床に敷かれた布団の中で、来るのかもわからない眠気を待ち望むように寝返りをうった。既に電気の消された室内は、見慣れた自室ではなく、なし崩しにとまることになった皆本の寝室だ。本当はソファでもいいと申し出たのだが、おまえの身長じゃ苦しいだろと有無を言わさずに引きずられてきてしまった。後ろから薫ちゃんたちの刺すような視線を感じたのだが、あれは気のせいであったと信じたい。じゃなければ明日あたりからかなり面倒な復讐劇に巻き込まれそうだ。
 幼い彼女たちなりに必死になって自分の庇護者たる皆本を独占しようとしているのは分かっているし、皆本のような存在がどれだけ貴重かということは、いまさら論じるほうが愚かなくらいだ。だが、あまりにも真っ直ぐすぎるその想いと、受け手の皆本の鈍感さとのあわせ技で、甚大な被害と盛大なとばっちりをともなった幼い恋が牙をむける標的は無差別だ。
 男の嫉妬は見苦しく、女の嫉妬は恐ろしい。
 まさにその言葉をあますことなく体現した三人娘たちは、いまごろ三人寄れば文殊の知恵どころか、三人寄って俺を地獄に突き落とす算段を考えているのかもしれない。子供の無邪気さゆえの手加減なしの報復に、布団の中にいるはずなのに、ぶるりと身震いがした。
 まったく、恋とは恐ろしいものだ。
 そう、彼女たちは皆本に恋をしている。それが擬似恋愛なのか、運命の恋なのかは知らないが、どうしようもないくらいに皆本光一という人間に心を奪われてしまっている。いや、自ら鍵を開けて招き入れたといってもいいのかもしれない。たぶんそれは、ほほえましいなんて範囲を超えて、既にのっぴきならないものになりつつあった。管理官はふざけたように三人の誰かと関係を持てと皆本をせっついているが、堅物の皆本がそんな軽率な行動を取れるわけがない。それどころか、子供とは己が庇護するべき存在であるという信条を引っさげて、母であり父であり兄であろうとしている。そしてその煮え切らなさが、また少女達を加速させていく。
 皆本の優しさは美徳であり、悪徳だ。
 どれだけ恋焦がれようとも、皆本は一人しかいない。そしてあいつはただ一人の人間しか愛すことのできないかたっくるしい男なのだ。だから、いつかは選択という現実を突きつけなければならない。それを知りながらも、ただただ純粋に想いを表現し思慕を重ねることが出来るチルドレンたちが羨ましくさえあった。それはもう、臆病な俺には手を伸ばすことが出来ない真っ直ぐなものだから。
 不毛な思考を打ち払うように寝返りを打って、家主が眠りについているベッドを見遣る。小さく名前を呼んでみたが、返ってくるのは安らかな寝息だけだ。
 音を立てないように注意しながら起き上がり、皆本のベッドの端に手を付いた。暗い室内の中で、白いシーツがやけに生々しくうつる。悪いことをしているわけでもないのに、見えないものに咎められるような後ろ暗さを感じ、それをやり過ごすみたいに息を殺した。
 どんな夢を見ているのか知らないが、安穏とした寝顔で睡眠を貪っている皆本は、眼鏡がないせいかいつもよりも幼く見えた。コメリカで初めてであったあのころを髣髴とさせるそのあどけなさに、あれから歩んできた道のりを思いかえして、随分と遠くまで来たものだと我ながら年寄りじみた考えを持ってしまう。シーツの上に乱れた黒髪を手慰みのように梳くと、むずがゆそうな鼻に掛かった声を上げて眉根を寄せる。もしかしておこしてしまっただろうかと身を硬くすると、構えていたことがバカらしくなるほど穏やかな呼吸音が聞こえただけだった。
 なにをそんなに必死になっているんだと落ち着きのない自らに苦笑して、だらしなくベッドに上体を預け、乱れたシーツに肘をついて手のひらに顎をのせて皆本の寝顔を覗き込んだ。お人よしを人として書き起こしたらこんな人間になるのだろうと断言できるその表情に、訳もなく笑ってしまう。
こんなにも長く、誰か一人の人間の隣にいたのはどれくらいぶりなんだろうか。
 まあ人生いろいろあったし、悲観したくなったときも、それなりに上々だと口笛を吹きたくなったときもあった。統計をとれば、ギリギリマイナスのほうが優勢になるくらいの割合。だが、こと人間関係においては、割り切った付き合いをすることが多かった。詩的に表現するなら、刹那的なんていってみてもいいのかもしれない。だがそこに、字面ほどの哀愁も感傷もない。どちらかといえば、もっと事務的で、お互いに後腐れなく人間関係を構築していくための手段だった。だから余計に、そういったあり方とは対照的な場所に、それこそねじれの位置みたいにして存在している皆本という男と、いま現在も深く繋がりを持っていることが不思議でしょうがなかった。
