(もうやだ、このままなんてもう、無理だ)
吐きそうだと、賢木は思った。
心の中になにか異物が入り込み我が物顔で柔らかい部分を占拠しているような、そんな不快感。
体調が悪いわけでも、なにか悪いものを食べたわけでもない。もしそうだったとしても、彼は自分の体を制御するすべを知っていた。だから、これはそういった肉体的なものではない。切ってはって開いてくっつけて。そんなものでは治らない。じゃあなにがと考えたときに、皆本光一の声か聞こえた。それはもちろんそうだ。なぜならこの場所は彼の自宅であり、賢木は休みを利用して皆本に会いに来ていたのだから。自分の隣で電話に向かって話している皆本を横目でみる。不満げな声色なのに、話す口元には柔和なものを感じた。それがまた、賢木の気持ち悪さに拍車をかける。
二人であうのは久しぶりだった。たしかに、職場だって一緒で賢木は任務の関係上皆本の下に配属されることもある。でもそこにはたくさんのおまけたちがついていて賢木が求めるような接触を皆本が許してくれるわけがなかったし、賢木も皆本を慕う子供たちの前で自分の気持ちをさらけ出すことなどしなかった。だから余計に、いまだけはとそう思う。いまだけは、この場に二人しかいない間は皆本光一を独占していたいと。だのに、彼がいとしげにそれが無意識であったとしても、慈しむように口の中で転がすのは己の名前ではないのだ。
年上としてのプライドと皆本の前で子供みたいな我が儘など口にしたくないという自制心が表面上余裕綽々の恋人を演じてみせるが、内心はもう何色もの絵の具をぶちまけたみたいに不快なだけのどろどろとしたもので満ちていた。息をするだけで食道をせりあがりそうになるそれを決して吐き出すことのないように唇をかみしめ唾液を嚥下する。賢木と名を呼ばれた。足を組み替えて見てもいなかったテレビに気を取られていたようなふりをして、隣に座っていた皆本を視界の端におさめる。困ったように眉尻を下げた皆本は、いましがた切った電話を手元でもてあそびながら言った。薫がもう戻ってくるっていうんだけど、大丈夫かな。昼を食べてないから一緒に食べたいって。
だめだと、とっさにいいそうになったのを、薄汚い臓腑のそこに押し込めて、わずかに逡巡するふりをする。そして皆本ももうこの問に対する答えを知りながら賢木に問いかけるのだ。賢木の優しさを信じているようでありながら、その実自らの願いが必ず通ると確信している皆本のずるさがたまらなくいとしく、たまらなく許し難いもののように思われた。
本当は夜に外食するつもりでレストランを予約してあってずっと一日おまえを独占したいなんていったら皆本はどんな顔をするのだろうか。もうわかりきった答えを申し訳なさそうに待つふりをしているいとしい人に心の中だけでつぶやいた。声にならないそれはゴシップ雑誌の三文記事よりもくだらない。
賢木もいるっていったら薫が喜んでたよ。あの子はおまえのこと慕ってるから。素直じゃないけどね。付け加えるみたいに笑った皆本。せっかく飲み込んだ汚い澱がわあわあと騒ぎ出す。笑ったつもりだった。でもそれが笑顔になっているかはわからなかった。
本当におまえは俺をあいしているのか。おまえの心のなかに俺はちゃんといるのか。なぜそんなに優しく彼女の名前を呼ぶ。なぁ、本当はその心の中を明け渡しつつあるんじゃないのか。全部意味のない問いであることはわかっていた。あんなにも優しい子供たちにそして皆本になんて浅ましく卑しい気持ちをいだいているのだろうか。それこそがすでにあいつに対する侮辱だとわかっているのにそれでも、人の心のはかなさと美しさと薄汚さをいやというほどしっているからこそ、そしてどうしようもないくらいに皆本光一という人間をあいしてしまったからこそ、あいつに恥ずかしくありたくないと思うのに、どろりとした汚濁が背後から忍び寄ってくる。
