陰りを見せない太陽が夜陰に飲み込まれるのと同じように、ふっと、本当にさり気なく男は忍び寄ってくる。
まるで気配を消し獲物を狙う肉食獣のようなしなやかさで、肉体的にも精神的にも、許したつもりのないテリトリーにまで土足で踏み込んでくるのだ。
普段は、つかずはなれずの距離を保っているくせに、そして向こうも俺が踏み込むことを拒んでいるくせに、
驚くほどの順応力なんだかデリカシーのなさなんだか分からないもので、俺の中に入り込んできた。
あまりにも、あの男の気配に慣れ親しんでしまった自分が怖い。そうだ、一番怖いのは、戸惑いながらもこの日常に慣れ親しみ、
いまこの瞬間さえも悪くないものかもしれないと感じている俺だ。
だって、こんなふうではいけないのに。
己の中を許しすぎるな受け入れるな踏み込ませるな。いとおしくそしておろかな人間という存在は、瞬きの間に成長し、一呼吸する間に老い、一眠りのうちに死んでいく。
だから、どれだけいとおしくてもその先にある別れをこの身に残る傷のように生々しく、心の中に刻み込んでいかなければならないのだ。
臆病なのかもしれない。ずるいのかもしれない。でも、これは、俺がまどろむように短く狂おしいほどに永い時間の中で身につけた処世術のうちの一つだった。
だから、こんなふうではいけないのだ。あの男も、俺が繰り返す瞬きの間に、どうあがいても手の届かない場所へと行ってしまう。だから、駄目なのだ。
「分かっているさ、そんなこと……」
ため息の代わりに吐き出した言葉に、砂漠の寒気が揺れるよりも早く背後の気配が動いた。
それに気づいた素振りは見せないで、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、なにに向かうカウントかも分からないのに十数える。
始めはゆっくりと、丁寧に、目の前に広がる遮るものもなにもない星空を睨みつけながら。まるで、星の数を数えでもするように。
だがそれは、動き出そうとしない気配に焦れるように徐々にスピードを増していく。
背後の気配はこちらを窺う以外の動きを見せることはない。まるで、獲物の次の動きをまっているみたいに静かで気持ちが悪い。
静と動を併せ持つこの男からしてみれば、ただ単にスイッチを入れ替えただけなのかもしれないけど、
普段のぞんざいかつ粗野な振る舞いからは想像できないほどの静けさだった。
向こうもこちらも様子を伺っているだけじゃ、一向に進みもしない。こうしていることで、逆にお互いがお互いのことを強く意識しているということを声高にしているみたいだ。
まあ、あの男に言ったら酷く嫌そうな顔をしそうだけど。
自分の座り込んでいる場所からどこまでも続いていく大地に、望んでもいないのに無限に存在する砂粒を一つまみして、振り向きざまに夜よりも黒い影に投げつけた。
それが望むとおりに黒衣の男に降りかかったかどうかまでは分からないが、今までの沈黙をぶち壊すような、子供が聞いたら泣き出すだろう不機嫌な声が聞こえてきた。
「おえトンガリ、なにしてくれるんや」
作ったような不機嫌な声。もしかしたら、彼もタイミングをつかめないでいたのかもしれない。
正直じゃない男だから、それを悟られるのが恥ずかしくて、わざわざ低い声を出して不機嫌さをアピールしてみせるのだろうなんていう、俺にだけ優しい希望的観測。
「べっつにー、どうも後ろでなかなか会話に参加できないシャイな人がいるみたいなんで、切っ掛けをあげただけじゃないですかー」
黒い影が動いた。寝転がっていたそれは、上体を起こしすぐ後ろにある岩に背を預けてこちらを向く。黒曜石のような瞳は真っ直ぐに俺を映している。
まるで、おまえもこっちにこいと言われているようで、仕方ないなあと口の中で呟いて、硬い砂地から立ち上がり、彼の隣に腰掛けた。
肩が触れるよりも遠く、しかし手が届かない距離ではない。その証拠に、砂埃に混じって嗅ぎなれた煙草の香りがした。
ふかしているわけでもないのに自己主張でもするかのようにほのかにかおる。愛飲しすぎてもうあの男の体に馴染み、体臭と交じり合ってしまっているのだろう。
特別煙草が好きなわけではなかったが、この匂いに慣れてしまったいまとなってはなかなか悪いものでもない。絆されてしまっているのだろうか。
肩を並べて座り込んでいても、特別言葉を交わすわけではない。むしろ、どうしてこんなふうにして並んで座っているのかが分からない。
だけど、こういう時間が嫌いではなかった。そしていつの日か、こんな取るに足らないような些細なことばかりを思い出す日が来るのだろうと思うと、
