小さな背中を見ていると、ののしってやりたくなる。あの琥珀色の瞳を涙で濡らし、怒りを知らぬような笑顔を浮かべる表情をぐちゃぐちゃにしてやりたかった。一瞬でも油断すれば、隙をついて溢れそうになる気持ちを臓腑の奥に押し込めるために乾いた空気を飲み込んだ。ぬけるような青空には不似合いな感情だ。
木々がゆらゆら揺れて、遠くを綿菓子のように真っ白な雲が流れていく。そして、絵の具をぶちまけたような青空をバックに、傭兵に護衛されたキャラバンがのんびりと進んでゆく。そこまで大所帯ではないそれは、近くの街まで物資を運ぶためのものだろう。馬車から顔をのぞかせた子供は、遠目に見える魔物におそれを抱くどころか冒険への糸口でもつかんだかのようにはしゃいで、嬉しそうな声をあげた。そして、隣に控えていた大人にたしなめられ、ふてくされてしまう。近くで見ていた女の傭兵は、頬を膨らませてしまった子供を慰めるように小さな頭を軽く撫ぜた。魔物が近くにいるのにそこまで緊張感がないのは、ホーリィボトルを使って魔物を追い払っているからなのだろう。なんて平和で、穏やかな情景。上辺だけの平穏は、俺たちが体感しているはずの日常を乖離させ、非日常へとカテゴライズしていく。
このどこまでも平坦な安寧をはぎ取れば、皮膚の下に隠された肉のように血なまぐさい物が顔をのぞかせる。街を襲うアルクノアの残党。そいつらを死の恐怖へと誘っていた死神のようなミュゼ。坂道を転がり落ちるように滅びへと手を伸ばすマジックミラーの向こう側の世界と、その存在さえ知らずに美しい世界を享受するリーゼ・マクシアの人間たち。お互いの関知しないところで進む侵略行為と、己がために、同じ人間をエネルギーの生産をする家畜かなにかのように飼い慣らそうとするエレンピオスの人々。
みんな、歪だった。
平和を、平穏を、苦しみのない日々を、幸福を願いながら、そのじつ誰かをけ落とし踏みにじる選択を平気な顔で選び取る。そんな深層心理の奥底に押し込んだ薄汚れたものを薄い皮膜で包み込んで、つたない幸福かそれに近いなにかを表面に描き込んでいく。どれだけ綺麗に着飾ったって誤魔化すにも限界がある。現に、真っ黒な中身は、既にあふれ出しそうだった。そんなもの、いつか修正もきかないくい歪んでしまうのは分かり切っていて、それでもその歪みにさえ気づかずに、袋小路に来てようやく立ち尽くすのだ。もう、どうにもならない、どうしようもないと。
リーゼ・マクシアとエレンピオスがその道行きを緩やかに、しかし加速度的に歩んでいる最中だというのならば、もう行くところまでいってしまったのが俺だった。だから、行き止まりの壁に躓いたのに、いつまでも俺の隣で、一緒に絶望をいつくしむように味わって、底なし沼に落ち込んでいくようにもがき苦しむことをしてくれないばかりか、当然のように壁を越えていってしまうその小さな背中が憎らしかった。俺なんかよりも幼くつたないくせに、そこに甘んじることなく自らを追詰めるように見いだした理想へと邁進していく。全部、俺にはないものだった。いや、本当は俺にだってそうやって選び取ることが出来たはずだった。なのに選ばなかったのは俺だ。
限界の限界、真っ暗な光も届かぬ行き止まりまで来てはたと気づく、いった俺はなにをなし何を残すことが出来たのかと。甘ったれたばかな子供だったはずのあいつは、いつの間にやら俺の背中を追い越して、なんでもないことのように走り去っていってしまった。けっして手を伸ばすことが出来なかった、美しい理想論を口にして、誰にも恥じることのない方法で実現しようとする。始まりは別としても結論として帰結する願いは同じはずなのに、どうして俺たちはこんなにも違ってしまったのだろうか。薄汚れた場所を這いずるように、泥水をすするように生きてきた俺とは違い、あの子供は日の当たる場所をきらきら輝く宝石か何かのような美しさで周りを魅了しながら歩んでいく。そこに一点の曇もなく、また恥じることもない。それどころか、作られた存在であったとはいえ、精霊を統べる王であるマクスウェルという存在まで味方につけたのだ。