 俺が自主的に関係を維持することに尽力している人間がいると、すでに関係を絶った女の子たちに吹聴してまわったら、同性同名の他人に違いないと力説されることだろう。そしてまたそれをこいつに聞かれたら、そのただれた人間関係と、考え方を改めろと説教を食らうことになるのだ。そのさまをありありと想像できてしまって、反射的にいやちがうんだと何がちがうのかもわからない言い訳を脳裏に浮かべすぐに打ち消す。その一人芝居のような間の抜けた流れに、脱力した。
眠っている相手にこんなに必死になるのが悔しくて、八つ当たりついでに皆本の鼻をつまんでやる。薄く眼鏡焼けした鼻梁を掴むのにあわせて苦しげなうめきが漏れて、逃げるように寝返りを打たれてしまった。だが、俺の方に転がってきてしまっては何も意味がないだろと突っ込みたくなる。その矛盾した行動に、ふき出してしまう。
 無意識に毛布を引っ張りあげて落ち着きのいい場所を見定めたらしい皆本は、眉間の皺をゆるめるとガキどもと同じような平和な寝顔をみせる。カーテンの隙間から漏れるかすかな明かりに照らされたその姿は、笑い出したいくらいに穏やかでぬるま湯にでも浸っているようだった。誰かの隣にいることでこんなにも安らぐことができると教えてくれたのは、誰でもないこいつだ。
 昔から、いや能力が発露してから、人を憎み見下すことには慣れ親しんでいた。いまさらながらに思えば、それはたぶん幼い自分なりの自己防衛のきらいもあったのだろう。そしていつの間にか、その自衛手段は、我が物顔で俺の中にのさばりそれを日常へと変質させていった。それが絶対的に悪であったと断言することは、まだできない。人の心の中を覗き見ることで、美しい仮面の裏側のどす黒いものや偽善が指の間をすり抜け、その生々しい温度だけを俺の中に刻み込んでいったのだから。それを薄めて毒をろ過していくために、自分には必要な防護だった。
 だから余計に、こんなにも誰かを真摯に思うのはいつ振りなのだろうと考えてしまう。しかし、すぐに実例が思い浮かばない。女の子達と遊ぶときには、たしかにその子に対して何らかの執着や欲望を抱いてはいるが、それは即物的で代えのきくものだ。でもこれはちがう。これはそんなに安っぽく簡単なものではない。じゃあなんだと問われると、即決することは難しい。友情であり愛情でありそして憎らしく思うこともあった。全部が全部ない交ぜになって、俺の心の深くまで根ざしてしまっている。もう、自分でも手のつけられないくらい深くやわらかい場所にまで及んでしまったそれに、圧倒されることもあった。
 名づけられない、その方法をしらないから。たくさんのラベルを用意してみるのに、そのどれもがしっくりこない。ただ、皆本という男がどうしようもないくらいに俺のことをかき乱した。それだけは違えようもない事実だった。
 だから余計に、なおさら強く、迷いなく全力でぶつかっていくガキどもに羨望さえ覚える。そこまで単純明快に分かりやすく求めることが出来たなら、踏み出すことができたのならと。
「ほんとうにおまえは、どうしようもないやつだよ」
 俺たちエスパーをたらしこんで、受け入れて、なのに最後の最後で誰か一人のものになってくれやしない。いつか、誰か一人のものになってしまう。でも、それまでの有限にさえ、さめて欲しくないと願ってしまうような夢を見せるのだ。そのやさしさが何よりもいとおしいのに、なによりも俺たちを追詰めていく。
「ん、」
 小さく漏れた声音がしずやかな室内に響いて、意味を成すこともなく消えていった。こんどこそいつだって真っ直ぐに前だけを見据えている鳶色の瞳が俺を映してくれるかと思ったのに、意味のわからない言語が続いただけだった。いっそ叩き起こしてやろうかとベッドに手をついて皆本にのしかかるように見下ろす。薄暗い中に浮かぶおさなっぽい寝顔を見ていたら必死になっている自分があほらしく思えて、せめての復讐みたいに柔らかな頬をつついてやった。その指先から伝わったぬくもりに誘発されるように欠伸が漏れて、長い夜の折り返し地点にいたってやっと、眠れそうな気がした。





13・03・02
13・03・27