インスタントコーヒーを取り出すためにいつもの引き出しをあけようとしたときに、そこに見慣れた取っ手がないことに気づいた。はてと思って首を傾げると、取ってどころか引き出しもない。そこまできて、ああここは賢木の家だったなと当然すぎることを思い出す。無意識で作業しているときには、自然と体に染み着いている記憶で行動してしまうものだ。頭の中で展開していた自宅キッチンの配置をしまいこんで、切り替える。調味料と一緒に並べてあったインスタントコーヒーを確認して、食器棚から賢木が愛用しているマグと、いつの間にか用意されていた僕用のものを取り出した。底が深くてたくさん注ぐことができるそれは、地味に重宝している。次に賢木と休みがあったときにでも、僕の家に置くための同種のものを買いに行こうかと虎視眈々と機会を狙っているのだが、なかなかどうしてうまく行かない。だから、今日こそはと思っていたのに、残業をすませてスーパーとレンタルショップによったところで賢木の食事催促に負けてしまったのだ。
 丸みをおびた電子ケルトがかちりという音をたてて、湯がわき上がったことを教えてくれる。マグの中に目分量でインスタントコーヒーを振り落としてお湯を注いだ。
「コーヒー、ブラックでいいか?」
 キッチンカウンターの向こう。ソファにだらしなく腰掛けていた賢木に声を投げかけると、イエスの代わりにひらひらと手を振られる。
 子供たちを五人かかえているいつもの頭で料理に臨んでしまったせいか、分量を抑えめにしたつもりでも作りすぎてしまった。テーブルに料理を並べきった瞬間に、これはやりすぎたかとあたまを抱えたのだが、賢木は途中でギブアップすることなく完食してしまったのだ。だが、その反動でソファと仲良くお友達になっている。
 食べてすぐに寝ると牛になるぞと口では言ってみたものの、自分の作ったものをおいしといって食べてもらえることほどうれしいことはない。特に、女性を伴っての外食が多く、いろいろな店の味を知って舌の肥えている賢木に料理を認めてもらえるのは、自分の作ったものが人に喜ばれる嬉しさと、自らの実力を認められたような誇らしさがあった。だからいつも少し張り切って、子供たちには向かないような料理をめいいっぱい作ってしまったりするのだ。しかもフルコースで。
 まだ冷蔵庫の中で眠らせているプリンを思い浮かべ、浜辺に打ち上げられた魚のようになっている賢木と天秤にかける。コーヒーを攪拌しながら波打つ水面を目でたどっていると、作ったからには食べてもらいたいという自分に優しい選択へと傾いていく。
「実はデザートも作ったんだけど、どうする?」
 息絶える寸前だった賢木は、少しは楽になったのか、レンタルしてきたDVDの入ったバッグ(しかもレンタル上限まで借りてきたかのように大きめのものだ)をだきかかえて何枚かを並べ物色していた。それらをカードのように扇形に広げたまま振り向き、緊急手術の必要な急患に直面したときのようなまじめな顔をしていた。いったいどんなDVDを借りてきたらそんなに悩めるというのだろうか。純粋に疑問だ。
「さすがにもう無理。ガキどもは帰省してるんだろ? 今日は泊まってけよ。朝食代わりにするぞ」
 チルドレンたちは実家へ帰省していて、バレットとティムは僕には計り知れない類の用事があるとかで忙しそうにしていた。お世話になるならついでに明日の朝食を作るのもやぶさかではないのだが、冷蔵庫の中を思い浮かべるとプリンとつりあうようなメニューを思いつかない。
「朝は和食でいこうかとおもったんだけど」
「じゃあ味噌汁と焼き魚とプリンで。たしか鮭もカゴに入れてただろ」
「よく見ていらっしゃる」
 たしかに、賢木の言うとおり、冷蔵庫の中にはまだ使っていない鮭が眠っている。当初は泊まるつもりもなかったので、夕食のメインディッシュにするはずだったのだが、これ以上作っても食べきれないと鮭を無駄遣いする前にブレーキをかけた。
 しかし、メニューの中でプリンだけが浮いている気がする。最初からそこに並べること前提だったなら、抹茶のプリンを作ったのにと少しだけ負けたような気持ちになってしまう。
「なあ、いまむっちゃくちゃ悩んでるんだけど」
「えっ、なにが?」
 いまから抹茶プリンに鞍替えするべきかとレシピを思い浮かべていたところを、賢木によって呼び戻される。珍しく深刻な表情を浮かべた賢木は、重々しいため息を落として手のひらで額を覆った。影の落ちたその表情からは、ただ事ではないという雰囲気が漂ってくる。ソファの上に積み上げられているDVDがなんだか場違いだ。
 自分の中にある自分らしさを踏み越えぬよう、ひょうひょうとした振る舞いを取ることの多い賢木が、自らの困惑を第三者に吐露するのは珍しい。それほどまでにあいつを悩ませていることなのだと思うと、プリンなどに後ろ髪を引かれている場合ではない。こういうときこそ力になってやるんだと、ぎゅっと手のひらを握りしめて、まっすぐに賢木をみた。
 蛍光灯の光を受けて爛々と輝く黒茶の瞳とかち合って、決意を身のうちに飲み込むように唾液を嚥下する。どんなことがきても受け止められるはずだ。
「あのな、おまえって、女子高生と人妻ならどっちがいい?」
 沈黙、空白、瞬き。そしてまた沈黙。自分を落ち着けるように下を向いて、マグの中身を凝視した。攪拌の名残をのこしてぐるぐると渦を巻いていたコーヒーの水面に、無心になっていく。
 ええ、ああ、うん?
 じょしこうせいとひとづま?
 じょしこうせいとひとづま?
 うん?
