夜も落ち着いた時間だからだろうか。学生がひいきにしているバーにしてはしずしずとした雰囲気の店内には、さざめくように密やかなささやきに満ちていた。一人で飲んでいるもの、寄り添いあって睦言を交わしているもの、みな一様にして、この店の中の空気に馴染むように、自分たちの時間を楽しんでいるらしく、他者には無関心だった。
 大学を基盤として生活する以上、良くも悪くも、いや主に後者の意味で顔を知られてしまっている俺としては、有名税というやつか不躾な視線や好奇の目にさらされることも多かった。だから余計に、こうして誰にも干渉されず一人で居られることが心地よかった。
 人の輪に馴染み、求められる役割を果たし、好意的に迎えられるのは昔から得意だった。それは能力を発露する以前も、以後も変わることはない。だが、どれだけ笑顔で迎え入れられようとも、結局のところ俺が打算で動いているのと等しく、相手だって同じだけのものを人のよさそうな仮面の裏に隠し持っているのが常なのだ。それを責めるつもりはない。自分が計算高く生きている以上、俺以外の他者だってそうに決まっている。そしてなによりも性善説など信じちゃいない身としては、人間のそういった側面を否定することは出来ない。頭がお花畑でない限り無理な話だ。
 いつだって、隣で笑顔を浮かべている人間が、一体何を考えているのかを探り想像してしまう。そしてそれは、美しい帰納法かとでもいいたくなるくらいに必ずマイナスの方向へと進んでいくのだ。皆が皆、そうじゃないということはよくわかっている。だが、人間の心に絶対と普遍がないということもまた、俺が生きてくる中で生々しいほどの鋭さを持って感じ取ってきた教訓だった。だから余計に、肩肘張ることなく一人でいられる場所も、時間も、なによりも心安らぐことのできるものだった。
 それもあって、疲れを感じるとこうやって一人になれる場所で静かに飲むことを好むようになったのはいつからだろうか。
 手にしていたグラスの中身を軽く傾け、無色透明な液体の向こう側に見えるカウンターをぼんやりと見据える。結露のせいでうすもやの掛かった棚には、造詣も色もまちまちなボトルが並び、壮年のマスターがその中から迷いのなくカシスリキュールを取り出した。サイコメトラーというわけでもないのに観察眼の肥えているらしいバーテンは、グラス越しに視線の合った俺に穏やかな笑みを見せただけでそれ以上は何も言葉を発しはしない。一人でいたいという俺の気持ちを汲んで、放っておいてくれる。かと思えば、何か話し相手が欲しいと思うときには、不快でない程度を弁えつつ会話のキャッチボールを楽しませてくれた。客が何を求めているかを感じ取り、接することが出来るというものまた、深みのあるマティーニの味を引き出すだけではない、彼のプロの手腕なのだろう。
 冷えたグラスに口を付けてマティーニを流し込むと、カウンターの中で忙しそうにしていたバーテンが俺の方へと軽く目配せをくれる。突然のボールに首を傾げると、小気味よくヒールが床を蹴りつける音が聞こえて、次いで覚えのある声に名前を呼ばれた。
「ハイ、シュージ」
 女にしては低めのハスキーボイス。長めのブロンドをそのまま後ろに流し、カジュアルな服装に身を包んでいる彼女には見覚えがあった。特別親しいというわけではない。だが、赤縁の眼鏡の向こうの青い瞳は臆することなく俺を映していた。
「えーっと、君はたしか、皆本の」
「あら、ちゃんと覚えててもらえて光栄だわ。コーイチと同じ研究室に所属してる」
「ちょっとまって。あーっと、あれだ」
 流れるように自己紹介をしようとした彼女を止めて、手のひらで額を覆う。見覚えはあるし話した覚えもある。後一歩、喉の辺りまで出てきてはいるのだ。何か関連している記憶をとぼんやりとした記憶を手繰り寄せていると、隣に立ったままだった彼女が降参かしらと笑う。いや、あと少しなんだ。ここで答えを聞いてしまうというのも負けたようで癪じゃないか。たしか、初めて会ったのは皆本に用事があって、気が進まないのを我慢してあいつの研究室をのぞきにいったときだった。そのときに、皆本が彼女の名前を呼んでいたのだ。
「あっ、ヘレン! そうヘレンだ!」
