日付が変わるほんの少し前のせいか車の通りは少ない。おあつらえ向きのようにがらんとした夜道が、法定速度を優に超えたスピードで通り過ぎていく。レースゲームも真っ青の目前の光景に僅かに血の気が引くのを感じながら運転席を盗み見ると、サングラスをかけた本日のお相手が、俺とは対照的に頬を上気させて口角をあげ、更にアクセルを踏み込んだのがわかった。飲みすぎてうつらうつらとしていたはずなのに、車に乗ってからはいままでの緩慢さが嘘のように視界がクリアになった。飲んでないから送ってあげるという甘言などにのった俺が愚かだったという判断くらいは下せる。最初からこれくらいしっかりしていたら彼女のご機嫌を損ねることもなかっただろうなと、乾いた笑いとともに思う。サイコメトリーを使って乗り物を乗りこなすのと、他人に命を預けるのとでは話は別だ。
 スピード狂なのか日頃のストレスがたまっているのか、通常の感覚ではないのは確かだ。後者の場合は、既に無理な話ではあるが、俺がベッドの上で解消させてあげたほうが世のため人のためになるのではないだろうか。命の危険を感じて、手汗でべたついた手のひらを握りこんで、目の前のアトラクションばりの景色を見ると、青から赤に変わっていく信号とクラクションの交響曲があっという間に通り過ぎていく。そして、そのスピード感を裏切らぬような急さでブレーキが踏み込まれ、シートベルトが体に食いこみうめき声をあげて顔をしかめる。命を守るはずのそれが、いま一番の苦痛だ。
 悪酔いしたせいでずっと付き纏い続けていた嘔吐感がぶり返して、とっさに口元を覆ってそれをやり過ごすと、酷くさめた視線がここでだけは吐かないで頂戴と無言の圧力をかけてきた。皆本だったら口ではなんだかんだ言いながらも心配して甲斐甲斐しく面倒をみてくれるところなのに、本当なら今ごろ二人でホテルに行っていたかもしれない男に対してならもう少し優しくしてくれてもいいんじゃないだろうか。とそこまで考えて、ここで皆本が比較対象として出てくるのも、彼女と同じ土俵で語られるのもおかしな話だとゆるく頭を振って打ち消した。
「修二、生きてる?」
 路肩に止められた車。あのスピードからどうしたらここまできれいに止められるのだろうかというくらい理想的な駐車位置に、その類まれなるドライビングテクニックに拍手でも送りたくなるが、重たい頭ではうまい言葉一つ思いつかない。ただ唸るように返事をすると、彼女が窓の外に見える駅を顎でさしたのがわかった。
「ここで大丈夫かしら?」
 いまならまだ電車走ってると思うわよ、たぶんだけと、にっこりと笑った彼女は、疑問系で問うてきているはずなのに、すでにこれ以上車内に俺を滞在させるつもりはないと言外にするように、ドアのロックを外した。ここまで送ってくれただけで上出来なのだろうかと、描いたように美しい笑顔と三日月を描いた艶やかな唇をみやる。いまさらだが、逆転のチャンスを目指してここでキスの一つでもかましてみようかと思ったが、自然な動作で振り払われそうなのでやめておくことにした。
「悪いね、送ってもらって」
「いいのよ、気にしないで。私も楽しかったもの」
 サングラスを外して栗色の目を細めた彼女は、小さく笑みを漏らして運転席から身を乗り出す。もしかしたら、最後の最後にチャンスがめぐってきたのかと唾液を嚥下してその瞳を真っ直ぐに見つめ、街灯に照らされている色白の首筋に手を伸ばそうとしたら、それよりも一瞬早くカチリと俺のシートベルトが外される音がした。伸ばしかけていた手のひらを誤魔化すように握りこんで、バランスを崩した体勢を支えるような、ふりをする。だが彼女はそんなのはお見通しだといわんばかりにくすりと笑いを漏らして、忘れ物はないかしらといっただけだった。