不安そうにして、自分がどうするかさえ選べなかった、他人の中にしか自らの存在意義を見つけられず、誰かの理想をいつの間にか自分の理想にあてはめ盲目的にその背中を追うことしか出来なかった子どもが。いったい、どこで俺たちは道をたがえてしまったのか。同じはずなのに、同じように這いずっていたはずなのに、たった一人なんの迷いもなく進んでいってしまうあの子供が、ジュードが憎らしくて仕方なかった。
もうなれた大剣の重みをバランスを取るように背負いなおすと、紅玉のように深い色をした瞳が俺のことを見据えていた。一つでも間違えればガラス玉のようにがらんどうのそれは、彼女の意志の光が宿ることで人形から生気のある人間へと昇華されていく。瞬く紅に首をかしげると、表情がなければどこまでも美しいだけの能面でしかない彼女の表情が僅かに崩れた。
「眠っているのかと思ったが」
まるで世界の真理に思いをはせているような真剣な顔をしていたというのに、口をついて出たのは随分と的外れな言葉だった。ぐるぐるとどうしようもないことを考えていたはずなのに、一気に力がぬけてしまう。思い余って、大剣を取り落としてしまうところだった。
「なわけあるか。さすがの俺も、寝ながら歩くなんて高度なまねできねえよ」
「そうか? 効率的で名案ではないか」
人間の体は睡眠を取らねばまともに動くことも出来ないからな、本当にままならぬよと眉をひそめるミラ。効率云々のまえに、その特技を会得してはいないということを伝えたかったのだが、そのニュアンスはまったくもって上手く伝わっていなかったらしい。ずれているんだかいないんだか、奔放な読書遍歴を持つマクスウェル様は、自らの思い付きがいたく気に入ったらしく、これは名案だなとひとりで悦に浸っている。もしも魔物と戦うことになったらどうするのだろうか、そのあたりについて詳しく聞きたいのだが、確実に時間の無駄だ。
「なに。用事はそれだけなの?」
風に揺られて形の崩れてしまったスカーフを調えながら問いかけると、眠りながら歩くということについて真剣に検討をしていたミラが帯刀していた剣の柄に手をやりながら遠くに視線をやった。その先では、まだ俺たちに気づいていない魔物が草を食んでいる。
「あまり気を抜いていると、転ぶぞ」
ひやりとするような声色。さっきまでくだらないことを考えていたかと思えば、意識はとうに外へと向けられていたらしい。俺たちとおなじ人間の器を持っているはずなのに、いたく器用であらせられる。出会ったころには剣も振れなかったのが嘘みたいだ。
「小さい子供じゃなですけどね」
「似たようなものだろう?」
口角をあげて肩をすくめたミラは、肉体年齢二十歳の女性には似つかわしくない達観したような表情を浮かべて俺の目を覗き込んできた。見透かされるようなその視線に馬鹿にするような色はない。だが、どこか不出来な子供を辛抱強く見守る母親のような穏やかさがあった。それが苦しくて、逃れるように視線をそらし、いつの間にか離されてしまった小さな背中と、俺にとって最後の居場所である仲間達を見た。彼らはなにやら楽しそうに会話をしていて、俺たち二人だけがあの和やかな世界から爪弾きにされてしまったようだった。
「ミラ様のありがたいお言葉いたみいるね」
「べつに冷やかしているわけじゃないさ」
「精霊にとって俺たち人間は赤子の手をひねるようなもんか」
ずるい質問をしているのは分かっていた。それでも自然と口をついて出た言葉に、後悔はなかった。俺がとか誰かが幼いわけではなく、彼女にとってはそのままの意味なのだろう。俺たち人間は彼女にとって子供のようなものだと。珍しく言葉を選ぶように顎に手をやったミラは、紅を塗っているわけでもないのに僅かに色づく唇を撫でなでた。
「その質問の意味を図りかねるが、私を謀ろうとするものもいれば導こうとするものもいる。人というものはそこまで単純ではないだろう」
「そのうえ、目先の利益ばかりを追って愚かなことばかりをするし?」
隣を歩いてたはずのミラが足を止めた。少し分かり安すぎる意趣返しだっただろうかと、作っていたはずの軽薄な声色が上ずったような気がした。彼女に倣うようにその二、三歩先で歩みを止めて、小さく息をする。ゆっくり十数えて振り返るのと、ミラがため息をついたのはほぼ同時だった。
