こんなの初めてだなと思う。
誰かと時をともにすることはあった。いつの間にか時は食い違いちぐはくになってしまったりしたけれど、時間を共有することはあった。

でも、こんなのは初めてだ。
色の少ない砂塵の中で嫌と言うほどに目立つ黒い背中と大きな十字架。粗野な立ち振る舞いからは想像できないが、流しの巡回牧師だという。
彼と、時間を共有して、旅路をともにして、いったいどれだけになる。
すべてではないにしろ、それに近いラインまで僕を知ってなお、肩を並べて歩く連れを得たことはなかった。

互いの意見をぶつけ合い議論することも、仲直りしてというにはあまりにも誠意もへったれもない、不器用な歩み寄りという酒の入った罵りあいも。

全部が全部初めてだった。
永く永く人間に寄り添ってきた。でも、ここまで深く踏み込み、また踏み込まれることなんてなかった。だから、こんなのは初めてだ。
名付けてなどはいないけど、僕が初めて得たこの連れは、いままで敬遠し押し込めていたものをひどく簡単に飛び越え浸食していく。

なんて、災難な男なんだろうか。
「おえ」
まるで、僕の考えていることに反応するかのように、前だけをみて進んでいた背中が振り返った。

今日も元気よく照りつける二つの太陽のせいで逆光となり、その表情を確認することはできない。砂漠を歩き続けているせいか酷くかすれた声だった。

たぶん、僕も同じようなものだろう。
軽く咳払いをした男は、もう一度おいと僕を呼んだ。
「僕の名前はおいじゃない」
抱えていた十字架を砂の海に突き刺した漆黒の男は、疲れたように頭を抱えてため息を落とすと、真っ黒な防砂用サングラスの向こうで僕をにらみつけた。

確認したわけではないけれど、すごくつまらなそうな目をして僕のことを睨みつけているところを簡単に想像できる。
「トンガリ」
 僕はトンガリなんて名前じゃない、と言ってやろうかとおもってすぐにその考えを打ち消した。

次こそ、睨みつけられるどころか、すごいスピードで近づいてきた彼に殴られてしまいそうだから。
「なに?」
 肩にかけていたドラムバックを担ぎなおして、眩しい日差しを遮るように手を翳す。

ただ、雲も障害物もない砂漠の中では、何の意味もないけれどすこしだけウルフウッドの姿がはっきりと見えた気がする。
「そんなとろとろ歩いとると、夜になっても街につかへんぞ」
「君みたいに体力無尽蔵な人間と一緒にしないでくれる。だいたい君が選んだバイクが故障するから駄目なんだろ!」
 渇ききった喉から絞り出した声はやっぱり掠れていて、急に大きな声を出したせいで少し咳き込んでしまう。

その拍子に口の中に砂が入ってしまいジャリジャリして気持ちが悪い。
 僕達が乗ってきたはずのバイク(アンジェリーナニ号)は、もう手の届かないほど遠くの岩陰に置いてきた。

どれだけ修理しても一向にエンジンがかかる様子を見せないから、一旦バイクを置いて蜃気楼のように影だけは見える街まで向かおうということになったのだ。

もちろん、そこにいたるまでには、無駄に体力を消費した口論もあったわけだけど、そこまで回想してるとイライラした気持ちが復活してくるから、

記憶の底に封じたままにしておく。ラブアンドピースって大事だよね。
 平常心とラブランドピースという呪文を交互に唱えながらクールダウンしていると、隣から聞こえてきたのは不機嫌ですと絵にかいたような低い声色だった。

盗み見るようにした表情にも、ふざけるなよと書いてあるきがする。
「あんな、どんなにアンジェリーナ二号が優秀やったとしても、いや仮定やのうてほんま優秀なんや。

やけどな、どない高性能やっていっても、何度も地面に激突させられたらエンジンの一つもおかしくなるっちゅうねん! 

救いようないくらいアホなおんどれかて、それくらい分かるやろ!?」
「そ、そんなの、運転が下手だってわかってる僕にハンドルを握らせる君が駄目なんだろ!」
「おんどれ、不休で毎日運転してみ! 運転下手かてわかっとっても、隣で惰眠むさぼっとるやつに押し付けとうなるわ!」
 相変わらず眩暈がするくらい青い空には太陽が二つ浮かんでいて、気が遠くなるくらいに果てのない地平線の向こうにも砂漠が広がっていて、

