本日の連続稼働時間ってどれくらいになるんだろうかと、指折り数えてみようとしてその不毛さにそっと手を下ろした。熱があるときに体温を測ってはいけない。疲れているときに疲れていると呟いてはいけない。目の前の現実を受け入れるまでは、それが現実であるとは限らないのだ。あの、箱を開けるまでは猫が死んでるのか生きてるのかわからないような感じで。
自分を追詰めるだけの行為を投げ捨てて、本来の目的であった自販機のボタンをおす。紙コップ式のそれなので、取り出し口の傍にある液晶が、いったいいま中がどんな状態なのかを教えてくれている。退屈でしかないその映像に欠伸をかみ殺していると、後ろから肩を叩かれた。
「お疲れ様」
聞きなれた声に後ろを振り向く。視線がぶつかったのは別棟で仕事をしているはずの皆本だった。
「おっ、どうした。こっちくるなんて珍しいな」
ふわぁとかみ殺しきれなかった欠伸に口元をおおい悪いと軽く謝ると、気にするなと苦笑された。白衣も草臥れ、使い古されたボロ雑巾のような俺とは違い、皆本は半日経ても折り目正しくしわもないスーツを完璧に着こなしている。
コーヒーが出来上がったことを告げる合成音にせかされて、苦味を含んだかおりを漂わせる紙コップを取り出す。冷まして口を付けると、ちょっと薄いような気がしたんだけど、たぶん俺の舌とか体とかが疲れによって悲鳴をあげているせいだよな。
「このまえのチルドレンの検査結果を受け取りにきたんだけど、すれ違いだったみたいで」
「あー、悪い! あれ今日の朝までだったか」
デスクの上にまとめた資料は置いてあるのだが、朝方からずっとばたばたしていて提出しに行くどころではなかった。だが、皆本もそれを承知しているのか、逆に気を遣わせてしまってすまないと謝られてしまう。この場合、まえもってはやめに仕事を終わらせていなかった俺のほうに非があるんだけれども、いろいろ限界値に達しそうなのでお言葉に甘えておくことにする。
「いや、急ぎじゃないから大丈夫だよ。そっちこそ、朝方の事故で忙しかったんだろ?」
俺を労わるようなやさしい語調に、飲んだホットコーヒーのお陰とかじゃなくて胸のあたりがあたたかいものに満たされていくのを感じた。
前日からの夜勤。そのあとに連続しておこった何件かの大型事故に、一番近くにあったバベルの医療研究科も怪我人を受け入れることになったのだ。さばけどもさばけども新たな負傷者が運ばれてきて、ようやく一息ついたのがついさっき。体が泥のように重くて夜勤からの激務にそろそろ限界かなとか思ってたんだけど、もう少しがんばれそうな気がする。
「局長が局長だけに、有事の際には管轄に囚われることなく自由に動けるとこが気に入ってんだけど、こんだけ連続してくるとちょっと疲れるわ」
もう一度、お疲れ様と皆本が笑った。鳶色の瞳が紙コップを握っていた俺の右手を見つめてくる。じっと凝視されるのが不思議で軽く首を傾げると、皆本の指先が俺の利き手の甲に触れた。突然のことに動揺して、紙コップの中のコーヒーが波紋を描く。
「すごいな」
自然と零れ落ちたそのことば。賢木は本当にすごいと、皆本が俺を見た。藪から棒のそれに、何がすごいのかわからなくてはあと気の抜けたいらえしかできない。いっそ触れているところからサイコメトリーしてみれば得るものもあるのかもしれないが、朝から生体制御全開だったせいで疲労困憊。皆本の思念の表層をなぞるような気力もない。
「君にはもう当たり前のことなのかもしれないけど、この手でたくさんの人を救ってるんだと思うと、本当にすごいって言葉しか出てこないんだよ。尊敬に値するっていうのもちょっと偉そうだし、なんていえばいいんだろう」