「やっぱり歩きながら寝ているんじゃないのか」
空白の後に、俺たちの間を一陣の風が通り過ぎた。どんな顔をしているんだろうと、ミラの整いすぎた美貌を見据える。そこにあったのは呆れでも苛立ちでもない、全てを承知しきってるといわんばかりの不敵な笑みだった。胸をよぎったのは失望と安堵で、いったい自分が彼女の何を望んでいたのかがわからなかった。俺の底の浅い鬱屈などすでに知られてしまっているような気がして、気恥ずかしさを取り繕うように靴底でぐっと地面を抉り踏みつける。
「だからねてねーって」
「なら、答えのわかりきった問いを重ねることになんの意味もないことぐらい分かるだろう。なにかしらの思惑があって繰り返すというのなら、それこそ赤子にはない精神活動だと思うが」
皮肉るようにあげられた片眉にまさにその通りと降参したい気分だったが、ここまで来てしまえば引くに引けなかった。口にしたことは取り消せないし、あふれ出してしまった陰鬱なものはすでにみっともない醜態を晒した後だ。言い訳を探してまごつく俺を差し置いて、ミラは余裕を感じさせる緩慢さで、光を受けるごとに色合いの変わるように見える髪をかきあげた。
「私は支配するものではない」
世界を一刀両断するような、芯の通った声色だった。一瞬、音が消えて、ミラの言葉が全てになる。俺を映す瞳に迷いはなく、そこにはいい訳も嘘も誤魔化しもなかった。いつだって研ぎ澄まされた刃のように鋭く、寸分のずれもないまっすぐなやつだ。だから、余計に俺の矮小な部分が際立ち、それが苦しくて受け入れがたくて、狂言回しか何かのようにその場限りの世迷いごとでお茶を濁す。劣等感の塊のような俺を遠くに置き捨てて、あの子供も、そして隣に立つこの女も、迷いなくそれこそいま歩む道が自分のすべてであるように大地を踏みしめて歩いてくのだ。
「精霊を統べるマクスウェルは、そして精霊と同じように寄り添うものだよ」
止めを刺すようにミラが口を開いた。突き放すような語調なのに、どこか優しい声色に息を呑む。この世の中には不条理が溢れかえり、美しいばかりではなく、むしろその舞台裏ではそれと真逆のものたちが犠牲になりながら、美しさだとか優美さだとかを成り立たせているのだ。優雅に泳ぐ白鳥が、水面下で浮かぶために足を動かしているのと一緒で。
ミラがその事実を知らないわけがなかった。寄り添うべき人間が、精霊をどんどんと事務的な、たとえば無機物を扱うように考えていることも、精霊術がただの技術のように扱われていることも、また人と人とが傷つけあうために利用させていることも。全てを知ってなお寄り添うものだと言い切れる彼女の、無償の愛なんだか自己犠牲なんだか分からないものが、俺に向けられた紅玉の瞳にもこめられていた。彼女が作られた存在だったとしても、信じ続けたものが偽りの夢のように与えられた使命だったとしても、掲げたスタンスがかわらないのだとするのなら、もうそれはミラにとってのたがえようもない真実なのだ。
わざわざと緑が揺れて、まるで世界に二人だけ取り残されてしまったように感じる。自らが投げかけたずるくきたない質問が、余計に自分をつらくする。彼女が言う人間というカテゴリに俺自身が含まれていることが明白だという理由もあるのだろう。言葉の見つからない自分に唇を噛んで視線を逸らすと、ミラが何もなかったように歩き出したのが分かった。それが怖くて、悔しくて、はっと小さく息を吐き出し、自分でも意味のないと思えるような言葉を紡ぎ出した。
「人間は歪だっていうのに、よりそうおたくらばっかりがまっすぐすぎて嫌になるよ」
「なかなかにひねた考え方をしているようだが、それこそ人間というものではないのか? おまえが知らないだけで、精霊の世界にだっていろいろあるんだ。知らないからこそ、美しく見えるものがあるように」
何かを思い出したかのように唇が三日月を描く。ミラの言うところのいろいろというのは、俺が思い描くゆがみよりも綺麗なものらしい。彼女の表情を見ていればそれがわかった。人間の考える薄汚いことと同列に語るのが申し訳ないくらいだった。だが、これ以上この話題で言葉を重ねるのは無意味でしかなかない。露呈していくのは俺の淀んだ内面だけだ。