「じゃあ」
 またねとはいわずに立ち上がって外に出る。コートを着ているはずなのに寒すぎる外の気温に体を震わせると、名残さえ感じさせない勢いで俺の目の前から彼女の車は走り去っていった。空しく響いたタイヤが擦れる音に、唇を噛み締める。
 フォローのメールを入れるべきだろうかとも思ったが、どうせ返事は返ってこないだろう。どうしようもない脱力感に苛まれて、駅の景観美化のためにつくられた花壇のレンガにでも座り込みたくなってしまったが、いま腰掛けたらとうぶんは立ち上がれそうにない。寒さから逃れるようにコートの前をかき合わせて、マフラーに首を埋めた。酔いのせいでうまく思考がまとまらない。泥酔とまではいっていないが、気持ちが悪いし、足元がふらつく。ヘタしたら明日まで引きずるかもしれないなと思うと、ちがう意味合いをこめて休みの前日にデートを入れた自分を褒めてやりたいぐらいだった。
 うまくいっていたら今ごろは食事していたレストランの近くにあったホテルで楽しい時間を過ごせていたのかもしれないが、男をアクセサリー感覚でとっかえひっかえしていく彼女にとって、初めてのデートで飲みすぎて醜態をさらしてしまった俺は、彼女を飾り付けるには足りない男だったらしい。宝石箱に戻されるどころか、路上に打ち捨てられなかったことにされてしまった。
 まあ、ここまで酔ってしまっていたらたつものもたたないだろうから、最終段階までいったのっぴきならない状況で男のプライドが打ち砕かれることを思えば、ここでリリースしてしまったことはよかったことなのかもしれない。後手にまわった慰めにしかならないが。
 敗者の俺をあざ笑うように、駅の近くの居酒屋で泥酔した若者達の癪に障るような笑い声ががんがんと頭に響く。駅前を歩いていくサラリーマンやお姉さま方も何事かと振り返ったりしているが、怪訝な目で見られていることを気にしない学生どもは大騒ぎを繰り返している。若いってのは恐ろしいことだ。
 だが、悪酔いしている頭には不愉快な騒音でしかない。いっそ生体コントロールでアルコールを強制的に分解してしまおうかとリミッターに手を伸ばしかけたが、冷たい金属に触れたところで酔いに飲み込まれつつあった冷静な自分がストップをかけた。こんな正体を失いつつある状態で力を使ったら、どうなるか分かったもんじゃない。いまでも力のコントロールできていなくて、聞きたくも知りたくもない思念が転がり込んできているのだ。残留思念と思わしき無機物に宿るそれらは、半端な人間の心を読み取るよりも、根深くどろりとしている。耳を覆ったって目を閉じたって拒絶することが出来ない。
 力でどうにも出来ないのなら、物理的に離れるしかないだろう。油断すると真っ直ぐに進むことの出来ない千鳥足で駅に向かって歩いていく。ついでに携帯電話を取り出して、自宅までの帰宅方法を検索する。打ち間違いが酷くて舌打ちをすると、それに反応するように電車が走り去っていくのが見えた。
 苦戦しながらなんとか路線検索をすると、表示された電車の時間は朝の五時。これはおかしいと思ってもう一度検索してみるが、結果は変わらない。まさかと思って時刻表を呼び出す。
「まじかよ」
 さっき、いまさっき走り去って行った電車がまぎれもない終電で、今度こそこの場に倒れこみそうになった。駅の構内にたどり着いたはずなのに、もう順番に電気も消されていて、がらんとしてしまっている。電光掲示板にも、本日の電車は終了しましたという無情な文字が流れるだけだ。酔っ払いが、電車を乗り逃して帰れないどうしてくれるんだと、駅員にいちゃもんをつけているが、そんなこと知ったことではない。
