暗い部屋の中。つけっぱなしの空調の静かな唸り声。時計の針が時を刻む音。そして、すぐ傍で眠っている皆本の寝息。そこに重なる自分の呼吸音。いま俺の世界はたったそれだけのもので完結していた。
ここに引っ越してきたときに、皆本が泊まりに来るたびにどうせ一緒に寝ることになるんだと言って買ったキングサイズのベッドは、あいつの冷たい視線を乗り越えて、立派にその使命を全うしている。几帳面な恋人の手によって美しくベッドメーキングされていたそれはすでに波紋を描くように乱れ汚れを残していたが、それは不快なものではない。むしろ体に馴染むようなお互いの体温や残り香が、心地よかった。
久しぶりの非番前夜。やりがいがあるのは結構だが、特殊な職場環境のせいか人使いは荒く、遠慮なしの緊急呼び出しはかさみ、なんだかんだと忙しく、仕事やら子守りやらに追われるままあまり取れなかった二人の時間を埋め合わせるように体を重ねた結果、最低限の身づくろいを終わらせた皆本はそのまま糸が切れたように眠りについてしまった。お休み三秒かと笑いたくなるほど見事な寝つきのよさに、ある意味拍手を送りたくなった。セックスしたあとにすぐ寝る男は嫌われるぞと、起きたら言ってやろうかと思ったが、そんなことを口にしたら精神的かつ暴力的にも酷い制裁を受けそうだ。大人しそうな外見を裏切るように、結構攻撃的な一面もある。そこまで全力でぶつかってくるのは、気を許されているからと考えてしまいたくなるのは、都合のいい妄想なのだろうか。
それでももう少しくらい二人の夜を楽しんでいたかったと、贅沢なんだか素朴なんだかわからない我侭をぶつけるように、寝間着の上から皆本の背骨をなぞっていくと、わずかに身じろぎをして、こちらに向かって寝返りを打った。
薄 暗い中にぼんやりと浮かぶ白い肌が、視界に飛び込んでくる。少し前まで自分の腕の中にあったそれがたまらなく愛しく感じられて、起こすことのないように柔らかそうな頬に触れた。眼鏡がないせいか出会ったばかりのおさなっぽさを残した皆本は、むずがるように眉根を寄せて言葉にならない何かを口にした。その間の抜けた表情に、笑いをかみ殺す。
指先から伝わる体温は、皆本という男を体現するようにあたたかい。そして、こいつの心の中も、どれだけ深くもぐったって、どれだけかき回したって、それと同じだけのぬくもりと美しさを、たとえば太陽の光のようなどうしようもないくらいあたたかな色合いをしているのだということを知っていた。指先に残るその欠片さえもを取りこぼすことのないように手を握り締め、自分の中に閉じ込める。
しあわせだと、その形の無いものを手繰り寄せるように吐き出した。
誰にも届くこのないその呟きは、二人しかいない部屋の中に零れ落ちて、反響することなく消えていく。そして、その残滓さえもが薄められたあとに、自分の口の中に残るその言葉の残響を飲み込むように唇を噛み締めた。
わあわあと、まるで嵐の渦中にでもいるように、胸の中が騒がしい。性欲を吐き出して、その甘さを残していたべたつく体だって清めて、手元に残ったのは気だるさだけだというのに、それでも性欲だとか肉欲だとかそういうものを司っていたのとはまったく別の、もしかしたら心なんてものがあるのかもしれない胸だとかそのあたりが、どうしようもないくらい苦しい。
処理しきれないそれに浮かされるように、じんじんと手足が痺れ暴れ出したくなる。ぎゅっとシーツを握り締めてその衝動をやり過ごすと、リミッターをつけていても押さえ込めなかった能力を通して、皆本と俺の間にあった欲望の断片が燃えるような熱として指先へと伝わった。
皆本と囁くようにその名を呼ぶ。もちろん反応はない。そんなことは分かっていた。そして欲しいのは、反応なんかじゃなかった。ただただどうしようもないくらいに、その名が、隣にいる男がいとおしく、胸がかき乱される。
これはたぶん幸福だ。