「正解。名前まで記憶していてもらえたなん嬉しい」
 先生かなにかのように花丸ねとウィンクしたヘレンは、たしかあのとき皆本の隣のデスクでレポートを作成していたはずだ。いまは後ろに流しているブロンドを一まとめにしてポニーテールにしていた。ここまで思い出せば、完璧だろう。
「女の子の名前は、一度聞いたら忘れないんだ」
「それはずいぶんと都合のいい頭みたいね。隣、座ってもいいかしら」
「もちろん。きみみたいなかわいいこと一緒に飲めるなんて、今晩はラッキーだ」
「コーイチの言うとおり、ずいぶんと口が上手い人なのね」
 バーテンにカルーアミルクを注文したヘレンは、ブロンドの髪を耳にかけて小さく笑う。フレームのしっかりした眼鏡と涼やかな目元から、どことなく気の強そうな印象があるが、笑うと少しだけ幼く見えた。
 皆本の言うとおりとはどういうことなのだろう。俺の知らないところであいつの口からどのようなことが吹聴されているのか気にならないわけではなかったが、口が上手いというのはプラスの意味でなのかマイナスの意味で使われているのか悩みところだ。なんとなく、女ったらしとか、すけこまし的な意味でだとしたら、俺は真面目なお付き合いしかしてない純情な好青年であるということアピールしてイメージを向上させていかなければならないだろう。
「今日は一緒じゃないの?」
 著しく省略された言葉に、先を促すように軽く肩をすくめると、バーテンから差し出されたカルーアミルクを受け取ったヘレンが、コーイチよと小さく付け足した。そこに好奇や揶揄はない。ただ単純に、俺と皆本をセットに考えているとわかる透明感のある空色の瞳に、どうしてだか座りが悪くなる。
「いつもいっしょってわけじゃないさ。学部は一緒でも科は違うし、予定が合わないことだってままある。子供同伴じゃきみみたいなきれいなことも遊べないだろ?」
 オリーブの添えられたショットグラスの縁をなぜて、ヘレンの反応を探る。だが自分が求めているものが、粉をかけてみたことへの反応なのか、それ以外のものに対する反応なのかはよくわからなかった。
「案外クールなのね。最近コーイチの口からあなたの話をよく聞くから、もっと親しいのかと思ってた。どうしてか超度6のサイコメトラーを想定したリミッターの調整に熱を上げてたみたいだし」
 もしかしてこれって言っちゃ駄目だったのかしらと悩ましげな顔をして、艶やかなブロンドの前髪に指を絡ませ、私が言ったってのは内緒にしておいてねと小声で付け加えた。口外するつもりも相手もいないから困りはしない。そんなことよりも、いつの間にか握りしめていた手のひらが熱く、酷く喉が渇いた。誤魔化すように嚥下したマティーニの独特の風味さえどこか遠い。
「あの子から特定の人の話を聞くことなんてあまりなかったから、ずいぶん入れ込んでるのかなって。まあ、個人的な感想でしかないんだけどね」
 あの子という言い回しから、研究室の中で皆本がどんな立ち位置にいるのかということを垣間見たような気がした。もともと童顔なのもあるが、東洋人であるということが更に皆本を幼くみせているのだろう。あのしっかり者の内面を裏切るように、マスコット的な扱いを受けて可愛がられているのかもしれない。
「同郷っていう心安さがあるのかもしれないな」
 会話の受け答えとしては唐突な、お茶を濁すだけの言葉に、確かにそれはあるかもしれないわねと、ヘレンは鹿爪らしい顔で頷いた。
「コーイチはもうこっちに来て長いから、日本人の友達が嬉しいのかもしれないわね。やっぱりあなたもそうなの? こんなことを言うのは失礼なのかもしれないけれど、どちらかといえばあまりよくない噂を聞くことのほうが多かったから、そういう人があのお坊ちゃんみたいな子とつるむってちょっとだけ不思議だったの」
 遠慮したような前振りを投げかけながら、濁すことなく明け透けな物言いをするヘレンに思わず乾いた笑いが漏れた。
