すまし顔で廊下を闊歩する。こういうときには堂々としたほうが看破されにくいのだ。いや、僕のヒュプノに気づかぬぼんくらばかりが集まっていることだろうから、警戒する意味もないのかもしれない。
あまりにもあっけなく突破できたセキュリティに、他人事ながら、バベルのザル警備に不信感を持たざるを得ない。退屈紛れにもしかして罠かと深読みしてみて、その意味のなさに欠伸をかみ殺した。暇つぶしのために、過保護の気のある心配性の目を盗んでここまで出張してきたというのに、ここでも暇を持って余すとはもう少し骨のあるところをみせてほしい。ネクタイを直すような振りをして、詰め襟の胸元で苦しそうにうごめいている毛玉もといモモンガを押さえつけて窘める。京介ヤメロと、威嚇混じりに反抗的な態度をとられた。小賢しいことこのうえない。ここが敵陣まっただ中じゃなければ、床にたたきつけてやるのに。
 顔見知りと思わしき人間とすれ違うたびに軽く黙礼されるので、まあこの善意が服を着て歩いているような男なら、間違いなく笑顔で会釈を返すだろうと予測して、満面の笑みまでサービスして軽く頭を下げた。やけに女たちいが色目を使ってくるのだが、このロリコン偽善者のどこにそんな魅力を感じるのだろうか、理解に苦しむ。こいつがもてるというのなら、うちの真木や葉なんて大変なことになるじゃないか。もしかして、かけているショボい眼鏡が知る人とぞ知るイケてるデザインとかそういうことなのか?
 不二子さんと皆本が留守にしていると聞いてわざわざ遊びに来てやったのだ、少しくらいは楽しませてもらわないともったいない。ザルにも失礼なくらい、警備する気もないんじゃないかと思えるようなバベルから抜き取ってきた図面を脳裏に思い描き、一番からかいがいのありそうな人間がいる場所を見当づける。久しぶりに女王たちの顔も見たかったが、まだ学校に行っているのだろう、その気配は感じ取れない。だいたいが、この男の皮を被って会いに行くくらいなら、不二子さんと殴り合う覚悟で直接乗り込んだ方がましだ。そんな屈辱堪えられそうもない。
 画一的な冷たい印象を受ける庁舎内を迷うことなく歩いていくと、徐々に周りの印象が変わってくる。活気づいていたフロアとは対照的に、眼にいたいほどの白を基調とした医療研究課の施設内はしんと静まり返っていた。だが、遠くから時折子供たちの声と思わしきものが聞こえてくる。姿は見えないが、病棟のどこかにエスパーの子供がいるのかもしれない。勧誘ついでに顔でも見ていこうかと、その声のする方へとふらりと足を向けると後ろからバタバタと騒がしい足音が聞こえてきて何事かと動きを止めてしまう。
「見つけましたよ!」
 射るような鋭い、そしてどこか切羽詰まった声音。聞き覚えなんてあるわけがないそれに続いて右腕を捕まれて、後ろにひっくり返りそうになる。アンナニ自信満々デキタノニバレタノカヨと言う齧歯類を黙殺して、笑顔を張り付けたまま振り返った。
「僕に用事ですか?」
「はい! よかった、もうすぐ戻ってらっしゃるって聞いて、もしかしたらと思って探してたんです」
 僕と目があって満面の笑みを浮かべた彼女は、その声音に反して安堵の念を強く感じさせるように、胸をなで下ろしぎゅうと強く手首を握りしめた。だがすぐに、すみませんでした焦っててと、慌てて恥入るよう頬を赤くして腕を解放してくれる。その振る舞いがなんだか控えめで好感が持てる。
 離れる直前に軽くサイコメトリーをかけると、彼女があのヤブ医者の下で働いている医療スタッフであるということがわかった。上司があいつでは苦労の連続だろうと同情を禁じ得ない。
「賢木先生が大変で。スタッフ何人かで皆本さんを探してたんです。一緒にきてもらえませんか?」