難問にぶつかった研究者の顔をした皆本。いまごろ脳内で、丸暗記しいてもおかしくない国語辞典を引っ張り出して試行錯誤しているのかもしれない。だが、わずかに上気したその表情は、誇らしいものを見つめ陶酔するようじゃないかというところまで考えて、自分だけに優しいその思考をちがうに決まっていると否定し浮き足立ちそうになる気持ちを落ち着ける。それでも、疲れだとか、そろそろ限界かもと音をあげかけていた自分をかなぐり捨てて、体中を歓喜だとか興奮だとかそれに近いものがかけめぐっていく。
咄嗟に言葉がでなくて、まだうまい言い回しがないなあと悩んでいる皆本を見つめることしかできない。こいつはいったいなんなんだ。どうやって生きてきたらこんなふうになれるの。もう意味わかんないし嬉しいし、何故だか目頭が熱くなるし、それを誤魔化すみたいにコーヒーを流し込むけど、やっぱり苦味が足りなくてこみ上げそうになる何かを欠伸のせいにして、目の前にある愛しいものを躊躇うことなくぎゅうぎゅうと抱き締めた。コーヒーよりもやさしいぬくもりをもつそれに、本当にこいつのことがすきなんだなと今更みたいなことに胸の奥が苦しくなる。
「お、おいやめろ! コーヒーこぼれる!」
「俺もおまえも大惨事になるから暴れんなよ」
「そのまえにおまえが離れろ。誰かに見られたらどうすんだ」
「へーきへーき、賢木先生も疲れてるのねってなるだけだ」
「なわけあるか!」
「あるんだなーこれが」
自分の背面にある紙コップを気にしてか皆本は身じろぎをする程度。たいした抵抗にもなっていない。まあ、疲れているということを差し引いても、医療研究科のほうでも俺と皆本はセットでみられているようなきらいがあるので、ちょっと密着してるところを見られたぐらいで、痛手を負うことはないはずだ。たぶん。希望的観測にしかすぎないけど。
ぐりぐりと皆本の肩に額をこすりつけると、ため息混じりにぽんぽんと頭をなでられた。仕方無しに甘えを許すような態度に、完全にガキどもと同じ扱いを受けているきがする。俺を受け止めている皆本は、仏頂面か呆れの表情か。だが、どんな扱いを受けていたって、皆本に触れられるのはきらいじゃなかった。ありがとうなと、呟く。どういたしましてと、真綿のようにやさしくあたたかな声が返ってくる。鼓膜を揺らし体中に染み渡っていく温度に、弱音を吐きそうになっていた自分を追い出すため息をついた。
「医者としてのおまえの顔がすきだから、がんばれ」
こくりと誰にでもなく頷いて、かぎなれた皆本のにおいを吸い込む。誰かに褒められたくて、この仕事をしているわけじゃない。俺にはこれしかないから、そして厭われるばかりの俺の能力だって、こうして好意的に迎え入れられる場所があると知ったから、ただそれだけしか知らないみたいに駆け抜けてきた。それでも、俺にたくさんの可能性と世界の広さを教えてくれた皆本に認められるのが嬉しくないわけがなかった。コーヒーなんか捨て置いて、どうしようもなくやさしいこの男のことを思い切り抱きしめてやりたくなる。この一瞬でも、自分だけのものにしたくなる。
「ちなみに、俺はベッドの上とかそうじゃないところとかで喘いでる皆本の顔がすきです」
優しい顔は誰にでも見せるし、真剣な顔は仕事にあいつを独占されてしまっている。笑顔もすきだけれども、それは俺だけのものじゃない。どんな皆本だってすきだ。でも、唯一たった一つ、違えようもなく自分だけのものになるものが欲しかった。じゃあと一つ一つ消去していくと、最後に俺の中に残ったのは快楽に流されて欲望に身をひたした皆本のいやらしい顔だった。俺の純情な恋心が少しでも伝わっただろうかと皆本をみやると、どう見積もってもそうとは思えないような憎しみの色が見え隠れしていた。あれ、なんか俺の予想とちがう。
「ふざけるな! いろいろ台無しだよ!」
