好きだなんて簡単に言ってくれるじゃないか。
君が一足跳びで飛び越えていくそのラインは、俺にとって侵しがたい領域だというのに。
ボーダーラインは、まだ。
「トンガリ」
低い、声。
だが、不機嫌ではない。むしろ、気持ち悪いくらいに優しい。
どうせなら、そこに怒りの気配が隠れていたらよかったのに。
そうしたら俺たちは、まるでシナリオでも用意されているかのような下らない様式美みたいなやりとりで、
日常というにはまだ馴染みきれていない互いの立ち位置を確かめ合うというのに。 なのに、君は、怖いほどに。
「おえ、聞いとんのか」
上等とは言い難いベッドが安っぽいきしみをあげる。それと同時に俺とは違う熱源が距離を縮めた。
ベッドヘッドに背を預けている俺を追いつめるように、 煙草の匂いがした。
聞こえているさ。それこそ嫌になるくらい。
でも、返事をしてなんになる。求められるままに応えてなんになる。いくら、目に見えないものを結んだとしても、
目に見えないその先にある結末は、何よりも確かに分かりきったものだというのに。
「聞いてるよ」
揺れてはいないだろうか。弱々しくはないだろうか。
できるだけ、感情を押し殺して、叫びだしそうになるものを奥へ奥へと押し込めて、洗いざらしのシーツをにらみつけた。
「本当かあやしいもんやな」
「聞いてなきゃ返事するわけないだろう」
「そういう意味やない」
じゃあ、なんだっていうんだと問い返す前に、くすんだ白が広がっていた視界に浅黒い手のひらがちらついた。
すぐに消えるのかと思いきや、それは俺の視線を追うかのようにこちらに近づいてくる。まるで、この男の存在みたいじゃないか。
節くれだった銃を握る男の指先が、乱暴な所作で俺の首筋をつかんだ。そして、そのままざらついた指先が頤へとすべる。
傷ないんやななんて、のんきな声が聞こえてくる。いろいろ言い返したいのをこらえるようにぎゅっと奥歯をかみ締めると、
ほんの少しだけ湧き上がりそうになる衝動を堪えることができるような気がした。本当に、慰み程度のものなのかもしれないけれど。
傷を探すように肌をなぞっていた手のひらが、ぐいっと俺の頤をつかんで引き寄せた。
もうしわのよってしまっていた白いシーツは一転して、見慣れた男の顔へと変わる。
「おんどれ、ワイのこと見ぃへんもん」
ああ、真っ黒な瞳だと、そう思った。一体何を考えているのかよくわからない、真っ黒な色。窓の外に広がる藍色の夜空よりも暗い色。
本当に、君は何を考えてるかわからないといってやったら、おどれのほうが何考えとるかわからんとつまらなさそうに言い返されたけど、
この男のほうが何を考えているのか、俺に何を求めているのかがわからなかった。
「君のこと見つめてて何かいいことでもあるのか?」
意味のない、戯言を吐き出して、まっすぐにこちらを見つめてくる黒から逃げるように視線をそらした。
だが、それを許さないとでも言うかのように、頤をつかんでいた手のひらに力がこもる。
その手のひらが首もとへとすべり、ただの男のものでしかない肌を撫でていく。自分以外の体温。
誰かの隣に寄り添おうとすることはあっても、こんなにも直接的に触れる機会なんてあまりなかった。
子どものものではない、自分と同じつくりをした男のもの。
乾いた指先が鎖骨を辿り、まるで何かを探すかのように肌の上を滑っていく。
「ここらへんには、傷ないんやな」
夜の瞳が瞬いて、見据えてくる。
自分で意識したことはあまりなかった。たしかに、コートの下にある傷だらけの体なんて、
見ていて気分のいいものではないからあまり見せない方がいいなとは考えてきたが、ここには傷がないあそこには傷がないなんて、考えてもこなかった。
だから、目の前の男に言われて、ああたしかにと相槌を打ちたくなってしまう。
「そんなの、気にしたことないよ。女の子じゃあるまいし」
「女やのうても、もう少し身の振り方っちゅうんがあるんやないの」
何かをたしかめるように、乾いた指先が肌に触れる。その先にいったい何があるのだろうか。ただ、触れている体温だけが、やけに生々しかった。
本当はいやだといって逃げることなんて簡単だ。じゃあ、なぜそれをしない。なぜ、この場所に甘んじている。
一番理解しがたかったのは、なぜどうしてと繰言をする、誰でもない自分のことだった。
「もう、観念してまえばいいのに」
「なにが、だよ」
「さあ、なんやろうなあ」
にやりと、口角を上げた男は、聖職者には似合わない肉食獣のような笑みで、俺のことを覗き込んできた。
本当に意地の悪い笑い方をする。でも、その笑顔が嫌いじゃなかった。年齢不詳の外見なんかよりも幼く見えるその笑顔が。
「わかってないくせに、人に強要するなよ」
「せやかて、おどれ頑固やから、意地はっとるだけでもうわかっとるんちゃうかって思うたんやけど」
ちがったんやろかと、低く研ぎ澄まされた硬質の声色が耳元に滑り込んできた。湿った吐息が耳朶をかする。そのくすぐったさに肩が揺れる。
じゃれるようなそれは、普段の俺たちには似合わないのかもしれないけれど、どちらもこの雰囲気を壊すようなそぶりはなくて、
むしろお互いの距離を埋めるかのように触れている部分から伝わる熱を離そうとはしなかった。
そんなに簡単に分かったら苦労しないよと吐き出すと、それもそうやなあと気のない返事が返ってきて、
それとは裏腹に俺の首もとに触れていた指先にぎゅっと力がこめられた。その衝動を、言葉にすることができたなら、何か変わったのだろうか。
でも、この男が超えようとする一線は、たぶん俺にとってひどく長い終わりの始まりだ。
これが変わらぬ日常になればよかったのに。ただ、それだけで、よかったのに。
だのに俺はもうつまらない問いを繰り返すには擦り切れすぎたほど俺でしかなく。
そしてあいつも、いらついて殴ってやりたくて、それと同じくらい、昔俺が欲しくて欲しくてしょうがなかったものを、
なんでもないことのように与えてくれるあいつでしかなかった。
だから、俺に残されるものなんていうのは、耳に痛い静寂だけだ。嬉しいとか、悲しいとかではなくて、ただ、それだけ。
ボーダーラインは、まだ。いや、もうとっくに。
10・10・15