今年、雪は降るのだろうか。
 金曜日、一週間分の疲労を溜め込んだ体を引きずりながら考える。金曜日の夜、しかも十二月二十四日。

街は落ち着きのないざわめきをはらみながら、たぶん本来の意味なんて忘れられつつある聖夜を迎えようとしていた。
 二人連れが多いのはイベントごとに弱いこの国の性なのだろうか。まあ、多くの恋人たちが浮かれて、幸せになれるのならば、それはそれでいいことだ。
肌を刺すような冷たい風を防ぐようにコートの襟を立てて、マフラーを巻きなおす。

街は恋人同士で盛り上がっていても、僕は今夜も明日の予定もないしがないサラリーマンで、結局のところいつもと変わらぬ週末だ。

だからなんだと言われても、なんでもないと言うしかない。

だけど、連れ合いもともに過ごす人もいないクリスマスなんて、自分以外の誰かが浮かれている壁の向こうのイベントでしかなかった。
 本当にクリスマスを楽しみにしていたのなんて、サンタクロースがプレゼントをくれると信じ、家族三人で食卓を囲んでいた幼い頃くらいだろう。
 はあ、とこぼれ出たため息がうすもやのような白に染まる。
 別に何かが悲しいわけでも、不幸を感じているわけでもないが、なんとなくため息をつくことが多くなってきた。

もう一度でそうになったため息を飲み込んで、コートのポケットに手を突っ込んだ。
 昨日よりも寒い。
 雪は降るのだろうか。
 天気予報に目を通していないせいで、まったく当てになりそうにもない自分の勘に頼るしかない。

そして、自分の勘にどれだけ訴えかけてみても、明日の天気を予想もできなかった。
 だけど、どうせなら降ればいいのに。
 降ったら降ったで、交通機関が麻痺して大変なことになるとわかっているのに、少しだけ期待染みたものが胸をよぎる。

明日明後日と休みで、出勤のことを気にしなくていいせいかもしれない。子供みたいな無邪気さで、天候ひとつに胸を躍らせることができた。

昔から、ただそらから白いものが降ってくるということだけで、たまらなくわくわくしていたことを思い出す。
 一緒に雪だるまを作ったり、クリスマスの食卓を囲むような人はいないのに、

まるで体の中に組み込まれたプログラムみたいに一連の物事に反応してしまうのだから不思議だ。
 曇っていることしかわからない空から視線を戻すと、学生と思わしき集団とすれ違う。

これからパーティーなのだろうか、男の子も女の子も近くのスーパーの袋を持って、楽しそうに笑いあっていた。

彼らのたてる騒音をやり過ごすようにポケットの中に入れっぱなしにしていたキーケースを引き寄せて握り締める。すでに帰路は見慣れた我が家目前だった。
 自分の住むマンションが射程内に入ったことで、足を急がせる。マンションの三階角部屋。隣は空き部屋だ。

スタンピードと書き込まれた嫌というほどに見慣れたネームプレートが、暗い中にぼんやりと浮かび上がっていた。
 さみしくはない。
 鍵を開けて中へと入る。自分が朝出たときとまったく変わらぬ室内。室温は、外と同じくらいに冷え込み、しんとしていた。

自分の立てる音だけがすべてで、一瞬だけ原因不明の不安がよぎる。
「ただいま」
 もう、体に染み付いてしまったむなしい習慣。返事が返ってくることなんて、もう何年もない。小さな自分の声が響いて消えた。
 さみしくはない。
 ただ、むなしい気持ちになった。
 
かくんと頭が揺れて、テーブルに顔面をぶつけそうになった。ついで、目の前にあった缶ビールが倒れそうになる。
 帰ってきて、出来合いのもので夕食を食べて、一週間の締めにと缶ビールを取り出してちびちびとやっていたところまでは覚えている。

テーブルの上に放り出したままにしていた赤い携帯電話を引き寄せると、自分の記憶にある時間から十五分程度しか経ってなかった。

手元の携帯電話がポカポカと新着メールを知らせる光を放っていたので確認すると、いつもの読みもしないメールマガジンだった。

読まないのなら断ればいいだけなのだが、どうにも解除処理が億劫で、毎日送られてくるままにしている。
「クリスマスの日に迷惑メールだけって、どうなの?」
 もうぬるくなった缶を引き寄せて、髪を下ろした額をテーブルにゴンぶつけると、背後から押し殺したような笑い声が聞こえた。

