最初はグーと威勢のいい声がリビングに木霊した。その掛け声に合わせて、向かい合っていた賢木と紫穂が殴りあう直前のような遠慮のなさで拳を突き出す。すでに敗者として、この戦いを去った薫と葵は、ただならぬ雰囲気を発している二人を固唾を呑んで見守っている。ごくりと二人が喉を鳴らしたのと、ジャンケンぽいと低く艶のある声と、幼さを残したしとやかさを感じさせる声が重なったのは同時だった。
「くっそ! おまえサイコメトリーしただろ!」
「変な言いがかりはやめてよね。そういうの負け犬の遠吠えって言うのよ。知ってる?」
 グーを出した賢木は、悔しそうに唇を噛み締めて、パーを出して勝者の笑みを浮かべている紫穂に突っかかる。紫水晶の瞳には、敗北してなお、いや敗北したからこそ歳甲斐もなく言いがかりをつけてくる賢木に対する嘲りが見え隠れしていた。その援護に入るように、リビングの中央で行われていた大一番をソファに座って観戦していた薫と葵が口を開いた。
「約束は約束やん。なあ、薫?」
「そうだよ! 最初に言い出したのはセンセイなんだから、潔く負けを認めないとね」
 口惜しそうに床にはいつくばった賢木に得意げに追撃を放った二人は、紫穂の勝利を祝うガッツポーズと満面の笑みで優越感を噛み締める。完全なる敗者のオーラを出している賢木は、己の惨めさを嘆くように舌打ちをした。
「おまえら二人は俺に負けたんだから黙ってろ」
「うわー大人げな。うちら三人にセンセイで勝ち抜きで勝負挑むってきめたんはセンセイやろ? 余裕のない男はきらわれるで」
「駄目よ葵ちゃん! そんな本当のこと言っちゃ!」
 まるで己の心が痛むとでもいうかのように胸元を押さえて眉根を寄せた紫穂。それはもちろん額面上のものを表すような心温まるものではなく、賢木を更に追い込む名優紫穂のお芝居だ。打てば響く鐘のごとく、ようやく自分の失言に気づいたふりをした葵は、口元を押さえて小さく頭を振った。
「ごめんな、センセ。ほんまのこというてまって。ウチそんなつもりはなかったんや」
 両手で顔を覆ってひくひくと肩を揺らして泣きまねをはじめた葵に、隣に座っていた薫がいたわるようにその肩を抱いて優しく諭す。将来エスパーの女王として君臨するという予知は真なのだろうと頷きたくなる迫真の演技だ。
「人間、誰にだって間違いはあるよ。賢木センセイだってわかってくれるはず」
「そうよ。まさかそんな、あの賢木センセイが中学生の女の子に向かって大人気なく怒りをぶつけるはずがないじゃない」
「せやろか」
「そうだって! 絶対大丈夫だよ!」
 顔を上げて、涙に潤んだ瞳で薫と紫穂を見た葵に向かって、二人は力強く頷く。もちろんそうだよねと同意を求められた賢木は、目の前で演じられていた茶番劇を尻目に、どこにぶつけていいかわからない苛立ちうを解消するかのように勢いよくフローリングの床を殴りつけた。
「このクソガキどもがっ!」
 血を吐くようなその叫びに、いままでキッチンにいた皆本が顔を覗かせる。エプロンで手を拭いながら、一種異様な雰囲気を放っている四人を視界に収めた皆本は、自らの家のリビングでいったい何が起こっているのかと首をかしげた。だが、唯一つこれだけは絶対だろうとレンズの奥の鳶色の瞳を瞬かせ、疲れ果てたようにため息をついた。
「おまえら、なにくだらないことしてるんだよ。さっさと切り上げて、三人はお風呂に入れ。賢木は暇ならこっちの手伝い頼む」
 賢木の深い悲しみをくだらないと切り捨てた皆本は、助けを求めるように皆本の名を呼んだ賢木に背を向けてキッチンへと戻っていく。唯一の理解者にさえ一蹴されてしまったと床と仲良くなった賢木を尻目に、はーいと元気よく返事をしたチルドレンたちは、明日の休みは皆本さんを独占できるね、買い物に連れてってもらおうよと、きゃあきゃあと楽しそうに週末の計画を立てながら賢木の隣を通り過ぎ、お風呂へと向かっていった。そのテンションの落差はまさに天国と地獄。置き去りにされた敗者は仕方なく立ち上がると、重々しいため息をついてキッチンへと一歩を踏み出した。


「結局、何してたんだよ」
「俺に冷たい皆本なんて知らない」
 賢木は、食器乾燥機から取り出した皿を手渡しながら不思議そうに尋ねた皆本にぷいとそっぽをむいて、食器棚へとそれをしまいこんでいく。与えられた仕事は真面目にこなすところに、彼の律儀さが現れているようだった。しかし、その拗ねた子供のような振る舞いに半眼になった皆本は、呆れ滲ませた声で子供相手にむきになるなよと機械の力できれいになったマグカップを賢木に手渡した。
「うるせー、俺にとっては重要なことだったんだぞ」
 勢いよく閉じられた食器棚。バンと大げさな音がキッチンに響く。その残響に重なるようにあーあという悲壮さを感じさせるため息を漏らした。心のそこから悲しみにくれているようなその態度に、さすがの皆本も不安になってきたのか、食器棚に手を付いて黄昏ている賢木の黒茶色の瞳を覗き込んだ。
「そんなに大事なことだったのか?」