 呪文のように唱えてもても、そこに付随する重要な悩みを感じることはできない。ああ、女子高生と人妻ねと、頭の中で漢字変換されたらされたで、よけいわけがわからなくなった。だが、僕に混乱の火種をおとしてくれた賢木は、理解が追いつかない僕とは対照的にその命題に真剣に向き合っているらしい。あぐらをかいた太股に肘をついて頭をかかえ、すっげぇ悩むんだけどと低く吐き出した。苦悩の滲むその声音は、嘘を言っているようには思えない深みがあった。
 はたと、その選択に何か意味があると気づき、まさかとあわててマグを両手に持ってキッチンを出て、哲学者のように物憂げな表情を浮かべている賢木の前にどんと置いた。前途有望な女子高生の人生をゆがめることも、人のご家庭を破壊することも断じてあってはならないことだ。
「ま、迷うってまさか、おまえついに女子高生と人妻に手を出したんじゃ!? あれだけ人様には迷惑をおかけするなと!」
 賢木の犯そうとしている暴挙をとめようと、きっとにらむように声をあらげる。勢いついでにテーブルを殴ってしまったせいで、マグが揺れコーヒーが波打った。だが、いま自分のあずかり知らぬところで人生の岐路に立たされている女性を救うためなら、コーヒーがこぼれるくらい些細な被害でしかない。しかし、僕の心から叫びを聞いた賢木は、心外だとでも言いたげに唇を曲げただけだった。そしてそれが身の潔白を証明する唯一の手段であるというかのように、ソファの上に散らばっていたDVDを手にして、ずいっと僕の目の前に突きつける。
「一応おまえのためを思って勇気を出してロリ系も借りてみたんだけど、パッケージ的に全然ロリじゃなかったわ。たぶんおまえのお眼鏡にはかなわねぇだろうな」
「だからそのネタやめろっていってんだろ! というより話がみえないし、今後僕の前でロからはじまりンないしはスで終わる単語を口にしたら遠慮無しでおまえの生活態度と交友関係について説教するぞ! あとこんなに近くちゃ盤面みえるわけねぇだろ!」
 勢いよく怒声を吐き出して、眼鏡のレンズぎりぎりに押し付けられていたDVDの片方を乱暴に奪い取った。プラスチックケースの中にはよくある一般的なDVDが入れられているのだが、なんていうか、あの、すごく、タイトルがおかしい。「団地妻、夫は知らない昼下がりの(僕の心の平穏のために以下略)」と印字されている。これが人妻だとしたら賢木の手の中に残っているDVDには女子高生が以下略みたいなタイトルが踊っていることだろう。悩んでいるといわれて真剣に向き合おうとしていた僕がバカみたいじゃないか。
「団地妻ってなんだよこれ! なんかたくさん借りてると思ったら、こんなもん何枚もレンタルしてくるな、叩き割るぞ!」
 いまならプラスチックケースごと真っ二つに割ることができる気がする。無限の可能性を感じて手にしていたそれに力をこめる。すると、賢木が慌てたようにとめに入った。
「おい、やめろ弁償するの俺だぞ! あと、唐突にAVみたくなるときとかあるだろ? おまえも男ならわかれよ」
「わかるか!」
 プラスチックケースをソファの上に乱暴に叩きつける。パンッと小気味言い音がして、ケースが僕たち二人の間に落ちた。それを拾った賢木は、じゃあ人妻からいくかと頼んでもいない能天気な結論をだして立ち上がると、DVDプレイヤーにそれを挿入して足取りも軽くもどってくる。
 弾みをつけて腰掛けた賢木に、ソファのスプリングが僕の気持ちを代弁するような悲鳴をあげた。しかし、無機物のソファが僕の内心を理解してくれたというのに、同じ人間であるはずの賢木には微塵も伝わっていないどころか逆回転している。おまえは本当にサイコメトラーなのか。
「そんな意地になっちゃってー皆本くんだって本当は気になってるんじゃないの? ガキどもと四六時中いっしょでこういうのにもおちおちと手を出せないわけじゃないですかあ。息抜きしてほしいなっていう友達を思う気持ち伝わってこない? あれ、ちょっと頬があかいですよー?」
 賢木はにやにやとだらしのない笑みを浮かべて、僕の肩に手を回してきた。その腕から逃れようと身をよじっても、逃がさねぇからなと意地になった賢木がぐっと腕に力を入れて逆効果になっただけだ。しかもいつの間にか賢木の手の中にはDVDプレイヤーのリモコンまで握られていて、このまま鑑賞会になだれ込む気満々だ。それだけはどうしても阻止したい。なにが悲しくて賢木とそういったDVDをみなければいけないのか。
「僕を巻き込むな。一人でみればいいだろ!」
 リモコンを奪い取ろうと手を伸ばすが、ぐっと肩を押し付けられ手の届かない位置まで持ち上げられてしまう。おまえは小学生かと突っ込みたくてしょうがないが、小学生よりも知恵が回るだけ面倒だ。完全に調子に乗っている。僕が焦るほどに賢木の悪戯心を刺激してしまうというのは、長い付き合いで分かっていたはずなのに、ちょっと頭に血が上って全力で背中を押してしまったようだった。坂道の頂点から直滑降で加速度的に転がり落ちていく。
「えー、いいじゃんはじけていこうぜ。皆本もさぁ、後学のためにみとけよ。ベッドのうえでなにしたらいいかわかんないとかじゃ相手の女の子がかわいそうだろ?」
「おまえにベッドの上のことまで心配してもらわなくても大丈夫だ!」
 どうしたらここまでして人の地雷を踏み抜いていくのか、いっそ潔いくらいだ。遠慮なしに賢木の頬に拳をめり込ませると、思ったよりも綺麗にストレートが入る。頬の骨とぶつかった自分の手にもダメージが返って来た。
「いってぇ!」
 殴られた頬を抑えてうめき声を上げた賢木。黒茶の瞳は少しだけ涙ぐんでいるようにも見えた。さすがにちょっとやりすぎたかと身を引いて、自分が殴った場所に触れて謝罪をすると、にやりと口角をあげた賢木がリモコンの再生ボタンを押した。
「騙まし討ちにやられるとは詰めの甘いやつだよ」
 おまえにはがっかりしたとため息をついて頭を抱えた賢木。駄目なのはどっちなんだよ。こんなくだらないことに全力になって、しかも人の好意を踏みにじりやがって。いってやりたいことはたくさんあるというのに、目の前の大画面に鑑賞時の注意と、メーカー名が表示されて慌てて視線を逸らした。
