黒く硬そうな髪を風に任せるままになびかせていた男は、もう砂まみれになってしまった髪と同じ、漆黒のスーツを手ではたいた。

ふうわりとたった砂埃は、すぐに砂漠に吹く乾いた風にのみこまれていく。

もう何日も砂漠を行く旅をしているせいで、砂まみれとなっているのに砂埃を落とす行為は、

中身のない財布を振るくらいに意味がなくむなしいものだった。
 男は終わることなく吹き付ける砂塵から目を守るために、胸元から真っ黒なサングラスを取り出してかけた。

黒いスーツに黒いサングラス。そして、浅黒く彫りの深い顔。

砂漠を渡るわけありな男だといえば、十人中十人が納得するだろうに、彼が背負っている大きな十字架がそのイメージをちぐはぐなものにさせる。
「君って、腐っても牧師様なんだね」
 日陰になる大きな岩に背を預けて男のことを見ていた派手な男が、感慨深げな顔をしてうんうんとうなずいている。

すべてが真っ黒な男とは対照的に、男にはもったいないような金糸の髪と艶やかな翡翠色の瞳。

そして、極め付けが、何アイル先からでも目を引きそうな、真っ赤なコート。黒とは正反対の、色彩に溢れた男だ。
 そんな彼の言葉に、牧師と呼ばれた男は嫌そうに眉をしかめた。
「はあ、なにいうとりますか。ワイが牧師やなかったら、世界の牧師はみんな破壊僧かなんかや」
 スーツのポケットから煙草を取り出して、なれた手つきでマッチで火をつけくわえる。一連の動作は手馴れたもので、怖いくらいに真っ黒な男に似合っていた。

それを思うのならば、やはり牧師というよりは街にいる柄の悪い男とでも称したほうが幾分かは納得できる。
「その冗談はあんまり面白くないなあ。大体、酒飲んで煙草吸って博打うつ牧師なんて聞いたことないよ」
「おんどれは、あれや。狭い自分の視野だけにとらわれとったらあかん。これからの世の中、広い視野が必要なんやで」
 体に害悪しか及ぼさない煙を吐き出した牧師は、つまらなさそうに呟いて真っ赤な男の隣に背を預けた。

そして、もう一度煙草をくわえると、今度は隣の男に煙を吹きかける。

赤い男は、あまり煙草に免疫がないのか、煙草の煙を直接吸い込んでしまい目に涙をためながら苦しそうに咳き込んでいる。
「ちょ、なにするんだよ。へんなところにはいった」
「あー悪いな。風向きようなかったみたいや」
「なにが風向きだよ。思いっきり俺を狙って煙はいただろ」
 牧師の誠意のない言葉に肩を怒らせた男は、まだ軽くむせている呼吸を何とか整えて、彼の唇から吸いかけの煙草を取り上げて地面に捨て去り、

ブーツの底で踏み潰した。それは瞬きの間の出来事で、彼の思いもよらぬ行動に、牧師も一瞬あっけに取られてしまう。
「なにするんや。まだ火ぃつけたばっかりやのに!」
「あんまり吸いすぎはよくないだろ」
 気を遣ってあげたのがわからないのかいとニヤニヤしながら牧師の顔を覗き込む男に、黒い眉をしかめて新しい煙草を取り出す。

それを先制するように、赤い男が牧師の手元から煙草の箱を奪い取ってしまった。
「お祈りなんてできるんだね。さっきみたいな姿を見てると、本当に信じられないけど、君が牧師なんだなあって嫌ってほど実感するよ」
「殴られたいんか? 殺されたいんか? 選ばせたるから安心せい」
「その言葉が聖職者には似合わないんだって」
 言葉の乱暴さとはつりあわないやる気のない声色に、牧師の怒りが見せ掛けだけのものだろうということがうかがい知れた。

コートの男もそれを理解しているらしく、牧師の言葉をいなすように肩をすくめただけだった。
「ほっとけ、このトンガリが」
 もうコートの男の手の内にある煙草をあきらめたのか、のぞきこんでくる顔を押しのけてその額を叩いた。
「なんならお祈りしたろか? いまならお安くしとくで」
「えー、効果あるの? けっこうやばそうじゃない。君のお祈りなんて」
 疑わしそうな表情のまま、手に持っていた煙草を投げ渡したコートの男は、興味を失ったかのように岩から背中を起して大きく伸びをする。