「そろそろ行かないと、レイアが走って呼びに来そうな勢いだ」
肩の向こうを指差したミラは行くぞといってさっさと開きすぎた距離を縮めていく。彼女の言うとおり、離れた場所でレイアが大きく手を振って俺たちを呼んでいることが分かった。その隣ではジュードが苦笑を漏らしているのがわかった。ティポはティポで俺のことをのろまだとか、もっと早く歩けとか好き勝手言ってくれている。追いついたらその口に草でも詰め込んでやろうか。
どうしようもない、歪な世界だなんて事は分かっていた。そして、俺自身がそのゆがみの筆頭で、気づけば子供のころ夢見た世界とはかけ離れすぎた場所へと行き着いてしまった。だから、まるで俺が思い描いたような夢を実現させるように、誰にも恥じることなく歩いていくあの小さな背中が憎らしくて仕方ないのだろうか。考えても詮無いことを振り払うように軽く頭を揺らすと、遠くで俺を呼ぶ声が聞こえた。
「アルヴィン、はやく」
もう一度、すんだあいつの声が、俺のことを呼んだ。視線を上げると、レイアの隣で苦笑いを浮かべていたはずのジュードが、控えめに手を振っているのがわかった。わかったと応えるように軽く片手を挙げると、首をかしげ小さな笑みを浮かべる。そして、もう一度だけ早くと呼びかけられた。急かされるままに歩くスピードを上げていく。
少し前まで目視できたはずのキャラバンはもう影しか見えなくなってしまった。草を踏み分けながらミラの背中を追うように歩いていくと、それを確認したレイアたちはまた今日の目的地である街へ向かって歩みを再開した。しかし、唯一ジュードだけが歩くスピードを落として俺を待っているようだった。
「今度はおまえが置いてかれるぞ」
前を見えているはずなのに、こちらばかりを気にしていたジュードの肩を叩くと、驚いたように小さく体が揺れた。琥珀色の瞳は半眼になって、驚かさないでよと不満そうな言葉を漏らす。歳相応の振る舞いなのに、子供らしくあることに違和を感じるのは、普段の彼が十分すぎるほどに背伸びをしているからだろうか。
「どうかしたの」
「なにが」
「なにがって」
口ごもってしまったジュードの視線は、何よりも正直にミラを映している。彼女の背中は、いつまでたったってジュードにとっての犯しがたい聖域だか信仰対象であるようだった。この場合、俺かミラどちらに好奇心の天秤が傾いているのだろうと頭の隅で考えてみる。しかし、考え出して五秒で答えが出た。考えるだけ無駄だ。
「ミラと話し込んでたみたいだから」
ほら、やっぱり。琥珀色の瞳は俺を振り向くこともなく存在感のある彼女の背中を見据えていた。怖いくらいに純粋に、こんなにも他人のことを思うことができるのかと、ガラスの向こう側の世界をのぞき見るようだった。俺が選んできた生き方とは正反対の、酷く純粋なものだ。
「別にたいしたことじゃないさ。心配しなくてもミラ様にいらぬちょっかいはかけてないぜ」
「そんな心配してないよ。ただ、アルヴィンも難しい顔してたみたいだし」
びゅうと風が吹く音が鼓膜を揺らした。ミラを見つめていたアンバーが、まるで労わるように俺を映し出した。透度の高い琥珀色の向こう側に、淀みもくすみもないのだろう。ただただ単純に、言葉以上も以下もなく、そしてそれ以外の意味も持ち合わせないように、こいつはミラに向ける美しい感情の一欠けらを俺にも与えてくれるのだ。それが、憎らしかった。
ふわふわと揺れる黒髪は、日の光を受けてきらきらと輝いていた。旅のさなかにあるはずなのに、痛んだ様子はない。戦うようになったせいでたこが出来たという拳も、それを除けば白く整った指先をしていた。少しゆがめられた眉は、真剣に俺のことを思ってくれているのだと分かるやさしげなもので、すべてが俺の中の薄暗い部分を刺激する。それを憎いだとか罵りたいだとか、負の感情へと書き換えていくのに、真っ黒に塗り固められた心の隣では、恋しい恋しいと泣き喚くように、あまやかな恋愛小説の一節のように、どうしようもなくいとおしくくるおしいと思う俺もいた。そんなこと、ジュードは知りもしないのだろうけれど。
「世界の命題について考えてたんだよ」
