皆本は見慣れた自分のテリトリーである部屋の中が、アルコール臭さに浸食されつつあることに眉をひそめた。料理酒を盛大に使いすぎたわけでも、彼自身が飲みすぎたわけでもない。成長過程のしかも最近は思春期まっただ中へと突入した微妙なお年頃の三人娘を抱え、彼女たちの健全なる育成のために恥ずかしくないように、そういったことには人一倍敏感に気を配りながら生活しているのだ。じゃあいったいなにがその気配りを無に帰すというのか。
 ため息まじりに蛇口を締めて、洗い終わった食器の水気を拭っていく。食器洗い機に入れてしまうには中途半端な洗い物を、そのままシンクに残しておくなど皆本には耐え切れなかったのだ。
無心で手を動かしながらドアの向こうのリビングへと視線をやると、皆本の頭痛の種は陽気に鼻歌など歌いながらソファにだらしなくもたれ掛かっている。しかも、最初から備え付けられていた家具か何かのように違和感なくこの場の雰囲気にとけ込んでいるが、よくよく考えてみるとすでに夜半もすぎた頃に賢木の襲撃を受けたことも解せなかった。チルドレンたちがもう眠ってしまって、どんちゃん騒ぎになることを回避しただけでも救いだったのだろうかというところまで考えて、自分の中のボーダーラインが徐々に低くなっていることを嘆かざるを得なくなった。
 乾拭きを終えた食器を食器棚にしまい込み、その代わりに来客用のグラスを取り出す。冷蔵庫の中からよく冷えたミネラルウォーターをつかみ取り、冷凍庫の製氷機からグラスに氷を放り込んでそれを注いだ。それを手にしたままリビングへと移動し、ご機嫌の賢木の隣に座る。
「賢木」
 水面の波打つグラスを、相変わらず出来上がっている賢木の前にドンと置くと、勢い余って小型の波が発生し、グラスの周りに水滴が散らばる。酔いの回りきった賢木はそんな些細なことさえも愉快なのか、皆本のミスをあざ笑うようににんまりとした笑みを浮かべた。
 もともと賢木との温度差の激しかった皆本は、わざと感情を逆撫でるような振る舞いに勢い余って拳を繰り出しかけたが、自分の手のひらに爪を立てることでこらえる。しかし、皆本の理性と友情と暴力的衝動のせめぎあいに気づきもしない酔っ払いは、目の前に出されたグラスに対して礼の一つも言わず、学術的興味をそそられた研究対象に向けるような好奇の混じった瞳で、透明な液体をにらみつけた。そこに一瞬だけ理知的な光を見たような気がして、ようやく酔いもさめてきたかと胸を撫で下ろしかけた皆本の良心を、賢木の言葉が勢いよくノックアウトした。
「うーん、日本酒? ならビールの方が、」
 不満げに頬を膨らませた賢木に向かって、今度こそ拳がでた。それを誰が責めることができようか。しかし、火に油を注ぐというか、逆鱗に触れるというか、ねらい撃ちするというか、酔っているとは思えない機敏さで攻撃を交わした賢木は、逆に皆本の拳を握りしめてそのままぐいっと自分の方へと引き寄せた。
「うわっ、」
 加減を知らない酔っぱらいの腕力に、抵抗することもできず倒れ込んだ。それを腕の中で受け止めた賢木は、ご満悦の表情で皆本の背中越しにグラスを手にして、よく冷えたミネラルウォーターを嚥下する。
「なんだ、水じゃん」
「酔い醒ましだ。それよりこの状態に何か思うことはないのか?」
 身をよじらせて賢木の腕の中から逃れようとする皆本。室内灯の明かりを反射したレンズごしに睨まれているのに平然としたまま悪びれもしない賢木は、わずかに悩むように目を細めて皆本を見やる。
「ありがとう、これ」
 グラスを掲げるようにして周回遅れの感謝を口にした賢木に、皆本の体から力が抜け抵抗の手が休まる。それはなんだか違うだろとコミュニケーションの難しさに辟易としながら吐き出した皆本とは対照的に、腕の中でおとなしくなった皆本に上機嫌の賢木。一気に空にしたグラスをテーブルの上に戻した彼は、弾みをつけるように皆本を引っ張り上げる。予測のつかない賢木の行動に尻込みするような情けない声を上げた皆本は、されるがままに賢木の膝に乗り上げ対面するように馬乗りになった。皆本の鳶色の瞳が、大人気なくはしゃいでいるせいで乱れた癖毛を見下ろす。