 ついてないのもここまでこれば、笑い出したくなってくる。いってしまった終電を追いかけるわけにもいかず、今すぐタクシーを呼び止めるような気力もわいてこない。力の抜けた体を壁に預けてずるずると座り込む。駅員に怪訝な目で見られたが、いちいち気にしていられるような余裕は持ち合わせていなかった。
「吐きそう」
 うっと逆流しそうになる胃液を唾液を送り込むことで耐えて、頭を抱えて外界から己を遮断する。見回りをしていた駅員が、大丈夫ですかと軽く肩に触れてきた。接触した場所から、まさかこいつ吐くんじゃねえのか、面倒だはやくかえれという思念が流れ込んでくる。ただうめくこともなく俯いたままでいると、諦めたようにはなれていってしまう。吐くのだけは耐えてやったからありがたく思え。
 せめて、頬に一発食らわなかっただけでもうけものだっただろうかと、自分を慰めるように考える。もしも、頬がはれているのを皆本に発見されたら、今度こそ同じところを殴られたうえに、またサイコメトリーを逆手に取ったお説教を脳内大音量でされるのだろう。
 あの乙女系男子の名をほしいままにしている男曰く、もっと女性を大切にしなきゃ駄目だ、本当に好きだと思える人だけにしろ、無理して関係を結ぶ必要なんてない。それこそおまえは昭和の男かと謂わんばかりのお説教をもう何度も受けている。いい子ちゃんぶったって、蓋を開けたら俺と同じ男じゃないか、なんていう暴言はあいつには通じない。それくらいの筋金入りだし、それと同じで間違ったことはいわないのだ。本当はわかっている。たしかに、皆本の言うことも一理どころか二理も三理もあるということぐらい。
 ふとした瞬間に、こんなことは無意味なんじゃないだろうかと思うことがある。
 もちろん、何らかの意味を求めて女の子達に声を掛けているわけじゃないし、単純に柔らかくて綺麗な彼女たちのことが好きなだけだ。皆本君だって好きなものは好きなだけ食べたいでしょと一度いってみたら、天誅という叫びとともに頭に拳骨を食らったことがあるのだが、それは置いておくとして、食欲とちがって俺のこれは満たされることがない。そして、どの女の子達も俺の前から去っていくか、俺の所業に堪えられず縁を切られる、もしくは軽い扱いで終わってしまうのだ。結局どんな関係を築いたって俺の手元には何も残りはしない。着信拒否されて繋がらない連絡先くらいのものだ。
 それがたまらなく空しくて、どうしようもなく寂しくなることがある。
 そして、いつだってそのたまらなくなったときに考えるのは、あいつのことなのだ。
 あいつだけはちがうから。あいつだけは、俺の前からいなくなったりしないし、俺のことを蔑んだり、気持ち悪がったりしない。自分の心の中に土足で踏み込んでくる気持ちの悪いものだと忌むことはないんだ。それが、どれだけ希少で奇跡みたいで、たったそれだけのことに救われ続けているのかわからない。いまこうして多くのノーマルの人間の中で、比較的まともな生活を営めているのだって、あいつがいたからだ。
 大切にしたい相手をさがせ、ずっと一緒にいたいとおもえる相手をさがせ、守りたいとおもえる人はいないのか、おまえは本当にいいやつなんだから、そうやって自分を切り売りするみたいなことしなくたって魅力的な人がいるだろ、耳にタコができるくらいきいた皆本のお説教がぐるぐると頭の中を回っていく。
 あいつはバカだ。そんなの一人しかいない。
 そんなの、そんなのに当てはまる人間なんて、あいつしかいやしないんだ。
 嘘だろうと抱え込んでいた膝に額をこすりつける。それでも、頭の中で思い浮かべるのは、あいつのことだ。まるでそれしか知らないみたいに。まさかといって否定するのは簡単だ。そして、そんな悪足掻きみたいな否定だって簡単に覆されてしまう。俺はたぶん、どうしようもないくらいあいつにまいってしまっているのだ。