「うわっ! 止めろよ!」
「いーやーだーねー。まあ、コーヒーでものんで落ち着いてろ」
 既に生ぬるくなったコーヒーを差し出されてもそんなものを飲む気にはなれなかった。
 僕も男なわけだし、AVをみることを否定するわけじゃない。だが、ここで賢木と一緒になってみるということが問題なのだ。世には奇特な方々がいて、人に見られて快楽を得るなんて人種も存在しているらしいが、こういった極個人的なことを第三者と共有する趣味も趣向も意義も僕にはない。
 もたもたしている間に本編映像が始まってしまい、堪えきれずに立ち上がろうとすると、僕の肩に腕を回していたままだった賢木が、意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んでいた。黒茶の瞳には酷く狼狽している僕が映りこんでいるのだろう。その証拠に、賢木はとても楽しげに瞳を輝かせている。
「逃げるなって、いいじゃんちょっとくらい」
「よくない! 恥ずかしいだろ」
 目の前の映像から逃れるように膝の上で両手を握り締めてぎゅっと目をつぶって下を向く。すると余計に耳から入ってくる音が気になって、今度はその音を遮断しようと耳に手をやる。だがそれを制するように賢木の手のひらが、僕の手を握り締めた。
 薄目を開けて画面を確認すると、淑やかそうな服装をした女性が家事をしている姿が映し出されていた。完全に画面のつくりは安っぽく、どこかはめこみ合成みたいに浮き上がった違和感がある。だが、それを差し引いたとしても、そういう趣向のビデオなんだから、これからこの彼女が性行為を行うのだと思うと、それだけでいけないものをみてしまったような気になってしまう。性欲がないとか、興味がないとかかまととぶるわけではないが、自分が賢木や薫ほどにこういった類のことに積極的ではないことはよくわかっていた。
「賢木、本当にむりだから」
 たのむと弱々しく吐きだすと、賢木が息を呑むのが伝わってきた。もしかして、やっと僕の気持ちを理解してもらえたのだろうかと、ねえと乞うように賢木と視線をあわせる。だが、黒茶の瞳を瞬かせた賢木はごくりと生唾を飲み込むと、おまえはそんなんだから駄目なんだよと、低い呟きを落として僕の背中をぐっと押してテーブルとソファの間へとすべり落とした。突然のことに抵抗するとこも叶わずされるがままになってしまう。しかし、そのお陰で賢木の拘束が解けた。チャンスとばかりにすぐに立ち上がってこの地獄から逃げ出そうとする。だが、それよりもワンテンポはやく賢木が僕の肩を押さえつけた。
「皆本、ちょっと前出ろ」
「前って、僕はもう」
「いいから、いいから」
 なにがいいのかまったく理解できないが、ぐいぐいと背中を押されて、ほとんど無理矢理、前進させられる。そして、僕を捕まえるようにソファと僕の間に賢木が座り込んだ。
「ちょ、何だよこれ! 本当に無理だって明日のプリンがどうなっても知らないからな!」
「安心しろ、俺が責任持って食ってやる。ほーら皆本君、これで逃げられないぞー」
 笑みを多分に含んだ声音が、賢木の胸と密着した背中から伝わってくる。ほぼ賢木の足の間に座らせられている状態で、さらに賢木の腕は僕の腹の当たりに回されていた。そして付け加えるならば、スーツに身を包んだ訪問販売の男が、ついにインターフォンを押したところまで場面は進んでいる。
「ここらへんはたるいから早送りな。寒い芝居見ててもしかたねぇだろ」
「いい、ずっとここでいい!」
「えー、盛り上がるのはこのあとだろ」
 僕の必死の懇願も空しく、賢木は鼻歌交じりでチャプターを飛ばして彼がいうところの本番とやらまで画面を切り替えた。なにがどうなってそうなったのかはわからないが、さっきまで貞淑そうな顔をして夫のために掃除をしていた若奥様が、ほとんど服をはだけた状態で男に組み敷かれていた。スカートを中途半端にずり下ろされ、ボタンの外れたブラウスからは豊満な胸が零れ落ちている。彼女の口元から漏れるのは、鼻にかかった甘い声。卑下た笑みを浮かべた男が白い胸に手を這わせたのを見た瞬間に、たまらずに目を閉じて素数をそらんじる。だが、それを邪魔するように、賢木の声が耳朶を撫ぜた。
「男同士なんだから、そんなに恥ずかしがるなよ」
「おまえはもっと恥ずかしがれよ!」
「いいだろ、こういうのも本能じゃん? ちゃんと普段からつかっとかねぇと、そのうちたたなくなるぞ」
「おまえはいっそたたなくなれ!」
 そのほうが世の中の女性もさぞかし平和に暮らせることだろう。僕の真摯な思いに、酷いやつだなあと気もなさそうに笑った賢木は、聞いてもいないのに目の前で上映されている場面を事細かに実況してくれる。耳元に落とされる吐息交じりの声音は、作ったように低く芯があり腰の辺りに響く。それに重なって聞こえてくる女の喘ぎ声に、そらんじていたはずの素数の間に、賢木の言葉と拾った音声から再構築した映像がノイズのように走る。こういうときばかりは己の優秀すぎる頭が恨めしい。
「なあ、あの女の子すっげぇかわいいぜ。大人しそうな顔してるくせに、うまそうにしゃぶってる」
 ごくりと、無意識のうちに唾液を嚥下した。それを賢木に知られるのが恥ずかしくて、いやいやをするように首を振って唇を噛み締める。なあ皆本と、僕の名前を呼ぶ賢木の声も震えていて興奮しているようだ。ぴちゃぴちゃという水音にまじって聞こえる賢木の呼吸音に、まったく別の二つのものを組み合わせてどんどんと倒錯的な気持ちが湧き上がってくる。
 恥ずかしい。顔が熱い。目の前で繰り広げられている情事の断片を賢木と一緒になって拾い上げているのだと思うと、この異常な状況に自分の気持ちも高ぶっていることが分かる。ただ録画された映像を再生しているだけなのに、僕を後から抱き締めている賢木の熱が、一度パッケージされてしまった商品としての欲望を、生々しい温度のあるものへと変質させていった。自らの意志とは関係なしに徐々に下腹部に熱が集まるのが分かる。ぎゅっと腹筋に力を入れて熱を散らそうとするのに、こんな状態に興奮を覚えている自分を自覚したときにその熱に拍車が掛かった。それでも、賢木にはその事実を知られたくなくて、もぞもぞと体を動かし自然に姿勢を変えた。
