ふわふわと視界が、そして体が揺れる。

テーブルに突っ伏して聖夜には似合わない缶ビールを空けていたはずなのに、

いつの間にか硬いテーブルの感覚ではなくてフワフワとしたところに寝転がっているようだった。

ようだったというのは、珍しく杯を重ねたせいでうまく自分の行動が思い出せないせいだ。

気持ちが悪いような、気分がいいような。ストッパーが壊れてしまったような不思議な感覚があった。
 ぐわんぐわんとしている僕の意識を揺り起こすように、低い声が名前を呼んだ。

聞きなれているようで、初めて聞くような。でも、確かに聞き覚えのある優しい声色だった。
「おんどれ、ここで寝とったら風邪引くで」
「うーん」
「おえ、きいとんのか」
 肩を勢いよく揺すられて、胸のあたりにわだかまっていた気持ち悪さが現実味のあるものへと変わりそうになった。

うっとせり上がりそうになる何かを耐えるように寝返りを打つと、ふうわりと部屋に残された煙草の香りが近くでした。
「おーい、ヴァッシュはん」
 揺れから逃げるように寝返りを打ったはずなのに、思ったよりも強い力で僕を追ってきた。さらに、畳み掛けるようにパチパチとゆるい衝撃が頬をうった。
「また後でくるいうたのに、一人でおねんねされたらワイ困るんやけど」
 独特の関西なまりとよく響く低い声。そして、もう体臭と混じりあってしまったかのような煙草の香り。

ぼんやりとしていた意識がふと覚醒をして、自分を揺すり動かしているものがなになのかを認識する。そして、そのあり得なさに、とっさに体を起こした。
「な、なんで君が!」
 急に起きあがったせいで頭がくらくらする。ぐわんぐわんと回る視界をすぐ隣にいる男に定めて、

ほんの少し気を抜くだけで朦朧としそうになる意識をなんとか奮い立たせる。
僕の目の前にいるのはもう何時間も前にこの部屋から姿を消したはずのサンタクロースだった。

僕の驚きをよそに、その元凶は暢気におはようさんなんていいながら、ソファの端に座り込んでひらひらと手を振っている。
「またなっていったやろ。ちょい前のことやのに覚えてへんの?」
「覚えてはいるけど、でも、来年のことかと思って」
 うまく思考のまとまらない頭を抱えて、満面の笑みを浮かべている男をみた。

僕の部屋を出たときに背負っていた袋はもう持っていなくて、部屋のどこにも見あたらなかった。
「今年の仕事は全部終わったわ。おんどれの残してな」
「ぼ、僕?」
 起きあがらせた上体をソファの背もたれにもたれさせて、すぐそばにある男を見つめた。

ぼんやりと漂っている思考では、彼の言っていることがよくわからない。首を傾げて、彼の次の言葉を待っていると、はあというため息が返ってきた。
「なんか、欲しいもんないん?」
「欲しい…もの……?」
「何でもええよ。思いつくままでいいからいうてみ、ワイが個人的に叶えたるさかい。サンタクロースがもらいっぱなしやなんて笑い話にもならん」
 ぼんやりと、言われたままのことを頭の中で繰り返す。欲しいもの、いったいなんだろうか。

たぶん、たくさんあるはずなのに、アルコールで麻痺した頭では、さっとあげることができない。
「君になにかあげたっけ?」
「ああ、ずいぶんとかわいいプレゼントもろうたやないか」
「かわいいって……」
 自分の願望を口にするより先に、疑問が口をついて出た。

だけど、僕が疑問に思っていることなんて、サンタクロースにしてみればたいしたものではないらしく、至極当然という顔で返されてしまう。

確かに、僕はこの男が言うように、彼にプレゼントというかお礼を渡した。そこには下心も打算もなくて、ただ本当にお礼として渡したはずだ。

なのに、それが、どうしてか彼に対するプレゼントというものへとクラスチェンジさせられているから不思議だ。
「あれは、お礼だっていっだじゃないか」
「そうやっけ。まあええやん。サンタクロースとしてはおどれの願い叶えたったんかも知れん。

けど、そうやなくて、ワイ個人としてな、おんどれになあんもくれてやってへんやろ。せやから、もらいっぱなしはいやなんや」
「細かいサンタクロースだな」
「義理がたいの間違いやろ」
 肩を竦めて煙草を取り出した手が、部屋を見回して止まってしまった。