 自分がどれだけ必要とされているかわからないあいつがバカなら、いまさらそんな簡単なことに気づいた俺だって、どうしようもない愚か者だ。
「なんだよこれ、どうしろって」
 誰もいない構内に、すがるように弱々しい俺の声が響いた。それは誰に拾われることもなく響いて消え、昇華しきれない気持ちだけが胸のうちにわだかまっていく。
 それは違えようもない真実ではあったが、酔いによって愚鈍になった頭がはじき出した思考に、一つまみの冷静な自分がストップをかける。女がらみでぽっかりとあいた穴にあいつを押し込もうとするなんて、おかしな話だ。酔っているからといってこれはない。次に続かない関係を女の子たちと結び続けるのも確かに不毛なことだけれど、こうやって女ではない皆本を女の代わりにするような考えを持ってしまうことも、砂漠にありながら森を探し惑うように空虚なことでしかない。そしてそれは、あいつに対する侮辱でしかないのだ。それでも、そうだとしても、掘り出してしまった無意識はもう確かに気持ちを意識してしまっていて、こぼしたミルクを嘆いたって、もとにはもどらなくって、どんどんと染みを広げ俺の中を侵食していくだけだ。
「はきそう」
 手にしたままだった携帯電話を握り締めて、助けを求めるように皆本の電話番号を呼び出した。そんなことしたって何にもならないのに。だのに俺は、すがるように通話ボタンを押して呼び出し音に耳を澄ました。かけたのは自分のくせに出なければいいのになんて、自分勝手なことを願う。
 心底タイミングの悪いあの男は、こういうときばっかり電話にでやがるんだ。無機質なコールから、通話に切り替わる。聞きなれた声が、鼓膜を揺らした。
「もしもし、皆本です」
「みーなもーとくん、あーそびーましょ!」
 無理矢理にテンションの高い声を作って吐き出す。返って来たのは声にもならないため息だった。
「賢木、もしかしなくても酔ってるのか」
 電話の向こうで皆本が顔をしかめたのが、伝わってくるような気がした。サイコメトリーしたわけでもないのに。そして、それを想像できるくらいには隣にいるのかと思うと無性に嬉しくなってくる。ようやく顔を上げると、既に構内は電気を消されている場所もあり、ホームへいたる改札はシャッターが閉められていた。窓口の上で現在時刻を表示しているデジタル時計は、とうに日付を超えた時刻をお知らせしていて、こんな時間でも仕事をしていたんだろうなと思うと、頭の中ではパソコンの前で頭を抱えている皆本の映像がプラスされた。
「よってねーよ。綺麗なお姉さまと呑んでいたところだ!」
「頬は?」
「あ? 無事に決まってんだろ」
「じゃあなんで電話してくるんだ。夜道に捨てられでもしたのか?」
 無駄に勘のいいやつだと、耳元に流れ込んでくる皆本の声が憎らしく思えてくる。だが、このままはいそうですと認めてしまうのも悔しいので、何もなかったように流して自分の現状を告げる。
「終電逃した」
 それで、いまいまおまえのことがどうしようもなく好きだと気がついた。いえるわけもないのに、心の中で付け加えて、臆病な自分にくすくすと笑いを漏らす。すると、不安そうな声音が俺の名を呼んだ。
「大丈夫か? 相当きてるみたいだな。迎えにいったほうがいいか?」
「なーに、皆本君ったら、そんなに俺様のことがすきか!」
 酔いの勢いに任せるように紛れ込ませた本音。自然と体が緊張する。知らぬうちに携帯電話を握り締めている自分に気がついた。だが、皆本はなんでもないことのようにはいはい大好きだよこの酔っ払いと流してしまう。大好きだから落ち着け、どこにいるんだと母親かなにかのようだ。
