見ているわけでもないバラエティ番組を右から左に浪費しながら、自宅でくつろぐような気安さでソファにもたれかかる。来客としての扱われることも少なくなった俺の最後の砦である粗茶という名のコーヒーは、俺の好みを熟知した甘さでとても好ましい。
 珍しく残業も緊急呼び出しもなく定時に帰宅できたとあれば、鼻歌でも歌い出したい気分だった。その影響か足取りも軽やかに、宙に浮いたままになっていた約束の埋め合わせとして、皆本の作る夕食のご相伴に預かる約束を取り付け、現在に至る。
 ガキどもがゲームに興じているのを遠目で監督しながら、程よく空腹を訴える胃をなだめていると、備え付けの電話が鳴った。ナンバーディスプレイに名前の表示はない。何桁かの数字の羅列があるだけだ。人の家の電話を嬉々としてとるような性癖は持ち合わせていないが、何度かのコールをすぎてもあきらめないところを見ると、それなりの用件なのだろう。
 皆本のいるキッチンを振り返ると、ボウルを手にした彼が顔を覗かせていた。どうするかと問いかけると、いま手が放せないから頼むという明らかに心ここにあらずの声が返って来た。この後の晩餐の為なら仕方ないかと渋々立ち上がって、受話器に手を伸ばす。
「もしもし、かさ、いや皆本です」
 ノイズの多い電話の向こうで、考えるような間が空く。もしもしと、もう一度確認するように問いかけると、それを追うように聞き覚えのあるいけすかない忍び笑いがまじった。とっさに室内を見回すが、特に異変はない。受話器を肩と耳の間に挟んで、気づかれないようにリミッターをはずし室内全体にサイコメトリーを走らせた。だが、何らかの罠が仕掛けられているような違和も歪みも感じられない。
「おや、僕は皆本の家に電話をかけたつもりだったんだが、ヤブ医者もついに問題児認定されてあいつのお世話になることになったのかい」
 忌々しいぐらいに人の神経をさかなでする声音に体の全神経が拒否反応を起こして、思わす受話器を握りつぶしかける。
「はぁ? 黙ってろこの真性ロリコン! てめぇなんの用だ!」
「うるさいよ色情狂。きみみたいな性欲のみを原動力として生きる狭量な男は知らないかもしれないが、電話というのはそこまで叫ばなくてもしっかりと音声を伝えてくれる。覚えておきたまえ」
「いちいちしゃくに障るやつだな!」
 殺しきれないいらだちを吐き出すように壁を殴りつける。自分でも驚くくらいきれいに入った拳に、大げさな音が鳴った。感情が高ぶっていて力のコントロールがうまくいっていないせいか、壁に残った掃除に怒りをぶつける皆本の思念まで読みとってしまう。
「連絡網だよ」
「はぁ?」
「言葉の意味も分からなくなったのか?」
「いちいちうっせぇぞ!」
 受話器の向こうで薄笑いを浮かべているであろう兵部の顔を殴りつける代わりに舌打ちをして、唇をかみしめた。言い回しの端々から人を小馬鹿にする雰囲気しか伝わってこない。こいつは会話している相手をいらつかせる特殊ライセンスでも持ってるのか。
「おまえもな。だから、学校の連絡網なんだよ」
「なんでおまえが」
「これでも保護者なのでね。明日の校外学習は雨天の場合も弁当が必要だから忘れるなと」
 怖いくらいにまっとうすぎる連絡事項に、兵部相手というだけで突っかかっていた自分の方が聞き分けのない子供のようでいたたまれなくなってくる。それを兵部に悟られるのは更にいまいましく、メモ取るから待ってろとそれらしい言い草で誤魔化した。ここで一言多くせめてこればいいのに、おとなしくせかされるだけで、よけいに調子が狂う。
 電話の隣にメモはあれどもなぜだかペンが見あたらない。弁当弁当雨天に弁当とそらんじながらあたりを見回すと、訝しげな顔をした皆本と視線がぶつかった。
「おい、大丈夫か? へんな電話なら切れよ。進学塾も英語教材も羽毛布団もいらないからな」
 お玉片手に諭すその姿からは、主夫の貫禄がにじみ出ている。子供の使いじゃあるまいしと苦虫を十匹くらい噛み潰したかのように、頭をかきむしって遠回しに現状を表現する。ちらりと、携帯型ゲーム機の対戦に夢中になっている薫ちゃんたちを確認したが、こちらの異変には気づいていないようだった。
「あー、連絡網だ、連絡網。明日、雨でも弁当な」
 連絡網というキーワードに感じるものがあったの、皆本は憎しみだけで人を殺せそうに眼光鋭く受話器を睨みつけると、低い声で一言さっさと叩き切れと一刀両断する。その迫力たるや、チルドレンたちも怯えそうな負のオーラを背負っていて、人間の二面性をのぞき見たようなばつの悪さにただただうなずいた。
「わるい、待たせた」
「本当にだよ。メモくらい電話のそばに用意しておくように、キミのご主人様に伝えておいてくれ。くれぐれも連絡内容を忘れるなよ。女王たちにも関わることだ、確実に」