テレビはつけていないし、ラジオだって流していない。この部屋の中で音を出しているのは、家主の僕だけだった。

なのに、まったく聞き覚えのない低い男の声が聞こえてきた。
 幻聴かとおもい耳を凝らしてみたが、やっぱり笑い声が聞こえる。どうにも気のせいと言い聞かせることができずにばっと顔を上げると、

思っていた以上にそばに、そして考えていたのはまったく間逆の場所に見知らぬ男が立っていた。
「きみ、だれ?」
 自分でも間抜けていると思う、突如として部屋の中に出現した男に対して、だれはないだろう。だけど、男は僕の言葉に反応してその微笑を深くした。
 真っ黒な髪に浅黒い肌、そして彫りの深そうな顔。鷲っぱなには黒いサングラスが乗っかっているせいで、眼の色までは確認できない。

どんどんと視線を下へとおろしていくと、その服装の奇抜さに、自分が夢でも見ているんじゃないのかと思えてきた。

赤い緩やかな服に、袖口には白くやわらかそうなムートン生地があしらわれていて、黒く立派なブーツを履いていた。

この部屋土足厳禁なのにと突っ込もうと思ったけれど、彼が立ってるフローリングが土で汚れているような気配はない。

それよりもなによりも、その隣にどっしりとした存在感を持っておかれている白い袋のほうが気になった。たぶん、背負っていたのだろう、彼の格好からするに。
 袋の中は半分くらいまで物が詰まっていて、ずいぶんと重そうに見える。それをじっと見つめていると、また押し殺したような笑いが落ちてきた。

僕が顔を上げるのに連動するように、浅黒く節くれだった指がサングラスを外し、慣れた所作で胸ポケットへと突っ込んだ。

こちらをまっすぐに見つめているのは、射るような黒い瞳だった。

彫りの深い顔と高い身長のせいで妙に迫力があるのだが、その表情は眉が下がった笑顔で、怖そうな印象はまったくない。

黒い瞳も射るような強さがあるのに、浮かんでいるのはほっとするような優しい光だった。
 もう一度、何者か尋ねてみようかと思って言葉を選んでいると、それをさえぎるように男が口を開いた。
「この格好みればわかるやろ」
 まるで子供にでも言い聞かせるような穏やかな声色。でも確かに、さっき聞こえた笑い声と同じ男のものだ。
 確かに彼のいうとおり、その服装を見れば日本中の誰だって彼が何者かであるか一発でわかるだろう。

だけど、わかることと認めることが違うわけで、そして僕は立派に成人したサラリーマンなわけで、

僕と僕の兄の枕元にプレゼントをおいてくれていたサンタクロースの正体なんて、もうとっくの昔に看破しているわけで。
「クリスマスで羽目を外すのはわかるんだけど、もう少し場所を選んだほうがいいよ。僕では君の期待するようなリアクションを取れそうにないな」
 僕の反応に、男は肩をすくめて詰まらなさそうにため息をついた。

こちらを向いている顔からは、もう少し面白いことをいってみろという彼の気持ちが読み取れるような気がした。

そいうえば、どうにも俗っぽい関西なまりの持ち主のようだ。それがまた、彼が主張している彼の正体を信じがたいものにしていく。
「じゃあ、押し売りか何か? なにを言ったって、もう羽毛布団は買わないからね」
「え、おんどれ羽毛布団なんて買わされたことあるんか。あれ、ほんまにひっかかる人種がおるんやな。ワイ初めて会ったで!」
 おかしそうな笑い声を上げた彼が、まるでものめずらしいものでも見るように僕の顔を覗き込んでくる。

確かにだまされやすそうな顔しとるもんなあ、なんて笑いまじに僕の肩を叩いた。やっぱり子供たちに夢を配ってるなんて嘘だろ。

どうにも、優しさが足りない気がする。だいたい、そんなに笑うことないじゃないか。

笑うことをやめようとしない男をキッと睨み付けると、悪びれもしない顔ですまんすまんと呟いて、僕の頭をグシャグシャとかき回した。
「ちょっと、なにするのさ」
「せやかて、ちょっとは頭使えや。おどれ、帰ってきたとき玄関の鍵閉めたんとちゃうの?」
 男に言われて自分の行動を思い起こしてみると、しっかりと自分の手で鍵を閉めた記憶がある。