 自分の取ってきた態度や振る舞いに相応しい噂が回っていることは知っているし、それをわざわざ俺の前で唾棄していくやつもたくさんいる。珍しいタイプとしては、というよりも新種に相当するものだったが、皆本のように果敢にお説教を食らわせてくる人間までいたのだ。尾ひれがついたり背びれまで付けたりして、盛大に大学の中を回遊している噂をひとまとめにしたとしたら、相当凶悪な近寄りたくもない人間が出来上がることだろう。そういった人間と皆本が一緒にいるのが我慢ならないからこその牽制球なのだろうか。もしかしてと思いへレンの様子を伺ってみたが、特に俺に対して敵意を持っているような気配はない。何もない素振りをして透視してみれば、もっとたくさんのことが分かるのかもしれないが、そこまでする必要性は感じなかった。どうせ、一時の関係だ。バーを出れば、よく知る他人へと戻るだけだ。
「そりゃあ、そこに親しみを感じないっていったら嘘になるけどね」
 だが、それだけではない。誰かと深く関係を持とうとすることなんて、いままで、いや能力に目覚めてからは、望まなかった。いつだって刹那的に繋がっては、離れていく。深く知れば知るほどに、知りたくもない面を、相手が隠し切ることの出来なかった怯えと嫌悪を盗み見てしまうのだ。だから、慈しむようにかき抱いてからそれが害をなすものでしかなかったと知って苦しむことのないように、広く浅く水面を撫でるような人間関係の中で生きてきた。だのに、あの皆本ときたら、いままでとは違って一筋縄ではいきそうにもないのだ。
 友達、なのだろう。多分だけれども。他人というには近く、友達というにはまだ遠慮が伴う。すれ違えば挨拶をするし、時間が会えば食事をしたりそれっぽく遊んでみたりもする。この中途半端な段階をなんと表現すればいいのか。酷くくすぐったくて、もどかしい。だが、あまり近づきすぎたくはなかった。
 皆本は俺と一緒にいることに怯むでも忌避するでもなく、ただ自然な距離感で接しようとする。お互いそういったつもりで関係を結んでいる女とならまだしも、同年代の男とたとえば普通人同士のように触れ合うなんて、たとえば肩がふれても逆にぶつかってしまったことに謝られるなんて、そんなことなかった。だから、これ以上あいつに近づきたくなんてない。


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 夏の名残をどこかに置き去りにして、徐々に冬へと近づいてきた秋の空は、やけに高く透明感がある。海の青を写し取ったような深々とした青色に、白い雲が斑を描きながら重なり合っていた。うろこ雲というには一つ一つのまとまりが大きくて、どちらかといえばひつじ雲といったほうがいいかもしれない。その雲を押し流していく風は冷たく乾いていて、軽くジャケットを羽織っただけではその冷気を防ぎきれずに体がふるえた。
 午前中の講義が終わり、一気に解放された学生の波から逃れるように、手早く購買で昼食を確保して、落ち着ける場所へと避難してきた。多岐にわたるジャンルを抱え込んだ国内でも有数の蔵書を誇る巨大な図書館の裏手側にある、袋小路状の空間を使って作られた、ちょっとした庭のようになっているここは、もともと図書館自体が大学の隅にあり、入り口も奥まっているせいか、俺以外の人影はなく、学内の喧騒も遠い。
 日陰になっているため若干肌寒くはあるが、ドールハウスの庭のようにこじんまりとした空間に作られた裏庭は、学内の中でもリラックスできる場所の一つだった。
外を歩いていても、テラスで食事をしていても何処かからか向けられる纏わり付くような視線。それらを快の感情へ結び付けられるような特殊性癖は持ち合わせていない。
 どうせ気持ち悪いと思うのなら、俺というものが気にいらないのならいっそ、突っかかることをやめて無関心を貫き通してくれないだろうかと思うのに、人間どうしてもそういった類のものに関しては全力でぶつかり、あなたのことが嫌いで嫌いで仕方ないんですよとアピールせずにはいられないらしい。どうしようもないくらいに面倒な生き物だ。自分からぶつかってきて、怪我をしたどうしてくれると騒がれても、返す言葉もない。だから、無鉄砲な当たり屋の存在しないここでは、気楽に過ごすことができた。