賢木と不思議そうに首を傾げた皆本に、賢木の胸のあたりが疼く。いかに彼が希有な存在であるかを知っているからこそ、渡したくなどないと賢木は思う。自分だけに向けられていたはずの優しい眼差しはいつの間にか他のものをたくさん映すようになった。彼の優しさはそれを求めるたくさんの人に分散されるようになった。それが皆本の魅力であるとは知っていた。でも、それでもそのあたたかさや包み込むような優しさを、そして痛みを知る心をすべて自分の中におさめたいと思うのは罪なのだろうか。賢木にはもうよくわからなかった。
いいよといってしまうのは簡単だ。そしてそれが正しいということも知っていた。だからせめて、皆本光一が望む賢木修二であるように、仕方無さそうに肩をすくめ、それでもいとしさをにじませるように口角をあげて肯定の言葉を吐き出した。駄々っ子みたいに泣き出したい自分を誰にも手の届かない遠く奥底に封じ込めて。
ありがとうと安堵の笑みを浮かべ恥じらうように賢木の手を取った皆本。融解する体温はそれだけで泣きたくなるくらい賢木をかき乱す。すきだよ、おまえがいとおしいよと、なにか呪いごとでも紡ぐようにいった賢木に、躊躇いながらも皆本が繋いでいた手に力を込める。
この気持ちに嘘はない。だからこそよけいに、苦しいくらいに思う。吐き出したいのは愛の言葉なんかよりも切実な、薄汚い彼の悲鳴だった。
たからもの、だったもの
慈しむべき思い出はたくさんあった。それこそ苦しいくらいにたくさん。心の中にはいくつかの棚があってその中に区分けしながら、そしているものといらないものを選別しながら、自分の中に多くのものを刻み込んでいくのだ。
賢木の大切な思い出の箱は、子供のころの幼い自分が手に入れたもので満たされていた。そしてつらい思い出の箱はもう限界まで満ちていて、ある日を境にその箱ばかりにたくさんのものを詰め込んで目をそらすように選別さえしなくなった。それを子供じゃないんだから掃除しろ、こんなにきれいなものだって入ってるだろと言って、拾い上げ磨き上げてくれたのは誰でもない皆本だった。そのとき初めて、くすみきっていたその箱の中に光を見た気がした。そしてもうただ懐かしむことしかしなかった優しい思い出ばかりが詰まった箱の中に、新たなものが継ぎ足されたのだ。そのときの、喜びを、なんとしよう。
いらないいらないと突っぱねて、自分は理解されないと壁をつくって、本当はかまってほしいばかりのように泣き叫んでいた。隣の芝生は青く咲く花は赤く、そして賢木をのけ者にしたように営まれる世界は彼がほしくて仕方ないもので満ち満ちていた。
そんな壁を、自分のことばかりじゃなくてまわりも見ろ子供のままじゃ駄目なんだと破壊して、影に隠れて泣いていた賢木を抱きしめいつくしんでくれた皆本との出会いは、賢木にとって第三の人生の始まりだった。人として生まれ、嫌悪される存在に成り下がり、そしてやっとつかんだ光の片鱗は、賢木のすべてをあっけなく変えていった。
それから、光り輝くものばかりをあつめた思い出のどこにでも皆本の姿があった。それは賢木にとってなによりもいとおしく、そして胸の奥が締め付けられるような宝物だった。幼きころに友達とつくった秘密基地のように、好きだった少女によせた想いのように、じんじんとした、じんわりとした、残照の中にある温かいものを連想させる。
これだってそうだと、賢木は自分の手の中にあったアルバムをめくりながら思う。留学していたころに撮った写真のどこにだって皆本の姿があり、そのどれもが賢木にとってなにものにも代え難い思い出だった。一つ一つ懐かしむように、写真をたどっていく指先。サイコメトリーを働かせればそこに込められたら思念をよみとることができる。それでも賢木は己の中の思い出たちをたぐり寄せるように小さく笑った。
だが、そこにひたりと、冷たいものが混じる。いつの間にかページは日本に戻ってきてからの写真に変わり、賢木と皆本の間に三人の子供たちが紛れ込む。それだって楽しい思い出を切り取ったものだというのに、ひなたのようにあたたかだった心の中にかげるようなものを感じた。違うと、すぐに否定する。彼女たち三人は賢木にとっても愛すべき子供たちだった。だのに、そこに一点の曇りもないかと問われれば、賢木は躊躇い狼狽えただろう。汚いものを詰め込んだごちゃごちゃした箱と同じように、優しく美しいものだけをきれいに並べた箱の中ももうあふれそうになっている。
