薄暗く落とされた室内灯。黄昏時のように曖昧な色の中にぼんやりと浮かぶ室内は、いつの間にか見慣れてしまった賢木の寝室だ。もちろんそれをつぶさに観察しているほどの余裕があるわけではないが、荒い呼吸を落ち着かせながら頭の中にその配置を思い浮かべられるくらいには、馴染み深いものになってしまった。
人工的に作られた夕闇色の空間。ベージュ色の視界を占拠しのしかかってくる男の体が肌に馴染むのは、それだけ肌を合わせるという行為の回数をこなしてきたからだろうか。
甘えを含んだ声色に、名を呼ばれる。耳朶に触れるその声音に応える僕も、どこか熱に浮かされ掠れた吐息を漏らしていた。喉の奥が痛いのは、賢木にいいように翻弄されたせいだ。
いつからこんなことになってしまったのか、記憶は定かではない。思い出そうとすればできるのかもしれないが、僕たちの友情からの歪な関係へとのシフトは、乾いた大地に水が染み込むように自然と、新人ドライバーの中央分離帯からの合流のような心もとなさもなくスムーズに移行してしまった。
それこそが、一番の問題だったのかもしれない。
いっそ、中央分離帯の壁にでも激突してしまえば、てんやわんやの大騒ぎで救急車だって出動して、事故のショック症状がでたとでもこじつければ、カウンセリングまで受けることができただろう。なのに、壁にぶつかって大破重症大出血などという大事件が起こることもなく、平和裏にそしてハイスピードで高速まで入ってしまったのだ。しかもこの道、どうしてだか巡回の警察官も監視カメラもないのだから手に負えない。監視の目さえないこの状況で、箍の外れたままだというのなら、アクセルばかりが踏みこまれてブレーキへと足が伸びる気配もない。だから、ここまで訳の分からないことに雪崩れ込んでしまったのだろう。
名づけられないラベリング不能のこれらは、一体何処へ向かっていくのかも定かではないのに、ただ淡々と僕たちの間で育まれていく。非生産的だとか、社会的道徳に反するとかそんな野暮ぼったいことをもう言うつもりなんてない。そういったストッパーが防波堤になってくれていたとしたら、こんな泥沼に転がり込むこともなかっただろうから。
どうして、なんでという、ナンセンスな疑問の群れたちは、決して解決されることもなく暫定的に棚上げされたまま積みあがっていく。棚が重圧に耐えきれず壊れるそのときまで。そうして一時の安寧のままに思考回路を放棄した僕の目の前にあるのは、この男と、賢木とベッドを共にして熱を共有しているという何よりも非現実的な状況だ。粛々として繰り返されていくこの行為は途切れることがなく、もういっそ何らかの儀式なのかもしれないとさえ思えてくる。
「寝てるのか」
たしなめるように、僕に唇に触れた湿り気をおびた指先。それにそのまま頤を掴まれ、ぐいっと顔を上げさせられる。手首にブレスレットを模ったリミッターが揺れていて、その電源がオンになっているのを確認し、訳もなく安堵した。
ぶつかった黒茶色の瞳は押さえ込んだ低い声音を裏切るように、爛々とした輝きを封じ込めていて、僕たちが交わした熱の名残を感じさせた。ベッドの上を支配するぬるんだ空気。僕たちの体臭と、吐き出した性欲の象徴ともいえる青臭いものが鼻を突いた。それに連想されるように、体中のべたつきや下半身の違和感などを意識する。さっきまで賢木のものを体内に受け入れていたせいで、下肢を中心として鈍く気だるい痺れがまとわりついていた。直接中に吐精されたわけではなくコンドームを使ったので、体内に賢木の精液が残る気持ち悪さがあるわけじゃない。それでも、疼くような感覚がせりあがってくるたびに、口元から漏れる呼気は濡れていて、そのさまを余すことなく賢木に見られているのだと思うと、頬が熱くなった。だから、賢木の視線から逃れ、羞恥だとか情火のなりそこないを遠くに追いやるように、湿ったシーツへと頭を擦りつけた。これじゃあまるで、僕がもっとと望んでいるみたいじゃないか。
