全体的に廊下が薄暗く見える。人の気配がなく、窓の外の藍色に染め替えられた夜空を引きずっているからかもしれない。日付が変わる少し前、窓枠に切り取られた空にも、街の明かりと競うように星が瞬いている。それら全ての影響で、見慣れた医療研究課のフロアだというのに、どことなく空々しい他人行儀な雰囲気を感じさせた。ポツポツと飛び石で室内灯の灯りが廊下に漏れているさまは、夜の学校にも似ている。
残業での仕事を片付けて、特務課の方で同じく残業をしている皆本を覗きにいくとデスクにあいつの姿はなく、在所を知らせるプレートには不在という表示の隣に、研究室にいるというメモが残されていた。こんな時間に誰が見るわけもないのに律儀なやつだ。どうせここまできたのだからと、仕事を終わらせた開放感も手伝って足取りも軽く目的地を研究室へと変更する。
チルドレンたちがまだ小学生だったころには、できるだけ帰宅時間を早くするため残業を控え、シフトも彼女たちに合わせたものになるように調整していたようだが、中学生になって留守を任せられるようになったことで、もともとワーカホリックの気のあった皆本は残業の量も休日出勤の量も増えるようになっていた。もちろんそれは、徐々に彼女たちに任せられる任務が増えたことによるそれらの案件の残務処理や、皆本自身が責任ある立場なったことで仕事の絶対量が増加したという単純明快な理由もあった。だが、それを生き生きとこなしている段階で、まああいつが仕事人間であるということは変わりないのだろう。
最初は不満を見せていたガキどもも、皆本が本当に忙しいのだということを知り、少しずつ譲歩を覚え亀の歩みではあるが徐々に広い心を持って家の仕事もこなしているらしかった。ただ、時々、我侭というか子供らしい甘えというか、まあそれらをひっくるめた不満を爆発させて、皆本の胃を苛んでいる。微笑ましいといえばそうなのかもしれないが、同病相哀れむではないけれども、同じく公僕としてこき使われている身としては、その理不尽な責め苦に涙を誘われることもある。
研究室がいくつか並んでいるフロアには、不健康なことにバベルを根城にしているんじゃないかと疑いたくなるような職員もいるのだが、それぞれの部屋から漏れる明かりがその存在を知らせてくれているだけで、誰ともすれ違うことはなかった。皆本が在所を明らかにしていた研究室の前で立ち止まり、ドアの小窓から中を覗き込む。しかし、あいつの姿は見えない。だが、部屋の電気がつけられているので、ここでなにごとかをしているのは確かなのだろう。
IDカードを使ってドアのロックを外し、失礼しますと小さく呟いて部屋の中に入る。反応はない。ぐるりと部屋の中を見回すと、奥のブースのパソコンのモニターが煌々とした光を放っていて、そのデスクに突っ伏すようにしてダウンしている男の姿があった。リノリウムの床を蹴るたびに小気味良い音が響くが、それに反応することもない後姿は、疲れ果てたサラリーマンそのもので思わず苦笑してしまう。
隣のデスクから椅子を拝借して、夢の世界へと旅立っているワーカホリックの隣に陣取る。ご丁寧にもスーツの上から白衣を羽織った皆本は、眼鏡をかけたまま眉間にしわを寄せて高尚な哲学者か何かのような寝顔を見せていた。
モニターには皆本が心待ちにしていたであろう解析結果の表示へ進むかどうかを問う画面が映し出されていて、それを急かすようにカーソルがカチカチと点滅していた。最近残業や出動がかさんでいたようなので、解析結果が出るまで少しの休息を取るつもりが、そのまま意識を失って手ぐすね引いていた睡魔に身を任せてしまったのだろう。
起こすべきか否か。難しい問題だ。眉間にしわを寄せていることを思うと、こんな格好では寝苦しいのかもしれない。というより、仕事のスケジュールが押しているが故の残業であるはずなのに、貴重な時間をこのような睡眠で浪費していいのかという配慮の気持ちと、疲れてるみたいだし少しだけ休ませてやったほうがいいんじゃという良心的な気持ちがせめぎあう。とりあえず、このままだと眼鏡のフレームが歪みそうなので外してやろうと、手を伸ばしたことでもう天秤の結果は出てしまったのかもしれない。
どうしようもないくらいに皆本に甘い自分を意識しながらも、それを皆本が相手だから仕方ないと言い訳にもなっていない理論をもっともらしく掲げながら、起こしてしまうことのないようにそっと見慣れたフレームに手を伸ばす。まるで、悪戯でも仕掛けるようなくすぐったさに自然と頬が緩む。ある種の高揚さえ感じながら、眼鏡のつるをつまんでゆっくりと外した。小さな寝息を漏らした皆本に、もしかして起こしてしまっただろうかと眼鏡を手にしたまま固まるが、ゆっくり十数えても瞼は閉じられたままだった。それに胸を撫で下ろして、眼鏡を邪魔にならない位置において皆本を覗き込んだ。
やはり眼鏡がないと全体的に幼い印象になる。起きているときに眼鏡を外していると、どうしても目を細めて少しでも視界をクリアにしようとするせいか、目つきが悪くなっているから、寝顔ともなればなおさら年齢よりも幼いものを感じさせた。