そんなこと分かっている。俺にとって、皆本に出会ってからが新たな人生の始まりだった。こいつとの出会いがいまの俺を作り、いままでの鬱屈とした自分から目覚めさせてくれた。そんなことを真面目な顔をして言ったのなら、こいつは過大評価しすぎだと困ったように笑うのだろうけれども、皆本に出会ったときのあの衝撃だとか、初めて触れた心の温かさだとか、当然のように受け入れられる喜びだとか、そんなものは誰に語って聞かせたって、実際に体験した俺にしかわからないのだろう。いや、理解したふりだってされたくない。誰にも触れられたくない手中の玉だ。そして、そのすべてを誰もやりたくない。俺にとっての何物にも代えがたい、いっとう大切な宝物だった。
だから、怖いくらいに、しあわせだ。俺にはすぎたものばかりじゃないかと、そう思う。たくさんのものを与えてもらった。もらいすぎて怖くなるくらいに、抱えきれないくらいに。腕の中から零れ落ちてしまうことさえ許しがたいくらいに、あたたかく大切な物たちを与えてもらった。
自分は自分はと己ばかりが満たされていくこの状況に、はたと思う。やさしすぎるくらいに、やさしいこいつに、いったい俺は何を返してやれているのだろうかと。俺のしあわせなんてものはどうしようもないくらいに、もう救いようのない末期患者みたいにこいつの隣にしかない。だけれども、皆本光一という男のしあわせはいったいどこにあるのだろうか。
こいつはやさしいから、そしてマイノリティの苦しさを知っているから、少しでもその苦痛を和らげようといつだって悪戦苦闘して必死になって邁進していっている。それは皆本の隣にいれば嫌というほどによくわかった。そして、こいつの傍にいる能力者たちで、皆本の真っ直ぐさとそのやさしさを否定するものなんていないだろう。
皆本の理想は高潔で、いつだって誰かの幸福を、まるでそれが自分のものであるかのように願っている。じゃあ、じゃあこいつの幸福は、いったいどこにあるのだろうか。もちろんそれが、いまこの瞬間も俺の隣にあることであればいいと望まずにはいられない。だが、だけれども、それがもしも真でないとするならば、いやでもと、自らが考えたことを打ち消すように、瞼を閉じて皆本の体を抱き寄せた。
深い眠りの中にいる皆本は、されるがままに腕の中で大人しくしている。もちろんほとんど身長の変わらない男の体だから、女の子みたいにすっぽりと収まってしまうわけではない。それでも皆本の熱を取りこぼすことのないように腕の中に閉じ込める。
皆本の吐息が首筋をくすぐる。同じシャンプーの香がする髪が薄暗いなかで艶やかな光を宿していた。全部俺のものだと、迷うことなく言ってしまえたのならよかったのに、こいつは決して俺だけのものになりはしない。
しあわせならば、皆本がしあわせならばそれでいいんだ。こいつのしあわせを、俺にたくさんのものをくれ、俺の中にあったちっぽけなくせに強固な壁を打ち破ってくれたこいつが、ただただ幸福でいてくれたとしたら、それは俺にとって何よりも意味のあり価値のあることだ。そうだろうと己に問いかけ、そしてそれをたしかなものにするように、すぐ傍にある皆本の頬に触れ、かさついた唇をたどる。伝わる体温。たったそれだけのものが、どうしようもないくらいに俺を揺り動かす。
この関係は、いびつだ。
俺が皆本にいったい何をしてやれるのかなんて、想像もつかない。社会で大腕を振って歩けるような繋がりでもないし、俺と皆本では子供を残すことだってできやしない。俺たちのセックスなんていうものは、つくづく非生産的な行為でしかない。いや、美しく表現するのなら、愛をたしかめる行為だなんていえるのかもしれないが、逆説的に言えば愛しかたしかめられないのだ。それしか与えられない。世の摂理に逆らうように、浪費されるだけの精。そこに至極うつくしい名をつけるのならば、愛をたしかめる。結局のところ、俺が求めるものしか、与えられていないんだ。
なあ皆本と、問わず語りのように呟いて、穏やかな寝顔を浮かべているその顔を覗きこむ。愛する子供たちのために明るい未来をなんて言葉にするのも恥ずかしいような目標のために邁進しているときの、必死さだとか苦労だとかそういったものを置き去りにしたように安らいだ表情。見ているこっちが、くすぐったい気持ちになってくる。