踏み出せば世界は広がり、案外悪くない場所だったということもわかってきた。それでも、それを教えてくれた皆本をいつくしむ気持ちが増すほどに、賢木の宝物は自分を笑顔にするものばかりじゃなくなっていく。まじるのは、貪欲な己が見せる薄汚い独占欲と、臆病な自分の泣き声だ。
たからものだったはずなのに、たからものだったものたちは、賢木の一等大切なものをじわじわと浸食していくのだ。ぎしぎしと心がきしみをあげる。二律背反のその問いに答えなどない。終わりなどない。でもいつか、皆本の鳶色の瞳が自分以外を慈しみ、あの唇が己以外に愛をささやくのではないかと思うといっそ死んでしまいたくなった。そして、賢木はまたその泥濁を飲み込んで自分の中に押さえ込む。もう無理なのかもしれないと、ある種の虚無感さえ抱きながら、それしか知らないみたいに皆本の名をそらんじた。たぶんいま彼の腹を引き裂いたなら、ひどく醜い獣が巣くっているだろう。
にじんでいくお月さま
立春はとうにすぎた。暦の上での春は、賢木に芽吹きの季節としての実感をもたらしてはくれなかった。びゅうと吹いた木枯らしから逃れるように、オリーブ色のマフラーに顔を埋める。隣を歩いていた皆本も、ぶるりと身を震わせコートの前をかき合わせた。
二人並んで帰る夜道。青い洋墨をこぼしたかのごとき瑠璃色の空。薄く鋭利な皮膜を張ったように冷え切った空気のせいか空が高くすんで、星がきらきらと輝いていた。その残滓を飲み込んで呼吸すると、新鮮な冷たい空気が突き刺さり賢木の肺腑が悲鳴をあげた。空を見上げて痛みを紛らわせる。すると、いまにも落ちてきそうなくらい大きな月が浮かんでいた。まんまるなそれは、まるで成熟したチーズがなにかのようだった。おさなっぽい自らの思考に、少し酔っているなと笑いがこみ上げてくる。隣を歩いていた皆本が怪訝な瞳で賢木を映して、どうかしたのかと首をかしげた。
どうかしたのか、どうかしたのだろう。謎掛けのような言葉が賢木の心の中で響いた。ずっとずっとどうかしていた。たぶん皆本は知らないだろうけれども、気づいてもいなだろうけれども、賢木はもうずっとどうにかなってしまいそうな閉塞感と嫌悪と焦燥と嘔吐感のなかで、のた打ち回ってきた。少しでも油断すれば、薄汚れた自己愛があらゆる粘膜を通して零れ落ちてしまいそうなくらいに。
こつんと、皆本の手の甲が賢木の手に触れる。それは、いつまでたっても恋愛ごとに不器用な彼なりの、精一杯の信号だということは分かっていた。そして、そ知らぬふりをしているくせに皆本の全神経が賢木に向けられていることも。だが賢木は、その手のひらに気づかぬ振りをして毒抜きのかわりに体内をめぐりめぐった生暖かい呼気を吐き出した。
もう一度、先ほどよりもわかりやすく、皆本の指先が賢木の手の甲に触れる。冷たい指先は、言葉にするよりも切実に体温を求める。いつもの賢木ならば、躊躇いなくいや、喜びさえ感じながらその手を取ることができたのだろう。だが、色恋沙汰の渦中にある高揚をどこかに置き忘れてきたように凪いだ賢木には、ただ純粋に皆本を愛し慈しんできたときにあった幸福感は湧いてこなかった。むしろ無色透明の心の中に落ちたのは一滴の黒色。それはざわめき胎動する水面をじわじわと侵食していく。
どうしようもないくらい、たとえば自分でも信じられないくらい、皆本のことがすきですきでしょうがなかった。自分の傾ける情には限界値がないのかと、空恐ろしくなるときすらある。すきだという言葉も、あいしているという言葉も、たぶんちがう。概念的に分かりやすく具現化してしまうのなら、近似値はそれなのかもしれないが、そんな美しいもので表現できるほど繊細で伸びやかではない。もっと苛烈で、もっと薄汚れて、もっと自分勝手だ。ただただ皆本光一が幸せであればいいと願いながら、だが押し込めてきた最奥では、手中に収め首輪を付けていっそ飼い殺してしまいたいなんて、残忍かつ凶暴なことを望む賢木も存在していた。