「もしかして、たっちまった?」
 賢木の囁きに、一気に頭が真っ白になる。羞恥と、屈辱と、混乱が入り混じって、いろんなものがもう限界を訴えていた。そう許容量の多くない器の中になみなみと情欲がつがれ、あふれ出てしまっている。それは分かりやすい身体反応として発露して、さらに僕に追い討ちをかけた。
「と、トイレ! いってくる!」
 咄嗟に立ち上がろうとするのに、賢木は僕のゆく手を阻むように僕を抱き締めていた腕に力を入れると、興奮で熱を持った手のひらが僕の頬をなで頤をつかまれぐっと顔を上げさせられる。ぶつかった黒茶の瞳はどうせ揶揄するような色をしているだろうと思ったのに、全然違った。獲物を狙う肉食獣のように細められたチョコレートを思わせる双眸。いまにも溶け出しそうな熱量を感じさせるのに、それを押し殺すように口元に浮かぶ笑みがアンバランスだ。
「まあ落ち着けって。お兄さんが楽にしてあげようじゃないか」
「な、なにいってんだ! やめろって!」
 無遠慮に下肢にのびる賢木の手。身を守るように膝を立てて体を小さくする。だが賢木は、僕の抵抗をあざ笑うかのように緊張させていた内股にスラックスの上から触れて、耳朶に軽く歯を立てた。濡れた吐息に身を震わせて、離せともがくのに、返ってくるのは駄目だとすげなく断る言葉。たしかに賢木には心の中までみせたことはあるが、こういったデリケートな部分を共有できるほど僕は奔放な人間ではなかった。
「そう重く考えすぎるなよ、ちょっとした悪ふざけだろ」
 軽薄ぶって軽く肩を竦めた賢木。だが、低く抑えた声色はかすれていて、欲望の片鱗かそれに近いものを感じさせた。別にとってくわれるなんてそんなことを考えているわけじゃないけれど、どうして賢木とこんなのっぴきならない状況に陥っているのかが理解できなくて、余計に焦りが沸いてくる。
「僕はこういうおふざけは嫌なんだ」
「安心しろ、責任もって気持ちよくしてやるから」
「そんな責任いらない! セクハラで訴えるぞ!」
 平行な会話を交わらせるつもりもないらしい賢木は、チシャ猫のような笑みを浮かべて僕のベルトに手をかけた。抵抗しているはずなのに、まったくそれが通用していない。ベルトを外す金属音が硬いフローリングに落ちて、友人にこんなことをされているんだという事実と不道徳さにずくずくと埋火がともるのを感じた。
「やっぱおまえも男だよな。こういうの見て興奮するんだ」
 劣情をあおるような賢木を拒絶するように首を横に振るのに、熱を持った場所にスラックスの上から触れられて、そのもどかしさに腰が揺れた。こんなのは駄目だと思うのに、この異常な状況に体よりもそれを統べる頭が波立っている。
「う、うるさい。本当にだめ、やめろって」
「そんな弱々しく言われてもなあ」
 本当は嫌がってないんだろ、期待してるんじゃねえのと、僕の欲望をいやしむように笑いまじりの声が落ちる。自分でもどこかで感じていた、この状況を甘受してしまいそうな快楽に弱い自分を言い当てられたようで、堪えきれずに僕の腰に回された賢木の腕に爪を立てた。
肩に顎を置いて覗き込んでくる賢木を避けるように面をあげると、目の前では男にもてあそばれてあられもない声を上げている女性が映されていた。犬のように四つん這いになって、後ろから性器をいじられ感極まったように床に頭を擦りつけ、その振動で大きな胸が揺れている。薫たちがあげる猫なで声なんかよりも甘くとろけそうなそれに、腰が重くなった。冷静な自分が崩され、押し隠している欲求が零れ落ちそうになるのをやり過ごすために、強く唇を噛み締める。
 賢木の指は僕の浅ましい興奮に反応するようにスラックスの前をくつろげて、下着の上からゆるく勃ちあがった性器の形をやわらかく辿っていく。じれったい刺激に、鼻に掛かった声が漏れた。やわやわともみしだかれて、血が集まっていくのが分かる。それだけでももう頭がパンクしそうなのに、あいているほうの賢木の手が、ワイシャツのボタンを外していき、肌着の下から侵入してきた。やさしく肌をなぞられそのくすぐったさに身を震わせる。すると、少し油断したところで一際強く性器をすりあげられた。
「はっ、あ」
 自分のものであると信じがたい、鼻にかかった声。それに気をよくした賢木の指先が、性器全体をやさしく包み込んで刺激を与えてくれるのに、下着越しのそれは決定的な快楽を先延ばしにするようにゆるゆるとしたもので、よけいにもっと強い刺激を求める声が強くなる。
こんなの駄目だと思うのに、恥ずかしいと思うのに、その気持ちが強いほど、ずくずくと腰の奥がうずく。たまらずに賢木の手に腰をこすりつけると、皆本と熱っぽく名前を呼ばれて、それさえもが僕の興奮をあおった。布のざらざらとした質感が、また新たな刺激となって僕を苛む。体から力が抜けて、背後にあった賢木の胸に背中を預けてしまう。ふれあった場所から伝わる体温は、僕に負けず劣らず熱くて自分だけが欲情しているわけじゃないんだと、意味のわからない安堵が脳裏をよぎった。
 滲んだ視界を取り戻すように目を瞬かせると、目じりから涙が零れ落ちる。肌をもてあそんでいた賢木の指先が拭っていった。
「さか、き」
「ん? もう嫌か?」
 こうようにその名を呼んだのに、いまさら聖人君子みたいな顔をして、無理強いはよくないよなと申し訳なさそうな素振りで僕の性器を解放した。明確な快を意識した途端に手放しにされたその場所は、痛いくらいに脈打ち、もっと快楽が欲しいというように自己主張している。その疼きに耐えかねて内股を擦り合わせるようにすると、僅かな振動にさえ尿意に似た気持ちよさを感じて熱をはらんだ呼気が漏れた。無意識のうちに次の刺激を待ち望んでいる性器へと手を伸ばそうとすると、それを遮るようにして賢木が僕の手のひらを掴む。もうわざととしか思えないその行為を責めるように眼鏡の奥から睨みつけると、そんな目で睨まれても効果なんてねぇよと意地悪く言われてしまう。じわじわと外堀をうめるような賢木の言動に、はやくはやくと快楽を求める体が焦れていく。いままでは疎ましく羞恥をあおるだけだった映像も、いつの間にか女性が大きな胸に男の性器を挟み込んでやわやわとしごきあげ、赤くなった先端を舐め上げられている男が心地よさそうな声を上げているのが羨ましくて仕方なかった。