頬を包み込むようにして、俺の方に顔を向けさせこつりと額を重ね合わせた。すると、かすかに皆本が呻いて身じろぎをする。もごもごと口が動いて、言葉にならないなにかを呟く。どうしたんだと悪戯のつもりで問い返すと、やめろ眠いと寝ているこの状況に矛盾するようなことをのたまった。それがおかしくて、漏れそうになる笑いを堪える。するとその振動が伝わってしまったのか、今度はもっとはっきりと名前をよばれた。やめるんだ、薫と。俺のものじゃない、彼が大切に大切に育てている子供の名前を。不機嫌そうな顔をしているくせに。その声音はやさしい。寝ぼけているせいで不明瞭なのに、触れている場所から伝わってくる皆本の思念は、たゆたう海のようにおおらかで、真綿のように柔らかい。じわじわと俺の中を侵食するように満たしていくその感情には覚えがあった。もう、泣きたいのか、笑いたいのかも、よくわからない、それでも、こういう可能性だって無限に分岐する未来には存在しているのだということを、今更ながらに自覚した。俺が与えられないたくさんのものを、皆本に与えることが出来る女性がこの世界のどこかかにいて、皆本もその女を愛し慈しみ、家族だとか、子供だとか、そういう絵に描いたような日常を営む可能性があるのだと。
だから、ああと思う。ああたぶん、これが、もしかしたら、幸福だとかしあわせだとか、そういった類の。そして、それによく似たものなのじゃないだろうかと。
俺たちの間で生ぬるくなった空気を吸い込む。鼻の奥がつんとして、喉が苦しい。それを癒すように唾液を嚥下しても、臓腑の奥に落ちたそれは俺の悲鳴をかき消すことすらしてくれない。あっけなく、いままでの自分の献身だとか慈しむ気持ちを否定するような淀んで膿んだ薄汚いものを呼び起こそうとする。だが、それでも。それを必死になって飲み込んで嚥下して、蓋をして。そしてすがるように、皆本の体を抱き寄せた。
目の前の晒された首筋に躊躇うことなく口付けて、皮膚の下にあるその血肉を求めるように吸いついた。僅かになった水音に、皆本が吐息を漏らす。右肩に残った赤い痕をたしかめるように、薄暗い中に浮かぶ白い肌に噛み付いた。呆気なく食い込んでいく歯に、このまま皆本の肌を食い破ってしまうのではないかと怖くなる。その反面興奮した。こいつの全てを掌握しているようで。なんて薄暗い本能なんだろうか。
どうしようもないくらいに、皆本のことがすきだ。だから、こいつのしあわせのためならば、たぶん俺は、なんだってできる。本当にエゴイスティックな感傷でしかないのだけれども。真摯にただ願うことができた。それが成就したときに、その場所に俺がいなかったとしても。
みなもとと声にならない声で名を呼んだ。でもそれは、誰にも届くことなく真っ暗な部屋の中に消えていった。
****************************************************************************************
カーテンを開け放つと眩しい光が差し込んできた。
レースカーテンの向こうに見える空は高く澄んでいて、ふわふわと綿飴みたいな雲が浮かんでいた。まだ街自体は眠りから覚めたばかり。これから来る労働へと力を温存するために少数精鋭の状態なのか静やかで、遠くで小鳥がさえずっているのが聞こえた。
太陽光によって体が徐々に目覚めていくのを感じながら、大きく伸びをして凝り固まった体を解す。それに連動するように欠伸が出て、ついでに涙まで出た。寝る前に激しい運動をしたせいか夢も見ないで眠れた。そのおかげで頭のほうは案外すっきりしている。だが、どうしてだか知らないけれども、隣で眠っていた賢木に抱き枕の代わりのように抱きしめられていたせいで、体の節々に違和感があった。ぐるりと首を回すと骨の間で濁りきった泡沫がはじけるような不穏な音がする。もう若くないという言葉が脳裏をよぎったが、それは常日頃十代前半の少女達と暮らしているから歳を取ったような気がするだけで、周りを見渡してみればまだ二十二なんて若い方じゃないかと自分を慰める。いやべつに、年齢を気にしているわけじゃない。間違ってもそうじゃない。
大丈夫大丈夫と、呪文か何かのように唱えながら、勝手知ったるなんとやらで、まだ夢の国に居る家主に確認を取ることもなく、エントランスにある集合ポストまで新聞を取りにいく。