 たったそれだけのことなのに、もっと色気のあることを言えと思っているのに、胸のあたりを鷲掴みにされたように言いようもなく苦しいものがみぞおちの辺りに折り重なっていく。
「迎えに来なくてもいい。いまからいくから」
 底の浅いコップを満たすように簡単に溢れかえりそうになる澱は、易々と俺を直情的な人間へ変えてしまう。
「はあ? 落ち着け酔っ払い」
「これ以上ないくらいに落ち着いてる。だってここ、おまえの家の最寄り駅だぜ」
 薄暗い中で駅名を告げると、皆本が息を呑むのが分かった。そんなところにいたのかという溜息交じりの言葉を聞いて立ち上がる。まだアルコールが抜け切っていないせいで不安定ではあったが、さっきよりは幾分かましになっている。
「本当に来るのか?」
「もちろん」
「じゃあ、切るぞ。準備がある」
 こんな時間に一体何をと思ったが、主夫の皆本なら俺の考え付かぬような準備があるのだろうと真剣に思ってしまえるということは、やっぱりまだ酔っているなと再確認する。そしてその勢いを借りて、電話を切ろうとする皆本の名前を呼んだ。
「なにいってるの皆本君、道案内頼むよ」
「はあ?」
「俺、酔っ払いだぞ? 途中で倒れたらどうするの? 道わかんなくなったらどうするの?」
「あのなぁ、来るの初めてじゃないだろ、それくらい自分でどうにかしろ」
「えー、頼むよみなもとー捨てないでよー」
 そんな気持ち悪い喋り方するなと、痛烈な一撃を放ったくせに、なんだかんだ言って電話を切らない皆本だから俺はどうしようもないくらいにこいつにやられてしまったのだろうと、責任を擦り付けるように思い至って、誰もいない駅前を皆本の指示に従いながら歩き出した。人に見せられないくらい頬が緩んでしまうのだって、無駄にやさしいあいつのせいなのだ。



「酔っ払いはこれでも飲んでろ」
 開口一番に突きつけられたのは、やさしい出迎えの言葉でも冷たい一瞥でもなく、見慣れたトマトジュースの缶だった。しかもよく冷えているそれを受け取ると、いいから早く飲めとせっつかれる。仕方無しに一気に飲みきって、任務か何かのように俺を観察していた皆本に空になった缶をわたすと、少しはましになったかと問われた。
「酔い覚ましにいいらしいって見たから、用意してみた」
「トマトジュースが? それは初耳だ」
「僕もだよ。だからおまえで実験してるんだろ」
 実験なんて酷いと、なくまねをしてよよよと寄りかかった俺を黙殺した皆本は、寝間着にカーディガンを羽織っただけでは寒いのかぶるりと肩を震わせて、入るならはやく入れと暖かな空気が漏れてくる室内へと視線をやる。こんな時間に酔っ払いの突撃を受けて怒ることはあれ、本当に迎え入れられるとはとちょっと信じられない気分で呆然としていると、入らないならもうもどるからなと、眼鏡の向こうのチョコレートブラウンが不機嫌そうに細められた。男にしては長めの髪がまだ濡れているのがわかる。風呂上りのところに俺の電話攻撃を受けて、本当に寒いのだろう。閉められそうになったドアをぐいっと掴んで玄関へと踏み込んだ。
「チルドレンたちみんな寝てるから、静かにしろよ」
 口元で指を立てた皆本に声にすることなく肯定を示すように頷く。お母さんはこんなに遅くまで大変なことだ。
 リビングには俺の想像通り仕事に使っていたと思わしきノートパソコンが置いてあったが、既に電源は落とされてしまっている。リビングにでも通されるのかと思っていたが、皆本は先にいっていてくれと自分の寝室のほうを指差すと、自分だけはキッチンのほうへといってしまった。仕方無しに、なにやらキッチンで準備をしている皆本を尻目に、勝手知ったるなんとやらで家主の寝室へと失礼する。