勢いよく足を踏みつけられて、ぎゃあと緊張感に欠ける悲鳴が漏れる。痛みに体が揺れる。あまりの衝撃に腕の中にあった皆本の体を解放して、床に座り込んでしまった。この苦しみを与えてくれた皆本の革靴は綺麗に磨きぬかれていて、凶器という言葉とはつりあわない。紙コップを取り落とすことだけは阻止したのに、それ以外のものが粉々に砕け散ったような切なさがあった。死刑判決を待ちわびる犯罪者のような気持ちで足元から腰、そして怒りに震えているであろうその表情を視線で追っていく。はたして、期待を裏切ることのない皆本の蔑むような視線が俺を映していた。あの、尊敬とかすきだとかさっきまでそうおっしゃっていましたよね。あのときの純粋な皆本君はどこへ行ってしまったんでしょうか。きたないものをみるように俺を見下ろした皆本は、もう手の施しようのない末期の患者を前にした医者のごとくに重々しく首を左右に振る。匙どころか治療も投げ出されたみたいで、ちょっとだけ心の中で泣きたくなった。もう少しオブラートに包んで欲しい。
「じゃあもう僕は行くから。書類はまたあとから取りに来る」
「了解しましたボス!」
これ以上ご機嫌を損ねることのないように機敏に敬礼をすると、調子のいいやつだと呆れ半分で頭を抱えられてしまう。皆本は切り替えるように鹿爪らしい顔をして、咳払いをした。
「あと、勢いで言いすぎた。その、本当は今日の夜、一緒に食事でもどうだって、声かけにきたんだ。薫たちが友達のところに泊まりにいっていないから」
ばつが悪そうにそっぽをむいた皆本は、疲れてるだろうし無理にとはいわないけどとこちらを気兼ねしたように口篭った。どうでもいいくらいに真っ直ぐなやつだから、酷いことを言いすぎたかなとか、足踏んだのはやりすぎだったかなとか、小学生みたいなことで悩んでるんだろうなと思うと、両手で死守していた紙コップを握りつぶしそうになる。
「いく、いく! いきます! 明日非番だから!」
勢いよく挙手して主張すると、皆本はわずかに身をのけぞらせて、そんなに必死にならなくてもと困惑の表情だ。こいつはわかっていない、あの手この手で皆本を独占しようとするガキどもが居ないということが、どれだけ貴重なのかということを。それは前のめりにもなる。
俺に倣うように座り込んた皆本が、鳶色の瞳で俺を覗き込む。室内灯の灯りを受けてきらめいてみえるそれは、誰が体感するよりも美しい世界を映しているのだろう。そこに自分が含まれているのだと思うと、それだけで泣きたいくらいに嬉しかった。だから、真っ直ぐに受け止める。ほんの少しのものでも取りこぼすことのないように。
「僕も、きみのああいうことしてるときの顔、嫌いじゃないから、今夜は、その」
どもるように揺れる声音。変なところで引っくり返って高くなったそれを恥じるように、皆本は膝に顔を埋めて、いまのやっぱなしと、ううだとかああだとかいう意味不明のうめきを漏らした。
「やっぱなしは、なし! だめだって!」
考え直してくれ、あともうちょっとかんばれると訳のわからない応援とともにガッツポーズをすると、ごめんやっぱ無理。僕にはまだはやかったと後悔しきった弱々しい声でかえされた。耳まで真っ赤になっているから、いまごろ首でもくくりたくなっているんだろうかと心の中でのた打ち回っている皆本を想像して、頬が緩む反面こっちまで恥ずかしくなってくる。
「と、とりあえずじゃあまたあとで!」
言うがはやいか逃げるように立ち上がった皆本は、くわしくはメールするからと捨て台詞の勢いで背を向けていってしまった。メール待ってるからなと叫ぶと、返事の代わりにひらひらと手が振られる。皆本とすれ違った事務員さんが、自販機の前で座り込んでいる俺を怪訝な表情で見ていたがそんなの知らない。連続稼働時間だって知らない。急患がこようが事故が起きようが、いまならどれだけだってがんばれるような、そんな気がした。
13・04・03