もちろん、窓もカーテンも締め切ってあるし、三階のベランダからこの部屋に侵入することは不可能なはずだ。
「え、じゃ、どうやって」
「まあ、最近の家は煙突なんて大層なもんついとらんし、しゃあないから壁とおってきよったよ」
「壁って、穴あけなかったんだろうね!」
 それを聞いた男がまた腹を抱えて笑い出した。なにが面白いんだ。もしも部屋の壁を壊されたとしたら、修理代を払うのは僕になるんだぞ。

そういう修理代って結構高いから馬鹿にならないんだ。
「ほんま、ちょ、どこまでまじなん? いうてみ、自分天然装おうとるんやろ。キャラ造りなんやろ」
「分けわかんないこといってないで、壁壊したなら正直に言えよ!」
「あーだめや、まじもんか」
「な、なにが!」
 頭を抱えてそのまま座り込んでしまいそうな大仰さで頭をたれた男は、がくりと肩を落とすとそのまま僕の顔を覗き込んできた。
「壁なんて壊しとったら、いくら抜けとるおどれかて気づくやろ。そんな大きな音たてた覚えないわ」
「そっか……。じゃあ、君って本当に、その、宇宙人とかじゃなくて?」
 一応確認のために部屋の中を見回してみたけど、どこの壁にも傷ひとつついてなくて、

もちろんすべてのものが僕の記憶どおりに配置されたままになっていた。何かをとられたわけでもないみたいだ。
「宇宙人ってなあ。どうしたらここまで期待外ずさんとボケられるんや?」
「う、うるさいな! 誰だって急に部屋に知らないやつがきたらびっくりするだろ!」
「びっくりするにしたってもう少し反応ってもんがあるやろ」
 サンタクロースと名乗る男は、サンタクロースにしては俗っぽい話し方とリアクションで、どんどんとその違和感をなくしていく。

まるで、十年来の知り合いみたいに話しているけど、この男は不審者なんだよな。

でも不審者というには、立ち振る舞いからその目的を感じ取ることができないし、何か害を与えるような様子も見せないけど。
「宇宙人やったとして、わざわざこんなマンションに顔出してどうすんねん。期待に沿うようにおんどれの頭にチップでも埋め込んだろか」
「えっ!?」
 彼の言葉にびくりと肩を震わせると、胸元からこれまたサンタクロースには似合わないくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出して、まだ新しい煙草を手に取った。
「そんなわけあるか。この格好見たら、迷う必要もなくサンタクロース一択や」
手元で煙草をもてあそんでいるさまは、お楽しみ会のために仮装させられたお父さんみたいで、ちょっとだけおかしい。
たしかに、誰かをだましてやろうというギラギラとしたハンターの目はしていなかった。

むしろ、無表情になったのならとたんに子供が泣き出しそうな迫力を持っているはずなのに、それを感じさせないくらいの人のよさそうな笑顔には好感が持てた。

宇宙人だって言うのも、もしもそうだと仮定したとしても、この部屋にピンポイントでくる意味がわからない。
「これ」
 もう、ぬるいをこして室温と同化してしまった缶ビールを自称サンタクロースの前に差し出す。
「お、吸ってええの?」
「吸いたいから出したんだろ」
「すまんな、癖で出してもうて。じゃ、お言葉に甘えて」
 自前のマッチを取り出した彼は、慣れた手つきでマッチを擦ってくわえた煙草に火をつけた。

燃え残ったマッチを缶に落とすと、慣れない煙草の煙が部屋の中へと広がっていく。

自分でも吸わないし社内の喫煙室へと足を踏み入れることもあまりないので、煙草の煙をかぐのは久しぶりだった。
 その煙が室内へと蔓延していくように、この自称サンタクロースの口調や態度、立ち振る舞い、