 丁寧な言葉選びだけれども、火急の用事なのだろう、早口でいまにも駆け出しそうだ。渡りに船とはこのことだが、からかってやるつもりだったヤブ医者が緊急事態とはいったいなにが起こっているのか。もちろんです僕でよければと、あの単純な皆本らしい優等生な返事をして、賢木は大丈夫なんですかと心配する素振りまでセットにしてサービスする。
 さっきサイコメトリーしたときに、あいつが死にそうになっているシーンが透視えたわけでもないので、そういった直接的な危険ではないのだろう。なんだ、ついに職場に弄んでいた女たちが大挙してきて、刺されそうにでもなっているのか。それはそれで是非高みの見物でもさせていただきたいので、特等席へと御案内願おうじゃないか。
 ヒュプノにだまされて僕を皆本だと信じ切っている職員は、涙の見え隠れする潤んだ瞳でありがとうございますと頭を下げると、くるりと半回転して、もう目的地などわかっているだろうとばかりに駆けるようなスピードで廊下を歩き出した。


 廊下で医療スタッフとすれ違うたびに、ようやく皆本さんを連れてきてくれたのねという謎の激励を向けられ、さらに賢木先生をよろしくお願いしますという声援までいただいて、半笑いのままに彼女の背中について行く。いったいここであのヤブ医者と眼鏡はどういう扱いを受けているんだ。桃太郎もこの尋常ならざる雰囲気に飲まれているのかやけにおとなしく、ただの毛皮みたいに動かない。
 先導役であった彼女は僕がちゃんとついてきているかどうかをちらりと確認すると、第二診察室というプレートが掲げられた部屋の前で立ち止まった。診察室前の廊下に置いてある順番待ちのためのソファには患者の姿はない。外来の時間自体が終了しているせいか、他の診察室の前にも順番待ちをしている人の姿はまばらだった。
 勢いよく診察室のドアをノックした彼女に応えるように、中から聞き覚えのある男の声がした。
「はいっていいよ」
 僕と対峙しているときには無駄に大声で叫んでいるか、作ったように低い声で話している印象が強いのだが、ドアの向こうから聞こえるのは気だるげでやる気にかけるものだった。ちゃんとやる気をだして働けよこの給料泥棒がと心の中で罵倒していると、それに反応したように振り向いた先導役が、なにごとかを伝えようとアイコンタクトを図ってきたのだがそこから感じるものは何もない。大変申し訳ないことに。
 準備はいいですかと、これから試練にでも望むような面持ちでたしかめられて、固唾をのむ。肯定の気持ちをこめて首を縦に振ると、じゃあ行きますよと彼女がゆっくりとドアを開けた。
「賢木先生、皆本さんをお連れしました」
「はぁ?」
 電子カルテに何らかの打ち込み作業をしていたヤブ医者が、彼女の声に弾かれたよう椅子を半回転させてこちらを見た。引きつりそうになる笑みを誤魔化しながら軽く手を振ってみせると、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして間の抜けた声をあげた。
「ちょっと予定よりも早く帰ってきたんだ。きみが大変だって聞いたからのぞきにきたんだけど、迷惑だったか?」
「まさか! そんなわけないです!」
 ヤブ医者よりも先に前のめりになった彼女に苦笑しながらこの部屋の主のご機嫌を伺うと、とても微妙そうな顔をして僕のてっぺんから爪先へと這うような視線をくれる。
「べつに頼んでないだろ」
「でも、先生昨日からずっと働きっぱなしじゃないですか。他のスタッフも心配してるんです、少しでいいから休んでください」
 胸のあたりで両拳を握り締めて必死になって主張する彼女に、ヤブ医者は重々しいため息をついて頭を抱え、困ったような笑みを浮かべた。それは不快というよりはくすぐったいといったほうがいいのかもしれない。利き手で頭髪をかき乱し、掠れた声でありがとうなと感謝の言葉を吐き出した。それに大きく頷いた彼女は、喜びと安堵を隠すことなく口元を緩めて僕とヤブ医者の顔を見ると、これから三十分くらい急患の場合以外はこの診察室に誰も近寄らないので、ゆっくり休憩してくださいね! と拳を握って力説されてしまう。気圧されるように頷くと、ヤブ医者のほうも今度こそ苦笑いを浮かべてそれじゃあと背中を向けて出て行った彼女を見送った。