外へ出るとまだ太陽が昇って間もないせいか肌寒く、薄着の体がぶるりとふるえた。運動ついでにエレベーターではなく階段を駆け下りて、がらんとした玄関ホールへとたどり着く。まだ出勤時間としても早いくらいなので、マンション自体がしんと静まり返っていた。
部屋の番号ごとに区画分けされたポストの中から、よく知った賢木という名前を探し、飛び出ている新聞を抜く。ついでに、一緒に入っていたDMだとか請求書の類も取り出した。
エレベーターか階段かという二択。二つを見比べ文明の利器に頼る慢心が顔をのぞかせたが、薫たちの賢木と比べるとまだ逞しさが足りないという言葉がよみがえり、階段のほうへと踏み出した。
下りは楽だったが、上りはやはりきつい。
全体的に倦怠感の残る体を励ますようにゆっくりと呼吸を繰り返しながら階段を上っていくと、賢木のお隣さんとすれ違った。僕たちより幾分か年齢が上のサラリーマン風の男性だ。黒縁の眼鏡をかけ、少し長め髪をワックスで固めている。健康的に日に焼けた肌は快活そうで、冴え冴えとした切れ長の瞳は、腕利きの営業職という雰囲気を感じさせた。特別親しいわけではないが、知らない仲ではない。何度も賢木の家にお邪魔しているので、お互いに顔だけは見知っているのだ。すれ違う一瞬、お互いがお互いを意識している緊張感がぴりりと皮膚を焼いた。それを飲み込んで、どちらともなく会釈をして破願する。そのまま言葉を交わすわけでもなく、彼は階段を下り僕は賢木の部屋にもどるために階段を上っていく。
昨晩の行為の名残である体のだるさだとか、こうやって賢木のテリトリーの中に入り込んでいくような感覚だとかそういったものは、どことなく気恥ずかしくてこそばゆい。だがそれは決して不快なものではなくて、あいつの隣に僕の居場所が存在しているのだということを実感できる心地よさを与えてくれた。非日常を自分の中に取り入れて日常にしていく感覚が胸のあたりを満たしていくのが分かった。それはたぶん、彩色するならば暖炉の火のように暖かな橙色だ。
部屋にもどり、軽く新聞の見出しを追うと、また海外でテロが起こったようだった。最近反エスパー組織や団体を狙ったテロが頻発していた。なんとなく心当たりのあるそれに、バベルのほうでも情報収集に余念がない。もしかしたら、緊急の呼び出しがあるかもしれない。
新聞を制覇してもまだ賢木が起きてくる様子はなくて、寝室を軽くのぞいてみたがベッドの上で大きな蓑虫が寝ころんでいた。朝食ができるまではまだ時間がある、もう少しだけ寝かしておくことにして、キッチンへと移動する。和食か洋食か、朝食のメニューを思い浮かべながら算段を立てていたのだが、冷蔵庫を開けたときにすべてが砕け散った。
「これは、明日にでも死ぬんじゃないのか」
ストライキを始めたような冷蔵庫の中に頭をかかえる。
昨日は外で食べてきて、この惨状など露知らずのんきに帰宅してきてしまった。その前はお互い連勤で、よくよく考えてみると、あいつ最近うちで食事をしていたような気がする。それに対して紫穂が、そろそろ食費を徴収するべきね、深夜の場合は深夜料金も設けるべきだわといやに具体的な計算をはじめていたのを思い出して苦笑してしまう。同じ能力を有しているから、遠慮なしで突っかかれる部分もあるのだろう。サイコメトラーゆえに大人びた表情を見せることが多い紫穂も、賢木の前では非常にわかりにくい子供らしさをのぞかせていた。ただし、賢木にしてみれば紫穂に対して大人げない部分を全開にしているだけだが。いや、まあ一応贔屓目に見て綺麗に表現するのなら、対等に扱っているのだといえなくもない。
冷蔵庫の中が瀕死だからと一言でも言っておいてくれたのなら帰りがけにスーパーによることもできたのに、いまから買い物なんかに行っている余裕もない。必要なものでも聞いて、賢木を送り出してから適当に補充しておくことにしようか。
お情け程度に残された卵とバターを取り出し、キッチンカウンターの上に取り残されている食パンを視界の端にとらえる。なんとか朝食になりそうなのか。ついでに、冷蔵庫の奥からベーコンを発見したのだが、僕の予想を裏切ることなく賞味期限をすぎ天寿を全うしてしまっていた。
「忙しいのは分かるけど、もう少しなんとかしろよ」
