夜の駅。
 もう人影もなく、寝静まった街に見切りをつけるように終電が線路を踏みつけ走っていく音が遠くで聞こえた。がらんとした構内には、俺ともう一人の姿しかない。すでに、電車が吐き出した人ごみは、街の明かりを求めて散らばっていってしまった。
二人だけの世界に取り残されたかのような静寂と物寂しさ。だが俺たちも、すぐにこの場所を後にすることになる。俺は、誰も待っていない一人の家に。あいつは、あいつの帰りを心待ちにしている、少女たちのもとに。そんなことは分かりきっていたし、そこに疑問を持ったことは無かった。なかったはずだった。だのに、去ろうとする背中に、いかないでくれと言ってしまいたかった。いや、もしかしたら声に出してしまったのかもしれない。かもしれないなんて、我が事ながら他人事みたいな台詞回しをしてしまうのは、摂取しすぎたアルコールのせいで意識につたない部分があるからだ。
 これ以上言葉がこぼれ出るのを防ぎとめるために、口元を覆ってスーツの背中を見送ろうとすると、もう人通りも少ない、駅の出口から見える夜闇の空に同化しようとしていた黒鳶色の髪がふわりと揺れて、鳶色の瞳が俺を映した。訝しげに首を傾げた皆本は、どうかしたのかと、歩み出そうとしていた足を止める。その反応から、俺が何かしらの言葉を発したのは確かなことだと判断することが出来た。それと同時にああと、吐き出したため息は安堵なのか疚しさなのか、それとも口惜しさか。アルコールに紛れ込んだ己の気持ちを上手く判定できるほど、意識がしっかりとしているわけではない。どちらかといえば、もう理性の箍はゆるゆるに緩んでしまっていて、だからいつもならば容易く嚥下することができている自らの漠然とした気持ちに、言葉という定型を与えてしまったのだろう。いっそのこと、聞こえていればよかったのにと惜しく思いながらも、聞こえていなくてよかったと安堵する自分もいて、覆ったままの口元が皮肉げに緩む。自嘲の笑みにそっくりなそれに、こんどは笑い声さえ漏れそうになった。感傷に浸るのだけは得意な愚か者は、一人上手なまま必死になって葛藤し悩むことが出来るのだ。そんなことになんの意味もないというのに。
「賢木? 大丈夫か?」
 眼鏡の向こうの瞳が心配そうに揺れる。上気した頬にはさっきまでは楽しそうな笑みを浮かべていたというのに、いまでは眉根を寄せて俺を案じているとわかる。そんな単純なことに、心がざわめく。波立つそれの震源は、たぶん喜びだとか独占欲だとか、そういった類のものなのだろう。
 大丈夫か? 大丈夫じゃないよ。
 随分前から俺は、大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃない。大丈夫だとずっとずっと言い続け、まるで呪文でも諳んじるように己の中に刻み込んできた。まだ大丈夫。平気だ、つらくない。隣にいられるだけでしあわせじゃないか。それ以上を望むというのは過ぎたるものだ。俺はもう十分に救われて、両手いっぱい溢れんばかりのものを与えられたじゃないか。だというのに、慈しむべきものをもっと欲しがってどうするのか。いつの日か、皆本の隣に立つのが俺じゃなくなったとして、皆本が自分の一等あいする人を見つけたとして、そんなこと何度だって夢想して、何度だってシュミレーションして、その度に自分がいかにして皆本を祝福し、いかにして親友の幸福を祝う友人の仮面を被るのか、そればっかりを考えてきた。いや、最初は純粋にそのときを心待ちにしていたのかもしれない、いつの日か俺があいつの結婚式のスピーチをしたりあいつの子どもが生まれる日が来たときに祝ったりするのだろうと、こそばゆくも屈託なく思っていたのかもしれない。でもいつしかそれは醜く醜悪なものに姿を変えた。幸福な未来予想図だったはずのそれは、取り繕うことに必死になる予行練習へと、そして、完璧なように見えて俺の心を追詰めていくだけの愚行に成り下がった。そんなこと、ただただ純粋に俺の隣に立つ皆本は知りもしないのだろうけれども。
 だから、大丈夫なんかじゃない。大丈夫でありたいけれども、もう大丈夫だなんていうラインは、とうに踏み越えてしまった。振り返ったって影も形も見えやしない。俺の後ろにあるのは、一寸どころか真後ろさえも定かではない闇ばかり。皆本は眩しすぎるくらいに眩しくて、それに救われているはずなのに、制御できない自分の劣情のせいで影が濃くなっていく。
「おい、顔色悪くないか?」
