照明を薄暗く絞った室内に耳に心地いいジャズが響く。
 壮年の紳士を絵に描いたようなマスターのチョイスであると言われればなるほどとうなずきたくなるしずしずと響くメロディーラインの中に、それ以上の情感のこもった曲ばかりだった。水滴の滑り落ちていくグラスが置かれたL字のカウンターは、つややかに磨き抜かれた飴色をしていて、美しい木目がなまめかしい女性のボディラインを思わせた。そこに色を添えるように、摺りガラスを削って咲き誇る桜の模様が刻み込まれたアロマグラスが等間隔に置かれ、その中で煌々とキャンドルの炎が揺れていた。炎の角度によって、刻まれた模様のおとす影が移り変わり、僅かに薄暗い手元をあたたかく照らす。
 店内のつくりとその選曲によって醸成されたストイックな雰囲気の中で、何組かの男女が週末の逢瀬を楽しんでいた。漏れ聞こえる会話は密事を交わすようにささやかに、そしてそれを楽しむかのごとくかすかな笑いを含んだものだった。
 こんな場所でアルコールも入って二人の時間と駆け引きを謳歌することができたなら、このあとの予定は決まったようなものだろう。顔では人のいい大人の笑みを浮かべながら心の中ではベッドへたどり着くまでの算段をねる頃だ。そしてその渦中の雰囲気に呑まれるようにのしかかってくる重みは、賢木の脳内で展開されている一夜の恋を肯定するものだった。
 ただ一つ付け加えることがあるとするなら、もしもいま賢木の隣にいるのが、本日のお相手だとしたならば、だ。自らの手の中にあったグラスに口を付けて既にぬるくなったウィスキーをあおる。水割りだったはずだが、中の氷までが解けてしまい、アルコールと水分が分離しているようにも感じられる。舌を刺激するやぼったい味のそれに無意識に顔をしかめた。
 ベージュをおびた室内灯のしたで柔らかな色合いを見せている黒髪は、女性にしては短く男だとするなら少々長い。そしてその首筋から覗く白い肌はアルコールを摂取しているせいかほのかに赤みを帯びていた。無防備にさらされたうなじは、賢木にすべて身を任せますと代弁しているようだった。しかし、なんというか、柔らかさにかける筋の張った骨格なのだ。賢木が動いた拍子にむずがるように漏れた声音も、女にしては低すぎる。
 賢木は思わず出そうになったため息を飲み込んで、新たな水割りを注文する。酒でも飲まないとやっていられないというのが正直なところだったのかもしれない。
 カウンターに肘を付いて頭を抱えた賢木は、この残酷な現実をようやく受け入れたように隣にいる人の名前を呼んだ。
「おい、皆本」
 完全に賢木に体を預けきっている皆本は、軽く肩をゆすられただけではうんともすんともいわない。それどころか安眠を邪魔するなとでも言いたげに、さらに賢木に自重をのせた。
「かなり酔ってらっしゃるみたいですね」
 空になったグラスをさげて新しい水割りを持ってきたバーテンが、柔和な笑みを浮かべて困り顔の賢木に言う。それに対しても皆本はなんの反応も返さない。
「ちょっと、呑みすぎたみたいで」
 困ったもんだよと軽く肩を竦めた賢木に、カウンターに座っていた二人のことをよく見ていたマスターは、首を縦に振った。皆本の前から空になったグラスをさげた彼は代わりに水の入ったグラスを置く。感謝の気持ちを伝えるように賢木が軽く頭を下げると、バーテンは小さく笑って伝票を持ってきた客の対応へと向かってしまった。酔った皆本に手こずっている賢木とは違い、毎日の仕事の中で酔っ払いを見慣れているのだろう。たしかに、自分に向かって嘔吐されるよりは何倍もましな大人しい酔っ払いであること間違いない。酔っているときまで優等生である必要はないのにと、年下の友人に呆れてしまう。
「おーい、みなもとくーん」
 呼びかけたぐらいでは駄目だということを学んだ賢木は、気持ちよさそうに自らにもたれかかっている皆本の肩をさっきよりも強くゆすった。