悲しみでも苦しみでもない何かが、隣の男からかおる煙草の匂いのように胸に忍び込んでくる。
「なあ」
望んでいるわけでもない疼きを追い払うように、隣に投げかけた。一瞬の沈黙の後に、当たり前のように返事が返ってくる。
「なんや」
スーツの内ポケットから煙草とマッチを探り出した聖職者は、慣れた手つきで煙草をくわえて火をともした。マッチの火で一瞬だけ辺りが明るくなる。
闇に慣れた目には、微かな光源さえも眩しすぎて目を逸らしたくなった。
「あんま吸ってると体に悪いぞ」
中毒性のある毒ばかりを含んだ煙を吐き出しながら、指先で煙草をもてあそんでいた男がその動きを止めた。
まるで油を差し忘れた機械かなにかのように鈍い動きで首を回して俺に顔を向ける。その表情は、なんとも形容しがたいもので、
おまえはこういうときのためにサングラスを常備しているんじゃないのかと訳の分からないツッコミをしたくなった。たぶん、隣の男も同じ気持ちでいるのだろうけれど。
「箱にも書いてあるだろ。あなたの健康に害を及ぼす恐れがありますって!」
ああ、外したなと直感的に思った。もう少しましな言葉選びとか、話題を探せばよかった。
こういうのはらしくないなあと、いまさっき口にしたばかりの言葉を消し去りたくなる。
俺の内心なんて知らないであろう男は、もう一度深く煙を吸い込んで、長すぎるため息と一緒に吐き出した。
目に見えないそれは、風に乗って俺の元まで届く。吸っている人だけじゃなくて、隣にいる人にまで被害を及ぼすんだぜ。知ってるのか。
ただ隣にいるだけで、知らない間に蝕まれていってしまうんだ。本当に、中から突き崩されていくみたいに。
「なんや悪いもんでもくったんか? 拾い食いだけはやめとけてあんだけいうたやろ」
「心配してやってるのにその言い草はないだろ。デリカシーないってよく言われないか?」
「おんどれ、そのトンガリヘアーは前世紀的だねいわれへんか?」
不毛だ。じゃれあいみたいな言葉選びも、間合いを読むような沈黙も。どちらともなくもう一度ため息を付いて、遮るもののない夜空をにらみつけた。
こんなにも綺麗なのに、恐ろしいほどに無慈悲に大地を焼き付ける空だ。
「平和ボケのトンガリに言われんでも自分の体のことなんて管理できるわ。それにやな、ワイから言わせてもらえば、夢でもドーナツくっとるおどれには負けるで」
「えっ?」
胡坐をかいた足の膝に肘をついて顎を乗せ、煙草をふかしている男の言葉に、咄嗟に驚きの声が出た。別に意識したわけでもないのに、自動的に。
それを見た彼は、聖職者とは思えないようにいやらしいニヤニヤとした笑みを浮かべて、自覚無しとは救いようないわと、
吸い終わった吸殻を地面に擦り付けて新しい煙草に火をつけた。
もったいぶるような沈黙の後に、煙草とは不釣合いな悪戯っ子のような笑み。
だが、この男の場合は悪戯っ子なんてかわいい物ではなくて、どちらかといえば小型の肉食獣といった方がお似合いだ。
「ほんま、気持ちよう寝とるところに、訳分からん寝言と一緒にドーナツドーナツわめかれたらかなわんて」
「そんなこと、言うわけないだろ!」
自分も知らない自分の寝言を暴露されて、慌てて声をあげる。だいたい、本当にそんなことを言っているかどうかなんて知るわけもないし、
ここ何日かの間にドーナツが出演するような夢を見た覚えもない。たぶん、いや、うん。たぶん、ない…はずだ……。
だが、俺が否定する度に、慈悲とは正反対の場所にいる男は嬉しそうというには性悪すぎる笑顔を浮かべて、俺の知らない俺の寝言について暴露していく。
百五十年生きてきて、寝言にドーナツはちょっと恥ずかしい。いや、すごく恥ずかしい。
それをこの男に聞かれていたことが、更に口舌しがたい恥ずかしさに拍車をかけてくれる。頼んでもいないのに。
「いーやいうてましたー。ワイの耳に聞き間違いはありませんー」
「そ、そうだとしても! 寝言のことを言うのはマナー違反だ!」
「なんのマナーや? トンガリ流ベッドマナーか? 聞いたことないわ。そんなんやから、女にもてへんのやでおどれは」
「き、君に言われたくないよ!」
ああいえばこういうし、こういえばああいうし、口ばかりよく回る男だ。
反抗しようとすればするだけ、自分が追いつめられて墓穴を掘っていく。そして、その度に、意地悪な彼は嬉しそうな顔をして笑うのだ。
こんなところばっかり笑顔の大安売りしてどうするんだよ。普段は悪ぶってみせるくせに、まるで不意打ちみたいみせる柔らかい部分が、