 男の一人暮らし(プラス子供三人)には十分すぎるくらいに整理整頓された室内は、あまり生活感がかんじられない。ちょっと壁がへこんでいたりするのに、皆本が同居している三人娘たちの乱暴さを垣間見た気がして、あいついままでよく無事で生きてこられたなとどうでもいいところで感心してしまった。
 そして、皆本と寝食をともにしているあいつらがたまらなく羨ましかった。いままでだってそういったことはどこかで感じていたはずなのに、たった一つのことに思い至った瞬間にそれが堪えがたくどうしようもないくらいに欲しくて仕方ないもののように思えて胸のあたりが疼いた。人間なんて本当に現金なものだ。落ち着きなく室内に視線をやりながらベッドの端に座り込むと、トレイを持った皆本が部屋に入ってきた。
「外、寒かっただろ」
 サイドボートに置かれたトレイには、二人分のマグカップが乗っていた。湯気がたっているそれは、いま皆本が入れてきてくれたものだと知れた。
「悪いな、急にきたのに」
「終電逃したなら仕方ないだろ。あと、コートとマフラー」
 当然のように差し出された手には、いつの間にかハンガーが握られていて皺になる前に脱げということなのだろうと分かった。大人しくコートとマフラーを脱ぐと、皆本は文句一つも言わずにそれをハンガーに掛ける。本当にどこで訓練を受けたらこんなにも気の利く主夫になるのだろうかと、疑問を抱かずにはいられない。これは生半可な女の子じゃ、堪えきれずに逃げ出しちまうんだろうなと感慨深くなる。
「なんだよ、ひとりで頷いて」
「いや、おまえはいい嫁になるよ」
「おまえ馬鹿なのか?」
 ごつんと後頭部を打撃が襲う。正直な感想をいっただけなのに酷い。この扱いの不当さを訴えるように再度泣きまねをしてみたのに、今度もやっぱり黙殺さてしまった。それどころか、満面の笑みを浮かべて、今度はこんなちょうどいい場所にお盆があるわけなんだがとのたまう。慌てて姿勢を正すと、それでいいんだよと仁王立ちの皆本が優しい笑みで見下ろしてきた。
「これ、熱いから気をつけろよ」
「ありがとう」
 俺の隣に腰掛けた皆本が差し出したマグカップを受け取ると、冷たくひえきった指先が一気にあたたまっていってほっと呼気を吐き出した。火傷しないように注意しながら口を付けると、その苦味に意識がはっきりしてきて体の中からあたたまっていく。酔った勢いとはいえ、なにがどうしてこうなって皆本の寝室にまでたどり着いてしまったのだろうかと、自らの行動力に首をかしげずにはいられない。いままでの行動を振り返っていると、何を思ったのか隣に座っていた皆本が俺の顔を覗きこんできた。
 一気に近づいた距離に思わず身を引くと、何だよと不満そうに目を細める。サイコメトラーに距離をとられて不快そうな顔をするノーマルなんてこの世で皆本くらいのものなんじゃないだろうか。統計なんてとったことはないが、とりあえず俺の人生の中ではかなりの希少種にはいる。だが、そんなことを素直に言葉にするほど単純な人間でもない。居た堪れなさを誤魔化すように、自らの思い描く俺らしい俺を演じるように苦笑を浮かべた。
「い、いや、皆本さんが急に覗き込んでくるから吃驚しただけですよ」
「なんで敬語。また振られたのか、珍しく真面目な顔してるけど」
「珍しくとは失礼なやつだな」
 おまえ、普段の行いを振り返ってみろよ、賢木のレベルまでくると胸に手を当てる必要もないだろうと、散々な言い草だ。
 確かに、失恋をしたといえばそうなのかもしれない。振られはした。だが、そっちに関してはそこまで問題じゃないし、ショックではないのだ。問題なのは、その先。隣にいるおまえなんだよと、無自覚にここまで俺の中を占拠してくれた皆本自身の肩を掴んで揺さぶってやりたくなる。もちろん、そんなことができるわけもないのだけれど。
