薫が図書館で借りたまま返すことを忘れていつの間にかうちの蔵書となってしまった絵本を、気まぐれにめくる。隣で同じように本を読んでいる賢木は、医学書に目を通しているらしく珍しくもその横顔は真剣なものだった。
 週末でチルドレンたちは実家に帰ってしまい、ふだんは騒がしい我が家もがらんとしてしまっている。子供たちも成長し物も増えて、ちょっと部屋が狭くなってきただろうかと思ったが、こうして賢木と二人きりになってしまえばずいぶんと広く感じられて、なんだかそれが寂しかった。
 目を通しだせばすぐに読み終わってしまう絵本をペラペラとめくって最後まで読みすすめると、物語の結末には誰も悲しむことのない大団円がまちうけていた。むかし、とてもむかしに、寝物語に母が読んでくれた本の中では、お姫様たちの恋は報われて、王子様の愛は慈しまれて、スポットライトのあてられた主人公達はどんな困難があろうともそれを乗り越え、最後には幸せな人生というものが待ち受けていた。もちろん、成長していく中で、それは子供のために美しく改変された物語でしかなく、もっと、それこそ人間の業と世の中の薄汚さを露見させるような、偽悪的に斜に構えてみるのならば、何よりも疑いようのない真実を映し出したものもたくさんあるということを知った。
 だがそれでも、絵本の中に描かれたようなあの美しく色鮮やかな世界は、なんときらめいて見えたことだろう。欲しいと願い、突き進んだとしたならば、当然のようにそのご褒美が与えられて報われるというのだから。
 読み終わった本を閉じて、それを膝の上に置いたまま迷いないスピードでページをめくっていく賢木の手元に目を落とした。異国の言葉で書かれたそれは読めはするが、医療系の知識が足りないせいか完全に読解できるわけではない。仕事や研究で必要になってくるものなのだろう。黒茶色の瞳が瞬きを忘れたみたいに文字を追っていく。長い睫が目元に影を落として、真剣そのものの緊張感のあるその表情は、ふだんの陽気な賢木に精悍さを付加させていた。じっと視線を向けても気づかれぬのがなんだか悔しくて、距離をつめて賢木の肩に頭を乗せると、ようやく僕の存在を思い出したとでもいうかのように、賢木がページをめくる手を止めて黒茶色の瞳に僕を映した。
「どうかしたのか?」
「どうもしないけど」
 どうもしないけれども、何も用事がないというわけでもない。正直に、僕の相手をしないのが不満なんですといってしまえるほど、素直な性格でもない。むしろそんなこと恥ずかしくて口にする前に飲み込んでしまう。僕の気なんて知りもしない賢木は、じゃあなんだよと首をかしげ、すぐに本のほうに視線を戻そうとする。サイコメトラーなのに察しが悪すぎるだろ。というより、なにか用事がなければ僕が賢木の気をひこうとしてはいけないというのだろうか。いつもは頼んでもいないのに僕にちょっかいを出してくるくせに、そんなのは不公平だ。やけになって、賢木が夢中になっている本を取り上げて僕の持っていた絵本と一緒くたにして床に置く。すると、怪訝な表情をした賢木が、腹でも減ったのかと見当違いも甚だしいことを言った。
「べつにそうじゃないけど、こうやって二人きりになる機会はあまりないだろ?」
「なんだよ皆本クン。今日は積極的じゃないか」
 にやりと口角をあげて僕の肩を抱きこんだ賢木は、さっきまでの真面目さをどこかで取り落としたみたいにだらしのない顔をして僕の額に唇を落とした。一気に近くなる距離に、かぎなれた賢木のにおいが鼻腔をくすぐる。彼が愛用しているフレグランスと体臭のまじったそのかおりが心地よく、ああ賢木と一緒にいるのだなという充足感が僕の中を満たしていった。賢木の大きな手が僕の左手を絡め取って親指から人差し指、中指へと触れていく、そしてそれが薬指に触れたときに一際強くぎゅっと握り締められた。それは、言葉にするよりも確かに、けっして僕たちに与えられることのない繋がりを求めてもいるようで、賢木には知られることのないように唇を噛み締める。
「皆本?」
「なんでもない。きみのこと、すきだなって思っただけだよ」
「なんだよそれ、いまさらだろ」
 俺だってそうだよと落とされた言葉に、思わず瞼を閉じた。僕の左手をとりそして薬指に唇を落とした賢木は、すきなんだともう一度誰にでもなく吐き出す。薬指を撫でた濡れた吐息。たまらずに、賢木の肩に額を擦りつけた。
 僕だって、こいつのことがすきだ。いつだって僕の隣にいて、僕が苦しくなるくらいに僕のことを愛してくれるこいつのことが。きっかけなんてもうよくわからない。あと付けの理由ならばたくさんあるが、最後の最後まで突き詰めていけば、僕が賢木のことをすきなのだという事実があるだけだ。
なのに、ままならぬことが多すぎる。決していえやしないたくさんのことを抱えながら、周りを欺きながら、情を交わすことのなんと苦しいことだろう。少しばかりの障害は恋愛ごとのスパイスになるのかもしれないが、度を越えたそれらは舌を馬鹿にしてしまうだけだ。結局苦しみとなってのしかかるそれは、僕たちの関係を僕たち自身が否定するに等しかった。
