日曜日のショッピングモールは家族連れであふれていた。わあわあと耳の奥を揺さぶるような音の洪水が引いては満ちる潮のように迫ってくる。そこに店内アナウンスなどが重なるともうなにがなんだかわからず、最初から聞き取るのを放棄したくなるくらいだった。
 特にいま薫がいるおもちゃ売場などは、子供と大人の必死の駆け引きが演じられていて混戦の体をみせている。ねだる子供と、無駄な出費を回避しようとする大人。そのやりとりには鬼気迫るものがある。そして、薫もその戦いの参加者として皆本とともに名を連ねるはずだったのだ。もちろん、葵や紫穂も。しかし、今目の前にあるのは、広いおもちゃ売場のフロアを一人で散策しているという現実だ。葵は本屋へ紫穂は洋服売場へと、薫と同じく孤独な戦いに向かっていった。
 ずるいと、思った。
 それが子供のわがままであることも重々承知していたし、不毛な繰言であることもわかっていた。それでも薫にとって、皆本の時間を当然のようにかっさらっていく賢木がずるくて羨ましくて仕方なかった。今日だって本当は皆本と薫たちの四人で買い物に行くはずだったのだ。それなのに、狙い澄ましたように買い物にいく少し前に遊びに来た賢木はさも当たり前みたいな顔をして薫たちについてきたばかりか、皆本の隣を独占している。薫はそれが気に入らないのだ。そして、それに気づいてくれない皆本の鈍感さも。もちろん、賢木という人間自身に嫌悪を抱いているわけではない。普段は年の離れた気のいい兄のように感じていた。だが、皆本のこととなれば話は別だ。
 薫にとってみれば楽しい買い物だったはずなのに、ほしかったはずの人形用の洋服セットを手に取ってみても、気分は晴れない。それよりもこうして自分が品物を物色している間に、賢木が皆本を独占しているということの方が耐えがたい。訳もなく締め付けられるように苦しくなった胸元をつかんで、自分を落ち着けるために呼気を吐き出す。それでも全然痛みは去ってくれなくて、よけいにもやもやとしたものが募っただけだった。
 携帯電話を取り出した薫は、着信やメールが入っていなかったことに肩を落として、手にしていた人形用の下着セットをもとの棚に戻した。扇情的なそれにいつもの自分なら興奮を覚えるのに、いまは寸分たりとも心を動かされない。
 ため息を吐き出す代わりに、手にしていた携帯電話を握りしめて、おもちゃコーナーのそばにあった館内案内板へとかけよる。赤丸で表示されている現在地から、たぶんと検討をつけた本屋までは案外遠く二階あがらなければならなかった。それでもこの場所にいてのうのうと時間を過ごすよりは、少しでも体を動かして、むずむずと落ち着かない気持ちを発散させてしまいたかった。
 


 大きめのショッピングモール内の書店だからだろう。広いフロアいっぱいに本棚が並んでいて、店内全体を見渡すことはできない。薫は本棚のあいだを探るように通路を見渡してみるが、見慣れた後ろ姿を発見することはできなかった。本棚の端に張り付けてあるプレートには人文という分類がかかれていた。その意味はよくわからなかったが、哲学、宗教、人間とは、という書名を拾いながらここではないなと、皆本が好みそうなコーナーを求めて大平原のような店内をぐるりと見回す。遠くに見えたコミックという文字に心動かされたが、そこには絶対皆本はいないだろうと判断してこらえる。
 じゃあどこにいるのかと薫は首を傾げるが、よくよく考えてみると彼女の意中の相手がいったいなにを好んでいるのかすぐには思いつかない。そうだ勉強だと、手を打ち鳴らしたくなったが、近くにあった店内図によれば、学参、医学、科学、物理、など学問らしき分類がいくつも点在していた。その違いさえおぼつかない薫の表情は自然と渋いものになってくる。
 連れの賢木の印象で医学かとも思ったのだが、探しているのは彼ではないのだとその考えを打ち払った。
 至高の命題に挑むように、腕を組んで難しい顔をした薫は、ならばどうすると視線をさまよわせて、これだと手のひらを握りしめた。目的地に向けてすぐにでも走り出したくなったが、おもちゃ売場と比べれば異次元のように静かな店内では、床を踏みならすだけで視線を独り占めできそうなくらいだ。だから薫は、自分がモデルにでもなったような気持ちでゆっくりと料理のコーナーへと歩き出した。
 深く考えることもなく勢いのまま店内の奥まった場所まで入ってきていたのだが、目的の料理コーナーは入り口付近らしく、気詰まりするように本ばかり並んでいた人文コーナーに比べればいくらか見通しもよくカラフルな表紙の本が並んでいて、いつの間にか詰めていた息を吐き出して肩の力を抜くことができた。
 女性の姿が目立つ場所でならすぐに皆本を見つけることができるだろうと、宝探しのような気分で通路を見渡していると、すぐに聞き覚えのある声音が薫の鼓膜を揺らした。
「男二人で料理本を漁るってどうなんだよ」
 どこか世をはかなんだように疲れ切った声音。そしてそれを追って視線をさまよわせると、なにやら色鮮やかでおいしそうな料理が表紙の本が積まれた場所に、よく知る二人の姿を見つけることができた。
 言葉を裏切らない悲壮な表情を浮かべた賢木と背中合わせに立つように向かいの本棚を物色していた皆本は、ともすれば非難ともとれる賢木の言葉を黙殺すると、お眼鏡にかなう本があったのか本棚から何冊かを取り出した。