そしてサンタクロースというには少々納得できないような雰囲気が僕を包み込んでいく。

ありえないと思う自分よりも、この男がサンタクロースってのもありかもしれないなという考えの方へと大きく天秤が傾いていった。

はじめてあったはずなのに、そんなこと感じさせないように気さくに、そして和やかに話せる。

まるで夢見たいな不思議な雰囲気だけど、さっき彼が僕の頭を撫ぜ回したときに感覚があったのだから、夢ではないのだろう。
「君が本当にサンタクロースなんじゃないかって思えてきたよ」
「せやから、そうやっていっとるやろ。うたぐりぶかいやっちゃなあ」
「じゃあ、そのサンタクロース様がなにしにきたっていうのさ」
「いやー、それがな」
 缶を引き寄せて、飲み口に吸い終わった煙草を落としたサンタクロースが新たな煙草を取り出し火をつけながら、首をひねった。

言葉を選んでいるような様子に、自分が彼を呼び寄せるようなことをしたのだろうかと考えてしまうが、

枕元に靴下をつるした覚えもサンタクロースに欲しいものを祈った覚えもない。

だけど、僕が考えていることに反して、彼はまるで迷子の子供でも見るような戸惑っているような笑顔を浮かべて、くわえていた煙草の灰を缶の中に落とした。
「子供にプレゼント配るのに奔走しとったらな、どうにもさびしげな雰囲気のする家があったんや。

で、どんなつまらなそうなガキがおるんやろかって覗いてみたら、おどれがおったってわけや」
「さ、さみしそうって失礼な! 確かに友達との約束もデートの約束もないけど!」
「ちゃうちゃう、そういうことやない。あー、なんていったらええの?」
 煙草をくわえたまま頭をガシガシとかき回しているサンタクロースは困ったように視線をさまよわせて、ああでもないこうでもないと独り言を呟いている。

その様子からかんがみるに、僕を馬鹿にしたいとかそういうのではないらしい。

どういうことだよと問おうとすると、勢いよく面を上げた彼の黒い瞳と視線がぶつかった。
「おどれ、こんなきれいな翡翠色の目しとるのに、なあんか空っぽでさみしそうなんやもん。もっと楽しそうにわろうてみ? そしたらめっちゃええ笑顔になると思うよ」
 手持ち無沙汰にしていた男の手のひらが、ゆっくりと僕の頬へと伸びた。

躊躇うこともなく触れたそれは、やっぱり夢とは思えないような熱と感覚を持っていて。どうしてだか胸が苦しくなった。

優しく頬をなでる指先は、遠い昔に失ってしまったはずの家族の持っていたぬくもりに酷くよく似ていて、不快感よりも心地よさが募っていく。
「さみしいのなくなるように、なんかおくりものやるわ。なんでも欲しいもんゆうてみ」
「ほ、しいものって……。きみ、本当にサンタクロースなの?」
「何回同じこといわせるんやて。まあ、世の中のやつらがサンタとかおったらええなあって期待してる力で存在しとるわけやし、

そおゆう強い望みの力でこうやって重労働しとる。せやから、願いが一番強うなる特別な夜に、一回くらい奇跡が起こってもええんちゃうか?」
「でも、その一回が僕なんかでいいの?」
「みんなのサンタクロースがええゆうとるんや、ええにきまっとるやろ。もらえるもんはなんでももらっとき、遠慮なんて損やで」
「それってすごく光栄なことなんだけど、願いごとって急に言われても」
「悩むなや。なんか一個くらいあるやろ。直感で言うてみ」
 急になんでもかなえてやるといわれて、ぱっと願いが出てくる人は逆にすごいと思う。

願いごと願いごとと頭の中で唱えてみても、漠然としたものがぐるぐるとあふれ出てくるだけだった。
「あっ! 玉子が切れて、」
「貴重な一回やでな! ようかんがえるんやぞ!」
 ぱっと思いついたことを口に出すと、全部言い終わる前に手袋に包まれた大きな手で口をふさがれた。

せっかく玉子が切れてることを思い出したのに、やっぱりそんなこと願っちゃ駄目だよね。

だけど、直感でいいから言ってみろといったのは、いますごい形相で僕の口をふさいでいるこの男じゃないか。
 口をふさいだままの手を乱暴に振りほどいて、何かないかと考えをめぐらせる。