 蕾見管理官は笑う。未来を変えたければ、チルドレンたちの誰かを選び関係を結ぶしかないと。
 そして、僕の知る未来予知は言う。いつか僕は賢木ではない人を愛するようになるのだと。
 その全てがいまこの幸福の上にのしかかり、世界から切り離されたように成り立つ二人だけで完結したこの関係を圧迫し、ぎしぎしと軋むような声を上げさせていた。
僕は僕自身の決断で賢木の隣にいることを選んだはずなのに、いつの間にか知らぬうちに引かれたレールが僕の選んだ道をいとも容易く上書きしてしまおうとする。
いま僕が身を費やすこの恋を、偽りだと嘲笑うようにちがう愛を強いていく。
 それら全てが、管理官の言葉が本音じゃないとしても、語られる未来が移ろいゆくものだとしても、それは違うことなく僕が、いや僕と賢木が結んでいる関係を否定するものだった。
 ねえ皆本と、賢木が耳元で囁く。応えるように首を傾げると、賢木の浅黒い指先が僕の眼鏡を外して、本の上へと置いてしまった。急にぼやける視界。傍にいるはずの賢木さえも覚束なくなる。瞼を閉じて少しでも視界をクリアにしようとしても、物がお互いに溶け合ったみたいにその境界が曖昧になっていく。
「隣にいるときぐらい、俺のこと考えろよ」
 甘えるような色を含んだその懇願に、それはこっちのセリフだと繋いだままの手のひらにぎゅっと力をこめた。その手を引いて、賢木の膝の上に乗り上げるようにして、距離を縮める。
「ばか。きみのことばっかり考えてるんだよ」
 自分でも、本当にどうしようもないなと呆れるくらいに。それがちっとも通じないのがもどかしくて、僕の心に影を落としていることを言葉にすることさえもできなくて、賢木の頬に触れてぼんやりとした黒茶の瞳を覗き込んだ。賢木の面に浮かぶのは驚きなのか、喜びなのか、それさえも分からずにたしかめるように顔を近づけると、そのままキスされてソファの上に押し倒された。身構えていなかったせいで勢いよく倒れこんでしまい、したたかに背中を打ちつける。非難するようにぎゅっと頬を抓ってやると、悪いと、悪びれもしない緩んだ口調で言われてもう一度強く抓りあげてやった。
「賢木、見えない。眼鏡どこだよ」
 探るようにソファの下に手をやった僕にさあと気のない返事をした賢木は、僕の手を掴んで握り締めると、そのままのしかかってくる。
「これで、問題ないだろ?」
 額がぶつかるくらいちかくまで顔を寄せた賢木は、僕の額と目元に唇を落とし軽く鼻の頭に歯を立てた。逃れるように抵抗すると、今度は唇に噛みつかれてそのままキスされる。啄ばむような口付けは徐々に長くなり、ぬるりとした賢木の舌が僕の唇をなぞりもっとと乞う。だから、空いているほうの腕を賢木の首筋に回して、そのまま噛み付くように深く口付けた。ぼんやりと滲んだ視界に、僕と賢木の境界が曖昧になっていく。交じり合った部分は融解して一つになってしまったかのようだ。
 荒くなる息を飲み込んで、酸素の代わりに賢木の舌を口腔に招き入れる。歯茎をなぞられ、上顎を舐めあげられて、その痺れに堪らず首筋にまわしていた腕に力が入る。そのまま舌を絡め取られて、嚥下し切れなかった唾液が口角からだらしなくこぼれていった。息苦しくなって賢木の肩を押し返して限界を伝えると、ようやく長いキスが終わってちゃんと息継ぎしろよと笑われた。僕が吸うべき分の酸素まで奪ったやつが何を言ってるんだと、睨みつけると、いつまでたっても皆本はこういうことに不慣れなんだからと、なにが楽しいのか知らないが至極嬉しそうな言葉がかえってくる。
「なあ、このままいいか?」
 さらにその先を求めるように囁かれた言葉。ダメ押しみたいに耳朶をかまれて耳殻を舐め上げられる。もれたのは強請るように鼻に掛かった声で、返事の代わりに賢木のシャツのボタンを外して、そのまま逞しい体を抱き寄せて露出した首筋に噛み付いた。
「なんだよ、本当に今日は積極的だな」
 くすくすと笑いを漏らす賢木に、噛み締める力を強くすると、苦痛を堪えるような声が鼓膜を揺らした。
 絵本の中で語られる物語のように、幸せなゴールが用意されているのかなんて知らない。彼女たちほど清く美しい恋愛に溺れているわけじゃない。もっと俗物的な、愛だの恋だののなかに情動だとか肉欲だとかそういうものを全部詰め込んでしまった、薄汚れたものなのかもしれない。
 周りの望む大団円にそむくような関係と、求められ、そしてそうなるはずだと囁かれ続けるものに背を向ける現状。でも、それでも、僕はこの男のことがすきだった。言いようもなくあいしていた。だから、周りの騒音から耳を塞ぐように、賢木の首筋に回していた腕に力を入れて、もう一度だけ強く首筋に噛みついた。まるで、そこに何らかの証でも残すかのように。








13・07・12