ああ、灰皿かと思ったけど、彼のために即席灰皿という名の空き缶をとってきてやれるような状態ではない。

テーブルの上を顎で指すと、すまんなと小さくもらして立ち上がり、少しだけ中身の残っていた缶を片手に戻ってきた。

煙草は僕の顔の隣に投げ捨てられている。
「これ」
「おおきに」
 僕の手から煙草を受け取ったサンタクロースは、最初の遠慮をどこへ置き忘れていってしまったのか、当然のように火をつけて至極旨そうに煙を吐いた。

ほんの少しの時間しか彼と共有していないのに、この煙草の香りがなれたものになってしまった気がする。

どうせなら、手渡すときに銘柄を確認すればよかった。彼の手の中にある包みを盗み見てみたけれど、その銘柄を読み取ることはできない。
「もしも叶えたら、次はいつ君に会えるのさ」
「はあ、そりゃ順当にいけば来年やろな」
「順当にいかなかったら?」
 真っ黒な髪をかきあげたサンタクロースは、眉をしかめ視線をさまよわせ、悩むような素振りを見せた。ゆっくりと煙草を吸い、煙を吐き出す。

白っぽい煙はうすもやのように僕たちの間に立ち込めて、彼の姿をぼんやりと霞がからせた。
「その場合は、ワイにもわからんわ」
 あえないってことなのかと、ただそれだけの事実が考えることを放棄しつつある頭の中へと叩き込まれた。

それは嫌だなあと、ぽかんと浮かび上がる。そして、浮かんでは消えていく。

特別長い時間を共有したわけでもないのに、自分はこの男のことが嫌いではなかった。だから、あえなくなってしまうのは嫌だ。

せめて来年のこの日に、またこうやって顔を合わせることができればいいのにと酔いが回りきった頭で思い浮かべた。
「何でもいいのか?」
「まあ、玉子こうてこいとか以外ならな」
 無骨な手がぐいぐいと僕の頭を撫ぜていく。

乱暴な手のひらからは、生身の人間と同じような熱が伝わってきて、もしもこれが夢だとするのなら、ずいぶんとリアリティのある夢だと思う。

僕を覗き込んで意地の悪い笑みを浮かべているその顔も、さっき見たそのままで悔しくなるよりもまたあえたのかという高揚感のほうが先にたつ。
「それはもういいよ。あのさ、」
「ん?」
「君みたいな…友達がいたらいいのになあって思うんだ……けど……」
 静かな部屋の中で、自分の声だけがよく響く。自分でも年甲斐のない幼く恥ずかしい願いだと自覚があるせいだろうか。

途切れ途切れで吐き出した、僕の本心に近いお願いに、隣にいるサンタクロースからの返事はない。

自分でも、ちょっとないかなとか思ってるんだから、突っ込みでもなんてもいいから返してくれないと居た堪れないんだけど。
「はあ? それでええの?」
 ぽかんと口を開けて間抜けな顔をしたサンタクロースは、長い沈黙のあとに目をぱちくりさせながらもう短くなってしまった煙草を、

足元に置いていた空き缶の飲み口へと落とした。拍子抜けしたとでもいいたげな気の抜けた声色に、

自分の願ったものがそんなに簡単なものだったんだろうかと首を傾げたくなった。
 急に友達になってくれといわれたんだぞ、もっとこうなんていうか反応ってものがあるんじゃないだろうか。

まだ、真っ黒な目をぱちぱちさせながら腕を組んで何かを考えているらしいサンタクロースに、本当にかなえることができるのかよと問い詰めたくなってきた。

まあ、叶わないだろうなあなって考えながら、彼の口から否定の言葉が出るのを聞きたくなくて、

駄目押しみたいに僕の顔のそばにあった浅黒く節くれだった彼の手を握り締めた。
「うん…それが……いい」
 握った手のひらをぎゅっと握り返されて、ふっと体から力が抜ける。

触れている場所から伝わる体温に、今は確かに彼が隣にいてくれるのだと感じることができて自然と頬が緩む。

すると、それに連動するように、皮膚を隔てて向こうにいる彼もまるで子供みたいな笑顔を見せた。
 僕のことを子供みたいに扱うくせに、自分のほうが外で駆け回っている悪戯っ子そのままじゃないか。
「ヴァッシュのそういう顔すきやな」
 見ているこっちが恥ずかしくなるような優しい顔で、たぶんこの夜一番の慈愛の象徴である男が僕に手を伸ばしてきた。