 手入れされた芝生が緑の絨毯のように敷き詰められていて、図書館へ続く道は煉瓦色と黒色の石畳で美しく舗装されていた。袋小路の壁にあたる図書館の外壁に沿うように設置された木製のベンチは、野ざらしにされているため少々薄汚れて見える。しかし、季節に合った花々が庭を囲むように植えられているのが、座っている人間の目を楽しませようという心意気が伝わってきて悪くなかった。いまの季節は色とりどりのコスモスとサルビアが風に揺られていた。
 既に完食したサンドウィッチの残骸を綺麗にまとめて、一緒に買ってきたコーヒーを煽る。食欲が満たされたせいか、いままでなりをひそめていた睡眠欲が俺こそが主役であると自己主張をはじめた。昨日遅くまで課題の論文と戦っていたせいだろう。もれる欠伸をかみ殺して、ベンチにもたれかかりまとめたゴミを近くにあったごみ箱へと投げ捨てた。過剰包装の日本と比べゴミが少ないところは評価できるが、できれば大味すぎる食事をもう少し俺の舌に合うように何とかしていただけないだろうか。少々美化されているのかもしれないが、離れて分かる故郷のありがたみの筆頭が食事の美味さだった。
 いい感じに眠くなってきた自分をたたき起こすように伸びをして、今度は殺しきれなかった欠伸に口を大きく開ける。午前中は朝一からいままで講義が詰め込まれていたが、午後は午後で研究室のほうに顔を出さなければいけないのだ。こののどかな雰囲気に流されて居眠りを決め込むわけにはいけない。
 だが、腕時計を確認すると、研究室に教授の手伝いをしに行くまで時間に余裕があった。少しくらいなら昼寝をしても罰はあたらないよなと、この場所にいない誰かに確認するように呟いて、ベンチに背を預けたままゆっくりと目を閉じた。
「どうしてですか!」
 穏やかに夢の中に落ちていく道筋を描くように、ひつじ雲の代わりに頭の中でひつじを数えようとした矢先に、女の金切り声が耳をつんざいた。いまのいま、柵を飛び越えようとしていたはずのひつじは、無残にもジャンプし損ねて真正面から柵にぶつかり痛みを訴え、悲鳴をあげている。苦情ならあの声の主に言ってやってくれ。
「だって私、どうしてもあなたじゃないと駄目なんです」
 仕切りなおして二匹目をひつじ小屋から出してやろうかというときに、また切羽詰ったような声が聞こえてきた。ずいぶんと情熱的な告白のようだ。このまま無視を決め込んでも良かったのだが、頭の中で二匹目のひつじを小屋の中に戻して目を開いた。声の発信源は図書館のほうだ。ここから姿は見えない。それが耳に止まったのは、ずいぶん威勢のいいものだったせいもあるが、俺にとっては嫌というほどに聞きなれた母国語だったからだ。
 一体何事かと、スパイ気分で立ち上がって、できる限り足音を立てないように声のほうへと近づいていくと、図書館へ通じる道の途中に二人の影が見えた。その姿を確認する前に飛び込んできた声に、まさかと耳を疑ってしまう。
「すみません。申し訳ないですが、僕ではあなたの気持ちに応えることはできません」
 白衣を羽織った下に大人しい色のタートルネックのセーターを着込み、ジーンズをはいた眼鏡の好青年もとい皆本は、すがるようにまだ言い募ろうとする女を拒絶する言葉を、できるかぎりの優しい口調で言った。いつも他人を思いやるためだけに生きているんじゃないだろうかと疑いたくなる物腰の柔らかさなのはいいのだが、こういうときぐらいはもう少し、突き放すというか、おまえの申し出は受けらんねぇからぐらいの強気でいかないと、どうにかこうにか逃げ道を見つけられてさらに攻勢にでられることになってしまう。特に、見るからに押しに弱そうな皆本なんて、その毒牙に引っかかって陥落なんてことになってしまってもおかしくない。
 ごめんなさいの一点張りの皆本に果敢に向かっていく女は、たっぷりとした黒髪をセミロングでまとめて、白い花柄のワンピースに深緑のハーフブーツを履いていた。身長は低めで、甘い顔立ちをしているせいか、ずいぶんと幼い印象を受ける。黒曜石のように真っ黒な瞳を潤ませながら皆本の前に立ちはだかっている彼女を見れば、いかに本気であるかということが手に取るようにわかった。
「私、皆本さんのことがすきなんです」