願いごとといわれれば、僕だってそれ相応に欲のある人間だから、いろいろなことが浮かんでは消えていった。

新しいパソコンが欲しいとか、もう少し会社に近い場所に住みたいとか、たとえばクリスマスをともに過ごせる人が欲しいとか、

そうたとえば、もう一度、自分が無邪気にサンタクロースを信じていたことのように三人で過ごすことができたらいいのにとか、

本当にどこまでが叶えたい願いで、どこまでがただ漠然とそうならいいのにと思っているだけのことなのかわからなくなってくる。
「もったいぶらんでええから、はよいうてみ」
 サンタクロースはつまらなさそうに新しくくわえた煙草をふかしながら、僕が口を開くのを待っていた。

言ったら本当に叶えてくれるのだろうか。どんなことだって、僕の願うままにしてくれるのだろうか。

だけど、本当にそうなってしまうと思うと、とたんにどんな願いも言葉にすることができなかった。
「もしも、僕が辞退したら、誰かほかの人の願いを叶えるのか?」
「はあ? そりゃあまあ、おんどれが望むならそうなるわな」
 たぶん、叶えてもらいたい願いなんてたくさんある。

でも、いざなんでも叶えてやるといわれてみると、怖くなってなにを願っていいのかわからなくなってしまう。

自分なんかが、こんなふうに願いを叶えてもらっていいのかとか、自分には過ぎた権利なんじゃないのかとか、踏ん切りがつかない。
「あのね、願いを叶えてもらえるっていうのも、君が僕のことを見つけて、元気付けてくれようとしてくれたのもすごくすごくうれしい。

でも、僕なんかよりももっと君みたいな素敵なサンタクロースから贈り物をもらうべき人がいるんじゃないかって思うんだ」
「ふーん、おどれはそれでええの?」
 煙草の灰を缶の中に落とした男は、まるで試すかのように僕の頭から足の先までを見つめる。

夜空みたいに真っ黒な瞳は、彼のそっけない言葉よりも饒舌に、本当にそれでいいのかと問いかけているような気がした。

だけど、僕にとって自分が願いを叶えてもらうよりも、もっといいことがあるんじゃないかと思いついてしまったんだから仕方がない。

自己満足でしかないんだけど。
「うん。僕にその権利って言うか資格はないと思うんだ。それにね、サンタさんは子供に夢を与えないと。たとえばの話だけど、

このマンションからもう少し先にいったところにあるアパートに、治りにくい病気の男の子がいるんだ。

家庭環境もあんまりよくないし、暮らしぶりもいいとはいえない。そこに君みたいなサンタクロースが現れたら、どれだけ喜ぶかわからない。

それとわかっているのに、僕なんかがなにか品物をもらったら、一生後悔しそうじゃないか。

だからさ、僕のところに来たことはなかったことにして、その男のこのところにいってあげてよ」
「しょうのないやつやなあ」
 あきれたような言葉からは信じられないような、優しい笑顔。くわえたままにしていた煙草を缶の中に捨て去ると、大きな手でグシャグシャと僕の頭を撫ぜた。

子供か何かと勘違いしているんじゃないか。
「それでええんか」
「ああ、いいよ」
「そうか、せやったらおんどれの言うとおりにするかな」
 ふうと煙草くさい息を吐いたサンタクロースは、床に置いたままにしていた夢のつまった袋を持ち上げて、大きく伸びをした。

肩に背負い上げた袋の中には、子供たちを喜ばせる素敵なものがたくさんつまっていて、

これから彼がそれを配りに行くのだと思うと、それだけで顔が緩んでしまう。
「なんや、そういうふうにも笑えるんや」
「え?」
「いんや、なんでもないわ。そろそろお暇しよかな」
 グシャグシャにかき回した髪の毛を梳きながら、サンタクロースは壁にかけてある時計で時刻を確認した。

体感的にはすごく時間が経っているような気がするのに、蓋を開けてみれば十分二十分の間のことでしかなくて不思議に思えた。
「もういくのか?」
「これでも、ワイ、人気者やさかい、時間押しとるんよ」
「じゃ、じゃあちょっとだけ待ってよ!」
 現れたときと同じように唐突に消えてしまいそうで、勝手にいなくなったりしないように待ってろよいいな待ってるんだ!と何度も呼びかけて、