「さかき、あの」
 言葉にするのが恥ずかしくて、視線を落として繋ぐようにしていた手のひらをぎゅっと握り締める。なのに、やましい欲望なんてありませんとそ知らぬふうを装った賢木は、どうしたんだと答えのわかりきった白々しい質問をくれるだけ。いままで獲物をいたぶるように僕をもてあそんでいたおまえはどこにいったんだよ。
 言葉に詰まって、もういっそサイコメトリーしてくれと思念を送ってみても、口元を三日月のようにした賢木からは何の反応もかえってこない。つまり口で言えというわけか。もういっそトイレにいかせてくれれば一人で何とかするのに、そう思った瞬間に拘束が強くなった。くそ、やっぱりこいつサイコメトリー働かせてるんだろ。
 もうやってられるかと、いっそやけくそになって繋ぐようにしていた賢木の手を逆手に引っ張り、放り出されたまま熱を持て余していた性器に触れる。欲しかったものが与えられた、その満足感に肺腑を満たしていた熱い息を吐く。でも、すぐにもっと強い刺激が欲しくなって、たまらずに、賢木の胸に自重を預けて、ぎゅっと爪先でフローリングを蹴った。下着を持ち上げていたそれは僅かに濡れていて、すでに体が欲望を満たされるまで止まらないところまできていることを意識した。
「さかき、もうぼく、だめ」
 それしか知らないみたいに、名前を呼ぶ。それは声高に欲望のありかを叫ぶ掠れた声だった。知らない誰かみたいに媚びたそれ。駄目押しのように賢木の体に自分の体をすり寄せると、共有している熱に誘発されたように、かぎなれた賢木のにおいが鼻腔に広がる。
「くっそ、おまえなんなの本当に!」
 児戯の皮を被った戯れを持ちかけたのは賢木のほうなのに、逆切れするみたいに上ずった声音。でもそれは怒りというよりも情欲に浮かされた男のものというほうが納得できた。
「腰上げろ」
 投げ捨てるようなそれに小さく頷くと、スラックスを中途半端に脱がされる。そして、僕が欲情していることを証明するように濡れていた下着をさげられ、いままで押さえつけられていた性器が顔を覗かせた。冷たい外気に触れただけなのに、背中がぞわりと震えて唇を噛み締める。
 節くれだった賢木の指先が、躊躇うことなく僕のものに触れる。手のひら全体で竿を握った賢木は、上下にしごいていく。強弱をつけたその動きに、体が欲していた直接的な快楽が競りあがってきた。もっととねだるように腰を揺らすと、ざらついた指先が敏感な先端を優しく撫ぜた。さんざんあおられた体は、そんな単純かつ明快な刺激にさえ、たまらなく気持ちよくなってしまう。
快楽を伝導する神経そのものに触れられたようで、思わず唇を噛み締める。すると、いつだってたくさんの人を愛しむように救おうとする指先が、唇をこじ開けるようにして口内に忍び込んできた。
「噛むなら、指にしろ」
 口腔に忍び込んできた指先は、ぐいっと舌を掴んでその表面をなでる。ぞわりとした感覚に背中を震わせ、飲み込みきれなかった唾液が口角からたれていく。お返しみたいにその指に舌をからめて、代償行為のようにわざとらしく水音をたてた。すると、快楽に従順になりつつある僕をあざ笑うことなく、さらに追詰めようとする指先が、もう濡れはじめたつるつるとした先端を押しつぶすようにして尿道口を抉った。強すぎるそれに、痛みなのか快楽なのかもよくわからない痺れが、下半身を中心に広がっていく。
焼け付くような疼きに、声にならない喘ぎを漏らした。宥めるように、まだじりじりとした熱を持て余したままの亀頭をなでられて、迫り来る尿意に似た感覚にぎゅっと内股に力を入れて耐える。
「皆本、すごいやらしい顔してる」
 欲望を殺すことさえ放棄したような賢木の言葉に、見られているという羞恥心が一気に迫ってきて、たまらずに口内を犯す指を噛み締める。それに連動するように一際強く性器をしごき上げられて、間の抜けた喘ぎ声が漏れた。そんな自分の姿にさえ性感を高められて、きっかけだったはずのAVなんてただのバックミュージックのようになっていた。
 透明な先走りを浅黒い指先に馴染ませて、円を描くように先っぽを擦られる。きもちいい。ただそれだけで頭の中が埋め尽くされていく。それを僕に与えているのが賢木で、こんなはしたないところを大事な友達に見られているんだという羞恥さえ、背徳感をともなった快楽へと塗り替えられていった。
 僕の口腔を好きなようにしていた指が抜かれ、名残惜しむみたいに唇をなぜられる。唾液に濡れてべたべたした指は僕の性器にからみつくようにして、ぬるぬるとした新たな感覚を与えてくれた。
「はっあ、さか、き、もっとして」
「さっきまでの、強気はどこいったんだよ」
「うるさい、男ならわかれ、よ!」
「それ、ちょっと前の俺の台詞」
 くすくすと笑った賢木は、黒茶の瞳に確かな情欲の光をともして、僕を見た。その間にも、愛撫する手は止まなくて、快楽に翻弄される渦中にある自らを観察されていると思うと、たまらなくあおられた。彼だけがいまの僕に救いを与えてくれるみたいに、必死になって賢木の名前を呼んで、僕の性器を好きなようにしている手のひらに自分のものを重ね、足りないものを求めるみたいに力をこめる。
「んぁ、きもち、」
 あと少し、もう少し。しまりのない声が漏れて、もう本能のおもむくままに、性器を擦っていく。皆本と名を呼ばれて賢木を見ると、彼がごくりと唾液を嚥下したのがわかった。興奮している。僕が気持ちよくなるのをみて、こいつがどうしようもないくらいに興奮しているんだと思うと、その熱が伝播したように、腰の奥が気だるく熱くなっていく。ぐりぐりと先走りにぬれた穴を抉られて、唇の裏を噛み締めて快楽をやり過ごす。もうすこしで、快楽を受け止めていた器が限界を向かえそうだった。
 とろとろと漏れる精液の混じったような白濁色の先走りに、指先がべたつく。浮きそうになる腰を抑えて、迫り来る解放を待ち望むように瞼を閉じると、途端に賢木の手の動きが止まった。
「や、なんで」
 泣いているのかと思うくらいに濡れた懇願。だが賢木は、こたえの代わりに、僕の臀部に熱くなった股間を押し付けた。男として当然の反応を催したそこは、僕に負けず劣らずの自己主張をみせていて、その摩擦によってもたらされた刺激に、賢木が熱っぽい吐息を漏らした。