「ん、さか、き?」
「おうおう、そうだよ。賢木君ですよー」
 生きてるかと皆本を覗き込んだ賢木。緩慢な動きで瞼を開いた皆本は、どこか呆然としたように黒茶色の瞳を見返した。二、三度瞬いた皆本は、周りの状況を判断しかねるのか、店内を見回してもう一度本日の連れである賢木の名を呼んだ。どこか甘えを含んだそれに、まだ寝ぼけているんだろうなと歳の離れた弟でも見ているような気分になってくる。それくらい無防備でおさなっぽい振る舞いだった。
「おねむのとこ悪いけど、そろそろ河岸を変えるか帰らないと駄目っぽいかなあ」
 立て続けに何人か会計を終えたカップル達を肩越しに見送った賢木は、バーテンが置いていってくれた水を皆本に勧めながら時間を確認する。もうそろそろラストオーダーの時間だ。皆本の家ではチルドレンたちが待っているのだとしたら、いつまでも自分のもとに保護者を拘束しておくわけにもいかないだろうという気持ちもあった。だが、そんな賢木の気遣いを否定するように皆本は水の入ったグラスを押し返すと、賢木が飲んでいた水割りのグラスを奪い取って一気にあおった。
「あっ、おいばか!」
「まだ、のむんだ」
 無理矢理一気飲みをしたせいで咳き込んで涙目になった皆本は、完全に正気を見失っている呂律の回らない状態でこれと同じものをと、勢いだけは雄雄しくバーテンに注文する。ただの酔っ払いと化した皆本の様子に、バーテンは確認を取るように賢木に視線を送った。これ以上飲ませたら面倒なことになるというのは想像の範囲内ではあったが、隣でなにやらくだを巻いている皆本の説教が賢木の下半身の管理にまで及びそうになったとき、面倒なことは御免であるとでもいうように、はやく酒を持ってきてくれとこうべを振った。
「なんだよ、お母さんはお疲れなのか」
「だれがお母さんだ。ぼくにだって飲みたいときくらいある」
 管理職の悲哀と、子供の面倒を見る毎日だと想像するなら飲みたくもなるだろうということは理解できたが、賢木のなかにある皆本のイメージではこうして自分を失くすまで飲むというのは珍しいことだった。だが、皆本の飲みたい日という言葉は嘘ではないらしく、運ばれてきた新しいグラスに躊躇うことなく口を付けてあおる。中身は深い赤色でかすかに甘い香がした。ただの酔っ払いに片足を突っ込んでいる皆本のために、アルコールの軽めなカクテルを用意してくれたのだろう。
「飲みたいのは結構だけど、明日も仕事なんだろ。無理するなよ酔っ払い」
「まだよってない」
 きっと賢木を睨みつけた鳶色の瞳は完全に据わっていて、これを酔っ払いといわずになにを酔っ払いというのだろうという域まで達していた。だがそこで反論をするのほど細かい男でもない賢木は、適当にいなしながら皆本によってからにされてしまったグラスを手元でもてあそんだ。
「それとも、ぼくと一緒に飲むのはいやなのか?」
「はあ?」
「ぼくのこと、きらいなんだろ」
「へっ?」
 からんと、グラスの中で踊っていた氷がなる。
 咄嗟に賢木の口から出たのは間の抜けた疑問符だ。どうしてそうなったんだという皆本の言葉に戸惑った賢木の反応にどんな結論をはじき出したのかは知らないが、皆本は鳶色の瞳を僅かに潤ませてグラスを握り締めた。
「たしかにぼくは、いつもおまえに迷惑を掛けているのかもしれないけど、」
「いやいやいや皆本さん? 皆本さん? 落ち着いてくださいね? なんでそうなっちゃったの俺なんにも言ってないでしょ。ただ俺はおまえが飲みすぎだって嗜めただけであって、嫌なんて一言もいってないだろ。あと、そんなふうに迫ってこないで、完全にホモの痴話喧嘩みたいになってる」
