これは、奇跡か、夢なのか。目の前に、そう、俺の目の前に、彼が、いる。

無意識のうちに詰めていた呼気を吐き出して、何とか正常に呼吸をしようとするが、上手く息を吸うことができない。

気ばかりが急いて、泣きたいんだか喚きた いんだか笑いたいんだか殴りたいんだかよく分からなくなる。

感情の整理すらままならないこの状態で、目の前の男の名前を呼ぶことなんて不可能に近かった。

だって、だって、もしも。

浅黒い手のひらが、遠慮なんてものを知らないような男の性格にふさわしい粗暴さで、俺の頬へと伸びてきた。

触れた指先は荒れていて、確かな体温が感じられ る。間違いなくこの男が生きているんだと、感じられる。

そんななんでもないようなことに、また頭の中が一杯になって、

何を吐き出してしまえばいいのか判断 してくれるであろう冷静な思考が一段飛ばしで遠くなった。

泣き出してしまえれば簡単だったのに、この男がいなくなってからの俺はこの男に対して、泣くとか笑うとか怒るとか、

いろいろな感情が混ざり合ったものを、 しいて言うならどの感情でも説明しきれないような強い衝動をいだいてしまっていたから、

ここ一番のときに何を発露させればいいのかまったく想像もつかな かった。

とか、難しいことを言っているが、結局は感情の処理が追いついていないのだ。この衝撃的な瞬間に。

だから、脳内だけが狂ったかのように饒舌になっ ていく。

そんな俺をいさめるように、あたたかい手のひらが、頬のラインを撫ぜて、そのままもう黒くなってしまった髪に触れた。

「真っ黒や」

ごくりと、唾液を嚥下する音が響いた。久しぶりに聞く声。もう、一生聞けないかと思っていた声。

「おどれ、ほんま頑固なじいさんやから、こんなんなるまで強がってからに」

それは、君だっていっしょだろと、心の中で呟いた。頑固で、リアリストなのに夢見がちで、

すべてをかけてでも守りたいものを持っている君だから、君はあんな満足そうな顔をして俺の前からいなくなってしまったんじゃないか。

「なあ、あんなきれいな金髪やったのに、ほんのちょっとしかのこっとらへん」

ああ、泣くかもしれないと、そう思った。すべての感情が混ざり合って、涙腺が刺激される。

泣きたくない、そんなところみせたくない。

なのに、いつもはサン グラスに隠されていた瞳が、彼には不似合いなくらいに優しく細められて、そこには間抜け顔の俺が映りこんでいて、それで。

「ワイけっこう、おんどれの髪すきやったんやで。しっとったか?」

知るわけ、ないじゃないか。そんなこと一言も言わなかったんだから。

知っていたとしても、黒髪化を間逃れることはできなかったけれどでも。

「なあ」

黒い瞳が俺を覗き込む、瞬きすることさえも許さずに真っ直ぐに見つめ返してやった。それに反応するように、

俺の髪に触れていた彼の手のひらが離れていこうとする、それがたまらなく嫌でとっさに口を、開いた。

「ウ、ルフ、ウッド」

途切れ途切れに吐き出したその言葉は、心の中で秘め事のように繰り返していた、なのに言葉にすることはできなかった、

そして呼びたくもなかった、いや、呼びたくて仕方がなかった男の名前だった。

もしも、もしも、名を呼んで夢だったとしても、夢から覚めてしまうのだとしても、それ以上に、

この男の体温が俺から離れていくことの方が耐えがたかった。だから、嫌々をするように、ただ目の前の男の名を呼んだ。

「なんや、百超えとる男の出す声やないで」

「ウルフウッド。ウルフウッド、ウルフウッド、君が、だって、君が」

離れていく手を追うように、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、必死になってそれこそ何かの呪文のように、彼の名前を呼んだ。

「金色もきれいやったけど、黒いのもわるないな」

離れようとしていた手のひらが、もう一度俺の頭に触れて感覚を確かめるようにくしゃりと頭を撫ぜた。

「なんでも腐りかけがうまいって言うやん」

ウルフウッドの吐き出した言葉に、世界が止まった。主に俺の中の。

あと少しで決壊寸前になっていた涙も、あっけなく引っ込んでいく。必死になって縋ろうとしてた目の前の男が、

いったい何を口にしたのかがわからなくて、そ の言葉を紡ぎだした唇を見た。

だが、そんなことをしたって現実が変わるわけもなく、やっぱり俺にかけられた言葉は覆しようもない。

腐りかけが、おいしいだって?

「ごめん、殴っていいか?」

「おえ、ちょ、まちい」

それ以上の言葉を吐き出すよりも、先に手が動いていた。もちろん義手の方だ。

拳に触れた感覚は、間違いなく生きている人間のもので、ああ、彼は帰ってきたのかと嫌になるほど実感させてくれた。

そして、やっぱり、引っ込んだと思っていた涙がまた湧き出しそうになって、

それを防ぐために痛みをこらえるように頭を抱えながら俺をねめつけている男を、きっと睨んでやる。

ああ、君は、嫌になるくらい君のままで。

本当に突然に、俺の目の前に帰ってきてくれたのかと、涙の代わりにもう一発頭を殴っておいた。



作成 10・8・2
掲載 10・9・22