彼は、吸血鬼というものだった。
 いや、その表現は正しくない。彼は、賢木は、吸血衝動を持つ人間だった。ヴァンパイアフィリアやヘマトフィリアの類ではない。そうしなければ生きていけない、たとえば物語の中で語られる、夜闇に紛れて美しい女性の寝室に入り込み、その部屋の主を籠絡してあまやかな匂いのする血液を欲する吸血鬼のような性を持っていた。
 それを揶揄し、彼であり彼らを吸血鬼と呼び嫌悪するものもいる。だが、賢木は厳密に言えば吸血鬼ではなく超能力者で、その能力を行使しすぎると喉の渇きを覚え、空腹の時に食事を求めるように、普通人の血液で渇きを満たそうとするのだ。
 何故、能力を発露することにより吸血衝動が発生するのかというメカニズムはわかっていない。だが、仔細が解明されていない彼らのみが持ち得る、そしてその能力の根元である超能力中枢に何らかの関係があり、その影響により体のバランスや構造自体が変化するのではないかというのが通説だった。
 吸血衝動は超度が高くなるほどに強まり、超度1であれば実生活になんの支障もきたさないが、超度5以上ともなれば、能力の使い方次第によっては酷く堪えがたい渇きに襲われる。それに併せて、同じ人間に牙を突き立てその血を啜らなければならないという生々しさに自らを嫌悪し、その習性に自分は人ではないものに成り下がったのだと悲観する能力者も少なからず存在していた。その傾向は能力の発露する年齢が高くなるほどに強くなる。
 もちろん、能力者に罪があるわけではない。僕たちが生きるために呼吸し、ほかの生き物の命をいただかなければならないように、彼らもまた僕たち普通人の血を啜らねば生きていけないのだ。そこに貴賤はなく、ただそうしなければ生きていけないという純然たる事実が横たわっているだけだった。
「うー、だめだ限界! 喉かわいたよぉ!」
 暴れ出す寸前のような薫の声が、バベルの廊下に木霊した。大きく背伸びをして、渇きからくる体の疼きを散らそうとした薫を窘めるものはいない。いつもならば、乙女目指すんじゃなったのと突っ込みを入れる葵と紫穂も薫に同意するように、ごくりと喉を鳴らした。
 大規模な事故の救助活動のために駆り出されたチルドレンたちは、能力をフルに活用してけが人を救出し、これ以上の二次被害が発生することのないように尽力していたのだ。普段よりも思い切り力を使ったせいでかなり喉が渇いているのだろう。バベルに帰還するまではなんとか薬で散らしていたようだが、もう我慢の限界らしかった。
 僕が経験したことのないその苦しみは、薫曰くもう一年も水のんでないようなそんな感じということだから、かなり苦痛の伴うものだ。本当はこのあと、精密検査の方に回らなければならないのだが、それよりも渇きを満たす方が先だろう。
「柏木さんに頼んで、検査室に輸血用の血液を用意してもらっている」
「さすが皆本はん。気ぃきくわ」
「ほんとだわ。どこぞのセンセイとは大違いね。今日の現場にもきてなかったみたいだし」
「賢木はこっちの方で受け入れたけが人の処置に奔走してたんだ。滅多なことを言うもんじゃない」
 いつもの調子で賢木に噛みつく紫穂を注意すると、彼女としても思うところがあったのか、少し言い過ぎたわと珍しく申し訳なさそうに呟いた。嗜める気持ちはあっても必要以上に責めるつもりはなかったので、空気を変えるように三人の顔を見回して検査室に行ってまずは休憩してくるんだ、お疲れさまと微笑む。薫と葵は嬉しそうに頷き、紫穂は僕の怒ってないよという信号を感じ取ったのか、安心したように緊張させていた体をゆるめた。
「皆本はこないの?」
「ああ。僕は報告があるから、それが終わったら合流する。検査も担当が賢木じゃないと思うから、迷惑かけるんじゃないぞ」
 みているだけなら百点満点の笑顔でうなずいた三人は、それじゃあと僕に手を振ると、葵のテレポートで一気に検査室まで移動していった。
 かしましい三人が消えたことでしんとした廊下に、新しい足音が響く。聞き慣れたそれに振り向くと、予想を裏切ることなく、いつもよりも少しだけくたびれた印象のある賢木だった。
「よぉ、おまえらが戻ってきたっていうから顔見に来たんだけど、すれ違いだったか?」