賢木だって料理をしないわけじゃない。一人暮らしが長いからそれなりに自分で食べるものにもこだわりを持っているようだった。それがこの状態になると言うことはつまり、多忙を極めているということだ。
医療スタッフ、特務エスパー、そして検査技官など一人何役も掛け持ってバベル内を這いずり回っている賢木は、つきまとう軽薄そうな噂を裏切るように忙しい毎日を送っている。というより、あのハードなスケジュールをどのようにやりくりすれば、そこまでの浮き名を流すことができるのか、純粋に疑問だった。僕と関係を持つようになってから、本腰をいれてに女の子たちと遊ぶような不実なまねは控えているようだが、彼なりの誠意を証明する程度のラインを設定し(もちろん賢木の中での個人的尺度に準ずるものだ。僕との協議の上で厳密に規約を制定したわけではない)そこを超えないように楽しんでいるらしい。それに対して嫉妬だとか怒りを感じないのかといわれれば、まあ僕だってそこまで聖人君子なわけではないし、それ相応の負の感情はいだく。いつの日にかあいつが隠し持っている女の子の連絡先がたくさんはいった携帯電話を真っ二つにしてやるのもいいかもしれない。賢木の目の前でそれを粉々にすることを考えると、少しだけ気分が晴れる。
トーストと、オムレツ。十分すぎるほどに朝食らしい朝食じゃないか。緑色が足りないが、見当たらないものを嘆いても仕方がない。賞味期限の差し迫った卵をキャビネットから取り出したボウルに割っていると、冬眠あけの熊のようにぼんやりとした賢木がリビングのドアを開けて顔を覗かせた。
「はよ」
「おはよう。いま、朝食作ってるから、顔洗って目を覚ましてこい」
「うー、了解」
まだ夢の世界に片足を突っ込んでいるのか、寝ぼけ眼のまま欠伸をかみ殺して洗面所へと消えていく。それを見送りながら、ボウルの中の溶き卵を菜箸でかき混ぜる。ボウルの中のヴィヴィットな黄色がぐるぐると渦を渦を巻く。それを目で追っていくと、ただただ無心なっていった。角を立てるようにして、液状からとろみを持ったのを確認して、フライパンを取り出す。フライパンを中火に掛けてあたためていると、さっきよりはすっきりした顔をした賢木がもどってきて、カウンター越しにこちらを覗き込んできた。寝間着代わりのタンクトップとジャージから、出勤用の外着へと着替えも完了している。
「冷蔵庫の中ひどかったぞ。今日、適当に買っておくから」
「あー、うん」
僕としては肯定されることを前提とした問いかけだった。傲慢とかではなく、いつも通りの提案をしただけなのだけれども、もったいぶるように悩むそぶりを見せた賢木は切りそろえられた爪先でコツリとカウンターの木目を打った。いや、悩むというよりは、困惑か。わかりやすく拒絶されているようで、落ち着かない。なにか、失敗しただろうかと、自分の発言を振り返ってみても特に問題点は見あたらない。熱されたフライパンが限界を告げるように湯気を吐き出した。それを追って、思ったよりも切羽詰まった深い土色の瞳が瞬く。そののっぴきならない救難信号の断片は、瞬きと一緒に賢木の中に飲み込まれ、いつも通りの軽薄な振る舞いをするあいつが笑うだけだった。
「大丈夫だ。今日ははやく上がれそうだから、帰りに買ってくる。それよりも、何か手伝うことは?」
これ以上の詮索を拒絶するように、賢木はあいつらしいと表することのできる笑顔の仮面を被った。時間に厳しいお役所窓口さながらの切り替えで、少しでも自分の中にある何かしらを吐露しそうになったことをなかったことにしたいようだった。
「食器をだすのと、ついでにトーストも頼む」
あわせるように、そして賢木の異変に僕が気づいていないとわかるように笑みを浮かべ、お芝居にのってやる。昨日は久しぶりに一緒にいられる時間がとれて、何も問題なかったはずだ。あわただしいばかりの中で、ようやく安らぐことができた。じゃあなにがと考えてみても、特別思い至る点がない。
堂々巡りの思考を慰めるように、もう十分なくらい温まったフライパンのうえにバターを落とす。手のひらに乗せた雪が水になるように、瞬時に溶けて黄金色へと変化したそれが広がっていくのを待って、ボウルから溶き卵をあけた。本当は牛乳か生クリームを入れたいところだが、あの冷蔵庫の中身にそれを望むのが酷というものだ。じゅうじゅうと弾けるような音がして、卵の焼ける匂いが鼻腔をくすぐる。いままではぼんやりとしていた空腹の急襲を意識しながら、もうそろそろ大丈夫だろうか軽くふちが焼けているのを確認して、火を切って蓋を閉じて、余熱で火を通していく。