欲求の最たるものは三大あれど、己はそのどれもが希薄で、どちらかと、いえば知識欲というものに突き動かされて生きてきた。そしてそのような人種であると思っていた。言い方を変えれば、それも一種の知るという快楽へのアプローチだったのかもしれないが、兎にも角にも、性というものは自らの体の仕組みを指すところが大きかった。それを異常だとか頭がおかしいと非難するものもあったが、それこそ身勝手極まりない狭量な価値観にとらわれたものの見方だ。もっとわかりやすくいうなら、僕のことくらい僕のしたいようにさせておいてくれということだ。
だのに、こいつと肌を重ね、セックスするようになってから、すべてがおかしくなってしまった。本当は、こんなはずじゃなかったのに、淡白だった自分が、欲求の希薄だったはずの僕が、いとも簡単にその仮面を剥ぎ取られ、自らものぞき見たことのないような本性の一端と、乱暴なまでの方法で邂逅させられてしまった。
「なあ、みなもと」
ぎしりと、ベッドのスプリングが軋む。賢木が僕の顔の横に手を置いて上体を起こし、覗き込んできた。確認しなくたって、賢木がどんな表情を浮かべているのか想像できてしまう自分が悔しい。だから、くしゃくしゃになってもうその役割を果たすこともなさそうな布団の中に逃げこんだ。だが、そんなのは無駄な抵抗だとでも言うみたいに、賢木の手が布団の中に入り込んできて、無防備なままだった背中に触れた。背骨をたどる指先が、骨の形をつぶさにするたびに、ぞわりと総毛立つ。ふるりと体を震わせると、賢木の含み笑いが落ちてきた。
「やめろよ」
「なんで? 感じちゃう?」
艶めいた笑いを含んだその声音は、獲物を追い込もうとする狩猟者の興奮を如実にする。僕が快楽の名残を中途半端に抱いたまま、くすぶった埋火をなんとか誤魔化そうとしていることなんて、この男にはお見通しなのだろう。それでも、勝者の余裕をのぞかせている賢木に、簡単に白旗を揚げてしまうのは癪で、だんまりを決め込んで枕に顔を埋めると、衣擦れの音とともにばさりと上半身を包んでいた布団を取り上げられてしまった。拒絶の声をあげようとしても、それを封じ込めるように僕の顔の隣にあった手のひらが唇に触れた。
背骨の上を柔らかなものが啄ばんでいく。そこに、ぬるりと濡れざらついたものが加わったときに、それが賢木の唇であると分かった。焦らすように舌先が骨の形をたどり、ときには皮膚を強く噛まれ、たまらずにもれそうになる声をかみ殺す。
色濃くなった精の匂いを振り払うように、高く澄んだ機械音がベッドボードから聞こえてきた。聞き覚えのあるそれに、思わず体を震わせて、いつもの習慣で置きっぱなしにしていた携帯電話へと手を伸ばす。
「その音は緊急呼び出しじゃねぇだろ」
舌打ちとセットになったつっけんどんな賢木の声を無視してまだ着信音を響かせている携帯電話をチェックすると、発信者は薫だった。すでに日付けが変わる直前のこの時間に何事かと慌てて電話に出ようとすると、それを絡め取るように賢木に後ろから抱きしめられて、携帯電話を取り上げられてしまった。
「おい、返せよ。電話なってる」
賢木の手の中にあるそれを掴もうと手を伸ばすと、不満そうに唇を曲げ元あった場所へと返されてしまう。
「なにするんだよ」
勝手に没収された携帯電話に棘を含んだ声をあげると、悪事を働いているはずの賢木のほうが、僕の不実を詰るかのように剣呑な光を宿した黒茶色で睨みつけてきた。
「出動ならバベルからの回線で、もしも薫ちゃんたちの緊急の用事だったらまたかかってくるだろ。中学生なんだ、一日くらい放っておいたって平気だろ」
「だから、用事があるからかかってきてるんだろ」
「わかってるさ。俺が言ってるのはその重要度の話。いまの皆本のタイムスケジュールによると俺の相手をする時間だろ?」