僕の手のひらを握ったまま、あいているほうの手で頬に触れる。

あたたかい体温と煙草の匂いとこの男の低い声と、全部が交じり合って、僕をまどろみの中へと誘おうとする。
「なんで、名前」
 こぼれ出た欠伸をかみ殺して視線で問うと、僕の頬に触れていた手のひらが離れていき、今度は視界を奪うように目隠しをされた。
「しっとるよ。だって、サンタクロースやもん」
「なんだよ、それ」
「まあ、これも奇跡のひとっちゅうことで」
 目の前が真っ暗になってしまったせいで、余計に彼の声が近くに聞こえる。そして、その声色を聞くたびに、意識が眠気にさらわれそうになった。
「はな、おんどれの願いは聞き入れたわ。またな」
「まって」
 泥にでも飲み込まれたように重い体を動かそうとしてもうまくいかない。むしろ、抵抗しようとすればするほどに、意識はぼんやりとしていく。

せめてと、繋がっている手のひらを握り締めると、押し殺したような笑い声が聞こえてきた。でもそれは、馬鹿にしたような笑いじゃなくて、すごく優しい響きだった。
「さいならやない。またなっていういたやろ」
 繋がっていたはずの手のひらが離れ、頭をなでられるような感覚。それが最後だった。
スイッチ切れるように、すとんと僕の意識は途切れてしまった。
 
 
 遠くで、すごい音がする。そして、頭の中でも同じようにガンガンとした音が響き渡っていた。
 ひどい頭痛に吐き気。体が重い。頭の中はくらくらしていて、いまが夢なのか現実なのか判断がつかない。

もしかしたら世界の終わりで近づいているのだろうか。それくらいに最悪のコンディションだった。
「うっ……気持ち悪い……」
 ちょっと体を動かしただけでもムカムカとしたものが胃の辺りからこみ上げてくる。

なのに、そんな僕のことなんてお構いなしに、ドンドンと酷い騒音が響き渡っていた。

最初はいったい何事かと思っていたけれど、意識がしっかりとしてくるにつれ、それが誰かがドアを叩いている音だということに気がついた。
 こんな朝早くから勘弁してくれ。いや、朝早くではないのか。

チラリと視界に入った時計の短針は当に十二時を通り過ぎた場所を指していた。こんなに寝たのも久しぶりだ。

あまりに心地よい睡眠だった気がするが、おきてからの二日酔いが酷すぎて、昨日の夜のことを思い出そうとしても、頭がズキズキして思考が阻まれてしまう。
何かすごいことがあった気がするのに。
「う、るさい」
 それよりもなによりも、響き渡るノック音がうるさくて仕方がない。

これだけ叩いても出てこないんだから諦めろよと叫んでやりたい気持ちになるが、このまま放置しておいても近所から苦情がきそうで嫌だ。

隣が空室なので気は楽だが、ここまで連打されると他の部屋から嫌味を言われそうだ。
 ついでに、叫んだ拍子に胃の中にたまっているものを吐き出してしまいそうで怖い。
「そろそろ諦めろよ」
 こみ上げる吐き気を誤魔化しつつなんとかソファから立ち上がる。

壁伝いにドアまで向かううちに諦めてくれないだろうかと考えてみたが、僕の予想に反してドアを連打する音は大きくなっていく。

ここまでして、押し売りか何かだったら思いっきり殴ってやる。
壁に沿わせていた手をぎゅっと握り締めて拳を作ると、なんとかドアまでたどり着いた。
 二日酔いのうえに寝起きでかなりひどい顔をしているだろうけれど、そんなこと知ったこっちゃない。

ガンガンと揺れているドアが外れてしまう前にドアノブを握り鍵を開け、一呼吸おいてからドアを開けた。

あ、外を覗くの忘れた、と気づいたときには勢いのいい挨拶が滑り込んできた。
「こんにちは。ようやっと開けてもらえましたか」
「えっ?」
「留守かなあ思ったんですけど、中におったみたいでよかったですわ」
「はあ」
 間抜けな声しか出なかった。眩しくてすぐには顔を上げられなくて、男の足元ばかりを見ていた。

なぜ男だと分かったかといえば、目の前にある足が女性にしてはたくましく、そしてその声が低くよく響くものだったから。
いや、それだけじゃなくて、聞き覚えのある関西なまりに、ぐわっと血が逆流するような気がした。

気持ち悪い頭が痛い体がふらふらする、そんなものは一気にどこかへと消え去ってしまい、わけの分からぬ緊張感と、高揚で手のひらがぬるぬるとした。
「やっぱり飲みすぎでっしゃろか?」
ほんの少ししか開けていなかったドアを、男が図々しくも全開にしてしまう。