「パンくれ。あと、皿」
「ありがとう。これ頼む」
差し出されたお皿と食パンを交換して、フライパンの蓋を開く。いままで閉じ込められていた湯気がふわりと広がり、おいしそうな匂いと、とろみをもった半熟の焼き加減に自画自賛したくなってくる。それを形を崩さないように注意しながら、半月型に折りたたみ、お皿の上に盛り付けた。
ボウルの中の残り半分をさらけてもう一度同じ手順を繰り返していると、賢木が担当していてくれたトースターが、軽やかな音をたててトーストの焼き上がりを知らせてくれる。バターをくれと賢木に言われたので、バターと一緒に大きめのお皿を渡して、先にテーブルに並べておいてくれとお願いした。ついでに、冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すことも頼む。すると、ようやく自分の家の冷蔵庫の中身を直視した賢木の、これは酷いなという苦笑混じりの声が聞こえてきた。フライパンの火を止めてそちらを振り返ると、子供みたいに笑う賢木と目があって、何がおかしいのかも分からないのに二人して笑ってしまった。そこに違和感はない。もしかして、さっきの引っ掛かりは僕の勘違いなのだろうか。
二人分のオムレツを焼き終えたフライパンをシンクへと置いて、水につける。ついでにボウルと菜箸も仲良く並べておく。盛りつけの終わった二人分の皿をキッチンカウンターの向こう側にあるテーブルに並べると、トーストとオムレツというなんか朝食らしいものができあがった。緑の彩をくれるはずだった野菜の不在については目を瞑るほかない。
先に腰掛けた賢木に向かい合うように座って、ようやく一息つく。
「あの絶望的な状態から、よくここまでがんばれたな」
「僕としては、きみが何を食べてたの方が気になるんだけど」
「最近ばたばたしてたから外食が多かったんだよ。あと、おまえの家でとか」
記憶をたどるようにこめかみを揉む賢木。自分としても生命の危機を感じずにはいられない状態だったのだろう。時間のない朝は抜いて仕事中はバベルの社員食堂、夜ともなれば僕の家か外食かというもの、なかなかな食生活だ。それならいっそ弁当でもと考えて、賢木は薫たちじゃないんだからと自分を戒める。いやでも、忙しい間だけならおかしくないんじゃないだろうか。提案してみようかと口を開きかけたが、それを制するように聞こえてきた挨拶に出鼻をくじかれてしまった。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
フォークを手に取った賢木にせっつかれるように僕も手を合わせて食前の挨拶をする。味が薄かったら塩でもかけてくれとソルトキャスターを差し出す。すると、早速勢いよくふりかけだして、そのままだと高血圧になるぞとどうでもいい心配をしてしまう。母親かとあきれる賢木の表情をリアルに想像できてちょっとつらい。
テレビをつけていいかと聞かれたのでいいよとうなずくと、朝のニュース番組が流れだした。ちょうどニュースとニュースの間の、特別な技能を持った犬を紹介するコーナーだった。途中から始まったそれに、画面に映し出されたミニチュアダックスフントがどんな特技を持っているのかは分からないけれども、実家のトルテを思い出して今すぐに抱きしめたくなる。
「おまえもミニチュア飼ってたよな」
「うん。実家にいるよ。久しぶりに会いたいかも」
写真見せようかと、ポケットに入れっぱなしだった携帯電話に手を伸ばすと、いやいまはいいからと苦笑される。僕としてはトルテがかわいくて仕方ないんだけれども、写真をみせて賢木に同意を求めても反応はあまり芳しくない。いつの日か、賢木を満足させるトルテのかわいい写真を撮ってやると密かな目標を立てているのだが、そんなことを知られたら、さらにあきれられてしまいそうだ。これが犬を飼っているものといないものの温度差なのだろうか。テレビのステレオから聞こえる、犬の爪がフローリングを蹴る軽快な音と、食器がこすれる音がかさなる。まだどこか夢の世界の余韻を残しているせいか、動作は緩慢で会話は少ない。その沈黙を補うように上滑りしていくテレビの音に、少しだけ救われているような気がした。