 急にしんとした診察室の中を妙な緊張感が支配する。ちょっとこいつをからかってやろうと遊びに来ただけだというのに、これから一体何が始まるというのだろうか。気持ち悪い視線を向けてくるヤブ医者は、小さくため息をつくとこっちこいよと軽くて招きをした。普段なら貴様の命令なんて聞くか突っぱねてやりたいところだが、設定上皆本ということになっているので、大人しく頷いておく。椅子に腰掛けているヤブ医者を見下ろすと、確かに目の下にクマをかっていて、全体的に草臥れて見える。ヤブもヤブなりに必要とされているのかと、一応給料泥棒という言葉だけは撤回しておいてやることにしようじゃないか。
「あいつら、俺が疲れてたらおまえを連れてこればいいと思ってんだよ、本当にたまらないよな。犬じゃあるまいし」
 くすくすと一人で笑っているヤブ医者に、似たようなものだろうという言葉を飲み込む。口では嫌そうなことを言っているくせに、その表情は満更でもないというより嬉しそうだ。僕の前で見せている仏頂面をどこに忘れてきたんだ。あの眼鏡にどれだけ手懐けられているんだと他人事ながら嘆かわしくなってくる。というより、こいつの口ぶりからするに、いつもこうやって限界値に達すると皆本を与えられているというか、ここまで来るときの反応から考えるに、医療研究課の中では周知の事実であるらしい。
ヤブ医者と皆本はセットと考えられているのだと思うと、こいつら一体なんなの気持ち悪いと思わず一歩下がりそうになってしまう。若干僕の何かがピンチなんじゃないだろうか。
 そこに拍車をかけるように、皆本とやけにこうなんていうか色っぽいというか虫唾が走るというか、そういったあれの声で呼ばれてぞわりと背中が震えた。完全にいま鳥肌立ってるよ、間違っても確認したくないけど。
 返事をしない僕に焦れたのか、ヤブ医者の手が伸びてきてぐいと腕をつかまれ引き寄せられる。こちらを伺うように見上げてきた黒茶色の瞳は妙に熱っぽくて、やっぱりこの流れはよくないと確信した。いますぐ逃げるべきなんじゃないかと思い立って咄嗟にテレポートを発動させそうになったときに、桃太郎から京介シッカリシロ!という檄が飛んだ。それになんとか正気を取り戻して、震えそうになる声帯を奮い立たせて大丈夫かと優しげな言葉をプレゼントして、サイコメトリーを掛けられてもいいように皆本が考えていそうなことを流し込んでやる。だが不思議なことに、内面を透視されているような感覚はなく、体温をたしかめるみたいに手首を握り締められる。ただ遠慮がちに僕のというより皆本の名前を呼んだヤブ医者は、腰に手を回して僕のことを抱きしめた。思わず体が跳ねる。腹の当たりに顔を埋めていたヤブ医者が笑ったような気配があった。こっちとしては笑うどころか死活問題だ。死にそうなくらいに気持ちわるいのでいますぐ手を離していただけないだろうか。
 ちょうどいい場所にある頭部を殴り飛ばしたくなる気持ちを押さえ込んで、いまの僕はあの眼鏡だ、皆本光一だと自己暗示をかけると、あいつになりきろうとしている自分に更に死にたくなってきた。今度あったときにあの眼鏡をいたぶってお礼させてもらわなければ気がすまない。
 僕の反応が芳しくないことに拗ねたように目を細めたヤブ医者が、僕の胸元を掴んでぐいっと自分の方へと引き寄せた。突然のことに拒絶することも出来なくて、されるがままにヤブ医者との距離が縮まり、浅黒い指先が僕の唇に触れる。そして漏れそうになった叫びを飲み込む暇もなくヤブ医者の顔が近づいてきて、もっと違う物で唇を塞がれた。ヒッだとかうえっだとか、変な叫びが漏れたのかもしれない。だが、もうそんなことはよくわからなかった。だのに、これは逃れがたい現実であると、僕の絶望的な気持ちをトレースしたみたいに桃太郎が胸元でもがく。