勢いよくドアを引かれたせいで、ノブを握ったままだった僕の体がふらつき倒れそうになる。

足を踏ん張ろうとするより先に、目の前にいる男の腕が僕の肩を支えた。一気に距離が近づいたことにより、ふわりと嗅ぎなれた煙草のかおりがした。
ああと、ぼんやりとしていた頭が一気に晴れて、その次に混乱。
「あのー、いちおう引越しの挨拶にきました。急やけど、今日から隣に越してきましたニコラス・D・ウルフウッドいいます。よろしゅう頼みます」
 ニコラス、ニコラス、ニコラス。それはある聖人が元になった名前で。その聖人って言えば、つまり聖夜に子供に夢を配る彼のことで。

つまりつまり、頭の中にいろいろなことがあふれて真っ白になる。

どうにもならなくなって、ばっと顔を上げると、あの時と同じように悪戯が成功した子供みたいな笑みを浮かべていた真っ黒な瞳とぶつかった。
「ひどい顔しとるなあ」
「え、あ、ちょっと、きみがどうして」
 言葉になってないだろうなあと、自分で自分に突っ込んでしまう。でも、それくらいに僕の目の前にあった光景は衝撃的なものだった。

あの見慣れた真っ赤な服ではなくて、シーンズに黒のハイネックを着た男は僕の肩を掴んだまま、ずいっと四角い箱を押し付けてきた。
「うわ、これ?」
 ぐいぐいと押し付けられた箱を受け取ると、箱の表には達筆な字で御挨拶と書かれたのしが巻かれていた。
「引越し蕎麦ですわ。ということで、今日からよろしゅうに」
「あ、ありがとうございます。でも、なんで」
 僕が呆然としているのが納得いかないのか、ウルフウッドは不満そうに口を曲げて僕の腕の中にある引越し蕎麦の箱を軽く叩いた。

おかしいよ。すごくおかしいだろ。

なんで、サンタクロースが引越し蕎麦もって僕の部屋の隣に引っ越してくるんだよ。そりゃあ、誰だってびっくりするに決まってる。
「なんでって、おんどれがいうたんやん」
「それって」
 僕が言ったこと。あまりの衝撃で二日酔いの吹っ飛んでしまった頭で考える。怖いくらいに記憶ははっきりとしていた。

確かに、最後寝る前に、無理だろうなあなんて思いながら、君みたいな友達がいればいいのになんて願った気がする。

そう、もちろん叶うわけないだろうなって思って、ちょっと我侭を言ってみただけだ。
「でも、サンタクロースなんだろ?」
「あんな顔してお願いされたら、断れへんやん。それとも、本気やなかった?」
 ウルフウッドはぐっと距離をつめて、僕の目を見た。真っ黒な瞳は、昨日の夜とまったく変わらない。

そう、何も変わっていない。また会えたらいいのにと思っていた彼が、こんなにもそばにいるのだ。

だが、僕の内心を他所に、黙ったままでいることをどう誤解したのか、ウルフウッドは困ったように眉を落として僕の顔色を伺っていた。
 せっかくきてくれたのに、このまま帰られてしまったのではたまらないと勢いよく名前を呼ぶと、それに反応してびくりとウルフウッドの肩が揺れた。
「サンタさんじゃなくてウルフウッドでいいのかな?」
「まあ、そっちが本名やしな」
 若干斜めになっていた体を起して姿勢を整える。ウルフウッドから手渡された引越し蕎麦はありがたく頂戴することにして、靴箱の上に置いた。
「僕はヴァッシュ・ザ・スタンピードっていいます」
「しっとるよ」
まっすぐに彼の目を見て自己紹介をすると、怪訝な顔で見つめられて恥ずかしくなってしまう。

何事もはじめが肝心だっていうのに、君がそんなんじゃ台無しじゃないか。
「だ、だから! 僕もよろしくお願いしますってことだよ!」
「はあ」
「本当に来てくれるなんて考えてもいなかったけど、でも、ありがとう」
「そりゃよかったわ。ジジイに勘当される寸前で飛び出してきたんや、ここ追い出されたらいくとこのうて困るとこやった」 
 ジジイとか勘当されるとか飛び出してきたとか、あまり穏やかでなさそうな単語が聞こえてきたような気がするが、

目の前にサンタクロースがいて、しかも今日から隣人になるというのだ。ここまでの段階でこれ以上ないくらい大変なことになっている気がするので、

彼の口から飛び出した不穏な単語の数々については後々追求することにして、安心したように頬を緩めたウルフウッドに手を差し出した。
「じゃあ、ほら」
「ん?」
 子どもの相手をしているから、彼自身にも子どもっぽいところが残っているんだろうか。