俺自身も、医者として第一線で働くには若すぎるという自覚と、事実そうであるという認識を持っているが、二歳年下の皆本もまた、このバベル内を見回してみても彼が挙げてきた成果とその立場を思えば、あまりにも若すぎる天才だった。皆本にとっては、ずっとずっと若くして最前線に立ち続けることが当たり前だったのかもしれないが、その後姿や横顔を傍で見続けてきた俺からすれば、疲れてしまわないのだろうかと不安になることがある。いや、もしかしたら不満、なのかもしれない。それがチルドレンたちが抱くものと同種であるかどうかなんて知らないし、知りたいとも思わない。だが確かに、もっと隣にいる俺に頼ってくれてもいいのにと、親友という立ち位置に身を置くにしては少々過保護な気持ちが首をもたげることがあった。それを彼女たちのように声高に口にするには、俺は歳を重ねすぎていたし、感情のままに身動きを取れてしまうほどの幼さはとっくの昔に捨て去ってしまった。
ゆっくりと手を伸ばして、乱れている黒鳶色の髪に触れる。反応はない。それに安堵したような、物足りないものを感じるような。柔らかなそれを指先でもてあそびながら、キャスターを転がして皆本との距離を詰める。俺の気配が馴染むのを待って、そろりと頬へと指を滑らせた。寝不足のせいかかさついた肌。こんなところで寝るくらいなら、さっさと仕事を切り上げて仮眠室にでもこもるべきだ。いっそ起こしてしまおうかと思って、皆本と口の中で転がしてみても、返ってきたのは何語なのかもわからないうめき声だった。何ヶ国語かを自由自在に操る皆本ならば、俺にもわからない言語での寝言である可能性もあるなと真面目ぶったことを考えてみて、そんなわけないかとすぐに否定する。
せっかく皆本をからかってやろうと思ってここまできたというのに、寝ている相手をからかっても意味がない。つまらないものを感じながら、きゅっと皺の寄った眉間を押さえてやると、悪戯が過ぎたのか、今度こそ緩慢な動きで手を振り払われてしまった。キィと皆本が座っていた椅子が乾いた音を立てる。ひくりと瞼が痙攣して、んっと小さな声がもれ聞こえた。ああ、今度こそ起こしてしまっただろうかと、悪事が露見したように居た堪れないものを感じると同時に、鳶色の瞳が開かれることを心待ちにしている己を飲み込んで息を詰める。
「うる、さい」
吐息にまぎれるような皆本の声音はかすれていて、最初何を言われているのかよくわからなかった。そうっと指を離して詰めていたままの呼気を吐き出すと、もう一度皆本の声が鼓膜を揺らした。
「さか、き、うるさ、い」
うるさいもなにも一言も、いや一言くらいしか言葉を発していないのだが、これはどういうことなのだろうか。無言を貫いていると、途切れ途切れのだまれというお言葉までいただいてしまった。しかし一向に皆本が目を覚ます気配はない。皆本クンと小さく呼びかけてみても、返ってくるのは寝息だけだ。
ということは、これは寝言ということでいいのだろうか。
優しくも眼鏡を外してやって隣で安らかな睡眠を見守ってやっているというのに、うるさい黙れとは理不尽だ。更に付け加えるなら、一体どんな夢を見ていることやら。皆本の夢の中の俺は、さぞかし皆本を困らせて不興を買っていることなのだろう。その事実に、笑みが漏れる。本当にどうしようもない。たったそれだけのことに、まるで皆本を独占できているような気がして、緩む頬を押さえ込むように口元を覆った。
もっと頼ってくれたっていいのにと思うと同時に、もっと俺のことを見てくれてもいいのになんて、小学生の仲良しごっこの延長線みたいな独占欲じみたものが顔を覗かせる。だが子供なら仲良しごっこで終われたであろうものも、もうごっこ遊びを卒業したいい歳した大人が抱え込んでしまっている分だけ始末に負えない。
ガキであることをやめたはずなのに、ことに皆本に関してだけはどうにもこうにも子供みたいな自分が存在している。それを否定しどうしようもなく我侭な自らに頭を抱えてしまった時期もあったが、結局どこにも打ち捨てることが出来ないままに身の内に抱え込み、いつのまにか血肉に紛れ込み馴染み深いものになってしまった。
友情にしては欲深く、かといってほかに与えるべき名を知るよしもない。いや、知りたくもないといったほうがいいのだろうか。これ以上深みにはまっていくのは怖かった。たくさんのものを押さえ込んで諦めて、いや諦めたふりをして、捨て去ってきた反動みたいに、それが唯一のものであるとでもいうみたいに、二進も三進もいかない執着を抱いてしまっていることに気づかぬほど冷静さを失ってしまっているわけではない。もういっそのこと自己分析などできないくらいに参ってしまっていたのなら、もっと苦しまずにすんだのだろう。
「なあ、皆本?」
俺をこんなにもかきたてるくせに、何も知りもしないで夢の中の俺にかまけている皆本を憎らしく思いながら吐き出すと、返ってきたのは意味を成さない寝言だけだ。
いったん白衣を脱いで、下に羽織っていた薄手のジャケットを皆本の背中へとかける。あと少しだけ寝かしてやろう。どうして起こしてくれなかったんだと怒られても、こんなところで寝るなよと呆れてみせれば適当に誤魔化すことができるはずだ。
皆本も疲れているからという大義名分を振りかざして、本当はもう少しだけ俺だけの隣にいてくれる皆本を堪能したいという、チルドレンたちに負けず劣らずの我侭だったのかもしれない。
13・06・01