 いくら俺が自覚したって、こんなことどうにもならない。二進も三進もいきようがない。どうせなら気づかないほうがましだったんじゃないだろうかとも思えてくる。ただこいつの隣に入れるだけで楽しくて、しあわせだったはずなのに、たった一つのことでボタンを掛け違えただけでやさしく笑う皆本に今までとはちがう欲求を抱いてしまうようになったのだ。
 これは、いままでとは違う。ブッキングした、ふられたといって、頬にビンタでもくらってじゃあねばいばいと笑顔でいられるような類のものじゃないんだ。もっと根が深くて、どうしようもないくらいに染め替えられてしまっている。
「本当に大丈夫か?」
 不安そうに揺れるチョコレートブラウン。そこには、ただただ俺のことを心配している皆本がいるだけだ。
 どうして他人のことにそんなに真剣に苦しそうな表情を浮かべることが出来るんだろうか。他人によく見られたいからなんていう底の浅い理由でいい人のふりをするような人間じゃない。いや、そんな世界に掃いて捨てるほどいる人間くさいやつだったなら、もっと簡単だったのか。心の底から他人を思いやることが出来る人間だから手に負えないんだ。
「べつにそんなんじゃねーけど、優しい皆本君は傷心の俺を慰めてくれるの?」
 ねえと、この重々しい雰囲気を抜け出すようにちゃかしてみせると、混ぜっ返すなよと皆本が眉根を寄せて俺の頬に手を伸ばした。突然触れたその手のひらにびくりと肩が揺れそうになる。だが、俺の気持ちなんて知りもしないこの男は、当たり前のようにあたたかな指先で頬にふれ怖いくらいに真剣な顔をして、俺の名前を呼んだ。ぬくもりをともなった指先を拒絶するべきかという逡巡は、ずるい自分によっていとも呆気なく取り払われる。
「今日、ちょっと変だぞ。つらいならつらいって言えよ」
 レンズの向こうの皆本の瞳にはどんな表情を浮かべた俺が映っているのだろうか。もうよくわからなかった。指先からは体温だけじゃなくて、やさしくあたたかい皆本の思念が伝わってきて、胸のあたりを満たしていく。それがたまらなくいとおしくて、わけもなく目頭が熱くなった。
 友達なんだから、言ってくれよと、困ったように眉を下げた皆本に、投げ出したままだった手のひらをぎゅっと握り締める。嬉しくて、そして悲しい。
 おれはこいつにとって大事な友達でしかない。
 どうして一瞬でも、水面に映るだけの月をつかめると思ったのだろうか。結局掴むのは空虚でしかないというのに。遠いそれを近くで愛でられるだけで、これ以上も以下もない僥倖のはずなのに。
「つらくなんてねーよ。いつもといっしょだ。心配性だな」
 笑ってみせたはずなのに、それが引きつっているような気がした。皆本も納得のいかないような表情を浮かべて、じっと俺を見つめている。逃げることを許さないというその視線に、俺の中に渦巻いているいろんな感情を覗き込まれているようで、たまらない。
 触れたままの手のひら。それは、皆本の信頼の証だ。そして、俺がここにいてもいいという証明だった。それを与えてくれる皆本は、俺のことを初めてであったときと同じく友人だといってくれる。いやあのときよりも一歩進んで腐れ縁の親友だと。あいつはそれをくすぐったそうに語るのに、俺はそんな優しいものではもう満足できなくなってしまったのだ。友達は唯一じゃない。いつだってかえがきく。いつの日にかこいつは、こいつの愛する人を見つけて、俺と向かい合って座っているベッドの上にその女を抱くかもしれないのだ。その瞬間を考えただけで、もしかしたら心というものが存在するのかもしれない胸のあたりが苦しくなって、いっそこのまま押し倒してしまおうかという極端な結論を弾きだしそうになる。