 どうしてだか、自宅のリビングのソファの上で賢木の膝の上に乗せられるというこの現実。絶対におかしいとずれた眼鏡をかけ直しながら思うのだが、男と接近して何が楽しいんだと声を大にして主張しそうな女好きの代名詞である賢木がこの状況を歓迎しているようで解せない。なぜこうなったのかと頭を抱え原因究明に思考をめぐらせても、因子になるようなことに身に覚えもないしきっかけも思いつかない。もしかして前世での悪行が起因となったのかと遙か遠くまで思考を飛ばしかけたとき、それをつなぎ止めるように賢木の手のひらが皆本の頬を包みこんだ。アルコールのせいなの熱があるみたいに火照った手のひらが、そこに皆本の存在を確かめるように輪郭を辿っていく。
「おい、僕のこと誰かと勘違いしてるのか?」
「みなもとはみなもとだろーしってるぞー」
 眠れば朝がきてまた夜が来るくらい当たり前のことを胸を張って宣言され、あきれ声をかえす。これぞ酔っぱらいと額に書き殴りたくなるのを飲み込んであきらめてされるがままになっていた皆本も、しかし、賢木の熱を持った指先が唇に触れようとしたときには、逃れるように身をよじってペンダントトップの揺れる胸元を押し返した。だが、酔っているくせに皆本を拘束しようとする力だけはしっかりとしていて、舌打ちをしそうになる。
あの運動不足だったころはどこへやら、煮え湯を飲まされたことを悔いて体を鍛えたこともあってか、皆本よりもたくましい体躯を押し返すことはできない。自らもチルドレンたちの能力や他のエスパーとの戦闘に備えて普段から筋トレを欠かさないでいるから余計に押し負けてしまったことが屈辱的だ。
負けるもんかと賢木を押し返す腕に力を入れ抵抗すると、二人を受け止めていたソファが限界を訴えるような軋みをあげた。その不穏な悲鳴に、いましなければならないのはそんなことではないはずだと、現実逃避しかけていた己を取り戻す。
「賢木、はなしてくれよ」
「い、や、だ、ね」
 一言一言わざとらしいくらいに滑舌よく言い切った賢木は、親指で皆本の唇に触れるとその感覚を楽しむように柔らかく押しつぶした。
 不快なわけではないが、されていて楽しいわけでもない。知り合いに目撃されたら死にたくなりそうな自分たちの姿に胃痛を感じながら、唇に触れていた賢木の指先をからめ取ると、あいていた腕が離れていくのを恐れるように皆本の背中に回された。子供返りしたのかと問いただしたいほどふれあいを求める賢木に、死ぬわけでもあるまいと悟りの一歩手前のように捨て鉢になった皆本は、自分の首筋に顔を埋める男の温もりを享受する。
 鼻孔をくすぐるのは、アルコールにまじるよく知る賢木のかおりだ。清涼感のあるオーデコロンは、すでに皆本の中で賢木という男に紐付けされてしまっている。皆本にとってその香りは日常を構成する一部だった。不快というよりは快に近いそれを楽しむように自ら額を浅黒い肩に押し付けた皆本を閉じ込めるように、背中に触れていた賢木の手のひらに力がこめられる。
 常日頃からスキンシップが多いこともあって、これも大型犬にのしかかられじゃれつかれているようなものだと自分を納得させながら、犬にしてはもふもふとした毛皮のような心地よさの足りない黒髪を優しくなでる。すると、連鎖するようにぬるりとしたなまあたたかいものが皆本の首筋をなでた。
 突然の感覚を処理しきれずに思考停止する。その間にも、見えない傷でも癒すかのような湿り気をおびた吐息とざらつきが、皆本の首筋を襲う。賢木が自分の首筋を舐めているのだとようやく理解が追いついたときに、世にも間の抜けた叫びをあげて体を堅くした。
「うわぁ! まて! まて! 賢木まて!」 
 ぞわりと体を走り感覚に背中をふるわせた皆本。愛犬のトルテにでも言い聞かせるように咄嗟の命令を下すが、酔いの回った駄犬にはのれんに腕押しもいいところだ。それどころか、賢木は反抗するように歯を立てて噛み付いた。はじめは確かめるように甘く、何度か噛み心地を味わってから、一際強く皆本の肌に白い歯を食い込ませた。皆本が体を緊張させ口元からうめきを零すと、それを取り除こうとするように温かい舌がいままで噛み付いてたい部分を舐めとる。歯型をたどるその舌先。赤く楕円を描いた痕に小さく笑った賢木は、もう一度その場所になにかを刻み込むように噛み付いた。