こちらを見て微笑んでいる笑顔はどこか幼い。そして、いまいちピンとこないように僕の手のひらを見つめているその表情も。
「握手」
 言うが早いかウルフウッドの手のひらを握って、乱暴に上下に振ってやった。

すると、彼も僕に対抗するみたいにぎゅっと握っていた手のひらに力を入れる。二人して、子どもにでも戻ったようだ。でも、こうしてくだらないことで競い合って、

より強く好意を伝えようとしていることが、僕らの間に何らかの関係を築きあげていくスタートとしては悪くないような気がして、自然と笑いがこぼれた。
「よろしくね」
「ああ。断られても、よろしくしたるわ」
 どこまでが冗談か分からない言葉に、そして手のひらから伝わる温かい体温に、僕は場違いにも目頭が熱くなった。
 



 はっと詰めていた気を吐いて、ポケットの中に入れっぱなしになっているキーケースを手繰り寄せた。

このまま鍵を取り出して玄関を開け、真っ暗な部屋の中に帰宅を告げる挨拶を投げかける。もう何百回繰り返したかも分からないような日常。

だけど最近、それが変わった。
 握り締めていたキーケースを取り出す前に、外気で冷やされたノブを回す。それは何の手ごたえもなく簡単に回すことができて、当たり前のようにドアが開いた。

以前なら泥棒騒ぎにでもなるところだけど、僕はこの奥に誰がいるのかを知っている。

真っ暗な寒々とした部屋に、明かりをともしてくれている人を知っている。緊張感を和らげるように深呼吸をして冷えた空気を吸い込んだ。

一歩踏み出し敷居をまたぐ。
「ただいま」
 ただ一人で習慣として投げ出していたときとは違う、相手がいると分かっているからこそ自然とこぼれだすその言葉に、胸が温かくなるような気がした。
「おお。おかえり。お仕事ご苦労さん」
「つかれたー。今日もご飯作ってくれたの?」
 カウンターの向こうから顔を覗かせたウルフウッドに問いかけると、わかっとるんやったらはよ着替えてこいといわれてしまった。

あの外見からは考えられないというか、人は見かけによらないというか、ウルフウッドは随分と料理が上手だった。

逆に、僕の家事スキルの方が低いくらいで、特に自炊を苦手としている僕に同情して、時間があるときにはこうやって食事を作りに来てくれるのだ。

最初は月に一回とか二週間に一回くらいだったのに、その回数もどんどんと増えてきたので、もうスペアキーを渡してしまっている。

そして、その代わりに、僕のキーケースにも、鍵一個分の重みが加わった。

まあ、僕が彼のために食事を作るなんて高等技術を披露できるわけがないから、あまり活躍の場はないんだけれど。

でも、あんまり使うことがなくたって、ただその重みがあるだけで僕は満ち足りているようにさえ感じられた。
「ちょっとまっててくれよ」
「わかっとるからさっさと着替えて、こっちの手伝いせえよ」
「はいはい」
「返事は、」
「一回だろ」
 台詞を取られてしまったことで不服そうに口を曲げてしまったウルフウッドに背中を向けて、となりの部屋へと滑り込む。

スーツを脱いで、部屋の隅にたたんでおいてある部屋儀へと着替えていく。
 戦闘服であるスーツを脱ぐと、一気に気が楽になる。はあとため息をついて、大きく伸びをした。ついでに、明日のカッターシャツも出しておくことにする。
 その間も、となりの部屋から明かりが、そして人の気配が漏れてきて、悪い気はしなかった。

自分のスペースに他人を招きいれているはずなのに、むしろ早く彼のところに行きたいなあと急いている自分がいた。
 むなしく、みたされない気持ちでいたのは、けっきょくさみしかったからで。さみしくはないと強がっていた頃の自分がなんだかおかしかった。

いや、本当にあの頃はさみしくなんてなかったのかもしれない。

だって、こういったものが与えられるのだと、僕にも僕を迎えてくれる誰かがいるのだということを知らなかったのだから。
 ゆっくりと、息を吐いて、そしてすって、ダイニングへと続くドアを開ける。
 自称サンタクロースがくれた贈り物は、こんなにも僕を優しい気持ちにさせてくれる。

自分の尺度でしか測れないものではあるけれど、たぶんこれが、しあわせだとかこうふくだとか、そういった類のものなのだろう。

だとするなら、間違いなく、僕に与えられたのは白い雪みたいにきれいな奇跡だった。









10・08・08