 黒茶の瞳を瞬かせた賢木は、言葉もなく小さく頷くとそのまま皆本の体を抱き寄せて首元に顔を埋める。突然のことに体を驚かせた皆本も、どこか追い詰められたかのような神妙な面持ちの賢木を振り払うことはできなかった。皆本は投げ出したままにしていた手を、躊躇うように賢木の背中に回し、優しく艶やかな黒髪を撫でる。すると賢木は皆本を抱きしめていた腕に力を入れて、これは自分のものであるとするかのように腕の中に閉じ込めた。
「あいつら相手に勝ち抜きジャンケンしてたんだよ。薫ちゃんと葵ちゃんには勝ったのに、最後の最後で紫穂ちゃんにやられた」
 ぼそぼそと喋りだした賢木。しかし皆本には、それがどういった意味合いを持つものなのかよく理解できなかった。いや、ジャンケンの三本勝負だったことはなんとなくわかる。しかし、彼女たち三人に負けてしまったことと、ここまで賢木が落ち込むということが上手く繋がらずに腑に落ちない。
「別にいいだろジャンケンくらい」
「よくねーよ! 明日のおまえがかかってたのに!」
 皆本は全然わかってないと、ばっと顔を上げて皆本の肩を掴みがくがくと揺らした賢木。賢木の必死さを理解できないどころか、いつの間にか自分が身に覚えのない渦中の人物になっていることに納得しかねる皆本は怪訝な表情を浮かべて咳払いをした。
「まて、どうしてそこで僕が関係してくる」
「だって、おまえをかけた勝負だったんだもん」
 そんな当たり前なことをいまさらと平然とした賢木とは対照的に、皆本は一瞬動きを止める。そのタイムラグの間に彼の優秀な頭脳がどんな結論をはじき出したのかを知るすべはないが、がくりと肩を落として賢木の腕を振り払った。
「勝手に人を賞品にするな、もうわけがわからなさ過ぎて、一体何がわからないのかもよくわからない」
 手のひらで顔を覆って、二酸化炭素以外の何かが多分に含まれた呼気を吐き出した皆本は、ずれた眼鏡を掛けなおして、どうしようもない子供を見るような目を賢木に向ける。諦念なんだか呆れなんだかわからないものを言外にされた賢木は、皆本に対抗するように唇を尖らせて仁王立ちをする。
「あいつら全員に勝ったら、一日おまえを独占するって約束だったんだ。どこぞの眼鏡のワーカホリックの付き合いが悪いから、俺がこんなに必死になってるんだろ。それくらい分かれよ」
 それが世界の常識であるとでも宣言するような賢木の態度と、遠まわしなくせに直球な嫌味に皆本も腕組みをして冷たい視線を投げかけて応戦する。
「なんだよその僕が悪いみたいな言い方。仕方ないだろ、忙しかったんだし。彼女たちの面倒を見ることだって立派な仕事なんだ」
「じゃあ俺に付き合うことも仕事の最後に付け加えとけ」
「はぁ? そんなの仕事にはいるわけないだろ。なんだ、賃金が発生するのか?」
「うわぁ、なにおまえ。友情をお金で計ろうとするの? いつの間にそんな汚い子になっちまったんだよ」
 賢木はああ嘆かわしいねと、演技過剰に天井を見つめ額を覆った。明らかに皆本を非人間的であると責めるその態度に、皆本もカチンときたのか眉根を寄せて低く不機嫌そうな声を漏らした。だが、既にスイッチの入った賢木はとどまることを知らない。
「あーあ、俺はこんなに皆本クンのことを大切にしてるっていうのに。理解されないなんてつらい」
 立て板に水とばかりにすらすらとよどみなく話す賢木。それを止めるみたいに皆本がダンと床を踏み鳴らした。
「なんだよ、君だってこの間、僕との約束ドタキャンしただろ!」
 皆本は肩を怒らせて賢木を睨みつける。そのとげとげしい声音は、完全に怒気を含んだものだった。しかし、賢木は賢木で負けるものかと一瞬だけ気おされた自分を打ち消すように皆本との距離を詰めて射抜くような視線を向けた。
「あれは仕事だったんだからしかたねぇだろ」
「へー仕事。ふーん。君ががんばってるから差し入れでもって見に行ったら、女の子たちに囲まれて楽しそうに話してたみたいだけど、趣味と実益を兼ねた仕事で随分とお忙しいご様子だな」
 蔑視と怒りとさらには大人気なさを含んだ皆本の反論に、賢木は何のことだよと記憶を辿るように宙を睨む。その間にも皆本はまだ言い足りないことがあるようで、頬を膨らませたままそっぽを向いてふんと鼻を鳴らした。
「あの日はどうしてもおまえと出かけたかったのに。君だけが我慢してるわけじゃないんだからな!」
「ばかやろう! 俺だって我慢してんだぞ!」
 売り言葉に買い言葉。もう水掛け論以外の何物でもない。そしてただの子供の喧嘩のそれはリビングにまで漏れ聞こえていた。いつの間にかお風呂から出てきていたチルドレンたちは、お互いにお互いのことが大好きなんですと好意の押し付け合いをするような言い合いを右から左に聞き流しながら、本当に嫌になっちゃうわと一人前の女の顔で苦笑を交わす。あんなにも壮絶な告白を受けながら、たまには皆本を独占させてくれなんて笑い話にもなりはしない。







13・05・05
13・05・26