「なあ」
気のない声が、投げかけられる。どこかぼんやりとテレビ画面を見つめていた黒茶色の瞳がまたたいた。浅黒い指先が、ぐちゃりとオムレツの最後のひとかけらをフォークで突き刺す。賢木はそれを、そのまま口元へ運んで咀嚼した。次の言葉を待つように、トーストに手を伸ばしてバターを塗る。徐々に溶けていくそれをなぞるように、賢木が小さく呟いた。
「俺のこと、すきか?」
突然のそれに、ごくりと唾液を嚥下する。手の中にあったフォークを握りしめて、せり上がってくる何ものともつかない衝動をやり過ごした。ベッドの上の熱をはらんだものとは違う、頼りない声色。伺うように僕に向けられた視線は、何でもいい確かなものを求めているようだった。小さく息を吐いて、卵黄に濡れたフォークの先を視界の端にとどめる。少しずつわだかまっていた違和感が結実したような気がした。
今更、本当に今更そんなこと。
賢木のことがすきかどうかなんて愚問だ。そんなことは当然迷う必要もなくすきだと、言葉にすることができた。どんなときだって隣にいてくれる、それは距離的な問題じゃなくて、もっと内面的な話だ。賢木はいつだって、自分のままならない能力と向き合い戦って、それを使いこなし、まっすぐに前を見ている。そして、普通人とのわだかまりを乗り越えて、僕の隣に立って、対等な目線で笑って泣いて、同じ時間を刻んでいってくれる。歩み寄ろうとしてくれる。いま、超能力を有する人たちを心から信頼できるのは、賢木という男の存在も大いに関係あるのだと思う。それがすべてであるとは言い切れないが。能力者故の孤独だとか苦しみだとか、普通人の僕には計り知れない苦悩の片鱗を垣間見、そしてたくさんのことを知ることができた、踏み出すことができた。変えたいと、思うことができたんだ。
こいつとの時間があったから、その積み重ねの上にいまの僕がいる。だから、その気持ちを伝えたくて、少しでも、伝えたくて、近くにいる賢木の手のひらに腕を伸ばした。だのにそれは、触れるか触れないかのところで逃れるように離れていく。ほんの少し、小指の先くらいのその距離が、酷く遠い。まるで指先にこめたものを拒絶するように。僕を映す黒茶色は、泣く寸前の子供みたいに滲んでいるくせに。
駄目だ。駄目だ。
このままじゃ、駄目だ。絶対に僕は後悔することになる。
ドクドクと耳の後ろが熱い。胸のあたりを押しつぶすように占拠しているものを蹴破って、吐き出さなきゃ。賢木と、名を呼ぶよりはやく、すっと仮面をかぶられた。十重二十重と、他人を寄せ付けぬように、ずっと賢木がこもっていた場所へと逃れられる。いまこの瞬間に、あの揺れていた瞳の断片でもいいからつかみ取らないと、ああと思うのに、喉の奥が詰まってうまく言葉が見つからない。警報が鳴るように、駄目だ駄目だという言葉だけがぐるぐると回っていく。賢木と、ただかすれた声で名前を呼ぶことしかできない僕をあざ笑うみたいに。それに応えるように、小さく笑ったその男の顔を、僕は知らない。完全に整った、優しいくせに色のない、そんな表情、僕は知りたくなかった。そんな、人形じみたもの。
「別れようか」
スピーカーから漏れる楽しそうな笑い声が響く室内に、それとは対照的な無機質に感情を押し殺した賢木の声が落ちた。手にしていたバターナイフが、かちゃりとあまり行儀のよろしくない音をたてて皿の上に不時着する。ああ、僕が取り落としたのかと一足遅れて気づいたけれども、いまはそんなことはどうだっていい。
自分を落ち着けるように吸い込んだ空気が、肺腑の奥を突き刺す。乾いた喉から血のような味が競りあがってきた。
えっと、訳もわからずに吐き出すと、再確認するように、だから別れようかと明日の天気の話でもするみたいに気軽く、明日の約束でもするみたいに当然に、そして迷いなく賢木が笑った。それを理解できないでいる僕だけが周回遅れのランナーのようにグラウンドを孤独に走り続けているようだ。賢木が、感情のない艶やかな土色の瞳を細めて、軽く首をかしげる。それは僕への確認の意味合いを含んでいるはずなのに、答えなんて求めていないということが手に取るように分かった。
