甲高い、しかし不快ではない少女期特有の柔らかな声音が賢木の耳朶に触れた。食卓に座ったまま持って帰ってきていた書類を広げていた彼は、ただその音に引き寄せられるように、食卓よりも奥にソファと向かい合って設置された大型のテレビに視線を遣る。
 映し出されているのは、ニュースやバラエティー番組などではなく、どこかのジャングルと思わしき3Dのフィールド。現実世界のように緻密に、そして緻密であるからこそ人工的でしかない大樹の奥からふらふらとグールだとかゾンビだとかそういった訳もなく悪として排除される敵役になるために生まれてきたようなモンスターが顔を覗かせた。するとまた、悲鳴。その発信源はソファに三人寄り添いあって座り、びくりと肩を揺らした超度7のチルドレンたち。しかし、それは悲しみに鳴くなどと悲惨なものではなく、どちらかと言えば高揚を共有し楽しむことを前提とした、スパイスのようなものだった。
 薫ちゃん右! えっ、撃ってるよ! あかんて、それ右やなくて左! 後ろからもきたで! 嘘やだ死んじゃう! 皆本が死んじゃう! 
 女三人よれば姦しい。それを体現したかのような三人に、頬杖をついて冷やかし半分で様子を見ていた賢木も、思わず笑いを漏らしてしまう。当事者の三人からすれば真剣に画面の向こう側にのめり込んでいるのだろうが、その熱を共有し得ない部外者からすればそのリアクション自体が微笑ましくも滑稽だ。盛り上がってるなぁと一人ごちると、いま画面の中で命の危機に瀕していたはずの皆本がマグカップを二つ手にして、キッチンからリビングへと移動してきた。
「いったい僕になにが起こってるんだ」
 賢木が腰掛けている椅子の背中側に立った皆本は、入れたばかりのコーヒーを賢木に差し出しながら呆れ半分で笑った。それを受け取った賢木も、さぁなと口角を上げ唇を三日月にしたまま肩をすくめる。
「右のはずが左に狙いを定めてる間に、後ろから襲撃を受けて死にそうらしいぞ」
「それはなんとも危機的状況だな」
 神妙な顔をして腕を組んだ皆本は、目を細めて大画面に映し出されている死闘を興味深そうに眺めている。マグカップに口を付けてコーヒーを嚥下した賢木もつられるようにテレビへと視線を遣った。注目されているとは知りもしない薫たちは、臨場感あふれる叫び声をあげながら、なんとか首の皮一枚でつながっている状況から脱出しようともがいている。なかなか健闘しているのは嘘ではないらしく、訳が分からないながらに戦いの行く末を見守っている皆本は、本人も知らぬうちに手にしていたマグカップを握りしめていた。
 まず主人公に皆本という名をつけるか否かで、大舌戦が巻き起こったのだが、いつの間にか根負けした皆本は既にこの状況を受け入れてしまっている。それどころか、この反応は満更でものと言うことなのだろうかと、漏れそうになった笑みを誤魔化すように口元を覆う。
「賢木、助けてあげたらどうだ。ああいうの得意だろ?」
「いやいや、ここは皆本クン自らが動き出すべきじゃねぇの? 死にそうらしいし」
「実践ならまだしも、ゲームは自信ないな」
 皆本は自らの手に馴染んだベレッタの感覚を思い出すかのように、利き手の手のひらを閉じたり開いたりする。皆本もそしてサイコメトラーである賢木(そういった補正を抜きにしてもだが)も、彼女たちが興じている仮想現実でよりも、実戦での射撃の腕前の方が覚えがあるくらいだった。普通ならば逆だろうと、少々凡庸とは言い難い己等に顔を見合わせて肩を揺らした。二人は、子供たちの見せ場をとるわけにはいけないよなと、結局お互いが危険な橋を渡る必要もないという結論を導き出して、無邪気な三人の背中を見守っている。
 スピーカーから聞こえるモンスターのうめきと銃声。そこに重なる少女たちの声。そして、賢木の隣に立っている皆本。穏やかとは言い難い血なまぐさいものも混じり込んでいるが、賢木は、まさかそれらが自分に違うことなく与えられたのであると信じがたく思うことがあった。
 食卓に広げたままの書類は賢木に処理されることを待ちわび、彼にしか成し得ない仕事と居場所を与えてくれる。たしかに、バベルでは彼にしかできない彼が求められる仕事が山積みだった。ゲームに夢中になっているチルドレンの主治医として、また彼女たちの先輩として、彼女たちは賢木を受け入れ、賢木との間に時間だけでは計りきれないものを積み重ねてきた。そして、皆本は、賢木にとっていつだって自らを排斥し続けていたものの代名詞ともいえる普通人である皆本は、当たり前のように賢木の隣に立つことを選び、一心に変わることなく、いやむしろ、お互いを知るほどに深く、相互間で信頼というものを築いてきた。今この瞬間だって手が触れようが肩がぶつかろうが嫌悪感一つ伝わってこない。それどころか、ぶつかってごめんなどという謝罪の言葉が返ってくるのだ。