 震える手を握り締めて、一転して弱々しく揺れる声で言った彼女に、ああやっぱりと思う。次は泣き落としに方向性を変えてきたか。揺れる肩と、細くえずく声は、庇護欲をそそられ、それを突き放してしまうのには罪悪感さえ伴う。さっきまでは何とか強気で切り抜けようとしていた皆本も、突然泣き出した彼女にたじろいでしまい、どうしたらいいのかと落ち着きもなく視線をさ迷わせて、大丈夫ですかなんて間の抜けた気遣いをしている。皆本が彼女を振っている段階で大丈夫じゃないのは百も承知のはずだろう。だから、いまおまえがしなきゃいけないのはそんないい人ぶることじゃなくて、鉄壁の精神を持ってその女を突き放すことだ。
「すみません、僕」
 向かい合った少女に申し訳なさそうに眉を曇らせて、言葉を吟味している皆本は、完全に相手のペースに乗せられてしまっている。すみませんなんて言っているが、ここで踏み込んでこられたら、訳のわからないままにデートの約束を取り付けられるなんて冗談みたいな展開もありえそうだ。
巧妙に自分の外見とキャラクターを使いこなして攻めてくる彼女も、気軽く付き合ってみないなんて声をかけてみる類のものではなくて、もっと苦しくなるくらいの気持ちを皆本に向けているからこそ、それを受け止める皆本もむげには出来ないのだろう。だが、ここは心を鬼にするところだ。皆本に、彼女と付き合う気がないのなら。でなければ、もっと面倒なことになってしまう。
 一進一退のこう着状態にある二人にため息をついて、地面の石を蹴りつけた。ころころと転がっていくそれは、二人の足元にたどり着く前に、減速して止まってしまう。
 どうする。いや、どうするって、何を。
「私、皆本さんにすきになってもらえるように努力しますから。だから、」
 一歩前にでた彼女は、潤んだ瞳にそれでも絶対に引かないという意志をこめて、皆本を映す。対する皆本は言葉を失ったように唇を噛み締めて、立ち尽くしてしまっている。
これは駄目だ。おせっかいだなんて分かっている。それでも、歩き出した足は止まらなくて、そんな性分の自分に苛立ちまぎれに髪をかき乱した。
 わざとらしく煉瓦を踏みつけて、足音をたてる。突然の闖入者に、二人だけの世界を作り上げていた皆本と彼女が、体を硬くして俺のほうを見た。反応は対極。驚きに目を丸くし、どこか安堵したように肩の力を抜いた皆本と、具合の悪いところを見られたとように恥じらい、俺を認識して怯んだ彼女。
皆本の方に軽く手を振って、できる限り陽気な声を作ってその名前を呼んだ。
「よう、皆本」
「さ、賢木さん」
 こんな状態のところに入り込んでくるなんて無粋以外のなにものでもないというのに、皆本はよくぞきてくれましたとばかりに安堵を滲ませて、彼女と距離をとるように俺の隣に並んだ。彼女はそれに対して、分かりやすく表情を曇らせると、皆本の前で泣きそうになっていた弱々しさをどこへ仕舞いこんだのか、射殺さんばかりの勢いで俺のことを睨みつけてくる。邪魔者はいますぐ消えろということか。
「あの、まだ大切な話の途中なんで、邪魔をしないでくださいませんか」
 言い回しは丁寧なのに、その声は刺々しく、皆本に向けられるものよりも低く感じられる。分かりやすい拒絶に、思わず笑いが漏れそうになった。だが、せっかくここまで出てきたのだ、今更引くわけにもいかない。
 隣に並んでいる皆本に、意味ありげな視線を向けて二人の間に特別な空気があるように装う。
「皆本が悪いんだろ」
「な、なにがですか?」
 突然水を向けられた皆本は、俺の言いたいことが理解できないとばかりに、彼女と俺を見比べて首をかしげている。彼女も彼女で、急に現れた邪魔者が出し抜けに変なことを言い出したぞと苛立たしげだ。
「おまえがちゃんと言わねぇから、彼女がこんなに必死になってるんだろ」
 こいつが気をもたせるようなことをして悪いねと、彼女に軽く謝ると、怒声の洗礼を受ける。
「意味がわかりません。もしかして、盗み聞きしてたんですか!?」
「そんな品性の問われるようなことするわけないだろ。奥のベンチで飯食ってたら偶然聞こえてきたんだよ。そんなに聞かれたくない話だったんならもう少しボリューム抑えたほうが良かったんじゃないの? いくら日本語っていっても、どこで聞かれてるかわかんねぇぜ」