 すると、廊下から皆本さんという声が聞こえて、わっと一瞬騒がしくなり、目の前にはヤブ医者の顔があって、なんか唇にかさついた柔らかいものが触れていて、おいまってこれっていったいちょっとまって嘘だろおい訳がわからない。
「ふざけるなこの、ヤブ医者が!」
「賢木! 大丈夫か!?」
 思わず漏れた罵倒の言葉に、息せき切らせた皆本の声が重なった。僕の精神が限界を迎えたのと、勢いよく診察室のドアが開かれたのはほぼ同時だった。いや、ドアが開かれたほうがはやかったのか。困惑の表情の後に目の前にいる僕と、診察室に走りこんできた皆本を見比べて、呆然としているヤブ医者。ワンテンポ遅れてようやくことの次第と己の蛮行の意味を知ったのか、抱きしめていた僕を乱暴に押しのけるとこの世の終わりみたいな顔をして、椅子から立ち上がった。
「皆本が二人? おまえもしかして! ロリコンジジイ!」
「うるさいしね! この色情狂のヤブ医者が!」
「うぇ、まじねえわ! クソが! テメェとキスしちまっただろ、おまえのほうがしね!」
「人の唇を奪っておいてそのセリフはないだろ! その罪、死を持って贖え!」
「唇とか言うな精神的にしぬ」
 吐き気を堪えるように口元を覆ったヤブ医者は汚物にでも触れたようにぐいぐいと口元を拭いと、ペッペッと目に見えないものを床に吐き捨てた。吐きたいのは僕のほうだ。
「おまえら、何してるんだよ」
 走りこんできたときの勢いをどこかに置き忘れたみたいに、がらんどうな瞳で僕たち二人をみた皆本は、永遠に迷子になったままの次の言葉を見つけようと目を泳がせている。だが、僕を睨みつける目にいつもよりも強い殺意が篭められているところに、これってもしかして嫉妬とかそういうやつなんじゃと思い至った瞬間、ついさっきのヤブ医者の唇の感覚を思い出して吐き気がこみ上げてきた。もうこれ以上この場所にいることさえも堪え難く思えて、そのまま地面を蹴る。いままでかけていたヒュプノをかなぐり捨てて、もう一度強く口元を拭った。
「あ、おい待てよ!」
「汚い手で触るな穢れる! 今度あったとき生まれてきたことを後悔させてやるからな!」
 慌てて追いかけるように伸ばされたヤブ医者の手を振り払って、そのままテレポートを発動すると、僕を捕まえようと駆け出した眼鏡と苦々しい表情のまま唇を噛んでいたヤブ医者の姿がゆがんで、そのまま消えた。
 次の瞬間には、バベルの上空へと移動していて、追っ手がくるような気配も感じられなかった。眩しすぎる午後日差しに眩暈さえおぼえながら、飛行高度を上げていく。八つ当たりとは分かっているが、抜けるような青空さえもが憎らしくて仕方がない。忌々しい気持ちをぶつけるように胸元から桃太郎を乱暴に取り出して、背中の毛皮を掴んで宙吊りにする。炭でも詰めたみたいに真っ黒な瞳を覗き込む。
「ゴシュウショウサマダナ、京介」
「うるさい獣は黙ってろ。いいか、今日あったことは記憶から消し去れ。絶対に公言するなよ」
 まんまるな瞳をおどけるように見開いた桃太郎は、不安定な姿勢のままある種の優越感さえ滲ませるような態度で、僕のことを見据えている。その視線が気にいらない。あと態度も気にいらない。
「ヒマワリノ種タクサンクレタラ考エナイコトモナイ」
「くっ」
「アー、腹ガスクト口スベルカモナァー」
「ふざけるな!」
 生意気にもほどがある毛玉に、舌打ちをして、激情をそのままぶつけるように尻尾を掴んでぶんぶんと振り回してやる。頭の中に桃太郎の叫び声が木霊したが、そんなの知るか。畜生ごときで僕に逆らったこと、反省しろ。





13・05・19