 熱を持った皆本の指先が、頬に触れる。知らぬうちにぎゅっと唇を噛み締めていた。アルコールの入った思考回路は滑りよく自分に都合のいい理論ばかりを組み立てていくのに、さあと皆本の前に立つとその全てを吐き出すことなんてできやしないのだ。
本当にどうしようもなく臆病で、どうしようもなく皆本という男に恋焦がれてしまっている。ほんの少し、小指の先程度でも、自分の中の埋火で焼け爛れた薄汚いものを晒したくないのだ。だから、笑った。手のひらで隠していた口元を解放して、自分らしく唇を緩めた、つもりだった。
大丈夫だ、皆本と、わらった、はずだった。
「大丈夫なんかじゃないだろ。飲みすぎたのか?」
 嘘つくなよと、言外に責めるように言った皆本は、俺の額に手のひらを当てた。熱でもあるんじゃないのかと思案しているが、むしろ触れている手のひらの方が熱いくらいだった。そしてそこから、その熱に感化されそれを享受するように体温が伝播していく。
「熱なんてねぇよ」
「じゃあ、やっぱり飲みすぎ?」
「飲みすぎてねぇし、これくらいで音を上げるほどやわじゃない。おまえじゃあるまいし」
「なんだよ、せっかく心配してやってるのに」
 額に触れていた皆本の手のひらを打ち払うようにすると、納得がいかないのかずれてもいない眼鏡を掛け直して呆れ交じりの一瞥をくれる。
「僕の前で意地張るな」
「はってねーよ」
「じゃあ、なんでそんな苦しそうな顔してるんだよ」
 そんなってどんなだよ。いっそ鏡でも持ってきて教えてくれよ。答えを探すみたいに皆本の目を覗き込んでみたって、チョコレートみたいに甘そうなそれに不埒な自分が疼くだけだ。なんて現金で、なんて我慢のきかないガキなんだと笑いたくなる。年下のこいつに気を回されるなんて、情けないにもほどがある。
「たいしたことねーよ。ただ、ただちょっと」
 俺の次の言葉を待つように、真っ直ぐにこちらを見つめる皆本。疑いさえしないそれに、いつだって自分を繕ってばかりの俺はつらくなっていくのだ。それでも、もうはなれられるわけが無かった。決して、いえない。自分の中に溜め込んでいるもの全てを吐き出せるわけがない。いつか澱ばかりを詰め込んだ臓腑は腐り果てるのだろうか。
「ただちょっと、気持ち悪いだけだ」
一歩分の距離を埋めるように皆本の腕を引っ張って、驚きの声を黙殺してその肩に顔を埋めた。アルコールの匂いに混じるようにかぎなれた皆本の体臭が鼻腔をくすぐる。それが引き金となって、飲み込んだはずのものたちがせわしなく暴れ出す。助けを求めるように皆本の手首を握り締めると、困惑のままに俺の名を呼ぶ皆本が、ここでは吐くなよと見当違いの心配をしてくれた。それが憎らしくて、そして俺の気持ちなど微塵も察してくれない皆本の鈍感さに少しだけ救われる。
「賢木」
後頭部に遠慮がちに触れる手のひら。髪をすく指先から伝わるのは温かな皆本の思念。何度それに恋焦がれ、何度それに救われ、何度それに懸想したのだろうか。無理するなと、労わるような声音が耳朶に触れた。
「はきそう」
「はくならトイレ!」
「いっそおまえに吐いてやる」
 全部全部、おまえに吐いてやる。いつか自らの中に抱き込んだものが腐り果て、腐敗臭に埋もれ壊死するとして、そのまえに最後の抵抗みたいに、全部こいつの中に刻み込むみたいに吐き出してやる。
 だからせめて、どんな形だっていいから、俺のことを忘れないでくれよと、皆本光一という男の中に賢木修二という人間を刻み込んでくれよと、まるで祈るように声にならないため息を吐き出した。すると、それを受け止めるみたいに、俺が握り締めていた皆本の手のひらが伸びてきて、俺の唇を撫ぜた。己の中から吐露された二酸化炭素に託したゆき場の無い気持ちを受け止めるようなそれに、なんでこのタイミングでと瞼の裏が熱くなった。受け止めることなんてしないくせに、どうしてこうも最後の最後瀬戸際に、俺を歓喜させるようなことをするのだろうか。
 こいつは本当に酷いやつなのだ。
 いとおしいあまりに、諸刃の剣のように俺を追い詰めていく。こみ上げるなにかを堪えるように皆本に自重を預けると、焦りをあらわにした声音が鼓膜を揺らした。
「おい、本当に吐きそうなのか?」
「結構前から、限界だ」
 冗談やめろよと、肩を揺らして俺を押しのけようとする皆本を逃さぬように距離を詰めたまま、嘔吐を堪えさせようとするような指先に歯を立て噛み締めてやった。漏れるのは苦痛の声。次いで非難するように俺の名を呼ぶ皆本。ざまあみろなんていうわけじゃないけれども、どうせならこのまま指の一本でも食いちぎってやろうかと、馬鹿みたいなことを考えて、吐瀉をともなわない吐き気をやり過ごした。




13・05・07