皆本のほうが教えるのが上手いと、目の前で黒板につづられる数式を流し見しながら欠伸をかみ殺していた賢木は思った。超度6のサイコメトリーをいかして、特務エスパーとして働く賢木の運用主任である皆本光一は、世の中から頭が一つも二つも飛び出た天才であり、誠に稀有な頭脳を持った恵まれた側の人間だった。それは、彼の身の置き場だとか人間関係を評しているわけではなく、単純に能力値として考えた場合の評価である。そして、そういった人間は往々にして、できない人間の気持ちがわからず、人に教えることが苦手だというのに(だってそうだろう、人間にとって常識的行為である呼吸をどうやってすればいいのかと問われれば、空気を吸えとしか返せないのと同じだ。彼らにとって、彼らの知識を生かすことは呼吸と等しいのだろうと賢木は思っている)、もともとの世話焼きな性格がたたってなのか、皆本は人に何かを教えるということが上手かった。
 順序だてて説明することも、難解な部分を噛み砕いて表現することも、そして相手の物分りが悪いときにでも辛抱強く待つことが出来た。そしてなにより、あの声はきいていて心地いいのだと、賢木は言いたかった。もう個人的な趣向でしかないといわれてしまえばそれまでだが、やさしく鼓膜を揺らすあの声音はいつだって賢木を心地よくさせる。怒られることだって呆れられることだって、ちょっと若干見捨てられそうなときだってあるけれども、そのすべてが自らに向けられている言葉であり気持ちであるのだとすれば、それは皆本のことを独占していると同等のことであり、その事実に後ろ暗い喜びさえ感じてしまう。
 自分でも、相当歪んでいるのだろうという自覚はあった。
 能力が発露してから、多くのものを指の間から取り落としてきた。触れれば、知りたくもない人の心の中を覗き見ることができるというのに、誰一人として賢木の心に触れようとはしてくれない。いや、そんな彼に心を傾けてくれる人は居たのかもしれないが、そういう人間の無意識下を覗きこみ期待を裏切られたときの失望感のほうが、賢木の柔らかな心をさいなんだ。
 結局賢木の手のひらに残ったのは、忌むべき超能力だけ。
 気づけば、月が欲しいと泣くのはやめた。泣いたって、そんなものに手が届く日は来ないのだと学んだから。泣くだけ体力の無駄だ。さらに、視界にはいれば、頭上であいも変わらず輝くまんまるなそれが欲しくて仕方なくなるから、夜空を見上げることさえ厭うようになった。
 物分りよく諦めるようになり、期待しなくなり、心を殺すことを知った。そうすることでしか、自分の背負い込んだものと、向かい合うことができいなかったのだ。だからこそ余計に、ずっとずっと抑圧した意識下で渇望していたたくさんのものを与え、この世に生まれてきたことに意味があると気づかせてくれて、歳相応の子供としての喜びを知って欲しいと願い慈しみ、嘘偽りなく自らの能力を受け入れてくれた男のことを慕うなというほうが無理な話だった。空腹のときに美味しいものを与えられれば、それを魅力的だと感じない人間が居ないわけがない。乾いた大地に水を振りまけば、愉快なくらい気持ちよく吸収されていくことだろう。そして、もっともっとと貪欲に欲することになるのだ。
 だから、こんな野暮ったいだけの授業を受けているよりも、また夜にでも今日の範囲の復習をしているふりをして、そして難解な問いに悩んでいるふりをして、賢木に何かを教えることができるとそわそわしながら近寄ってくる皆本を捕まえて説明を聞いたほうが有意義なことのように思えた。
 昨日も同じような手段で遅くまで勉強していたせいで、昼食を食べたばかりの賢木を絶え間ない眠気が襲う。ちょっとした下心があってのことなのだが、賢木が勉強に一生懸命になっていると、皆本の機嫌もよくなり、夕食が豪華になったり少しやさしくしてもらえたり、いろいろな特典がついてくる。そしてなにより、彼と一緒にいる時間も増えるというのだから、賢木にとっては一石二鳥どころか三鳥くらいの美味しい状況だった。睡眠不足になりがちなのが問題点ではあるが。
 殺しきれなかった欠伸に大口を開けていると、運悪く先生と目が合ってしまい、咎めるように咳払いをされる。分かりやすく視線を逸らすと、それに対抗するように次の問題は賢木が解いてみろと指名されてしまった。目の前の黒板に書き込まれた数式。それの意味と解法がわからないというほど愚かなつもりはなかったが、悪戯が見つかってみんなの前で晒しあげられたようで居た堪れない。もちろん、そんな羞恥など面に出すことなく余裕さえ感じさせるような気安さで立ち上がった賢木は、教卓の前で待ち構えている教師の視線を受けながら黒板に向かって歩き出した。

お題:ゆけゆけ黒板




13・04・08
13・04・09