 念動力、空間移動、接触感応能力と並べれば、一番嫌厭されるであろうサイコメトラーの、さらに超高度の人間を隣に据えて、当たり前のように振る舞い触れられることを恐れず、なんの偏見も持たない人間が、いま賢木のことを信頼し信用し、二人の間には強い結びつきがあるというのだ。そのあまりの僥倖に、これは夢なんじゃないだろうかと、疑いたくなることさえあった。
 たとえば、こんな夜。賢木の前にあるのはいつだって孤独だった。
どれだけひとときの恋に身を費やしたって、切ることを前提とした縁は、その虚しさを浮き彫りにして、賢木をさいなむ。そして、その一夜限りの夢から覚めるたびに、触れるだけで多くのことを知り尽くしてしまう手のひらには、多くの感情の残像が通り過ぎていくだけで何も残らぬのだと、己の身の内に宿した能力が異形のものでしかないと突きつけられた。だからこうして、自分の居場所を見つけ、誰かに必要とされ、そして理解者を得ることができるなど、子供の頃に描いた自身を知らぬが故に、残酷な現実を知らぬが故に、高らかに惜しみなく打ち立てることのできる、かなわぬことが前提の夢のようにさえ思えるのだ。
 それを意識するたびに、自分に与えられたそれらが何よりもいとおしいもののように感じられて、たまらなくなった。泣けばいいのか笑えばいいのかもわからない。うれしいのに、くるしい。胸の奥がじんじんと疼く。賢木はそれを堪えるように、隣に立っていた皆本の脇腹に軽く頭を預けると、子供たちの戦いの行方を追っていた皆本が賢木を見下ろして不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「いや、どうもしねぇけど、なんか、日本帰ってきて結構経つけど、まだおまえと一緒にいるんだと思うと感慨深くてさ。大学卒業したら疎遠になるなんて結構あることだろ」
 しみじみと口にした賢木に、皆本は怪訝そうに目を細めてどういうことだよと問うた。だが、賢木にしてみればどうもこうも、言葉のまま裏も表もありはしない。ただただ、まだ自分が皆本の隣でこうして全幅の信頼を寄せられ、また己も純粋に皆本を信頼し隣に並んでいられることが至上の解のように尊く万感の思いがせり上がるばかりだった。
 初めてであったとき、挑発したのは皆本だった。だが、橋渡しをするように殴りかかったのは賢木だった。求めたのか、求められたのかはよくわからなかった。それでも確かに、賢木の手のひらには皆本から透視みとった、そして流し込まれた気持ちの片鱗たちがたくさん眠っていた。もう今更、それらすべてを無にするなどかなわないし、そのあたたかさを捨てて凍える夜を乗り越えることなど不可能だった。そこまで強くなど、強がれていたころになど戻れるわけがない。
 触れている部分から伝わる体温以外のあたたかさに瞼を閉じた賢木は、密やかに二酸化炭素に言葉にならない気持ちを練り込んで吐き出した。
「まぁ、これからもよろしく頼むぜ皆本クンってことさ」
 瞬く鳶色の瞳。黙り込んでしまった皆本を茶化すように笑った賢木の黒髪を、白くしなやかな指先がくしゃりとなでた。子供にするようなそれに、賢木が抵抗して逃げようとすると、今度は意地になって肩に腕を回され抱き寄せられる。椅子の背もたれがに押しつけられる形になって痛みもあるのだが皆本はそんなことお構いなしだ。
「痛いって、どうした皆本?」
「これからもよろしくはこっちの台詞だからな! 絶対疎遠になんてなってやるもんか」
 強い、どちらかといえばつっけんどんともとれる口調。だが、それが皆本の照れ隠しであり、彼が吐露した気持ちの強さのあらわれであるということを賢木は知っていた。
 保護者の立場で大人であろうとする皆本の、子供っぽい振る舞いに賢木が笑うと、笑うなとたしなめる言葉が返ってくる。疎遠になどなるつもりはない。たぶん頼まれたって離れられない。その選択をためらうことなく選べる時期などもう過ぎてしまった。だのに、それを危惧するようなことを言う皆本がおかしくて仕方がなかった。心配することなんてなにもないのに。
 やった! 皆本が生き残った! 賢木センセイもたまには役に立つじゃない。いや、あれはウチらが操作うまくできてへんくて、助け呼べとらんかっただけなんやないの? 呼ばれなくても助けにくる気概を見せろってことよ。紫穂、それは無茶ってもんや。
 賢木と皆本の間に落ちた奇妙な沈黙を打ち破るように、生還に快哉の声をあげた子供たち。それぞれ名を呼ばれたことで、賢木と皆本は顔を見合わせ苦笑する。主人公は皆本。相棒は賢木と勝手に名付けられているらしい。ゲームの中でまできみと一緒なのかと笑った皆本に、そうだなと同意する賢木。これは長いつきあいになりそうだと漏らすと、本当になと優しい声音が落ちてきて、鳶色の瞳が細められた。
もしかしたら、これをしあわせなどと言うのだろうかと、己には不似合いな考えが賢木の脳裏をかすめていった。





13・05・25
13・05・26