昼食を終えて研究室に戻ると、ドアを開けた瞬間に怒声が耳に突き刺さった。とはいってもそれが何を表す言葉なのかはわからない。ただ抑揚なく激しくまくしたてるような声音だったから、怒鳴り声だと推測することができたのだ。私が部屋に入ったことで中断されるかと思ったそれはしかし、怒りの第一撃のあとも、しずしずと流れるように続く。その静けさが、声の主の怒りだか呆れを如実にしていた。
 ブラインドの開けられた窓から、柔らかと言うよりはトゲトゲとした昼間の日差しが差し込む。それを受ける窓辺に立った日本人二人がこの喧嘩というか、お説教の主役だ。どちらもこの大学に籍を置いているのなら、知らないものはいないと思えるほどの有名人だろう。
 片やこの研究室に名を連ねている稀代の天才コーイチ。もう一人は、医学科で異端視されながらもESPと医療の融合という彼の特質をいかした希有な研究をぶち上げて教授陣の関心を得ている秀才のシュージ。
 しかし、向かい合って何事かを言い合っている二人は、周りから与えられた肩書きに似合わない幼さだとか、大人げなさを見せていた。特に、いつもは温厚で誰に対しても等しく優しくあろうとするコーイチが仁王立ちになって肩を怒らせ、何かをまくし立てるなど未だかつて見たことがない。だが、コーイチの方だけがそうなのかというと、そういうわけでもなく、学内では揉め事を起こすことが多く暴力沙汰や女性問題で悪い噂の絶えないシュージも、普段は手負いの獣のようなピリピリとした雰囲気だとか獰猛な印象を受けることが多いのに、コーイチの前ではどこか下手に出るというか、完全に怒り心頭のコーイチに対してこれ以上彼の地雷を踏み抜くことのないように大人しく、しかし言い訳やら主張をしているらしかった。
「あら、盛り上がってるみたいね。退室したほうがいいかしら?」
 私に向けられた二対の瞳から逃れるように軽く肩をすくめて冗談めかして聞いてみると、ようやく正気に戻ったらしいコーイチが自分の怒りを恥じるように口元を覆い、怒りの原因と思わしきシュージに射るような視線を向けた。シュージはシュージで、ばつが悪そうに目を泳がせてたじたじだ。だが、コーイチのお説教が強制終了させられたことに、やっと厄介ごとが終わったと安堵しているような雰囲気もあった。それをコーイチも機敏に感じ取ったのか、舌打ちとともにサカキサンと地を這うような声を漏らした。完全に私の知ってるコーイチじゃない。
「いえ、すみません。ちょっとヒートアップしちゃって」
「ちょっとじゃなくてかなりだろ」
 申しわけなさそうに謝ったコーイチにシュージが唇を尖らせて茶々を入れる。するとダンと地面を踏みしめるような音がして、シュージが床に座り込んでぎゃあと間の抜けた叫び声をあげた。机に隠れて見えなかったけど、なんとなく推測するに、まぁつまりはコーイチがシュージの足を踏みつけたということなのだろう。やっぱり私の知ってるコーイチじゃなくて、そんな二人に乾いた笑いが漏れる。
「あんた反省してないだろ!」
「皆本クンの有り難いお説教を三巡ループくらい聞いたのでもう骨身にしみたよ。すんげぇ反省してる。まじ今世紀最大級の反省をした」
 コーイチは、信じてくれよと追いすがるように肩をつかんでのぞき込んだシュージの顔面を遠慮なしに押しのけ、後三回は同じ説教をしないと分からないみたいですねと吐き捨てる。さっきまでの日本語とは違い、私が乱入したことで彼らの頭のスイッチがコメリカ語に切り替えられたのか、やはりお説教の最中だったのかと知ることができた。
「こんどはいったい何をしたの。温厚なコーイチをここまで怒らせるのなんてあなたくらいよ」