そして僕たちは徒歩で次の街まで移動しなければならないという残酷な現実があった。

無駄だとわかっているのに、お互い売り言葉に買い言葉でもうクールダウンしたはずの言い合いと同じような罵声を浴びせあう。

だが、感情が高ぶったのは一瞬のことで、喉の渇きを覚えてすぐに自分のしていることのむなしさに言葉を次げなくなってしまった。
 後に残されたのは、大の男が向かい合って肩で息をしているという、まったくもって楽しくもなんともないようなお寒い光景だけだ。
「はあ、あほらし」
「僕、疲れたよ」
 うまく声の出ない喉をいたわるように小声でつぶやくと、それに同意するかのように短いため息が返ってきた。
 ここにはないバイクの話をしたってしょうがないし、結局のところ壊れたのが僕のせいだとしても、ウルフウッドのせいだとしても、

歩かなければ街へたどり着くこともできないのだ。
 肌を焼くような日差しと無駄に消費した体力のせいでふらつく体を引きずるようにドラムバッグを肩へかけなおして、先へ進む決意をする。

猫背気味だった背中をピンと張ると、ウルフウッドの手が僕の肩をぽんと叩いた。
「何だよ」
 サングラスから除くウルフウッドの真っ黒な瞳が、まっすぐに僕を見つめる。

だからって何かあるわけじゃないけれど、黒というだけで揺さぶられるような気がするのは、彼女の影響が大きいのだろうか。

彼女の瞳はもっと大きくてきらきらしていて、そこに宿る光はいつだって優しかった。

僕に直接的な母という存在はなかったけれど、人に照らし合わせるとするならば、間違いなく彼女が僕の母なのだろう。

そんな女性の真っ黒な瞳は、たとえるなら大粒のブドウみたいに綺麗だった。

それと比べるなんて、本当に彼女に失礼だし、似ても似つかないというのに、僕はウルフウッドの持つ黒が嫌いじゃなかった。
「なんでもあらへん。さっさといくで」
 くるりと蜃気楼のような街の影へと向き直ったウルフウッドは、もう何時間も砂漠を歩いているとは思えないしっかりとした足取りで歩き出した。

後ろを振り向きもしないのは、何もいわなくたって僕がついてくると踏んでいるのか、それとも今度こそ砂漠に置き去りにしてやると思っているせいなのか。

どっちだってよかったけど、どっちにしても結構腹が立つ。
気が合うんだか合わないんだかわからないと思う。でも決定的な不一致を感じないのは、たとえば、

僕と彼の間の距離がさっきよりも縮まったことのようなこの遠まわしな気遣いだとか、この男の不器用な優しさと、

彼が隠したがる本質が驚くくらいにあたたかく日向のにおいがするものだからなのだろう。
 それは、彼女とあいつと僕とで、ジオプラントの作り出した草原でピクニックをしたときにかいだ匂いとそっくりで、

もうかえらぬものを思い描くように苦しくなる。あの黒は似ても似つかないはずなのに、こういう不器用な優しさだけは、もしかしたら似ているのかもしれない。
「怒ってるんじゃなかったのかよ」
 口の中で小さくつぶやくと、それに反応するように真っ黒な背中がピクリと動いた。

今度は振り返ることはなかったけれど、不機嫌というよりも気の抜けた声が気の抜けるような呼び名を呼んだ。
「なんかいうたか?」
「べーつーにー。幻聴じゃないのー?」
 さっきよりも僕の近くを歩く黒い背中にわざとですと言い聞かせるような間延びした返事を投げかけた。

僕なんかよりも体力のある彼は、本当ならば大またでどんどんと先へ進んでいくくせに、いつまで経っても僕たちの間があくこともなく、

一定の距離を保ちながら砂漠に足跡を残していく。
 もしかしなくても、気を遣ってくれているのだろうか。疲れたそぶりも見せないで前だけを見つめて進んでいく背中に、漠然とした喜びのようなものを感じた。
「君のそういうところって好きだなあ」
 意識的ではなく無意識に。ああと思う前に、勝手に口が動いていた。まるで他人事のように吐き出した自分の言葉を頭の中で繰り返す。
「暑さに気でも狂ったか。おどれ背負って街まで行くのは勘弁やで」
 だけれど、僕の目の前を行く男は僕以上の衝撃を受けたのか、いままで迷いなく進んでいた歩みを止めて、すごい勢いでこちらを振り向いた。

その表情はサングラスで隠されていてよく見えないが、どうせ苦虫を噛み潰したような顔をしているのだろう。
「酷いなあ、思ったままを言っただけなのに」
「おんどれの仲良しごっこにはつきあっとれん。先いくで」
 冷たく突き放しているつもりなのかもしれないが、相変わらず僕と彼の距離はつかず離れずのままで、一定以上の距離が開くことはなかった。

本人は否定するかもしれない遠回りな優しさに、自然と頬が緩む。
 こんなの本当に初めてで、すごく不安で苦しくもなるけれど、案外わるくないなってそう思うんだ。


10・6・22