いったい誰が立てたタイムスケジュールなのかは知らないが、それを当然のように主張した賢木は、なあとこの状況を揶揄するように艶めいた笑みを見せた。そして携帯電話を求めて宙ぶらりんになったままの僕の利き手を強く握り締めると、僕に見せ付けるようにわざとらしくその指を口に含んだ。耳元に落ちる舌がたてる濡れた音はさっきまでの行為を連想させ、賢木がなにを望んでいるかを代弁していた。指を引き抜こうとすると、引き止めるようにあまがみされる。
「ひっ、賢木、やめろ」
「じゃあ、もっと違うところ舐めてやろうか? たとえば、こことか」
僕を後ろから抱きしめたままに覗き込んでくる細められた黒茶色に浮かぶのは、愉悦の色だ。触れ合った胸板からは興奮のためか熱い体温が伝わってくる。
腰から足元にかけてを覆っていたシーツの下に、賢木の手が忍び込んでくる。悪戯な手のひらが内股をひとなでして、一度吐精して力を失った性器に触れた。じわじわと鎮火しようとしていた快楽を呼び起こすような手つきに、瞼を強く閉じて足を閉じようとする。だが、賢木は僕の抵抗なんてものともしないで、性感だけを与えてくる。まだ、余韻を残したままの体は、それをいとも簡単に快の刺激として体中に伝播させていく。徐々に熱を持ち硬くなりはじめた性器の先端を賢木の指先が押しつぶし、その刺激に腰の奥がうずいた。
「んぁ、くっ」
「皆本、きもちいい?」
「し、しらなっ、いっ」
そんなことわざわざ聞かなくたって分かるだろうに、賢木は憎らしいくらいの余裕で、僕の羞恥に油を注ぐ。だらしなく快楽へと落ちるさまを観察されているのだと思うと、せつない疼きが這い上がってきた。耳元に流し込まれるどろりとした声を振り払うように首を振ると、嘲笑とも取れる笑いとともに耳朶に歯を立てられ、首をすくめてしまう。
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四角く切り取られた青空は、一日の労働の折り返し地点に至ったばかりの僕を嘲笑うように高く澄んでいて、濃い青のキャンバスに油絵の具を厚塗りしただろう白い雲が流れていく。今日が休みだったとしたなら、絶好の洗濯日和だ。最近布団も干せていなかったし、できれば掃除も済ませてしまいたいなとまで考えて、ここがバベルの廊下だったことを思い出す。本当に今日が休みだったとしたなら、たぶんだらしなくも昼間で惰眠を貪っていたことだろう。それくらいに、体が重く、節々が痛む。特に普段は使わないような部位の筋肉が。
昨晩、駄目だとわかっていたはずなのに、ずるずると翻弄されるままに賢木に乗せられて、二回も行為に興じてしまった己が憎らしい。互いの運動量から考えるに、賢木にだってそれ相応に体力を消費したはずなのに、気を失うように眠り、眠った実感もないままに刺すような日差しにせっつかれてベッドから這い出れば、ほうほうの体の僕をせせら笑うように、賢木は疲れを感じさせない爽やかさで朝食の準備などに勤しんでいた。体を起こしただけで重労働をこなしたような疲労感にさいなまれ、緩慢にしか行動できないでいると、僕がこんなにも苦しむことになった原因に、鍛え方が足りないんじゃないのかと笑われてしまった。だいたいが、トレーニング云々でセックスのあとの疲労の度合いが変わってくるのかということを問いただしてやりたいし(僕だってあいつと同じくらいは鍛えているはずだ。同じ男としてそこは負けない自負がある)、なんであんなに勝ち誇ったような笑みを見せられなければならなかったのかもわからない。やはり経験の差というものだろうか。いやでも朝食の準備をしてくれて、起きぬけからへとへとの僕に同情して車を運転してくれたことも感謝しているし、二人じゃないとできないことに夢中になり僕もそれなりに流されて楽しんだわけだから、賢木ばかりを責めるのはお門違いだということは分かっている。