カウンターの向こうにあるキッチンへとかけていった。一番奥の壁際においてある冷蔵庫を開けて、その中から入れっぱなしにしていたパックの牛乳を取り出す。

もちろん一リットルパックだ。賞味期限はぎりぎりセーフ。ついで、冷蔵庫の隣のラックに突っ込んであったクッキーの箱を取り出して、それも抱え込んだ。
「なにをぎょうさんもってきたんや」
 僕の言ったとおりに、さっきいた場所から一歩も動かないで待機していたサンタクロースが、僕の腕の中にあるものを見て驚きの声を上げた。
「レムが、あ、僕の養い親のことなんだけど。彼女が、サンタクロースにプレゼントをもらうときは、

ミルクとクッキーと御礼の手紙をお返しにしなきゃいけないって言ってたんだ。それで、手紙は急に用意できないけど、これなら渡せるから」
 ずいっと一リットルの牛乳パックとクッキーを押し付けると、男は困ったように笑って少し躊躇ったあとに、僕の腕からお礼の気持ちを受け取ってくれた。
「ワイな結構長いことこの仕事しとるけど、一リットルパックで牛乳もらったのは初めてやわ」
「仕方ないだろ、それしかなかったんだから! いらないなら返せよ。明日の朝食に使うから!!」
 物珍しそうに一リットルの牛乳パックを眺めているサンタクロースは、純粋に喜んでいるというよりもどこか面白がっているような雰囲気をかもし出している。

精一杯考えて渡したお返しを馬鹿にされたような気がして、男の腕から牛乳パックとクッキーを取り返そうとすると、

すぐにそれを抱きこんで僕の手の届かないようにガードにかかった。
「いーや。返しませんー。一度もろうたらワイのもんですー。まあでも、形のあるもんもろうてまったんなら、ワイもお礼せなあかんよな」
「え、別に、お礼なんだから、お礼にお礼はいらないだろ」
「えーからええから、ほなワイいくわ。じゃあまたなー」
「またって、どういうこ、」
 サンタクロースは僕の言葉に答えることなく歩き出すと、ひらひらと手を振りながらそのまま壁を通り抜けるように消えてしまった。

能天気な別れの言葉だけを残して。
 冗談じゃなくて壁を通り抜けてきたのかと、いまさら納得してしまう。

もちろん、彼が通ったあとに穴が開いているとか傷がついているとか言うわけじゃない。あとにはなにも残っていないのだ。
 まさか夢だったわけではあるまいと、あの男が灰皿代わりにしていた缶をつかみとって中身を確認する。

確かに缶の中には煙草の吸殻のようなものが浮かんでいて、飲み口も灰で汚れていた。

そして、部屋の中には彼がいた残り香のように、煙草の煙の香りが充満している。やっぱり、夢なんかじゃない。
 そのことに、驚くくらいに安心している自分がいた。
「本当に、いってくれたのかな」
 今頃、あのちょっと粗野なサンタクロースが男の子の元に起こしてくれるであろう奇跡を思うと、

彼がいなくなってなにかさみしさを感じていた心がすっと軽くなって、満足感が満ちていくのがわかった。後悔は、たぶんない。

形にはならなかったけれど、僕はそれにはかえがたい何かを、あのサンタクロースからもらったのだろうから。
 ここ何年かで一番気分のいいクリスマスだ。形のあるプレゼントをもらったわけでも、一緒に過ごしてくれる人ができたわけでもない。

だけどたしかに、いまこれ以上ないくらいに愉快で満たされている僕がいる。
 もう飲めないビールの代わりに、冷蔵庫の中から新しい缶を取り出してくる。クリスマスにビールなんてムードがないといわれるだろうが、気分は悪くなかった。

ふたを開けて勢いよく飲むと、帰ってきたときに飲んだビールの何十倍もおいしく感じられる。
「メリークリスマス」
 ああ、名前聞いてなかったな。いや、サンタクロースって名前なのかな。
 またなっていわれたから、もしかしたら来年も来てくれるのだろうか。願いなんて叶えてくれなくていいから、遊びにきてくれたら楽しいかもしれないな。

取り留めのないことが浮かんでは消えていく。
 とりあえず、すごくきれいな夢をみて眠れそうなことは確かだった。




10・6・22