言えないことばかりが増えていくと、賢木修二はそう思った。
 彼の一等大切なものの隣にいるほどに、言えないことが、吐き出せない想いが増えていく。
 最初はその秘め事に、己が気づいていなかった。そのころが一番しあわせだったのかもしれない。混じりけもなく純粋に、大切なものの隣にいることができたのだから。でも、何を切っ掛けにしたのかはわからないが、並々と満ち満ちていたものが、彼の大切なものが賢木の中に絶えること注ぎ続けていたものが、どうせ潤うことなどないだろうと決めつけていた器をいとも簡単に満たしてしまった。それどころか、もういいというのに、賢木はある種の悲鳴さえ上げていたのに、まだ足りないだろうと笑顔で注ぎ続けるのだ。
 そのあたたかなものに直に触れた瞬間に、賢木は悟った。もう、行き着くとこまで、たどり着いてしまったのだろうと。決して、言葉にすることは叶わぬだろうが、賢木修二という男は彼の親友である皆本光一のとこをあいしてしまったのだろうと。
 言えるわけがなかった。それを臆病だと笑うことは簡単だが、同じ性を持つものへの情愛など切り捨てられることが常だ。そして、言葉にしてしまえばもうなかったことにはできない。
 賢木は皆本をあいしていた。あいしているなんて言葉じゃ足りないのかもしれない。あいし、尽くし、殉教者のごとくすべてを捧げてもいいと思っていた。だから、諾々とただ抱き続け、肥大する想いを抱え込んで自己愛に陶酔し続ける己にある種の嫌悪と慈しみを覚える閉塞感と苦しみよりも、皆本を失う恐ろしさの方が言葉にできない空恐ろしいものを感じさせた。
「コーヒーでいいか?」
 向かいの椅子に座ってなにやら本を読んでいた皆本が立ち上がり、せめてもの確認事項のように尋ねた。肯定しか返ってこないということは、二人の積み重ねた時間の中で分かり切っていた。それでも様式美のように聞いてみせる皆本の気遣いが、賢木にとっては好ましかった。
「ああ。頼む」
 賢木にこくりと頷いた皆本がキッチンの方へと姿を消すと、食器棚を開けたり陶器がこすれたりする音が聞こえてきた。そこへきて、ようやくこの部屋が深い静寂に包まれていたことに気づいた。賑わしいことの多い皆本の家だが、その元凶であるチルドレンたちが眠ってしまえば、火が消えたようにしんと静まり返る。皆本の本質はこういった静のものなのかもしれないと、賢木はぼんやりと思った。
 こなしていた書類仕事の手を止めて、皆本が目を通していた本を拝借する。紐しおりはもう終わりがけのページに挟んであって、そこを開くとなにやら男女が話している場面だったがそこだけは話の全体像など掴むことはできない。触れていた指先に力を込めてサイコメトリーを働かせようかとしたときに、ふと目を落とした一行が賢木の目を奪った。
「もう、あなたのことが好きなのか、あなたを好きな私が可愛くて愛おしくて捨てられないのかも、よくわからないの」
 ページに触れていた褐色の指先に能力ではない力が込められる。その不自然な力の根元がいったい何であるのか、賢木は知りたくなかった。知りたくないくせに喉が渇いて、冷たくぼんやりとしたものが心のどこかに影を落としていく。
 もう、それが外へ向けたものなのか、我が身を慈しむように中に向けたものなのか分からないという苦しみには、覚えがあった。
 それでもやめられない。思い続けることのみが、存在証明のようにすら感じられるのだ。そこに捧げた時間が長く、献身が最たるものであるほど、我が身に抱え込んだ想いを断ち切ることが苦しく、そして怖くなるのだ。それを断ち切れば、いままでのすべてが無に帰すようにすら感じられた。
「それ、薫が学校で借りてきたんだ」
 マグカップを手にして戻ってきた皆本が、賢木の手の中にある本に目をとめて笑った。意外だろうと漏らした皆本に嘲りの色はないが、たしかに外でかけまわり元気いっぱいに遊び回っている印象の強い薫がといわれると、先ほどの一場面からだけでも信じがたいと言うか似合わないという気持ちが強い。