「わりぃ、俺ももう限界」
「やっぱ、トイレ」
「いまさらだろ! ちょっと待ってろ、ストップたんま。いいか動くなよ」
 必死になっていまさら逃げるなと言い募ってくる賢木がおかしくて、苦笑すると苦虫を噛み潰したかのような顔をして睨みつけられる。よくみると、耳が赤くなっているんだけど、こんなところまできてしまって照れるっていうのもなんだか変な感じだ。余計におかしくなって口元を緩めると、男だからしかたねーだろと舌打ちしならが一人ごちるようにいった。
「どうしよう、僕もしたほうがいいのか」
「だから、待ってろって」
 言うがはやいかソファの上からクッションを掴んでフローリングに放りだす。二個のそれはばらばらに床に転がった。抱き締めていた僕の体を解放して、ついでに半脱ぎになっていたスラックスも脱いじまえといわれ、大人しく下着とそれを脱ぎさって、上半身は着たままという酷く間の抜けた格好になる。もうここまでこれば怖いことなんて何もないだろうと、半ばやけになりながらうえも脱いでいく。
皺にならないように服をたたもうかとしていたら、それを投げ捨てられて、ぐっと肩を押して床に横たえられた。何事かと視線をさ迷わせていると、頭の下にクッションを押し込まれる。もぞもぞと体を動かして据わりのいい場所を探していると、カチャカチャと賢木がベルトを外す音が聞こえてきた。音源に視線をやる。既に上半身裸で乱暴にジーンズと下着を脱ぎ捨てていた賢木と目が合った。普段は服の下に隠れてしまっているが、内勤であるにもかかわらず鍛えられた体は、均整のとれた筋肉のつき方をしていて、伸びやかで逞しい男らしさを感じさせた。本人がもてるもてると連呼しているので、少々疑ってしまう部分もあるのだが、ふとした瞬間に見せる表情やこういった男性的な部分に、女の子達は惹かれて行くんだろうなとぼんやりと思う。あと、同じ男として下半身のほうに目がいってしまうのもしょうのないことだ。すでに勃ちあがったそこ。僕を追詰めながら、賢木も興奮していたのだと言外にするそれに、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「いまちょっとかっこいいとか思っただろ?」
「ばかか」
 僕の上にのしかかってきた賢木が、悪戯っ子のように目を瞬かせて尋ねてきた。だが、それに対して正直に答えるのも癪で、半眼になってぎゅっと鼻をつまんでやる。その変な表情に小さく笑いを漏らすと、その指を取られてぐっと噛み付かれた。人差し指を根元まで深く含まれて歯を立て、その痛みを癒すみたいに舌で舐められる。一旦収まりかけた疼きがもう一度よみがえってくるのを感じ、賢木の太股に下半身を擦りつけた。
 友達同士で、こんなの変だ。そんなのわかっている。でも、もう流されるままにここまできてしまって、当然のように賢木から与えられる快楽を享受して、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。何よりもこの状態をいやじゃないと感じている自分が、一番どうしようもなかった。だから、はやく次を頂戴とねだる代わりに、甘えるみたいに僕の上にのしかかっている友達の名前を呼ぶ。
「嫌ならいえよ。突っ込んだりはしねぇけど」
 突っ込んだり、という予想もしていなかった言葉に体がかたくなる。それを何と勘違いしたのか、逡巡するみたいに視線をさ迷わせ、そのくせすがるみたいに僕の手を握り締めるどうしようもない男に小さく笑った。もう本当に、いまさら。嫌ならもっとはやくにやめている。眼鏡を外して、邪魔にならないようにソファの上に置いた。見えないからしょうがないんだと自分を正当化する言い訳を、ここにいない誰かにするみたいに心の中だけで呟いて、ぎゅっと賢木の頬を掴んでこつりと額を重ねた。
「責任、取ってくれるんだろ」
 大きく見開かれた黒茶の瞳。アクセサリーのようにつけられた手首のリミッターが揺れる。僕がチューニングしたそれを賢木はこのんでつけてくれているようだった。
「やっぱ萎えたとかなしだかんな」
「じゃっかんちょっと」
「がんばれ皆本の下半身」
 余計萎えるようなおふざけを口にした賢木は、それでも僕が拒絶しないことに安堵したのか、少しだけ硬度をうしなった性器に手を伸ばした。無理だったらいえよと、耳元で囁かれた言葉。股を開くように膝裏を持ち上げられて、もう一つ転がっていたクッションを腰の下に敷いて高さを調節される。まるで正常位で犯されるようなこの状況と、明るいところで大股を開いている現状に、すでに薄れつつあった羞恥がぶり返して、顔が熱くなる。
「賢木、これはさすがに」
 僕の股の間で立て膝をしている賢木に、抗議の声をあげると、あと少しの辛抱なと宥められてしまう。無理なら言えといったくせに僕の訴えは棄却されてしまう。これじゃあ痛かったら手を挙げてくださいといって挙げさせるだけの歯医者とかわらないじゃないか。
 いったい何をされるのかと、診察室でおびえる子供のような心境でいると、賢木がのしかかってきて熱を持ったものが性器に触れる。うすぼやけた視界で下半身を確認すると、賢木の手が僕のものと彼のものを二本まとめて握っている衝撃的な映像が飛び込んできた。先端と先端を擦り合わせるぬるりとした感覚に、分かりやすい悦楽が下半身から湧き上がってくる。賢木の動きに合わせるように腰を揺らすと、前よりも強い摩擦が生じて、たまらず声が漏れた。二人分の先走りがまじりあって、重ね合わせたところから倒錯的なねばついた音が漏れた。視覚的にも聴覚的にも、自分たちが快楽を共有しているのだということを突きつけられて、体よりも精神的なものが高ぶっていくのがわかる。いつも一緒に働いて、笑って、苦しんで、隣にいることが当たり前だった賢木とこんなことをしているという現実に、どうしようもない後ろめたさとそれを打ち消す貪欲な疼きを感じた。
「さかき、きもちいい」
「くっ、俺も」