 分かりやすい挑発に、それこそ子供みたいな単純さでむきになってくれた彼女は、もう隠すこともなく鋭い一瞥をくれる。もちろん、本当は盗み聞きしてたんだけど、そんなことを馬鹿正直に言うわけがない。軽く肩をすくめて適当に誤魔化して、そのまま隣に並んでいた皆本の肩を抱いた。躊躇いはあった。だが、感情が理性よりもはやく行動の撃鉄を起こした。
 目を白黒させて俺を見上げる皆本は、やめてください急になんですかと声を荒げる。その抵抗を押さえつけるように、皆本の肩を抱いている手に力を入れて、俺たちの距離を更に近いものにした。
「恥ずかしがるなよ、いまさらだろ?」
「だから、なにがですか!」
 僅かに頬を朱に染めて反論してくる皆本に、何とかしてやらないとなというお節介のほかにも、純粋にこの状況を楽しむ悪戯心が湧いてきた。だから、皆本の黒鳶色の髪に軽く口付けて、挑むように俺たちの前に立ちすくんでいる彼女を見据えた。皆本が何事かを言っているがそれは無視することにする。
「いつまでたっても、こいつは照れ屋だからこんなんなんだけど、まあこういうことだから。悪いな」
 ざわりと、冬の冷気を先取りしたようにつめたい風が木々を揺らした。視界の端で揺れる緑が、この剣呑な状況に似合わぬ穏やかさで、まるで舞台の上にでも立っているような気分になってくる。だが、彼女にとってはまさに、一世一代の舞台そのものだったのだろう。怒りか羞恥からか、目元に朱を走らせて手を握り締め俺に突っかかってきた。
「こういうことって、どういうことですか! 私はあなたじゃなくて皆本さんに用事があるんです!」
「なに、最後まで言わせるの? 無粋だな。あんまりきみを傷つけるようなことしたくないんだけど」
 なあと、同意を求めるように俺の腕の中に収まっていた皆本の鳶色の瞳を見やる。そこには嫌悪はなく、ただ混乱があった。そして、困惑のままに説明を求めていた。乞うようにジャケットの裾を引っ張られる。何を求められているのかすぐに理解が及ばず首を傾げると、皆本が焦れたように俺のリミッターに触れた。まさかと思う。俺の勘違いだろうと自らを落ち着けるように唇を舐めると、真摯な鳶色がそれこそが解であると後押しするように強く頷いた。だから、恐る恐る軽くサイコメトリーを働かせてみると、どういうことなんですか説明してくださいという皆本の声が透視みとれた。直接言うわけにもいかない、どうしてここにいるやつらは鈍感ばかりなのかとため息さえつきたいのを堪えて、次の出方を吟味する。
「しつこい女は嫌われるぜ?」
「しつこいってなんですか!」
 ブーツで煉瓦を踏みしめた彼女が身を乗り出して怒鳴りつけてきた。いままでとはまったくちがう姿に、腕の中の皆本が一歩下がりそうになったのが伝わってくる。おまえは、この子が被っていた分厚い仮面に騙されてたんだよ、女ってのこういう怖い生き物なんだと、声に出すことなく思い描きながら、まだ諦めようとしない彼女を揶揄するように、口角をあげる。
「皆本も、困ってるんだよな」
 そうだろと、この状況にまだついてこられていない、台風の目に問いかけると、それでもなんとなく俺に話を合わせておいたほうがいいと感じ取るものがあったのだろう、弱々しく頷いて身を任せてきた。その肯定に躊躇いがあったのは、彼女を切り捨ててしまうことへの罪悪感だろう。
彼女を傷つけてしまいたくないという優しさは一見すれば、皆本の美徳とも言えるが、その気持ちにこたえることも出来ないのにずるずると結論だけを先延ばしにして優しさだけを与えるのは、報われない思いに都合のよい餌だけを与え苦しみを長引かせるだけの悪徳でしかない。
 だから、皆本のためにも、彼女のためにも、いまここで終わらせてしまわなければならないのだ。
「そんなこと、ないですよね? 迷惑だなんてそんな」
 ねえ、皆本さんと、すがるように言った彼女。だが皆本は、ごめんなさいと言うだけでそれ以上の、たとえば彼女が望むような言葉を口にすることはなかった。