遠くにある雲ひとつない二重太陽の空は、頭が痛くなりそうな青だった。
 煙草を受け取った牧師は、それをポケットにしまいこんで胸元で十字を切った。
「ほんま失礼なやっちゃな。ワイのお祈りはご利益ありまっせ」
「君がそこまで言うならさ、まあ、ここ一番のときまでとっておくことにしようかな」
「はあ」
「その、ご利益がすごいお祈りってやつ」
 サングラスの向こうで目を瞬かせた牧師は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべてコートの男と同じように背を起して歩き出した。
「ちょっと、まってよ」
 勝手に歩き出してしまった牧師を追って、コートの男があわてたように声を上げた。

大きな十字架を背負っているとは思えないようなスピードで歩いていく牧師に追いつくため、早足でかけていく。
「そろそろ出発せんと、日がたこうなってまうやろ」
「そうだけどさあ。せっかく君のお祈りが終わるまで待っててあげたのに」
「別に頼んでへんやろ」
「頼んでなくても待つのが優しさってもんだろ」
「へーへー。まあ、そうやな。ここ一番のときのお祈りはまけとくことにするわ。あんまりのご加護におどろくなや」
 歩くスピードを落とすことなく、それでもコートの男がしっかりと自分の後ろをついてきているかを確認しながら歩いていく牧師は、

サングラスで隠されている表情をゆがませて、子供のように幼い笑みを見せた。彼の背中だけを見ているコートの男にはわからないような、優しい笑顔を。
 
 
「ここ一番って、いまだよな」
 美しい蜜色だった髪を、まるで牧師のような墨色へと変えてしまった男が、誰もいない闇の向こうに呟いた。

誰かに聞かせるわけではない、無意識にこぼれ出たような言葉。
「祈ってくれるんじゃなかったのかよ」
 ほんの少しだけの残った金色が、さらさらと風に揺れた。

グローブに包まれた手で頭を抱え、背後の鉄柵に背を預けて座り込んでいる姿は、まるで図体が大きいだけの子供のようで、

彼が吐き出した言葉が無意識だからこそ、真摯に彼の奥底を揺さぶっているのだろうとわかる。
 返事はない。彼が望んでやまない祈りの言葉は聞こえない。
この世界のどこかに彼がまだいるのなら、それだけでよかったのにと、無駄なことだと分かっていても思いを馳せてしまうのは彼が弱いせいなのだろうか。

それとも、もういないはずの男が、あまりにも奥深くまで侵食していたせいだろうか。

まるで泣き止まない子供のように、顔を伏せたままの男は、ただ一人で立つことを拒否するように、はっと息を吐いた。

もう、名前は呼ばなかった。本当は、思い出したくもなかった。そして、忘れたくもなかった。全部、全部交じり合ったみたいに、心の奥を締め付けていく。
 そんな彼の背中を押すように一陣の風が吹く。いつもと同じ、この星のどこから吹くのかも分からない、砂埃にまみれた風が夜陰を揺らす。

なのに、まるで彼を叱責するかのような、いつの間にかかぎなれそしてどこか遠くへといってしまった煙草のにおいがしたような気がした。
「わかってる。わかってるさ。ここまできて立ち止まるばかがいるわけないだろ。君に言われなくたってわかってる」
 嫌になるくらい分かってるよともう一度だけ口の中で呟いて、世界を拒絶していた男は、まるでなんでもないことのように立ち上がり、

目が痛くなるくらいにきれいな夜空を見上げた。五番目の月は、手も届かないような高さから、大きな岐路に立っている大地を見つめている。
「いいさ、全部終わったら、僕が君のために祈ってやる。嫌って言っても、祈ってやるからな」
 ここにはいない誰かに語りかけるように、きっと闇の向こうをにらみつけた翡翠色の瞳は、ほんの少しだけ濡れていた。

なのに、口元はきれいな三日月のような笑顔を浮かべている。

ただ、男は何か言葉を発しようと小さく口を開けて、そしてすぐにそれを戒めるように強く唇をかんだ。
 それは、誰も知らない夜の話。







10・6・24