 いまさっきテレポートした三人の姿を探すように視線を巡らせた賢木。彼の言葉に首を縦に振ると、せっかくきたのにとわざとらしいくらいに重々しいため息をついた。
「救急の方は落ち着いたのか」
「ちょっと前にな。俺の手に掛かれば、全員元気になって退院間違いなしだ」
 得意げな賢木の言葉に嘘はない。日本有数どころか世界有数といっても過言ではないサイコドクターである賢木の手にかれば、いかなる病状や外傷といえども一般の病院に運び込まれるより生存率は格段にはねあがる。それくらいに、賢木の透視能力と生体制御は医療に特化したまさに天賦といってもいいものだった。
「かなり生体制御を使ったんだろ、君の方は大丈夫なのか。無理とかしてないだろうな」
「もちろん。ちょっと疲れたくらいかな。薬も飲んできたし」
 相変わらず心配性だなと笑う賢木の顔には隠しきれない疲労がにじんでいて、黒茶の瞳はやけにギラギラとしていた。破顏したときに見えた犬歯も八重歯というには鋭すぎるくらいに伸びていた。すべては吸血衝動に苛まれているときにでる症状だ。薬などでは抑え切れていないのだろう。それを嫌というほどに知っている僕の前で意地をはる賢木が許せなかった。
 やり場のない怒りをぶつけるように握りしめていた手に、遠慮がちに賢木がふれる。どうかしたのかとのぞき込んできた土色の瞳は、渇きを満たしてくれるものを望む吸血鬼のように本能を殺しきれない爛々とした光を宿していて、その苦しみをいまも堪えているのになんで僕なんかの心配をしているんだと殴ってやりたくなった。だから、伸ばされた手を乱暴に掴んで一番近くの男子トイレに賢木を引っ張り込んだ。
 賢木は、どうしたんだよ腹でも痛いのかと訳のわからないことをいっている。ここでサイコメトリーを使用しないのが、彼が酷い渇きに襲われている何よりもの証拠だった。
 僕たちを歓迎するように一斉についたトイレの電気。一番奥の個室に賢木を押し込んで、僕も入り込み鍵を閉めた。個室に大の男二人は少々苦しいものがあるが、緊急事態だからしょうがない。ジャケットを脱いで便座の蓋の上に置いて、ついでにネクタイもはずしてしまう。
「薬、きいてないんだろ」
 ワイシャツのボタンを外して肩を露出さて賢木の前に差し出すと、慌てたように浅黒い手のひらに止められてしまう。だが、その一瞬、賢木がごくりと生唾を飲み込んだのを見逃さなかった。
「平気だ。かなり強いの使ったから、そのうち効いてくる」
「うそつき」
「うそじゃねーよ」
「意地っ張り」
「意地でもありません」
 突っぱねるように言い切った賢木は、風邪引くから服を着ろ、おまえに露出狂の気があるなんてガキどもが知ったら泣くぞと混ぜっ返して、無理をしているとわかるいびつな笑みを見せた。口元は三日月を描くのに僕を映すのは捕食者の瞳だ。
 人間の血液に似た成分を組み合わせて作った擬似血液のような、飢えを満たし渇きを癒す薬はあるが、現行のそれは高超度の能力者には大した効き目がない。能力を使いこなし吸血ではなく精気を吸い取ることによって渇きを癒す能力者もいるが、賢木はその類ではなかった。さらに、吸血行為を嫌い輸血用の血液すら口にしない。前者も後者もサイコメトリーにより強く持ち主の気持ちや思念を意識し、それを身の内に取り込むのが不快だというのだ。紫穂はそれを乗り越えたが、賢木はずっと厭い吸血衝動の方を押さえつけてきた。
 だが、僕は違った。誰の血液も受け付けなかった賢木が、僕の血だけは直接であれ間接であれ飲むことができるのだ。ならば、ためらう必要などどこにもなかった。失血死するほどに吸血されるわけでもない。親友が、賢木が困っているというのなら血を差し出すくらいなんてことなかった。
「アルコールも摂取してないし睡眠もしっかりとった。健康診断でも血はサラサラだって言われたから、問題はないと思うぞ」
「論点はそこじゃないだろ」
 賢木が僕の血を飲まないことに苛つくように、賢木も僕が身を差しだそうとすることが苦々しくて仕方ないようだった。それは何度も繰り返してきたこの儀式めいた行為の中で嫌というほどに実感してきた。それでも僕は、賢木の渇きを癒すという役目をやめるつもりはなかった。