 ずいと間合いを詰めるように射るような視線を向けてくる皆本から逃げるために身を引かせると、それがまた皆本の酔っ払い理論を刺激したのか、やっぱり賢木はぼくのことが嫌いなんだと、いつもの冷静な皆本ならば言いそうもないことをのたまう。しかもいい具合に酒が入っているせいもあってか、周りのことなど目に入っていないことはなはだしい。賢木が慌てて店内を見回すと、客の何人かが疑惑を多分に含んだ瞳で自分たちをみているのが分かった。
「落ち着けって」
 あと、正気にもどってと付け加えた賢木に、皆本は涙のたまった瞳を不機嫌そうに細めた。
「落ち着いている。賢木こそ、ぼくの話なんてどうでもいいって思ってるんじゃないのか?」
「だから、ちがうって。この店の閉店まであと三十分なの、わかるか? だから、店を変えるかなんかしねぇかって提案しただけだろ?」
 完全に優等生から聞き分けのわるい子供へとクラスチェンジした皆本を説得するために、閉店時間の印刷してある店のマッチと自分の時計をアロマキャンドルの不安定な灯りの中で提示した賢木。それを見た皆本は、鳶色の瞳を瞬かせて賢木を見上げた。
「ぼくのこと」
「きらいじゃねえから、落ち着け。これだから普段大人しいやつが酔っ払うと面倒なんだよ」
 ため息を一つついて頭を抱えた賢木は大人しくなった皆本を尻目に、皆本が中途半端に飲んだカクテルを奪い取って今度こそ水の入ったグラスを突きつける。自分が勘違いしていたと気づいた皆本は、どこか安堵したように大人しくなって、素直に水を飲んだ。
「ごめん、僕」
「あー、気にするな。まあ、働きすぎで疲れてるとこに酒が入ったからだ。仕方ないだろ」
 しゅんとしてしまった皆本を慰めるように軽くその頭をなでると、それに反応するように皆本の携帯電話がなった。緩慢な動きで携帯電話に手を伸ばした皆本は、すまないと口だけで賢木に言うと通話ボタンを押す。盗み聞きするつもりはないが、隣にいるせいで会話が筒抜けになるのは仕方ないことだと言い訳しながら、まだ呂律の回っていない皆本の声に耳を傾けていると、なんとなく薫たちからの電話であることがしれた。
 酔っ払っているくせに、もう遅いからねろだとか、歯は忘れずにみがけといっている皆本に、これが母親じゃなければなんなんだと、賢木は笑い出したくなる。いつだって周りを気に掛けてばかりいるから、疲れるに決まっているだろうとも。
 電話口で薫が駄々をこねているのか、通話は長引いている。掠めるように視線を送ってきた皆本に軽く首を傾げると、申し訳なさそうな鳶色の瞳が賢木を映していた。
 揺れる瞳に映りこむ自らの姿。それを見た瞬間に、賢木はどうしようもないくらいに皆本のことを抱きしめてやりたくなった。なぜ、気づかないのだろうとも。天地がひっくりかえったとしても、賢木が皆本のことを嫌うなんてことがあるわけがなかった。もし拒絶することがあるとしたならば、それは自分の中にある暗澹とした薄汚いものを、美しい理想と理論と決意を躊躇いなく掲げる皆本に知られたくないからだ。賢木にしてみれば、いつか皆本に愛想をつかされる可能性のほうが高いんじゃないだろうかと考えているくらいなのに。
 賢木はカウンターの上に零れ落ちていた水滴を指先で潰しながら、一つなぎのラインを描くように繋いでいく。液体はこんなにも簡単に互いを繋ぎ合わせることができるのに、人間と人間は、ノーマルとエスパーは、言葉を交わしたとしても指先をかすめ体温さえ感じることなくすり抜けていく。賢木にしてみれば、指先で皆本に触れるだけで皆本の内面をのぞき見ることが出来るのに、皆本に触れたとしても自らの捻じ曲がり屈折した内面を暴かれることはない。自分にとっての普通は、皆本にとっての普通ではない。皆本はそれを神様から与えられたギフトだと、慈しむように笑ったことがあった。それをそのまま才能ととるならば、決して努力では埋められないそれを純粋な才と称するべきか賢木にはよくわからなかった。異能、化け物、気持ち悪い。理解できないから拒絶し、嫌悪する。それは人間として理解しえる感情だった。ノーマルとエスパー。そこに壁などないと崇高な理想を謳ってみても、結局、袂を分かってしまった、まったく別の存在なのかもしれないと、薄ぼんやりと浮かんだ思考を投げ捨てるように軽く頭を振った。