 何かを探すように視線をさ迷わせた彼女は呆然とした黒曜石の瞳に俺を映すと、憎憎しげに目を細めて、眼光鋭くも睨みつけてきた。真っ白になるくらいワンピースを握り締めている手のひらは、ふるふると震えていて、夜を映したような髪は秋の渇いた風に揺られている。薄い紅色の口元は、本当ならば優しい愛を紡ぐだろうに、それと正反対の呪詛の代わりに俺の名を吐き捨てた。
「賢木さん、ですよね?」
 やけに、落ち着いた声音だった。ゆっくりと瞬きした彼女は、いままでの動揺を封じ込めたように、凪いだ表情で俺を見据えた。疑問を投げてきているのに、答えは求めていないとわかる。腕組みをして、俺達をというよりも、俺をせせら笑った彼女は、何が面白いのか完璧な三日月形に口元をゆがめて軽く首を傾げた。
「どうやって、皆本さんを騙したんですか?」
「だ、騙したって」
 たしかに、学内で天才の名を欲しいままにしている皆本が、入学してから短期間のうちに暴力沙汰から女性問題までありとあらゆるよくない意味での浮名を流している俺とつるむようになったといわれれば、そこに何らかのよくない想像が働くというのも、想像力逞しい人間ならありえることだろう。しかし当事者は著しく想像力が欠如しているのかその可能性にまでは至らなかったようだ。あまり穏便ではない単語に、いままで黙り込んでいた皆本のほうが困惑の声をあげる。それを一瞥して黙殺した彼女は、更に切り込むように口を開いた。
「学内であなたの悪い噂ってたくさんありますよね。超度6のサイコメトラーでその能力を使って、人の論文を盗作したとか、教授に取り入ったとか。あと暴力沙汰もたくさん起こしてるし、女性関係だって酷いって聞きます。そんなあなたが、皆本さんの隣にいるなんて、相応しくないって思いませんか? ねえ、どうやって取り入ったんです? 教えてくださいよ」
 まるで仲のよい友人に意見を求めるような軽やかと笑顔。だが、俺を映している黒曜石の瞳には、爛々と攻撃的な光が浮かんでいる。確実に、俺が傷つくようなことを突いてきている自覚があるのだろう。思わず暴言を吐きそうになる。だが、それを上書きするみたいに、皆本が息を呑むのが伝わってきた。俺だって挑発されて冷静でいられるほど出来た人間なんかじゃない。感情が高ぶっているせいか能力を使おうとしたわけでもないのに、皆本に触れている部分からその思念や感情の断片が伝わってくる。
 一言で言うのなら、怒り。
 そして次いで、それとは正反対の優しさ。
 ばかだなあと思う。こんなことは日常茶飯事で。俺にとっちゃいつものことで。いちいち真に受けていたら胃に穴が開くどころか、そろそろ世を儚んで自殺しててもおかしくないころだ。もちろん激情のままに暴力で渡り合っていたこともあるし、正々堂々と実力でねじ伏せてやったこともあった。でもこういった中傷だとか、陰口、讒言なんてものは、もう聞き飽きるぐらいに、それこそよくそんなバリエーションを思いつくなとこちらが感心したくなるほど、頼んでもいないのに数限りなく湧いてくるのだ。人の悪意の矢面に立つことなんて、呼吸しなければ生きていけなのと同じように俺にとっては当然のことだったのだ。むしろ、こうして俺のために怒り、思いやりを向けようとする普通人のほうが少数派なんじゃないだろうか。だから、こうして、居ても立ってもいられなくなってしまうんだろうけれども。
 関係ないと、切り捨ててしまった自分を潔く裏切るように、皆本の肩を抱いていた腕に力を篭める。そして、囁くようにその名を呼んだ。くすぐったさに震える皆本の肩。触れている部分から伝わってくる感情に嫌悪だとか疑念はない。眼鏡の向こうで俺を見据える鳶色の瞳には、俺を慮るような色があって、この雰囲気には不似合いだとは分かっているのに、思わず笑ってしまった。そんな俺をいぶかしむように瞬いた皆本の頬に触れ、そのまま距離を縮める。中傷や悪意をぶつけられるのになれていたって、それをそのまま見過ごすほどに俺は優しくない。意趣返しだってしたっていいはずだ。それくらいの抵抗が許されないのなら、やってられない。
 だから、見せ付けるみたいにわざとらしく、皆本の唇に、自分のものを重ねた。びくりと揺れる肩。驚きに見開かれた鳶色の瞳。抵抗するように身じろぎをしたのを押さえ込んで、もう一度、案外柔らかい皆本の唇を味わって、そのまま抱きしめた。