 中断していたレポートの続きに戻るために、自分のデスクに腰掛けてパソコンを操作しながら二人を見やると、たぶん諸悪の根元であろうシュージはうっと黙り込こみ、コーイチはわざとらしくため息をついて半眼のままに彼を見た。向けられ続ける白い目。無言の圧力に屈するように、しぶしぶシュージが口を開く。
「ふ、不幸な事故だ」
「不幸なのは僕でしたけど?」
「俺だって十分つらかったんだよ!」
「完全に身からでた錆ですよね?」
「そこは勘違いだって。だって誰が想像するよ、まさか帰った途端、家の前で女の子たちがいがみ合ってるなんて」
 そのときの情景を思い出したのか、胃痛を堪えるように腹を抱えたシュージ。しかしコーイチは腕を組んでシュージに冷たい視線をプレゼントするだけだ。ちなみに、パソコン本体のボディに映りこんでいる私の顔も相当酷いものになっていると思う。
「参考までに何人?」
「まぁ、三人ほど」
 シュージはわかりやすく視線を逸らすと、ぼそりと私の質問に答えた。
確かに三人というのは想像を絶している。プレイボーイというか女好きというか、そういった意味で名を馳せているシュージならではなのか。如何様にすれば三人がはちあうなどという、背筋の寒くなる状況を作り出してしまうのだろう。常人には理解しかねる。もう既に、女の子に同情すべきか、シュージに同情すべきかの判断にも迷うところだ。
「で、そのときあなたはどこにいたのよ」
「皆本と一緒に俺の家に移動してる途中だった。こいつが晩飯作りにくるって話になってたんだよ」
「それって、四人はちあってない? コーイチもいれて」
「俺も交えると五人だけどな。あれはやばかったわ。見慣れた我が家の玄関が地獄の入り口みたいだった」
「ケルベロスも三つ首だっけ」
「おまえ、人事だと思って!」
 なかなか興味深い符合にうなり声をあげると、床を蹴りつけたシュージが声をあらげた。残念ながら人事にほかならない。しかし、渦中の当人にとっては血で血を洗う悲惨な戦いだったのだろう。シュージは頭を抱えて苦悩の表情を浮かべた。コーイチも視線を逸らしてずれてもいない眼鏡のブリッジを押し上げている。
「彼女たちの中に僕を交ぜないでください。ただでさえ巻き込まれて散々な目にあったっていうのに。泥棒猫なんてののしられたの初めてですよ!」
「それはまた、なかなか名誉なお言葉を送られたみたいで」
「茶化さないでください」
 拳を握りしめて前のめりで睨みつけてくるコーイチは、なんだか背後にものものしい雰囲気を背負っている。私までとばっちりを食らったことを責めるようにシュージに視線をやると、すっと自然に顔をそらされてしまった。
「だいたい、何がどうしたら三人はち合わせるような悲劇が起きるのよ」
「予定管理がままならず、少々手違いがあって」
「どんな手違いがあったら三件もかぶるんですか! まずそこからたださないとあんたそのうち刺されますよ!」
「刺されても一応それ用の対策はあるから安心しろ」
 大丈夫だと自信満々に断言したシュージの頭を、無慈悲なコーイチもの手のひらがはたいた。なかなかきれいな音がなったので、相当本気でいったのだろう。その気持ちもよくわかる。暴力反対と叫び声を挙げているシュージこそが、暴力よりも残忍な方法で世の女性たちを傷つけているのではないだろうかと思わざるを得ないことがある。
「だから! 刺されたときの対策より! 刺されないないようにしろっていってんだよ!」
 目に角を立てて怒鳴りつけるコーイチの声が研究室全体をぐわんと揺らした。怒鳴りつけられたシュージはびくりと体を揺らして、両耳をふさいでいる。
「み、皆本、怒鳴らなくても聞こえる」
「聞こえただけじゃ意味ないでしょ! 意味を理解して己を省みてください。だいたいが、同時並行で三人の方とお付き合いをするなんて、相手の方にも失礼だと思わないんですか。まずはあなたの貞操観念に重大な欠落があります、そこについて話し合うべきかもしれません」