「どういうことだ」
「どうもこうも、そのままの意味だ。おまえの賢い頭なら分かるだろ」
何が面白いのかもわからないのに、賢木は莞爾とした笑みを浮かべ、僕が取り落としたバターナイフを掻っ攫ってもう冷め切ったトーストへとバターを塗っていく。べたべたとしたそれは、溶けることなく焦げ目の残った上を這っていき、光の加減で影が落ちどろりとした汚泥のようにも映る。
「なんで急に」
どうしてと言葉を続けたいはずなのに、それ以上は上手く声にならなかった。なのに賢木は憎らしいくらいにスラスラと僕への答えをくれる。
「おまえにとっては急かもしれないが、俺としては結構前から限界は感じてたんだけど。伝わってこなかったか?」
軽く竦められた肩。口笛さえ吹きだしそうなその気安さに、いったい何の話をしているんだっけと自問自答しそうになる。いや、それを見失えるくらいに愚鈍な己だったとしたら、もっと話は簡単だったのかもしれない。ただ現実から目を背けて、この男にすがってしまえばいいのだから。だが、そんな安易な行動にでられるほど、僕と賢木は安っぽい関係じゃなくて、これが彼にとっての本心でないということなんて簡単に想像することが出来た、いやそうではないはずだと信じきってしまいたい矮小な自分が必死叫びを上げているだけなのかもしれないけれども。
はっとつめていた息を吐き出して苦しいばかりのわだかまりを吐露しようとするのに、賢木が話すたびにそれは増長していく。バターナイフと一緒に落下したトーストは、半熟の残りかすのような卵黄に濡れて、べたべたと不快な色へと染め上げられていた。
「なあ皆本、何にも知らない子供じゃないんだ。言わなくてもわかれよ。最後の最後でおまえを傷つけるようなこと、したくないんだ。これでもさ、おまえのこと精一杯あいしていたつもりなんだぜ?」
流れるように過去形にされた言葉に、鋭利な刃物を突きつけられる。流血の伴わない痛みは、何よりも僕を苛む。人の痛みに敏感なくせに、賢木は必死になって悲鳴を上げている僕を無感動に見つめるだけだ。
「君の言いたいことがわからない。別れるというのが、どういうことなのかも」
呆れ半分の賢木は、テーブルに利き手をついて、空いているほうの手で僕の胸元をぐいっと掴みあげた。そしてそのまま続く言葉を奪い取るように、唇を重ね合わせる。飾りもそっけもない乱暴な口付け。それは、お互いの情欲のあまりに切羽詰ったようなものではなく、ただ力ずくでねじ伏せられる感情のこもっていない行為でしかない。触れた唇を手の甲で拭った賢木は、それさえも厭うように僕の胸元を乱暴に押し返して、テーブルに肘をつき手のひらに口元を埋めた。
「こういう関係をやめようって言ってんだ」
もう体温の残り火さえも感じられない唇に触れる。なんでどうしてと、発展性のない疑問ばかりが脳裏を駆け巡っていく。昨日までは賢木がこんなことを言い出すような素振りだって見せていなかったし、セックスのときにだって僕との行為に嫌悪を持っているような様子は見られなかった。むしろ、中々会えない時間を埋めるみたいに、お互いにお互いのことを求め合っていたはずだ。だから余計に、現状との齟齬が激しくて処理が追いつかないのかもしれない。
「そんなの一方的すぎる。おまえにとってはどうなのか知らないけど、僕からみれば僕らの関係に不満なんてなかった。もし何かあるなら言ってくれ。別れようはいそうですかなんて、納得できるわけないだろ」
「なんだ、僕に悪いところがあるなら直しますって健気なことでも言ってくれるのか」
ため息交じりのその言葉は、最初からもう歩み寄ろうとすることを拒絶するかのような冷たさに満ちていた。詰まらなさそうにテーブルを叩く賢木の指先。その振動にあわせて、グラスの中のミネラルウォーターが波紋を描く。ゆらゆらとしたそれだって時間がたてば元の凪いだ状態にもどるのだ、僕たちに同じことが出来ないわけがなかった。そう信じたかったし、二人で過ごしてきた時間はそれを信じさせてくれるにたるものだった。