「おい、ご主人様って」
 弁当ぐらいでいちいち大げさなんだよと突っ込んでやろうと思ったが、それよりも聞き捨てならない言葉に眉根を寄せて言い返す。いっそ皆本の言うとおり受話器をフックに叩きつけるべきか否か逡巡したが、兵部の愉快そうな声色にフックを下げる直前で手がまとまる。
「だいすきだろ、あいつのこと。忠犬みたいに従順じゃないか」
 あいしているといったほうがいいのかなと、粘ついた響きが耳朶に触れた。揶揄するようなそれに、息が止まるかと思った。
 ただの電子音が毒のように体中を駆けめぐり、心臓が早鐘のように打つ。手のひらが汗でべたついて、受話器が滑り落ちそうになる。いますぐなにかをいわなければと思うのに、饒舌なのは脳内だけだ。俺の動揺をカウントするように、ディスプレイに表示されている通話時間だけがやけにゆっくりと経過していく。
「まぁ、そううろたえるなよ」
 こちらが見えているかのような余裕を感じさせるゆるやかなしゃべり方。あいつなら、こちらの状況を覗き見ることくらい朝飯前だろうが、そんな無駄なことをしているとは思えない。たぶん、俺が動じているのを感じ取って趣味も悪くからかって楽しんでいるのが関の山だ。そうだと、分かりきっているはずなのに、脈動は落ち着いてくれない。知られてはならぬ隠し事を知られてしまったように、焦りと不安に満ちていく。
「あいつは筋金入りの鈍感さ。ヤブ医者殿の健気さも、通じていないのだろうね」
 かわいそうに、同情するよ。紡がれる言葉は、そんな気持ちなどさらさらないような、皮肉げなものだった。どちらかといえば、遠目に見える悲劇を楽しむような、そんな残忍ささえ覗かせている。いや、そう感じているのは兵部が、俺が誰にも言えぬまま心の奥に抱えている酷く薄暗くもうどうしようもないくらいに切羽詰ったところまできた、友愛なんだか情欲なんだか執着なんだかわからない重々しいものに、言葉という形を与えてしまったからだろうか。
「おや、否定しなくていいのか? 沈黙は金というが、無言は肯定という考え方もある」
「うるせぇ、黙ってろ」
 無性に喉が渇いて仕方なかった。唾液を嚥下して渇きを誤魔化すが、そんなものじゃ子供だましにもなりはしない。耳元が熱く、喉の奥が痛い。皆本がいつまでも電話を切らない俺のことを、心配そうに伺っていることがわかったが、なんでもないというように手を振ることしか出来ない。安心させるように軽薄な笑みを浮かべてみようにも、引きつってしまいそうで怖かった。
 皆本の前で、隠し続けていた己をさらけ出すような真似だけはしたくない。他の誰にでもない、あいつにだけは、決していえない。すると、俺の思考を読み取ったように、兵部の冷ややかなテノールが揺れた。
「きみのそういった一途さは案外嫌いじゃない。大多数の善人的な意見に烏合しているが、その実本質を覗き込めば、いっそ潔いまでのエゴイスティックな感情論で動いている。守りたいものの拡大解釈はさぞ美しい理想論として掲げられているんだろうね。とても人間らしい精神活動だ」
いつ馬脚を露わにするか楽しみにしているんだけど期待を裏切らないでおくれよと、まるで友達同士の気軽さでいわれてたまらずに受話器を叩きつけた。苛立ちまじりの舌打ちは、結局敗北宣言にしかならない。
 あいつにいったい何がわかる。エゴイスティックで何が悪い。実感のない空虚なものを守りたいわけじゃなかった。愚かな子供でしかなかった俺をしかって手をとって隣にいてくれたものをいとしいと思って何が悪い。
 結局、何の役にも立たなかったメモを握りつぶして、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「おい賢木、大丈夫か?」
 背後から投げかけられる皆本の心配そうに揺れる声。兵部によってゆすぶりをかけられてぐちゃぐちゃになった頭を落ち着けるように深呼吸してから、ゆっくりと十数えて振り返る。
「ああ。あのジジイ誰にも相手してもらえなくて暇してるんじゃねーの?」
 道化のごとく軽口を叩いて軽くウィンクすると、皆本は目に見えて安堵したように胸を撫で下ろした。こいつが俺のことにまで気を揉んでくれていたのかと思うと、後ろ暗い欲望が満たされていくのを感じる。これが薄汚れたけがらわしいものであるかどうかなんてもうよく分からなかった。身の内に飼い殺しにしたままの感情は、既に御し難いほどに俺の中を蝕んでいる。
「たまに連絡網という名の嫌がらせの電話を掛けて来るんだよ」
 憎憎しげに電話を睨みつけた皆本。そこからは皆本と兵部の連絡網を肴にした攻防を想像することが出来た。