賢木と、皆本が遠慮がちに名を呼んだ。びくりと賢木の肩が揺れる。悪事が露見した幼子さながらに頼りなくさ迷う視線。それをひっつかまえて躍り出るように賢木の前に回りこんだ皆本は、ぐいっと賢木の肩を掴んで鳶色の視線で射る。柳眉を吊り上げて、唇を結んだどこか追詰められたその表情に、賢木は狼狽してたたらを踏む。
どうかしたのかと、少し前の皆本と同じ言葉を吐き出しそうになって嚥下した。二人の間を冷たい夜風が通り抜けていく。二人の呼気の熱量を奪い去ったそれは、滲んだ藍色の空と瞬く星へと飲み込まれていった。一触即発の緊張感。賢木は蛇に睨まれた蛙みたいに動くことが出来なかった。
二人の隣を通り過ぎる車。そのライトが逆光になって皆本が一瞬暗闇に飲み込まれる。僕は、超能力者じゃない。何をそんな当たり前のことをと、脱力したくなることを堂々と宣言した皆本。更に踏み込むように、サイコメトラーでもないと言い切った。なんと反応すればいいかわからずに、うんとやけに素直な言葉を返した賢木に、皆本はそうじゃないと舌打ちして地面を蹴りつけた。直情的ではあるが、平常時は穏やかに振舞おうとしている皆本には珍しく乱暴な所作に、ああなにかこいつの地雷を踏んでしまったのだなと変に冷静な賢木は考えた。それは、どこかに日常の名残を探していたからなのかもしれない。
咳払いをして仕切り直した皆本は、ずれてもいない眼鏡を掛け直してオリーブ色のマフラーをぐいと強く引いた。予期していなかった衝撃に賢木はつんのめり、皆本にぶつかりそうになる。だが、賢木を眼前にしても皆本はたじろぐことなく、むしろ冴え冴えとした知の深遠を覗き込んだ学者然とした表情で口を開いた。おまえは触れればいろんなことが分かるのかもしれないが、僕は触れたってせいぜい熱があるとかないとか、出血してるとかしてないとか、まあその程度のことしかわからない。(後者は目視すれば分かるのではないかと医者として賢木は思ったのだが、それは飲み込むことにした。空気を読む力だけは長けているのだ)そりゃあ、人間関係だから僕だっていろいろ汲み取ろうとは努力する。だがな、それにだって限界があるんだ。いいか、賢木! はいと、気圧されたようにやけに威勢のいい返事をした賢木に、皆本は金言でも吐き出すように頷いた。言いたいことがあるなら言え。僕は言われなきゃわからない! ついでに手を繋ぎたくない理由も僕が納得するように述べよ! 完全に座りきった皆本の鳶色の瞳に、困惑した賢木が映りこむ。首輪のようにマフラーを握られているので、この場から戦略的撤退を敢行することも叶わなかった。
だとしても、言えるわけがない。言わなければわからないと断言した皆本に安堵さえ覚えた賢木は、鮮やかな紅色の体内を裏切るように渦巻くタールのごとき劣情を吐き出して並べ、一つ一つ説明することなんて出来るわけがなかった。それを喜び勇んで実行できたとしたらなら、もっと楽に話は進んだのかもしれない。だが、皆本の前でそんな情けない姿だけは晒したくなかった。
皆本のためならばどんな苦しみだって嘆きだって恐怖だって克服することが出来る。だがそれでも、己の弱さや悪辣さを露呈することだけは許されない。もしも軽蔑され、関係を断たれてしまったとしたらと考えただけで、賢木は恐怖でも悲しみでもなく、ただただ漠然と、そしてぼんやりとした欠落だけを感じて世界が真っ白になるような感覚を覚えた。その全てを言語化するなんてもう無理だ。皆本という男は、賢木という人間の根幹にまで食い込み征服してしまっている。それに皆本が気づいているかどうかはわからないが。