駄目だ駄目だと念じている俺に優しい追い討ちをかけていく。
何か言い返してやらなければと、できるだけ不機嫌を装って年上としての意地を見せてみるのに、
俺の意地なんて関係ないとばかりに思ったよりも優しく瞬いた夜の色が俺を覗き込んできた。
「子供みたいに甘いもんばっかりくっとるから、そんな砂糖菓子みたいな髪の色しとるんとちゃうの?」
砂にまみれてざらついた彼の指が、なんのためらいもなく俺に伸びる。あまりにも自然かつ何の迷いもない動作に、
体を引くことも手を叩き落とすこともできず、節くれだった男らしい指が、砂埃でごわごわしてしまっている髪に触れることを許してしまう。
きれいとはいいがたい、銃を握る男の指先。普段の距離を一足飛びで埋めるように、何のためらいもなく触れてくる、彼の体温。
悪ふざけのようなからかいの色を見つけ出すことのできない黒い瞳は、真っ直ぐに俺の髪を見つめている。目線があわないだけ、マシだ。
俺の葛藤なんてお構い無しに、なんでもないような表情を浮かべた男は、舐めたらあまい味するんとちゃうなんて言いながら、俺の髪をぐいぐいと引っ張った。
「う、わぁ……!」
二段飛ばしぐらいの速度で階段を駆け上がっていくような彼にやっと感情を追いつけた俺がしたことといったら、
言葉になりきらなかった奇声を発して目の前の男から距離をとるように体を引き、背後の岩に頭と背中をしたたかに打ちつけることぐらいだ。
しかも、髪はつかまれたままだったので、勢いよく抜けたんじゃないかってくらいに痛かった。
「おんどれ、なにしとるんや……」
あいも変わらずぐいぐいと俺の髪を引っ張っている男は、呆れたように肩を落として俺の目を覗き込んでくる。
いったいどんな間抜け面をさらしているのか、考えたくもなかった。ぐいぐい引っ張られる髪が痛いのと、一連の自分の行動が恥ずかしいのと、
目の前の男の訳の分からない精神攻撃のせいで頭の中がグルグルとしてきた。
「うるさい…。きみこそなんなんだよ。さ、砂糖菓子とか分けわかんないし、それに距離近いし」
彼は喉の奥で声を押し殺すように笑うと、ぐいぐいと引っ張っていた俺の髪を立ててる方向に逆らうようにグシャグシャとかき回した。
砂漠を移動しているせいでほとんど崩れかけていた髪形が、再起不能なくらいにぐちゃぐちゃになってしまう。
このヘアスタイルにするけっこう大変なのに、何てことしてくれるんだよ。いやそれよりも、そろそろ頭から手をどけてくれないか。
子供じゃあるまいし、こんなふうに頭を撫ぜられ続けても喜びみたいなものはわいてこない。むしろ恥ずかしいだけなんだけど!
「おんどれ自分で思わへんの? ほんま舐めたら気持ち悪うなりそうなくらい甘い味しそうやで」
「舐めるなよ……!」
「こないな砂っぽいもん舐めるかボケが」
俺の頭を撫ぜていた手のひらが、軽く頭をはたいて離れていく。
「いったー。人の頭叩くなよ。しかも髪グチャグチャにするし」
「なんや、お詫びに明日はワイがセットしたろうか?」
もう一度、にやにやとからかうような笑みを浮かべた男の手のひらが俺の頭に伸びてきたので、今度は捕捉される前に叩き落とす。
すると、悔しそうな舌打ちが聞こえてきた。一体なにがしたいんだよ。調子の狂うやり取りばかりで疲れてしまった。
へんな方向へと流れ込みそうになる会話を打ち切るように、わざとらしく伸びをして欠伸をすると隣の牧師ももうほとんど残っていない煙草を地面に落として靴底で踏み潰した。
「あーあ、きみのせいで疲れた。明日も早いしもう寝る」
「それがええな。どうせ明日もだだっ広い砂漠横断や。眠いとかほざいてサイドカーで寝とったら叩き落とすで」
「うーわー。きみって、本当に聖職者に必要なものが足りてないよね」
「うるさいわ。ワイの素晴らしさがわからんおどれの方がおかしいて。ぐだぐだくだまいとらんと、はよ寝てまえ」
「言われなくても」
俺の言葉を合図に立ち上がった黒い背中を見送って、俺も明日に備えて眠ることにする。
さあ寝るぞと気合を入れるようにもう一度伸びをして、俺たちを見下ろしている空に手を伸ばした。
地に足をつけてている俺たちにとって遠く手の届かない空は、不毛な大地からは考えられないくらい澄んでいて、嫌になるくらい、
それこそ、宝石箱でもひっくり返したみたいにきれいなものだった。
美しいから手が届かないのか、手が届かないから美しいのか。
こういう類に似たものだから、駄目だって分かっているんだけどねと一人ごちたって、もう既に侵食されつつある自分を止めることはできそうになかった。
10・6・22