「いたっ、賢木やめろ」
 わんと、賢木の作ったような鳴き真似が耳朶を擽る。もしかしたら、犬のようだと考えていた自分を透視したのかもしれないという可能性に行き着いて、皆本は恥ずかしいのか悔しいのかよくわからないまま、こんどこそ平手打ちしてやると拳を握り締める。なのに、皆本の制止を聞いて首筋から顔を上げた賢木は、三日月みたいに口角をあげて自分の歯型を指先でなぞるだけだ。酔いで熱っぽい黒茶の瞳には喜色を見て取ることが出来た。
「自由すぎるだろ、この酔っ払い!」
 さあと、平手を振りかざそうとした皆本が、中途半端なところでスピードを落として、張り手をお見舞いするはずだった賢木の頬に視線をやった。
「赤くなってる」
 なにを言われているのかわからないのか小首を傾げた賢木。応えるように、皆本の指先が賢木の左頬をなでる。
「また殴られでもしたのか?」
 皆本の言葉を賢木が肯定すると、二人の間にため息が落ちる。今度は皆本が賢木の頬を両手でつかみ、視線を合わせるように上を向かせた。憮然としてため息をつく皆本。しかし、そんな皆本を前にしても、賢木は平然としている。それがまた、皆本のお堅い頭に重くのしかかった。
「今度はなんだ。待ち合わせのブッキングか街中で鉢合わせかそれともデート中にナンパでもはじめたのか」
 指折り数えながら理由を挙げ連ねる皆本。その声音はどこか冷たい。しかし、殴られた当の本人はそんなことは大した問題じゃないというかのようにいけしゃあしゃあと今までの敗戦理由を否定した。
「名前よびまちがえた」
「はぁ? これからはデート相手にお願いして名札でもつけさせてもらえ。というよりも、とっさにごまかせなかったのか、おまえならいけそうだけど」
「俺のこと何だと詐欺師かなんかと勘違いしてないか。ベッドの上ののっぴきならない状況で取り繕うにも限界があるぞ」
「ベッドの上って……」
 予想の斜め上をいくような理解しがたいシチュエーションでの痛恨のミスに、皆本は絶句した。そして、賢木の体にアルコールや馴染んだ体臭以外の情交の名残を意識してしまい頬に紅がさす。賢木はそんな皆本をからかうように、皆本りんご光一と理解不能な節をつけて歌い上げながらむにむにと頬をつついて口角をあげた。
「皆本君ったらじゅんじょーなのにむっつりなんだからぁ! 残念ながら服は脱いでいませんでした! あとちょっとってところで張り手喰らって一人酒ってな」
「まぜっかえすな!」
 完全にからかっている賢木の態度に鳶色の目を怒らせねめつける皆本。しかし、皆本がヒートアップするほど賢木の愉快な気持ちに拍車がかかるだけだ。それがまた皆本を躍起にさせることになり、賢木だけが楽しい堂々巡りの悪循環へと陥っていく。自分に不利な状況を打破するように、ぐっと賢木の肩をつかんでがくがくと前後に揺すぶりをかけた。
「そんなことばっかりしてて、女の子たちに見捨てられても知らないからな!」
「べつにいいもん」
「もんとかいうな二十四歳! もう少し下半身の管理と女性との付き合い方を省みないとそのうち大変なことになるぞ!」
「だから、べつにそんなのどーでもいいよ」
 皆本の勢いを受け流すようなどこかさめた口調。女性関係については病的なほどに執着しているはずの賢木の予想外の反応に、知らぬうちに息を詰めた。皆本をからかい、行過ぎたスキンシップに満ち足りた表情をみせていた賢木と同一人物とは思えない冷ややかで硬質な印象を受ける。
 一転してしんと静まりかえった部屋の中に、かすかなアルコールの香りと二人の呼吸音が響く。親友のまったく知らない仮面の裏側をのぞき見たようで、すわりが悪い。せめていつもの賢木の片鱗を探すように彼の名を呼んだ。なのに、賢木は皆本の願いを打ち砕いて、自分が残した歯形に指先を滑らせ、そこに何らかの証をたしかめる。
「どうでもいいんだ」
 深い土の中を思わせるような賢木の瞳は、瞬くことさえ惜しむように皆本を映す。その真っ直ぐな視線に自分の内側まで侵食されるような錯覚を覚えた。腹の奥から口舌しがたい浮遊感が這い上がってくる。これ以上は駄目だ。ざわざわと落ち着かない。だが、よく知る自らのテリトリーは他人行儀な顔をして、皆本と賢木の二人を静観するだけ。