「まぁ、ガキどもが小学生の頃に、育児のコーナーにつきあわされたことを思えばまだましだよな」
 相手にされていない賢木の方もそんなことを気にすることなく、目に付く本を端から手にとってつまらなさそうにめくっていく。嫌ならつきあわなくてもいいのにと思う薫をよそに、賢木の手の中には何冊かの本が握られていた。
「さっきからうるさいな。おまえだってなんだかんだで、ほしいレシピの本見つけたんだろ」
 不満ありありですと言外どころか言葉にしている賢木をいなすように、肩越しににらみつける皆本。だが、皆本と視線があった瞬間ににやりと口角をあげた賢木は、皆本の肩に肘を乗せてわざわざ距離を詰めるようにのぞき込むと、だって俺のじゃねぇもんとその本を皆本に押しつけた。
「ちょっと、なんだよ」
「それに載ってるやつ今度作れよ。材料は準備するから。あと本も買っちゃる。俺からいとしの皆本君にプレゼント」
 どうよと、断られるなんて微塵も考えていない満面の笑みを浮かべた賢木。皆本はそんな賢木を拒絶することなく、押しつけられた本を受け取って自分が手にしていたものを本棚へと戻した。薫が盗み見たその表情は呆れたようにも見えるのに口元には優しい笑みを浮かべていてひどくリラックスしているのがわかった。
 近すぎる距離に不満を述べないところも、ともすれば傲慢ともとれる賢木の振る舞いを甘受していることにも、薫は口舌しがたい焦燥を感じる。油断してしまえば、いまにも駆け寄りかねない自分自身を押さえ込むように側の通路に入り込んだ。全く興味のもてない初めてのフランス料理という本を手に取ると、二人からは見えない死角に入り込んで、その背中に視線をやる。
「おまえだって料理できるんだから自分ですればいいだろ」
 手渡された本をめくりながら、これなんておいしそうだとまんざらでもなさそうな皆本。なにやら算段をたてているところに、もう彼の気持ちが賢木の望むように動き出していることが伺いしれた。
「俺が作るより、おまえが作った方がうまいじゃん」
 あと一押しとダメ押しのように皆本にこう賢木。褒められて皆本も悪い気はしないのだろう、呆れたふうを装いながらもイエスの返事をする代わりに具体的な話を切り出した。
「今度っていつだよ。僕だって暇じゃないんだ」
「あー、どうせなら宅飲みしようぜ、店より気楽だろ? おまえの家だとガキどもの乱入があるから、うちに来いよ。予定はおまえに合わせるわ」
 そのまえに、俺とおまえの非番が合うかどうかが問題かと顎に手をやって宙を睨みつける賢木。皆本もそれに同意するように、自らの体が空く日を思い浮かべているようだった。
 初めてのフランス料理の本を握りつぶす勢いで抱きしめた薫は、自分たちを外して進んでいく二人の会話に唇を噛み締める。何がそんなに自分を追い込んでいくのはわからないけれども、このままでは駄目だというどろりとした薄汚れたものが臓腑の奥へと淀んでいくのが分かった。
「薫、どうしたん?」
 やはり無理だと、矢も盾もたまらず一歩踏み出そうかとしたとき、とつぜん背後から声をかけられたたらを踏む。あんたフランス料理なんて高望みし過ぎやろと、ケラケラ笑いながら薫の手元を覗き込んだ葵。しかし、おふざけの反応を楽しむようにレンズの奥の瞳を細め薫の次の行動を待てども望む反応はない。怪訝に思いながら、薫を見やるとその表情に瞠目した。
「あんたなに泣きそうな顔しとんの」
 まさかと思った。まさか自分が泣きそうになっているなんて。だがそれを否定しようにも、葵の必死さがそれを許さない。そして、彼女の乱入によって皆本と賢木の会話はひどく遠いものとなった。視線では追うことができるのに、なにを話しているかはわからない。無声映画のような二人に、自分たちと彼らの間に埋めがたい溝を感じたような気がして息が苦しくなった。喉の奥が痛くて、呼吸する度に変な音がする。なのに皆本は、全身で彼の名を呼ぼうとしていた薫に気づくことなく賢木と笑いながら違うコーナーへと向かって歩き出してしまった。その距離感は近く、それが薫が知らない間に積み重ねた二人の関係の重厚さを物語っているようだった。
 薫と、葵が呼びかけても、その反応は緩慢だ。彼女らしくないと、彼女を知る全員が言うだろう。そして薫本人もそれを自覚していた。だが、皆本と自らがまるで見えない壁で遮られてしまったようなもどかしさを感じてどうすればいいのかわからなくなる。そんなことあるはずないのに。落ち着けと薫の中の冷静な自分が言う。それに従うように瞼を閉じ深呼吸すると、脳裏を占めるのは、肩を並べているのが自然なことであるとするような二人の姿だった。
「ごめん。大丈夫だから」
 目の前の風景を拒絶したまま、自分に言い聞かせるように吐き出した薫。葵が納得しないということはわかったが、この痛みや空虚を言葉にして説明することはできなかった。いやもしかしたら、それに相応しい言葉の欠片をすでに得ているのかもしれないけれども、形になどしたくなかった。そして、できなかった。最後の抵抗みたいに。
 ただ、賢木と皆本が二人で並んで話していただけ。なのに、そこに薫の居場所はない。いっそ泣いてしまうことができたならよかったのに、彼女はまだ知らない。それが嫉妬であり、誰かを思う苦しさであるということを。




13・02・21
13・02・27