「そこについては何度も協議した結果、衝突という忌むべき結果しか生まれないって経験則で学んだだろ!」
「いいえ! 絶対に僕があなたを更正させてみせますから! 決してあきらめないでください!」
 コーイチはシュージの両肩をぎゅっと掴んで一緒に頑張っていきましょうと、熱い眼差しを向けた。熱血教師と生徒の図のようで、一瞬ここがどこなのか分からなくなってしまう。しかし、シュージの方はシュージの方ですでに論点がずれ始めている現状に、ええ、でもなぁと歯切れも悪くなんとか必死に逃げようとしているのが伝わってくる。たぶん、他の人間がこんなふうに彼の領域に無遠慮に踏み込んでいったとしたら躊躇いもなく追い出されるのだろうが、真にシュージのことを思い、友人として向かい合うコーイチに押し負けそうになっているようだ。シュージらしくないシュージとコーイチらしくないコーイチに、思わす笑いをあげてしまう。すると、感動的な場面を演出していた二人が怪訝そうな表情でこちらを見た。
「どうした、気でもおかしくなったか?」
「最近忙しかったから疲れですかね?」
 そろいもそろって失礼な言いぐさだ。デスクに頬杖をついて、二人を見回すとさらに首を傾げる。当人たちは真面目なのかもしれないが端から見ればただのじゃれ合いみたいだ。
「あなたたち本当に仲良しよね。もういっそ、コーイチがシュージに首輪をつけて予定管理どころか躾からお世話まで全部してあげたら? 案外真っ当に更正するんじゃないかしら」
 勢いで考えたにしてはなかなかの名案に、これはかなりオススメよと手を打ち鳴らすと、呆然とした二人がぱちぱちと瞬いたまま私を凝視している。思考をストップさせてしまった二人は、わずかな沈黙の後にようやく再起動を果たしたようだった。先に私の言葉を理解したらしいシュージが眉根を寄せて反論する。
「おい、冗談やめろ! そんなことになったら俺は生きていけない!」
「な、なんですか失礼な! 僕だってあなたの面倒なんて、あれ? いやでも。ここで僕が頑張ったら、もしかして」
 シュージの言いぐさに気分を害したのか、勢いよく突っかかっていったはずのコーイチはしかし、話しながら新たな可能性に気づいたのか、悩むように腕を組んで顎に手をやり一人で思考の世界へと入り込んでいく。だが、すぐにばっと顔をあげたかと思うと、怖いくらい生き生きとした表情でシュージを見た。あまりのその威勢の良さに、シュージは一歩後ろに身を引く。なんだか、シュージの表情が引き攣ってるのは気のせいだろうか。
「賢木さん!」
「な、なんだね皆本クン」
「僕があなたを変えてみせます! あなたに偏見ばかりを押しつける人たちを見返してやりましょう!」
「いや、あのな皆本。ちょっと落ち着けってば」
「あなたの研究ややろうとしていること、能力、どれをとっても素晴らしいんだ、それが正当に評価されないなんておかしいんです!」
 俄然やる気になって熱意を遠慮なしにぶつけるコーイチに、シュージは喜んでるんだか驚いてるんだか煮え切らない表情と態度で何事かをもごもごと呟いている。この学内でコーイチを怒らせることができるのがシュージだけだとしたら、シュージをこんなに追いつめることができるのもコーイチだけなのだろう。
現にシュージはコーイチの言葉がうれしくて、その好意を否定しきれずに狼狽えたまま、要領を得ないことばかりを言っている。コーイチはコーイチで、シュージのためならと必死だ。すでにスタート地点からゴールまでが複雑混迷の迷路となったようだが、お似合いの二人だということは変わらないのだろう。犬も食わないなんとやらを横目にあくびをかみ殺してレポートと向き合うと、シュージの恨みがましげな一瞥をいただいてしまった。むしろ、コーイチのやる気を引き出してあげたんだから、感謝てほしいくらいだわ。







13・05・26