「なあ、皆本」
 こたえるように傾げられた首。色の白い首筋に、躊躇うように触れると、こそばいいと肩をすくめて笑った。それでも逃げることなく受け入れられるこの幸福が、どれだけ尊いものなのか皆本は知らないのだ。
「つぎ振られても、慰めてくれる?」
 俺の頬に触れていた男のものでしかない手に触れてそれをぎゅっと握り締める。瞬いた瞳はじっと俺を見つめて、どうしようもなく出来の悪い生徒をみた先生みたいに笑った。
「おまえの行いにもよるけど、でもまあ前向きに検討しておく」
「なんだよひでぇ! 友達甲斐のないやつだな!」
 本当のことだから仕方ないだろと笑う皆本の手のひらからは、つぎもそのつぎも話くらいはきいてやるよと溜息交じりの言葉が流れ込んできた。完全に誤解されているけれども、かわることなくこいつが隣にいてくれるんだと思うと、それがどうしようもなく嬉しくたまらなくいとおしいことのように思えて、俺は酔っ払いなんだと言い訳するように心の中で宣言して、繋いでいた手のひらに力をこめて腕を引きよせ、そのまま皆本を抱きしめた。
「おい、どうしたんだよ賢木」
 体勢を崩して顔面から俺の胸元にダイブした皆本の声はくぐもっていたが、そこから嫌悪の気持ちを読み取ることはできずに安堵する。そして同時に、こいつが俺と同じサイコメトリーの力を持ってなくてよかったとバカみたいなことに胸をなでおろした。
「酔っ払いなんだよ、俺」
 思ったよりも掠れた声音。言い訳ですと声を大にするようなそれ。空回りするように必死なだけの自分を恥じ入るように瞼を閉じ、脳裏に輝く室内灯の名残だけを追って皆本の鼓動を探った。
「知ってる。酒臭い」
「振られたんだよ、俺」
「知ってる。観念して認めたか」
「慰めてよ、皆本」
「本当にしょうのないやつだな」
 苦笑交じりの声音が胸元をくすぐる。身じろぎをするように態勢を整えた皆本が、まるでチルドレンたちにするようにやさしく頭をなでてくれた。本当はもっと色っぽい大人の慰め方でもよかったのだが、いつまでたっても乙女の称号から逃れられない皆本にそれを求めるのは酷というものだろう。
 なあと、秘め事でも吐き出すように腕の中にいるあたたかいものの名を呼んだ。小さく腕の中の皆本の肩が揺れて、濡れた吐息が胸元を掠める。たったそれだけのことに性的なものを見出しそうになる己に、いったいどこの男子中学生だと呆れずにはいられない。
 この男を女の代わりに押し込めようとしている己を愚かだとあざ笑った。そしていまさらそんな自分を更に打ち砕きたくなった。こいつは女の代わりになんてならない。皆本は、俺にとって唯一こいつしかいなくて、こいつじゃなきゃ駄目で。本当にどうしようもないくらい欲しくて欲しくて仕方のなかったものは、こんなに近い場所で体温を感じることができるのに、酷く遠い場所にいるこの男なのだ。決して言葉には出来ないけれど、それでもすきだよと誰にでもなく誓うように心の中で呟いて、それを打ち消すように今晩泊めてくれないかと、いまさらみたいなことを口にした。皆本が、俺を受けいれるようにため息交じりの笑みを浮かべてくれることを確信しながら。
 それが救いでもあり、また俺に与えられた如何ともしがたい友情という名の鎖そのものだった。


 翌日、皆本の寝室にいるところを発見されて、チルドレンたちに浮気だとか変態だとか罵られ、不当の罪のもとに断罪されたり、なんだ今ごろ気づいたのね、どうせなら一生気づかなきゃよかったのにと紫穂ちゃんの冷たい一瞥とお言葉をいただくことになったりするのだが、またそれは別の話だ。





13・02・05
13・02・27