 眉根を寄せて堪えるように熱を吐き出した賢木は、お互いの性器を扱くスピードをはやくしていく。一度、吐精の直前でお預けをくらった体は、簡単に快楽に理性を明け渡し、それしか知らないみたいに必死になって腰をこすりつける。浮遊感と、解放を求める熱のうねりにうかされるように、空を掴んだ手のひらを賢木の手のひらが掴んだ。ふわふわとした不安定な中で確固たる物をつかめたような気がして、繋がった手のひらを握り締め、その名を呼ぶ。ぎらぎらとした肉欲を宿した賢木の瞳に、いったいどんな僕が映っているのかはわからない。だが、こたえるように瞬いた黒茶色が、泣きそうに歪んでいた。なんで、とそう思うのに、思考はまとまらなくて、断続的な快楽の中に飲み込まれていく。
 雁首と雁首がひっかかって、ひっと変な声が漏れた。もう夢中になって性器を擦り合わせながら、賢木の熱をむさぼった。これ以上はないと思うはずなのに、更に陰茎が張り詰めて悦楽を受け止める器が満たされる。足がつりそうな痛みさえも、バカになった頭は快楽へと変換していく。
「あっ、も、っだめっ」
 自分であげた嬌声に、意識が押し上げられる。断続的に与えられる気持ちいいだけの刺激に、足が宙を蹴る。助けを求めるように繋いだ手のひらを引くと、上半身を倒した賢木が僕の目元を、傷を癒そうとする獣みたいに舐めとった。
「みなもと、みなもと、泣くな」
 自分のほうが泣きそうな顔をしているくせに、なにを言っているんだ。既に共有しているのは快楽だけじゃない。動物的本能で性的な気持ちよさを求めるのとは別のところで、もっと賢木に触れたかった。そんな顔させたいわけじゃないのにと思う。だのに、ただ与えられる快楽に従順に腰を振るだけの自分が憎い。なにか、なにかと思って視線をさ迷わせると、同じように正常位でセックスしているぼやけた男女の姿が飛び込んできた。そこに、僕と賢木の影がかさなる。ぐちぐちと性器をしごき合わせ、ただただ気持ちいいという感覚に、頭が追いついていかない。あいていた腕を賢木の首に回してすがりつくと、のしかかるように距離を詰められ、額や鼻梁に唇を落とされる。そして、下半身の密着が増したことで、ぐいぐいと陰茎が押しつぶされて、もう言葉になっていない声と唾液が漏れる。
「うあ、ああ、あっ」
 融解しそうな熱をはらんだ下肢がいやらしい音を立てて、どちらのものとも分からぬ先走りが交じり合う。あっあっと息も絶え絶えな喘ぎを漏らしながら、賢木の体温を求めるように体を重ね合わせるとそれだけで総毛だった。嫌じゃない。ぜんぶ、嫌じゃない。結局、試すみたいに問うのは、賢木のどこかにまだ癒えきらない傷があるからで、僕はそれを癒す方法を知らなくて、いや、その苦しみを少しでも軽くしたいと思うことさえ賢木を苦しめる傲慢でしかないのかもしれなくて、でも、それでも性欲とか本能とか、そういうのだけじゃなくて、溶け合うような何かからもっとちがうものを伝えたくて、夢中になって賢木へと手を伸ばす。でもそれは迫り来る真っ白な快楽に飲み込まれていって、ただ欲望に忠実な自分しか残らない。せめて何かと、体を満たす呼気を吐き出して、どろどろと溶けていくような性感に身を震わせる。
「さか、きっ、あっ」
「おれ、もういきそう」
 唇を噛みしめ、眉根をぎゅっと寄せた賢木の額を汗が流れ落ちていく。身のうちにくすぶる熱を堪えるように、繋いだ手のひらに爪を立てられ背中が震えた。
「ぼ、くもっ」
 ぐちゃぐちゃと頭の中が犯されていく。正常な思考などなげうって、体の中を満たしていく乱暴な悦楽に体を明け渡す。賢木の指先が乱暴に亀頭に爪を立て押しつぶすと、とぷりと先走りが漏れて、両足で賢木の腰を挟み込んだままぐいぐいと真っ白な快楽だけを追い求めていく。
「ふぁっ、さかき、すき」
 ああそうだと、そう思った。じんじんと体の隅々を駆け巡っていく感覚に支配される頭の中で、自分が紡いだ言葉がこれ以上ないくらいにかけたピースに合致した気がした。だから、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしている賢木を安心させるように笑う。
「すきだよ、あんしんしてっ」
「み、みな、くっ」
「ひあっ、いくっ」
 がくがくする腰をこすりつけて、体中を走り抜ける電気に瞼を閉じる。すると、腰の奥が解けて賢木に与えられた熱に翻弄されるまま、ぶるりと体を震わせて吐精した。僕に遅れて少しして、賢木が詰めていた呼気を吐き出して、身を揺らす。そして、下腹部を生あたかいものが汚した。
 全力疾走したあとみたいに息が荒い。体中を倦怠感が支配していく。吐き出した精液はべたべたして気持ち悪いのに、もうそれを拭う気もおきなかった。DVDプレイヤーのリモコンが視界に入ったので、とりあえず目に悪いだけの猥褻映像だけは何とか遮断する。そうすると、部屋の中は静まり返り、僕たちの呼吸音だけが響く。よく知る賢木の部屋で、二人して下半身を擦り付けあって射精までしてしまったという、非常事態が突然重々しいことのように目の前に突きつけられて、羞恥と焦燥がない交ぜになる。
「おもい、どけよ」
 汗に濡れた体を遠慮なしに預けてくれていた賢木の頭を軽く小突くが、反応は芳しくない。僕と同じように肩で息をしている。距離が近いせいか、お互いの心臓の音まで聞こえているような気がした。心臓が破れてしまいそうなくらい激しい鼓動を落ち着けるように深呼吸をすると、揺れる声音で名前を呼ばれた。
「実はちょっと後悔してる?」
「なにが?」
「俺とこんなことしちゃったこと」
 蚊が鳴くみたいに頼りない賢木の台詞に、いったいどんな顔をして喋っているんだと僕の肩に顔を埋めたままのその表情を覗きこんでやろうとするが、抵抗するようにぐいぐいと額を押し付けらてちょっと痛い。
「まあ、ちょっとは」
 勢いで友人と自慰の見せ合いっこどころか性器を擦り合わせるところまで完走したとして、そこに一片の悔いもないという人間が存在するとしたら一度お会いしてみたいものだ。いくら男が下半身の欲求には弱いとはいえ、ちょっとムードに流されすぎたかなというあれもある。だが、僕の後悔という言葉と、賢木の後悔という言葉は違う意味合いを持ったものだったらしく、どうしてだかすまない悪ふざけがすぎたと途切れ途切れの弱々しい口調で謝られてしまう。
 たぶん、これはよくない予感がする。