「で、なんでおまえが読んでるんだよ」
「テーブルの上に置きっぱなしになってたからなんとなく」
 席にかけ直した皆本は、熱いから気をつけてと言って賢木にマグカップを差し出す。礼を言って受け取った賢木は気のないふうに本を閉じて書名を確認する。作者は聞き覚えのある恋愛小説家で、裏表紙に学校の管理用のバーコードが張り付けられていた。
「もうすぐ読み終わりそうだな。最後だけ見てもわかんなかったけど」
「まぁ、賢木には縁のなさそうな話だったよ」
 揶揄するように笑った皆本に、賢木は自分がうまく笑い返せたかどうか自信がなかった。差し出された本を受け取った皆本は、よくある話だったかなと求めてもいない書評をくれた。そうかと、なんでもないように言った賢木の声は掠れていて、暗く沈んでいた。
 賢木には縁のなさそうな、ちまたに溢れたよくある話。ラベリングしてしまえば、心を締め付ける苦しみさえもそのように画一化されてしまうのかと思うと、漠然とした曖昧模糊な悲しみの後にいっそ笑いさえこみ上げそうになった。
「きみも気になる?」
 賢木が熱心に皆本の手元を凝視しているから、勘違いしたのだろう。だが、そんなものを読まなくとも、字面を追うのみより生々しく、賢木はそのちまたに溢れた片恋の苦しみを味わい続けていた。
「いや、いい。たぶん俺、そういうの純粋に楽しめるたちじゃねぇもん。皆本クンほどロマンチストじゃないんでね」
 にやりと口角をあげて、恋愛ごとに奥手な皆本を茶化して、彼のよく知る賢木修二を演じてみせる。すると皆本はレンズの向こう側で鳶色の目を細めた。
「きみほど恋多き男じゃなんだ。むしろ、賢木はもう少し落ち着くべきじゃないのか?」
「酷い言い草だな。俺ほど一途で情熱的な男はいないぜ?」
「どうだか」
 肩をすくめて呆れの表情を見せた皆本に、賢木の胸の奥が、心臓よりも深い場所が悲鳴を上げた。なんてひどい男なのだろうかと。
 皆本の笑った顔がすきだ。正しすぎるくらいに正しい正義を掲げる高潔さがすきだ。決してあきらめることなく邁進する強さがすきだ。人の傷を理解し努めて優しくあろうとするその心根がすきだ。いつだって賢木に躊躇うことなく触れる白い指先がすきだ。皆本光一という人間の在り方とその存在そのものをあいしていた。
 決して言えやしない、募るばかりのそれ。言葉にしなければ存在しないに等しいそれ。皆本がよくある話だと笑ったそれは、いまの賢木を作り上げ、いまの賢木を突き動かすのだ。
「よくある話ってのがさ、何だかんだで大衆にうけるんだよ。共感が得られるから」
「たしかに。一理あるな」
 もっともらしい表情を作って意見を述べた賢木に皆本は深々と頷き、興味深そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。せめて共感がえられたのなら、賢木の気持ちも報われるのだろうか。知りもしないくせに、いや知りもしないからこそ無垢な残忍さで賢木の想いを切り捨てようとする皆本の心に何らかの揺らぎを与えることで。
「たしかに、切なくはあるんだよ。報われてほしい。すきだからしあわせになれるわけでもないけど、自分を投げ出すくらいに相手を愛し、慈しんだというなら、その人にもハッピーエンドを迎えてほしいな」
「だろ? 皆本クンはお優しいからなぁ」
「すぐに賢木は、そうやって僕をからかうんだから」
「違うって、まじそう思ってるんだよ」
 不満そうな皆本の頬に触れて機嫌直せよと呟く。もちろん、本当に気分を害したわけではなく、これもまた戯れの一部なのだ。
 優しい、優しい、皆本。報われてほしいと願うのならばいっそ、俺のことも愛し受け入れてくれないかと、言えやしないくせに、言えやしないからこそ、伝わりようもない自分勝手な思いを指先に託して、賢木は本の背表紙をなぞっていた皆本の白い手に触れた。








13・05・28