 皆本の傍でそんなことを考えていたくなどはなかった。
「ごめん、おまたせ」
「いや、薫ちゃんたちか?」
「うん」
「帰ってくるのが、遅いってか」
「ああ。もともと遅くなるとは伝えてたんだけどね」
「じゃあ、そろそろ行くか、今日はお兄さんがおごっちゃる!」
 伝票を握り締めて勢いよく立ち上がった賢木の袖口を引き止めるように皆本の指先が握り締めた。
「まだ、帰らない」
 アルコールで火照った頬で視線をさ迷わせた皆本に、賢木は一瞬動きを止めてしまう。まるで恥らう少女みたいじゃないかと考えてしまった自分を殺してやりたくなった。だが、賢木の脳内でそんな葛藤があったとは知らない皆本は、嫌ならいいと自分の発言を撤退するように呟いた。
「いやじゃないけど、薫ちゃんたちはどうするんだよ」
「帰らないと伝えた」
「帰らないって、おまえ」
 携帯電話の向こうの三人の荒れようを考えるだけで胃の痛くなる賢木を横目に、皆本は袖口を掴んでいた指先で賢木の手首を握り締めた。見上げてくる鳶色の瞳は、こうような甘えを帯びていて、まったくちがうものをねだられているような錯覚を賢木に及ぼした。それを打ち払うようにゆるく頭を振り、自分の手首に回されていた皆本の手を握って無理矢理立たせる。突然引っ張りあげられたせいで僅かによろけた皆本は、眼鏡の向こうで目を白黒させてなにごとかと首をかしげている。
「いくぞ、次の店。てかなんなら、俺の家くるか、おまえが嫌っていうまで付き合ってやる」
 そしたら、俺がおまえのことをきらいなわけじゃないと気づくだろと、心の中だけで続けた賢木。皆本はそんな賢木の浅黒い指先を振り払う。それは突然の拒絶のようにも思えて瞠目した。そして、同時にそんな些細なことにショックを受けている自分に、ため息をつきそうになる。だが、皆本は賢木を嫌がるでも距離をとるでもなく、真っ直ぐに黒茶色の瞳を覗きこむだけだ。そこから何らかの感情の機微を読み取ることは出来ない。賢木は遠ざかった体温が名残惜しいように思えて、皆本の火照った体温を閉じ込めるように自らの指先を握りこむ。
「やっぱり、僕はおまえのことが好きみたいだ。こういうことを伝えるのに、きみの能力に頼りたくないんだ」
 広い店内に皆本の声が響いた。第三者が聞けば、愛の告白としか思えないそれを賢木が理解したのと、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていたバーテンの驚きの表情が視界に入ったのはほぼ同時だった。当の皆本は何も恥じることはないとでも言いたげに、やっぱり大事な親友だよと、そこだけはトーンを押さえてくすぐったそうな笑みを浮かべた。
 喜べばいいのか、悲しめばいいのかよくわからない。だが、今この瞬間に店内での賢木と皆本の扱いが酔っ払いとその友人から痴話喧嘩の末に仲直りしたホモカップルへと昇格したことくらいは想像できた。これは確実に賢木の被害妄想ではない。突き刺さる視線がその結論を裏打ちし、紛うことなき真実であると雄弁に語っている。
 ああ、この店にはもう来れないなと惜しむようにデートコースから外した賢木。言いたいことはたくさんあったし弁解したいことも山のようにあった。しかし、そんなものがどうでもいいと思えるくらい満たされたものを感じている自分は本当にどうしようもないのだろうと、ただにやけてしまいそうになる口元を覆って、勘違いされているついでに皆本の肩に腕を回し、僅かに伝わってくる自らへの好意の片鱗を甘受した。



 

13・02・27