軽くいなすように肩をすくめて、漂ってきたいい匂いに惹かれるようにキッチンを覗きこむと、そろそろ料理が完成しそうなことがうかがい知れた。皆本も、嫌な記憶を打ち払うように首を横に振って、鍋に向かう。
「手伝うことあるか?」
「ああ、食器出してもらってもいいか」
「おう、了解」
 皆本と背中合わせに食器棚を開いて、指示通りの皿や茶碗を取り出していく。いつの間にか俺専用になっていた食器やマグの類。いつも使っている箸。そこには皆本のテリトリーに組み込まれている自分の姿がある。別に頼んだわけでも自分で持ち込んだわけでもない。ただ皆本の隣で時間を共有していく中で俺に与えられた居場所の一つだった。そして、それは皆本という男の中に、賢木修二という男が存在することを許された証のようだと、一人浮かれるように夢想する。
「なあ、皆本」
「大きめの皿なら食器洗い機の中に、」
「俺たち友達だよな」
 ちょうど料理が出来上がったのか、カチリとコンロの火を止める音が重なる。ガキどもがはしゃぐ声が遠い。言葉にしてから、言うんじゃなかったと後悔したが、それでも皆本の口から肯定の言葉を聞きたいという、こいつとの繋がりを確認したいという、欲深い自分が存在していることも否定できない。だが、突き詰めていけば臆病者でしかない俺は、沈黙を恐れるようにやけに大きな音を立てて食器棚の扉を閉めた。
 それに連動するように、くるりと反転した皆本が救いようのない愚か者を見るような目でため息をついた。完全に突き放すような冷たいものじゃない。哀れみでもない。あたたかささえ感じさせるそれに、形ある証拠ばかりを欲する幼い俺がゆれる。
「あのな、いまさら友達じゃないとか言われたら、僕の方がショックを受けるぞ」
「いやー、なに俺? もしかして愛されちゃってる?」
 照れるわと、本心を煙に巻くように過剰反応してみせると、二酸化炭素を多分に含んだ呼気を吐き出した皆本が幼子を慈しむかのようにやさしく俺の頬にふれ、ぽんぽんと頭を撫ぜてくれた。まるで、おまえの言いたいことなどすべてお見通しだよといわれているみたいだ。
「それなりには」
困ったように笑った皆本は、少々癪だけどと作ったように固い声を落とした。
こんなことで喜んでしまう俺は本当に単純な人間で、そして純粋な気持ちを向けられているというのにこのまま抱きしめてしまおうかと欲望に忠実なことを考えてしまうくらいには貪欲だ。そして、男というのは往々にして欲望に弱い生き物だ。別に自分を正当化しているわけじゃなく。
ガキどもがみてねぇなら少しは許されるよな、これも友情の範囲内だと思い切って皆本を抱き寄せようとしたときに、いい雰囲気をぶち壊す甲高い声が聞こえた。キッチンの外から。
「あー! 賢木センセイ、セクハラ!」
「葵ちゃん、やっちゃって!」
「まかせて! 天誅!」
 さっきまでテレビの前でゲームに夢中になっていたはずの薫ちゃん、紫穂ちゃん、葵ちゃんの絶叫と、皆本が慌てたように目を丸くしたのはほとんど同時で、次の瞬間には見覚えのある浴槽への落下というお湯との感動のご対面を果たしていた。
「くっそ、あいつら腕白すぎるんだよ」
ぬれねずみになってしまった体を震わせて、お湯が滴る髪を掻きあげる。空の浴槽に落とされなかっただけまだましなのかとプラスに考えようとしたが、着衣のまま入浴する趣味のない俺にとっては洋服が張り付いて気持ち悪いだけだった。
 いつまでも入浴タイムを楽しんでいるわけにもいかない。浴槽の底で打った腰の痛みをごまかしながら立ち上がると、勢いのいい足音をバックミュージックに風呂場のドアが開け放たれた。
「大丈夫か!?」
「おう、薫ちゃんたちも手加減を覚えてくれたみたいで嬉しいぜ。いい湯加減だったわ」
「人を風呂場に沈めるのを手加減とはいわないぞ。よくない意味でならされてるんじゃないのか」
 頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた皆本は、ずぶぬれの俺を見下ろして手にしていたバスタオルを差し出してくれる。それを受け取って、いい湯加減なのは嘘じゃないんだけどなと笑うと、風邪を引く前に出て来いとせっつかれた。
なんて生ぬるい、友情ごっこ。
 一歩を踏み出す勇気を持たない俺には、この浴槽の中ぐらいがちょうどいいのかもしれない。守りたいものの拡大解釈だって、エゴイスティックな自己満足だって、眩しいぐらいに真っ直ぐに前を見つめることしか知らないこいつの隣に立って、こいつが愛するものを守り慈しむ手伝いができるなら、こいつのなかに無二の親友として刻み込まれるというのなら、それ以上なんていらないんだ。なあ皆本と、兵部の嘲笑を打ち払って同意を求めるようにその名を呼ぶと、ただ不思議そうに首を傾げただけだった。





13・03・19