だがまずもって最初はノーといえる日本人だった僕にけしかけてきたのはあいつじゃないか。しかも、途中で薫から電話がかかってきたというのに、意地悪くも携帯電話を取り上げられてしまったし、けっきょくあの後なんていいようにされてしまって、耽溺のままに電話がなっていたのかなんて気にしている暇もなかった。朝になって着信を確認して連絡もメールも入っていなかったからいいものの、あれで緊急事態だったらどうしてくれるんだよ。それこそあの子たちに顔向けできなくて首でもつりたくなりそうだ。今度は何があっても絶対に流されるものかと決意を新たにしたところで、やはり自分が自然と賢木との次を思い描いていることに愕然とする。
だいたい、あいつ一回目はちゃんとゴムつけてやったのに、二回目はなんかなし崩しにゴム無しでやりやがって。中に出されたら後始末がどれだけ面倒で、運が悪ければ体にどのような実害がでるのか知らない訳じゃないだろう。でも、それもなんとなくぼんやりではあるけれども、夢現の状態で賢木が事後処理をしてくれたような記憶がないわけでもない。というより、今日お腹を下していないということは、あれは僕の夢じゃなかったのか。いやでもそれでも、絶対に許さない。あと、あのいちいち口で言わせる上にしつこいのは何とかならないのか。背徳感とか罪悪感とか僕があいつとの関係に負い目でも抱いてるみたいじゃないか。まぁ、たしかにああやって追いつめられていくと興奮していくのはたしかなことで、いや違う落ち着こう。僕が特殊性癖を有しているというわけではない。
開けてはいけない扉に触れてしまいそうになった気がして、慌てて思考を打ち止めにする。これはよくない方向に逆回転している。落ちつけと一歩立ち止まって深呼吸する。目の前にあるのは見慣れたバベルの廊下で、職場でなにを考えているんだと、言いしれない後ろめたさが沸きあがってきた。誰が見ているわけでもないのに一人で咳払いをして気分を切り替え、ついでに芋づる式にベッドの上での回想にまで片足をつっこんでいた自分を追い払うように、頭を抱え込んでふるふると左右に振る。忘れろそれは思い出すなと自己暗示に躍起になっていると、不幸にも同じ部署のよく見知った女性とすれ違ってしまい、皆本さん大丈夫ですかと心配そうに肩を叩かれてしまった。突然のことでオーバーなくらい肩が揺れて、彼女のほうが目を丸くして、手にしていた書類を取り落としそうになった。
「す、すみません、大丈夫です。ちょっと、仕事のことを考えてたら頭がいたくなってきて」
我ながら苦しい言い訳である。無理があるとわかっているからこそ、口の端が痙攣しているような気がしてくるのだが、それを聞いた方は、さらに心配に同情まで上乗せして僕に対して好意的な感情を向けてくれる。
「それは心中お察しします。午後からもがんばりましょうね」
お察しされた心中は相当悲惨なものだったのだろう。負けないでくださいとガッツポーズまでいただいてしまった。
全体的に勤務時間も不定期で残業も多い特務課の中で、僕以外も過酷な仕事状況のはずである。同じ生け簀の中で苦しんでいるはずの人に哀れみを向けられるという事実にまで思考を巡らせたところで、これ以上は悲しい結末しか導き出さないだろうと考えるのをやめ、乾いた声でがんばりますと返すことしかできなかった。
それじゃあと軽く会釈を交わして別れ、どことなく気だるさの残った体を引きずるように、特務課から医療研究課へと向かう。朝一番からのミーティングを終え、休みのうちに未処理のまま僕のところに回ってきた書類仕事を完了させたり、細々とした雑務をこなしたりしていると、いつの間にかランチタイムも終わり、午後の仕事が始まっていた。