 反射的に体を反転させて、僕の上に乗っかっていた賢木を振り落とす。床に頭を打ちつける鈍い音がしたし、苦痛を訴える声も聞こえたし、本来の役割を果たせなかった下半身を汚しているべたべたしたものが太股を伝ってフローリングを汚すが、そんなことを気にしていられない。ソファとテーブルの間に裸で男二人寝転がって顔を見合わせて、何が楽しいのかもよくわからないけれども、軽薄に振舞うくせに案外打たれ弱いこいつのことをほっといたらそれこそ僕の方が悔いるだろう。
 頭を抱えて痛みに喘いでいる賢木の頬を掴んで、迷子の子供みたいに頼りないその瞳を覗き込んだ。
「謝るなよ。嫌なら殴ってる。その、あれだよ! は、恥ずかしいだろ! 僕はおまえほどこういうことに奔放じゃないんだよ!」
 チルドレンをのぞけば日常生活の中で誰かとべたべたと触れ合うようなことはしない。ましてや、性欲を誰かにぶつけることも、暴かれるなんてこともありえない。拒絶というよりは気恥ずかしさゆえの、距離感というか。そもそも、賢木とこういうことをして嫌じゃないというあたりが僕にとってなにかキーポイントになりそうな気もするんだけど、これ以上考えるとよくないことにしかならないと僕の直感が言っているので、件に関しては永久に保留のままにしておきたい。そして、そのまま忘却のかなたへと消え去ってくれないだろうか。
「一回でも女とやっちゃったら、責任とって結婚まで一足飛びでいきそうだもんな」
 混ぜっ返すように茶化す口調。余計なことを言うなと軽く頭突きをかまして、ぎゅうっと頬をつねってやる。もういっそ僕の心の中全部覗き見るくらいすればいいんだよと言ってやりたいのに、妙なところで律儀に、そして自分が持つ能力が決してノーマルの人間を踏みにじることのないように、彼は彼の定めたラインを遵守しその領域を侵さない。自分を戒め、他者を思いやることができる、気を回すことのできる賢木がすきだった。それを彼は、持つものと持たざるものの区別であり、波風立てずに生きていくために否応なく身につけた処世術でしかないというが、そういった心遣いを出来るところが彼の優しさであり、そして誠意の一つだ。ノーマルだとかエスパーだとかじゃなくて、賢木という人間の根幹に好ましいものを感じるからこそ、こうして隣にいることができるんだ。もちろん、ちょっと悪ふざけが行き過ぎてしまったのはプラン外だけれども。
「おまえのことが、いやなわけじゃないから。いっただろ、すきだって」
「皆本」
 甘えるように名前を呼ばれる。こちらを伺うような視線に、首を傾げて応える。雨に濡れた土のような黒茶の瞳は逡巡するように揺れていて、どこか落ち着かない。それでも真っ直ぐに僕を射抜く。まるでこの場所に縫いとめようとでもするかのように。
「キスしてもいいか?」
 熱を吐き出して冷静になった頭が、思考することを放棄した。キス、魚のことかと、なんだか穏やかな気分で受け止める。でも明日の朝はキスじゃなくて鮭なんだ。焼き魚だから網の掃除がちょっと面倒かもしれない。ならせめて、寝るまでに下準備くらいはと頭の隅で考えていたのに、賢木の指先が僕の唇に触れたところで、それは希望的観測にすぎなかったことを悟った。もしかして、魚じゃなくて、口と口を合わせるほうのあれですか。
「えっ、それはちょっと」
 いまのさっきで、というよりもどういった理由で賢木とキスをしなければいけないのかわからない。してもいいときかかれて、いいですよなんて二つ返事でオーケーできるほど、ハードルの低い問題ではないだろう。しかし、案外平然と拒絶の言葉を受け入れた賢木は、難しい顔で僕のことを上から下まで吟味すると、小さく頷いて視線を合わせた。怖いくらいに真っ直ぐなそれに、体が緊張する。
「じゃあ、おまえに突っ込んでもいい? いまなら俺いける気がする」
「もっと無理に決まってんだろ!」
 ハードルがさがるどころか、十段飛ばしで雲の上まで駆け上がったような提案に、賢木の横っ面をひっぱたいた。だが、その攻撃に対して不満げな色一つ見せないで、逆に僕の手をとると、はなれることを厭うよう引き寄せられる。
「だって、すきっていったじゃん」
 俺もおまえのことすきかもと、妙に晴れやかな顔をして笑った賢木が、ぎゅうぎゅうと僕のことを抱き締めた。いうまでもなく下半身は何も身につけていないので、非生産的な行為の犠牲となった精液のべたつきまで共有することになる。熱を吐き出し凪いだ気持ちになったいまとなっては、それは不快な汚物でしかない。だが、賢木はそんなこと気にもしないで、好きだ皆本と僕の耳元で囁いた。だから、突っ込ませてって、おいムードもへったくれもないなこいつ。もてるとか嘘だろ、この流れでなびく女の子がいたら一度膝を交えてお話してみたい。彼女の今度の健全なる生活のために。
 この状態はおかしい。なのに軌道修正を可能とする選択肢をみいだせない。愛しているだとかすきだとか、そういった類の言葉が僕と賢木の間に適用され、まかり通ってしまっている。いままで僕たちがたっていたのはそんな土俵じゃないはずなのに。賢木はまだこの状況を理解しきっていない僕を置いてきぼりにして、熱心に口説き落とそうとしてくれている。耳朶を撫ぜる低い声音、濡れた吐息。どこか浮き足立ったそれ。でも、真っ直ぐに僕を見ている黒茶の瞳は怖いくらいに真剣で、そしてその土色から僕は目を逸らすことができない。頭の中が真っ白で賢木の求めるもを即決で与えることも、求める関係になだれ込むことも出来ないとわかっていたのに、決定だとしての拒絶を与えるつもりはないずるい自分をどこかで感じ取っていた。
 少し高い位置にあるテーブルの上に放置されたマグカップが、酷く遠い。僕にとっての日常だったその陶器に、手が届かない。暢気にコーヒーを入れていたときの自分が羨ましくさえある。なにがどうしてこうなって、いったいこれからどうなるというのか。貧相な想像力しか持ち合わせていない僕には、着地点も終着点も見出せない。いままでぶつかったどんな問題よりも難しいこの状況に、とりあえず、いますぐ抹茶プリンをつくろうと、そう思った。僕にはそれくらいの抵抗しか、残されていないのだ。






13・03・30