堪えるように唇を噛み締めて、ただただ皆本を見つめる賢木に、皆本は焦れたように彼の名前を呼んだ。視線をさ迷わせ、なんらかの言葉を手繰り寄せるように唇を舐めた赤い舌。だが、次の瞬間全部を放棄するように、皆本は賢木の唇に自らのものを重ねた。触れるだけの口付けに、濡れた吐息が重なる。僅かな接触の後に離れていった唇から、逃げるなという頼りなく揺れる声音が吐き出されて、もう一度捕まえるみたいに口付けられた。皆本の突飛な行動に飲み込まれた賢木は、目を白黒させながらただ触れる唇を甘受して、睫を揺らした。ちりりと走る痛み。離れる直前に、皆本が賢木の下唇に噛み付いたのだと分かった。こんな外で、こんな挑発するようなことを皆本がするとは思えなかった。賢木は自分の中に鬱屈していた自己愛にも似た葛藤を置き去ったままに唖然とした表情で、忌々しそうに口元を拭っている皆本を見つめる。
なんだよ、何か言いたいことがあるなら言えよ。吐き捨てる皆本は、普段よりも二割増くらいで乱雑な振る舞いだ。ようやく賢木のマフラーを解放して、腕を組み苛立ちをあらわにするみたいに忙しなくリズムを刻む指先。そっぽを向いてしまった皆本。だがその横顔の目元に朱が走り耳が赤くなっていることから、照れ隠しでしかないことが分かった。
ああと、ああと思う。
それは感嘆であり嘆きでありまた快哉でもあったのかもしれない。それでも、言葉にならないなにかを精一杯言葉にするように、ああと、賢木はそう思った。ちゃんと自分は求められているのかと、貪欲なばかりの己が僅かながらでも満たされ歓喜の声をあげたのを聞いた。皆本は己のことを理解しようと、歩み寄ろうとしてくれているのかと、そんな些細なことに十全すぎる慈しみさえ感じた。俺から与えられるものを甘受するだけでなく、与えられないと知ればそれを奪い取るような粗暴ささえのぞかせる。
視界がにじむ。白乳色のベールでも掛かったように夜空にうすもやがまじり、燐粉でも撒き散らした朧月かと見間違う満月が賢木を見下ろしていた。滲んでいくそれは、冷え冷えとした外気を裏切るようにうららかな陽気を感じさせる稲穂色で、賢木の網膜を刺激した。
皆本と、何とかその名を紡ぎ出す。喉の奥がぎゅうと締め付けられたように苦しい。少しでも油断すれば、声がかすれ嗚咽が漏れたかもしれない。みなもと、みなもとと、それしか知らないみたいに名を呼んで、朱に染まった頬に触れる。柔らかな皮膚をたどった指先がぐいっと頤を掴むと、真正面から賢木と皆本の視線がぶつかる。痛いと苦言を漏らしながらも、皆本の鳶色の瞳は驚きに見開かれて所在無さげに泳いでいた。
賢木は皆本が更に何か言おうとしたのを飲み込むように震える唇に己のものを重ね、そのまま吐息さえも奪い取る。黒鳶色の柔らかな髪に指を滑らせか角度を変えて口付けた。合間に抵抗するように皆本が賢木の胸元を押し返し身じろぎをしたが、賢木はそれをものともしないで自分の腕の中に皆本を閉じ込めた。名残を捨て去るように皆本の唇に触れた賢木の指先。そしてその温もりさえもを己の中に取り込むように、皆本に触れた指先で自分の唇を撫ぜる。ただでさえ赤くなっていた皆本の顔が、更にその深みを増し、慌てて周りを見回してほかに人影がないか確認した。
いまさらだろうと、賢木は笑いたくなったが、ここで少しでも笑いを漏らしたら酷い制裁を受けそうなので、黙っておくことにする。二人の戯れをのぞき見てしまった被害者がいないことに安心した皆本は胸を撫で下ろした。そんな皆本の一人芝居を観劇しながら、投げ出されたままになっていた冷え切った彼の手をとった賢木は、少し前の自分のひややかさをあざ笑うかのごとき乱暴さで、その腕を引いて皆本との距離を詰めた。
なんだよ、言わなきゃわかんないっていってるだろと捨て鉢みたいに言った皆本に、賢木は微笑を浮かべる。それを映した鳶色の瞳が瞬き、そらされる。ああ、いまはちゃんと笑えているだろうと、繋がった手のひらを握り締めると皆本がうぐぐと言葉を飲み込んで地面に転がっていた石をけりつけた。ころころと力なく転がったそれを追いかけるように歩き出した賢木が、パスを受け取るように革靴の爪先でそれを蹴る。断続的にパスを繋ぐ二人は、夜闇をかき分ける魚の軽やかさで月光の中を泳いでいく。