午後からはチルドレンたちのリミッターの調整とメンテナンスが主な仕事だった。成長期真っ只中の彼女たちは、肉体的にも精神的にも驚くべきスピードで成長していっている。ESPの能力はそのどちらにも影響され、この間まで着ていたはずの洋服がすぐに窮屈になってしまうのと同じように、リミッターも細かい微調整を定期的に加えていかなければいけない。小学校中学年から中学一年生までを見届ければ、能力の増幅もさることならが、子供という生き物の成長のスピードには目を見張るものがあった。そばで見ているからこそ、その成長に気づかないなどということも多々あるが、寝食を共にするが故に見える細やかな成長もあった。それを発見するたびに、おこがましくも言い過ぎかもしれないが、子育てを先取りしたかのような感動に自分の方が成長させられる。
いつまでも子供なのかと思えば、大きくなるのなんて、本当にあっという間だ。そんな彼女たちが不和なく能力を行使し日常生活を送れるような調整をしなければならない。だから、チルドレンの体調管理を一任されている賢木に頼んであった検査結果を受け取り、そのままの足で学校から帰ってきてバベルで待機している彼女たちからリミッターを預かることになっていた。調整中に渡すスペアも用意してある。賢木のほうも午前中は診療で抜けられないが午後からなら大丈夫だという話だったので、その時間帯に彼の研究室まで書類を受け取りに行く約束を取り付けてあった。
「この間のザ・チルドレンの検査結果ってもうまとめておいてくれたか。これから皆本が、あっと、チルドレンの現場運用主任がとりに来るんだ」
「はい、それなら先生のデスクの上に」
「おっ、サンキューな」
賢木の研究室の手前。曲がり角を曲がる直前に耳に飛び込んできた聞きなれた声と、僕の名前に思わず足を止める。言わずもがなの賢木の声と、それに重なる女性職員の声。僕に背を向けている状態の賢木と向かい合うように立っている女性職員の顔には、見覚えがない。
もちろん全員のスタッフの顔を覚えているなどということはないが、もしかしたら新人スタッフなのかもしれない。目鼻立ちのしっかりとした、溌剌とした印象を受ける子で、とくにまん丸とした大きな目がきらきらと輝いて見えた。かわいらしいというよりは美人という言葉を送られることが多いだろう。
なんだかんだで面倒見のいい賢木の対応が優しいというか、完全に下心が透けて見えているというか。いやでもあいつは自分の仕事にはプライドを持って向かっているみたいだから、こういう公私混同はしないはずだ。そう信じたい。信じたいなんて大仰なことを言いながらも、別に悪いことをしているわけでもないのに、廊下の死角に隠れるようにして、二人の様子を伺ってしまっている。なんで僕が真昼間の職場でこんな盗み聞きみたいなことをしなきゃいけないんだよと強気でいたい自分を裏切るように、いつの間にか握り締めていた手のひらを慰めるように視線を落として、壁に背を預ける。
賢木が女性に対してだらしがないのはいつものことで、そんなことにいちいち目くじらをたててはいられない。なのに、僕は二人のことが気になってしかたがなかった。
これは友情で説明のつく感情なのか、もうそれを逸脱してしまっているのかすらよくわからなかった。いや、身の内にあいつを招きいれてしまった段階で、そして次というものを当然のように考えている現状で、僕たちの間に繋がるものがどんな種類の感情を伴うのか、うまく言葉にすることができそうになかった。僕以外の誰にも僕のことなんて分かりようがないとうのに、その僕が一番自分自身の足元を見失ってしまっている。この足場から足を滑らせたら、一体どこへとまっさかさまに落下していくというのだろうか。
「またですか、賢木先生」
笑いまじりの第三者の声に、体が緊張する。壁に預けきっていた上体を起こして、不自然ではないように姿勢を正した。突然の闖入者の冷やかし交じりの笑い声には聞き覚えがあった。たしか、外科の看護師だ。
「新人を誑かしちゃいやですよ。貴重な戦力なんですから」
賢木を注意するような言葉なのに、その語調は軽い。
