃうの?」
「まさか、振られて傷心なのは私のほうよ。今日はあなたのおごりね」
 よろしくとグラスを揺らした彼女は、失恋の悲嘆にくれる女性とは思えぬほどの朗らかさではやく行きなさいよと俺を追い払う。ため息を飲み込んだまま、テーブルの上の伝票をポケットに突っ込んで、学生の一団に向かって、やあ皆本クンじゃないかと陽気に声をかけてやると、そういうところが付き合い悪いって言われる原因なんじゃないかしらと至極明るい彼女の声が背後から追いかけてきた。





13・07・23