 苛立たしげに髪をかき乱した賢木を抱き寄せて後頭部に手をやり、無理矢理僕の首筋とご対面させる。やめろとか、平気だからともがいているがそんなの知らない。賢木が平気でも大丈夫でもないことをよく知っているのが賢木自身ならば、二番目は間違いなく僕だ。
「賢木、はやく」
 耳元に囁くようにして、拘束していた手を強める。ごくりと唾液を嚥下する音が個室に響いた。動きがなかったからだろう、トイレの電気消えて薄暗い中で、賢木の瞳だけがやけに艶やかな色を宿していた。生ぬるい呼気が首筋を撫でる。まずくないから、問題なんだろと途方に暮れた声の後に、ぬるりとした舌が僕の首筋を舐めとり、血管の上をたどっていく。そのくすぐったさに身を固くすると、力を抜けと窘められてしまった。何度も何度も噛みつかれたせいで、もうそこには、消えない傷跡が残っている。
「痛かったら言えよ」
「ああ」
 僕がうなずいたのを見届けた賢木は、首筋を優しく甘噛みすると、その噛みあとを癒すように舐めとり、再度歯をたてる。それがじらされているようでもどかしくて、はやくしてくれと懇願するように賢木の頭を抱き寄せた。すると、僕の動きを関知して消えていたはずの電気がつき、目の奥でハレーションを起こす。それに目眩さえ覚えた瞬間に鋭い牙が皮膚を突き破り、ゆっくりと肉をさかれる。
「うっああ」
 痛みは、ある。だが、それは短いあいだだった。賢木が牙を突き立てた場所からじんわりとした痺れが広がり、痛みよりも心地よさが強くなる。血を吸い出される感覚に思わず恍惚としたため息が漏れた。
「んっ、さかきっ」
 答えるように、僕に突き立てられていた牙が一際強く噛みしめられ背筋を痺れが走る。賢木の黒髪を掴んでそれをやり過ごすと、徐々に血の抜けていく感じに足下がふらついた。咄嗟に賢木が僕の体を壁に押しつけ、またの間に膝を入れて倒れるのを阻止してくれる。被虐的思考や性癖を持ち合わせているわけではない。だが、この行為はこわくなるくらいに心地のいいものだった。
 賢木が血を飲む度にそれを嚥下する音がする。ちらりと首元をみやると、母の乳を吸うような必死さで賢木が僕をむさぼっていた。その倒錯的な光景に、何ともいえない高揚を感じる。くらりとした頭にそろそろ限界を感じて賢木の背中を叩くと、ずるりと牙が抜けていく解放感に喘ぐような声がでて、唇をかんだ。賢木は名残惜しげに傷口を舐めとり甘噛みをして、もっとを望むように低く掠れた声で僕の名を呼ぶ。だが、これ以上は無理そうだった。まだ目眩の引かない頭とふらつく足下に、ついに壁伝いに床に座り込んでしまう。
「ごめん、もう無理」
 倒れ込む僕をみて、賢木は慌てたように僕の前にしゃがみ込んで、手早く診察してくれる。血が足りないだけだから大丈夫だというと、それが一番の問題だとおこられてしまった。
 さっきまでの捕食者の顔はなりを潜め、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「おまえ相手だと、こうなるってわかってるからやなんだよ」
 唇を噛みしめた賢木は、薄い唇に僕の血の残滓を感じ取ったのか、一滴も無駄にはしないというかのように、真っ赤な舌で舐めとり、そんな自分に気づいてさらに顔をしかめた。
「悪い」
 怒られる直前の子供みたいに情けない顔をした賢木の頬に触れ、微笑む。何故謝られるか、わからなかった。いま賢木が嚥下した血が、賢木を生かす一部となっていくというのなら、それは僕にとって何よりも愛おしい喜びへとつながっていた。そしてそれが僕にのみ許された行いだとするのなら尚更。だからそのまま、頼りなくなく寸前みたいな賢木を抱きしめて僕たちの距離をゼロにする。
「僕の血なんていつだってやるよ。嫌なんかじゃないから。おまえになら、賢木になら平気だよ」
 噛んで含めるように囁いた言葉に賢木の肩が揺れ、すがるように僕の首筋にたくましい腕が回された。
 賢木の渇きを癒すことができるのは僕だけだ。こいつは、僕だけの吸血鬼なのだ。そのなんと甘美なことだろう。賢木にとっての僕の血のように、酷く甘い味をしているに違いなかった。








13・06・23