「そんなんじゃないって。仕事の話をしてただけだよ」
なあと、賢木が彼女に同意を求めると、少し困ったような顔をして、こくりと頷いた。
「新人じゃなきゃ誑かしてもいいんだ? また今度、食事でもどう」
闖入者のご機嫌を取るような賢木の声。僕の角度からではその表情は覗えないけれども、なんとなく想像できてしまうのが嫌だ。絶対にしまりのない顔をしている。いや、対女性用の自分が格好いいと思っている表情をみせているのか。
「本当にしょうのない人なんですから、皆本さんに告げ口しちゃいますよ」
「うわ、やめろよ。怒られちまうだろ。あいつ怖いんだよ」
「はいはい、怒られてください。じゃあ私は行きますから」
二人を残して歩き出したその足音。進行方向はこちら。逃げるわけにもいかず、いま来たふうを装って歩き出す。笑っている彼女の顔は満更でもなさそうで、少女のように頬を染めていた。しかし、僕と視線が合った瞬間に目を丸くして、軽く僕に会釈をくれた。形だけの笑みを浮かべて目礼して、そのまま角を曲がる。
踏み出した第一歩がやけに大きく廊下に響いた。反射のようにこちらを振り向いた賢木。黒茶の瞳と視線が交差して、一瞬僕に向けて微笑んだようなそんな気がした。だが、それも瞬きの間のことで、内緒話でもするように少しだけ新人のスタッフとの距離を詰めて声を潜めた。
「彼女の期待を裏切るわけにはいかないからな。君ももし時間あったら、どこか遊びにいこうか」
「えっ、あの」
「ちょっとご飯食べに行くだけだから」
いいだろと、言い募るように言葉を重ねた賢木に、彼女は口ごもり視線をさ迷わせた。だがそれは、拒絶というよりは焦らしている予定調和の沈黙に近い。待っているというよりも、腹をすかせた動物の前に餌をちらつかせて、気を引いているだけだ。その証拠に、彼女の口から出た声音に迷いはなかった。
「明日、とかなら時間あります」
困惑のままにブラウンの毛先に指をからませた彼女は、混乱しているふうを装いながら、しかし黒曜石の瞳に喜色を浮かべて賢木と向き合っている。なんとなく、賢木に気があるんだろうなと分かるその反応。さっき僕の隣を通り過ぎていった外科の看護師と一緒だ。ぱっと表情を明るくして、その美しさに磨きをかけている。夢見る乙女みたいなその反応に、いっそいまここで、その男は昨日の晩、僕とセックスしていたんですよ、男なんかに性的欲求をいだく変態なんですとでもぶちまけてやろうかとやけになった己が顔を覗かせる。だが、そんなことできるわけがなかった。言葉にならない吐露の代わりに鬱屈としたものが詰め込まれた二酸化炭素を吐き出して、新鮮な酸素と一緒に飲み込む。
「じゃあ、明日は君のために空けておくから」
「先生ったら口が上手いんですから」
「酷いな。君みたいな美人な子と一緒に食事できるなんて光栄だって思ってるのに」
「そういうところがですよ」
肩を揺らして微笑んだ彼女に、賢木も微笑む。ここでこの雰囲気をぶち壊すために、チルドレンの検査結果をくれと、二人の間に踏み込んでやろうかと、意地の悪い思考に歩調が鈍る。だが、すれ違う瞬間に意味ありげに僕に向けられた、まとわりつくような賢木の視線が癪に障って、それを振り切るように二人の隣を通り過ぎた。ベッドの上で僕から携帯電話を取り上げたときのように、また何度だって賢木のことを求めさせようとするサディスティックな彼の一面を封じ込めたように、凪いだ土色のそれ。何を求められているのか想像もつかない。なのに僕の心の機微を覗き込むようなそれがもどかしく、一刻も早くこの場所から離れたくて歩みを速めた。
指先が白くなるくらいに握り締めた手。爪が手のひらに食い込んで、痛い。なのにそんな痛みなんかよりも、もっと違うものを吐き出してしまいたかった。疼くような、壁を殴りつけたくなるような、口舌しがたい衝動。焦燥さえ混じりこんだそれに、ままならぬ自分が一番許しがたかった。