 この皆本の焦燥さえ体温とともに賢木に伝わっているはずなのに、目で笑うだけでそれ以上を与えようとはしない。それどころか、甘えを含んだ声音で皆本の名を呼んだ。
「おまえだけいれば、それでいいよ」
 熱を帯びた、あまやかな声色。砂糖や蜂蜜なんかよりもとろとろとしたそれは、皆本の鼓膜を揺らして耳の奥を侵略していく。触れる手のひらが酷く熱い。まるでそれは、愛をこうようではないかという結論を頭の中ではじき出したときに、いままで気にもならなかった首筋の痛みが疼きへと変化して、皆本の脳髄を這い上がるような痺れが占拠していった。
「それだけでいいんだ」
 賢木は返事を求めることはなく、ただやさしく笑って皆本を見上げる。皆本の首筋へと置かれていた指先はいつの間にか皆本の唇へと触れ、そこから伝わった体温の名残を自らの唇で受け取るように弧を描く唇をなぞる。間接的な口付けを暗喩した賢木の行為に、皆本は自分の頬が赤くなるのを感じた。
「な、なにいってるんだ。僕は、」
「ん? おまえは?」
「僕は、女じゃない」
「みりゃわかる」
「きみは僕の大事な友達で」
「そうおもっていただけるとは光栄だ」
 一点の曇もなく無邪気に破顔した賢木は、手中の玉でも愛しむように皆本の黒髪をなでて、その手触りを楽しんでいる。
 どうして、なんでと、疑問符ばかりが皆本の頭の中を駆け巡っていく。単純に疑問だった。自らがどうしてそこまで思われているのか。どうしてそこまで、想いを向けられているのか。賢木の存在を軽んじているわけではない。むしろ、得がたい親友だとそう信じ、信頼してきた。そんなこと口にして確認したことはないけれども。
 皆本の混乱を感じ取った賢木は、呆然とした表情を浮かべている皆本を見上げ鼻が触れ合うような距離まで顔を近づけた。一気に接近した距離に皆本の肩が揺れ、鳶色の瞳が零れ落ちそうなくらいに見開かれる。
「キス、されるかとおもった?」
 笑みを含んだ声音が、皆本の鼓膜を揺らす。図星のそれに、自分だけが先走っているようで羞恥を覚える。しかし、賢木はそんなこと気にもしないで、こつりと額を触れ合わせ笑いに肩を震わせた。隣に並んで自分をからかうときとなんらかわらない賢木の反応に、自らが一体何を求められているのか、そしてどう位置づけられているのか分からなくて、逆回転にしかならない思考が皆本の中を埋め尽くしていく。静やかな水面に波紋を描いたのは賢木のはずなのに、自分だけがそれに翻弄されているようで落ち着かない。この場に相応しい解を探すようにさ迷っていた視線を賢木が拾い上げ、二人の視線が合わさる。
「なあ、気持ち悪いか?」
 なんでもないことのように吐き出された言葉。落ち着き払った声色が逆に、賢木の怯えを如実にあらわしているようだった。それを直感的に感じ取った皆本は、なにがとは問わなかった。それよりもはやく、延髄反射みたいに言葉が出た。
「そんなわけあるか! ばかなこというな!」
 ぐいっと賢木の肩を掴んだ皆本は、自分の指が白くなるくらいに強く力をこめる。そして、賢木に思念を読み取られてもいいように、きみのことをそんなふうに思ったことはただの一度もないと強く念じた。それが通じたのかどうかはわからないけれども、ほころぶように安らかな笑みをみせた賢木は、それだけでもう十分だと皆本を強く抱き締めた。遠慮なしに腕の中に閉じ込められ息が苦しいはずなのに、それよりももっとちがう場所が忍び寄るように不明瞭な痛みを訴える。それは苦痛というよりはひりひりと焼け付くような疼きといったほうがいい。賢木が形のないものを求めるように、皆本の名を呼んだときそれはよりいっそう強くなった。
 なにかが、皆本の中でゆらぐ。頬が熱く、賢木に触れている部分の体温が上がっていく。それがいったいどういった衝動を持ったものなのか見当もつかなかった。だが、自分にすがりつくように抱きつく親友の背中に腕を回したそのときに、どこかでスイッチが入るようなそんな音を聞いた気がした。





13・03・10