賢木が蹴りそこなった石が、ころりと皆本の足にぶつかった。それを合図の代わりに歩みを止めた皆本は、繋いだままの手のひらを手繰り寄せて賢木を見た。おまえ、昔サッカーしてたんだろ。ああ、話したことあったか。たしか、何度か聞いた。結構上手かったんだぜ。俺をチームに引き入れたいやつがわんさかいてさ、取り合いだったんだ。まあそれも、サイコメトラーだってわかってなくなっちまったけどな。能力者がスポーツ競技に参加するのは難しいもんな。ままならぬ仕組みを口惜しく思うように眉根を寄せた皆本に賢木が笑う。そうじゃねぇよ。確かに公式試合とか思うとそういう障害もあったけど、それだけじゃない。世の中皆本クンみたいな人間ばっかりじゃないんだよ。揶揄のまじった声で皮肉げな笑みを浮かべた賢木の言いたいところを、そのニュアンスだけで感じ取った皆本は、一際強く足元にあった石ころを蹴飛ばした。薄闇の中に飲み込まれたそれはころころと何かを目指して転がっていく。暗くても、先が見えなくても、ちゃんとこの先に道があるのだということを示すように、石が地面を舐める音が聞こえた。
もっといろいろ話そう。僕も、君も、たくさん話そう。釣りの話でも、仕事の話でも、昔の話でも、苦しかった話でも、楽しかった話でもいいから、たくさん話そう。僕は君の力だけに甘んじてこの関係を維持したいわけじゃない。僕たちは普通人と能力者で、お互い歩み寄っていかなきゃいけないんだ。教科書のお手本にでもありそうな、たとえば徳育の授業の教材のようなことを呟いて視線を上げた皆本は、賢木の黒茶色の瞳を真っ直ぐに見て口を開いた。言ってくれなきゃわからない、だから、もっとたくさんのことを話そう。飲み込むんじゃなくて、言葉にしてくれ。そうしたら、僕にだって出来ることがあるから。だから、その。言葉を切って、呼気を吐き出し、まだ冬の名残を多分に含んだ外気を吸い込んだ皆本は、乾いた唇を一舐めして、泣く直前みたいなすこし困った笑みを浮かべ首を傾げた。僕の隣で、そんなにつらそうな顔をするな。
黒鳶色の皆本の髪が風に揺れる。前髪が目に入ったのか、眼鏡を押し上げて目元を擦った皆本の隙を縫うように顔を背け、賢木は熱を持った瞼を誤魔化すように手の甲で涙のなりかけのようなものを拭った。何事もなかったかのように居住まいを整えた賢木は、皆本の髪を手櫛で整えながら、つらくなんてねぇよと、ひとりごちるように呟いた。いつのまにそんな口説きのテクニックを覚えてきたんだ。ばか、茶化すな。口を尖らせて睨み付けてきた皆本をいなすように肩をすくめ、賢木は笑う。そうだな、何が聞きたい? おまえにならなんだって話してやるよ。おまえばっかり話してたら意味ないだろ。僕の話も聞けよ。呆れのため息を吐き出した皆本に、賢木の笑い声がかぶさる。
何でもなんて話せるわけがない。言えないほど身勝手な欲望は、際限なく湧いてくる。そしてその全てを体の中に飼いならしている。凶暴なそれにいつの日か身の内を食い荒らされる日がくるとして、それでも、賢木がこの温もりを手放せる日がくるわけがなかった。
皆本が言うから子供であることはやめた。皆本がこの場所を、たとえば普通人と能力者の共存を望むから、賢木はこの場所にいた。皆本が、皆本が、望むから。たくさんたくさん賢木は抱え込んできた。だからもう、逃れられるわけがないのだ。どれだけ苦しくなって、どれだけのた打ち回ったって、どれだけ汚濁を溜め込んだって、皆本の隣から離れられるわけがない。皆本なくして、いまの賢木の存在がないとして、それが賢木を構成する一部であるとするならばそれは全にも等しいのではないだろうか。賢木と、皆本が呼ぶ。繋がり絡められた指先が離れることがないように、皆本の優しい声音が賢木の鼓膜を揺らすように、いつまでだってこの男の隣にたっていたいと、そう願って止まなかった。ありがとうと、賢木が言うとどういたしましてと皆本が口にする。そして重なる密やかな笑い声は、誰も知らない夜の空に木霊した。