吐き出してしまうには、少し重過ぎるものだった。だから、誤魔化すみたいに分かりやすい言い訳を口にする。これ以上は触れたってなんの意味もないという信号を送るかのように。そうしてしまえば、物分りのいいジュードはそのラインを超えることのないようにすっと身を引いてしまうのだ。こうやってずっと、お互いに不可侵の領域を守ってきた。
「また適当なことばっかり」
「本当だって」
「はいはい」
俺の予想通りはあとため息をついて、苦虫を噛み潰したような顔をしたジュードは、しかしそれ以上追求することもなく、様式美のようなやりとりで流していく。少しだけ物足りなさそうな視線を向けられているのは、彼女がかかわっていることの詳細を知れなかったからだろうか。ナックルを嵌めた手のひらを握りこんで、ゆっくりと開く。何度か繰り返されたそれは、まるで彼の躊躇いをあらわしているようだった。
「アルヴィン」
ぱたりと、ジュードが歩みを止める。それに気づいたやつらはいない。目の前にあった背中は俺たちを振り返ることなくどんどんと前へと進んでいく。俺も足を止めて、まっすぐに俺を見上げるジュードに首をかしげた。
「ねえ」
「本当に、置いてかれるぞ」
「うん。だけど、」
逡巡するように視線をさ迷わせたジュードは、言葉を選ぶように唇を舐めた。そして踏ん切りをつけたように、前線で戦うには幼い、どこか学者然としたナックルの下に隠された指先が俺の腕を掴んだ。思うより強いそれに、自分はまた彼に疑われるようなことをしてしまったのだろうかと後ろめたい気持ちが湧き上がってくる。余罪があるというところが、俺のどうしようもなさの一因だ。
「言わなきゃ、わかんないからね」
控えめに開かれた唇。零れ落ちる言葉は、的を射るようにまっすぐに俺の胸をうつ。ぐらりと揺れて、もう限界まで詰め込んだ、この世のすべての絵の具を混ぜ合わせたように救いようのない色をした気持ちが、こぼれそうになった。
言わなきゃわかんないなんて、そんなことを言うのなら、いったら分かってくれるのか。俺を置き去りにすることなく、となりで一緒に苦しんでくれるのか。腕を握る手のひらの温度を、俺に与えてくれるというのか。名づけることさえ出来ない感情たちが、悲鳴をあげるようにぐつぐつと煮え立っていく。憎悪であり愛惜であり情欲でありあこがれであり、また懇願でもあるそれらを名づけることは難解で、相応しい言霊をまだ知らない。だから、言葉にはできない。たぶんいったとしても分からないだろうよと八つ当たりのような台詞を吐き出す代わりに、処世術のように培ってきた仮面でしかない笑顔を浮かべる。
「わかってるさ、そんなこと。当たり前だろ」
「でも、難しいことでしょ」
小首をかしげ三日月のような微笑を浮かべるジュード。裏切りの果てに待ち受けていたものとしては上出来すぎるくらいに綺麗なものだった。それがまた、俺をイラつかせる。そんなことを言えるご身分でもないというのに。どうせなら、罵って突き放して俺のことを見下せばいい。そうすれば、もっと分かりやすく許しを請い、俺自身も自らをかわいそうだなんだといつくしむことが出来たというのに。この残酷な少年はそれさえ許さぬやさしさで俺に手を伸ばそうとする。偽善だ。罵ってやりたくなる、蔑んでやりたくなる。その聖人か君子かなにかのような仮面に下は、俺と同じ矮小な人間でしかないということを思い知らせてやりたくなる。
「わかってる」
既にどこに向けたのかもわからないような呟きに、琥珀色の瞳が瞬いた。草木を揺らす風にコートとスカーフがバタバタと揺れる。少し離れた場所からは、レイアやティポの歓声が聞こえた。ジュードの黒髪も風に舞って、俺の視界の端を黒く染める。揺れる髪をまとめるように前髪を押さえたジュードは、あんまり溜め込まないでねとただただ好意しかこめられていないであろう言葉を吐き出した。そして、俺に背を向けて歩き出した小さな背中。罵ってやりたい、穢してやりたい、この世の汚いもののすべてを見せてやりたい。それと同時に、救いようがないくらいにやさしくて、あたたかくて、それがおかしいことに気づいていない。本当の本当にどうしようもない俺に残された、最初で最後の居場所だった。俺が唯一気づくことが出来た、縋ることのできる場所だった。
「わかってるさ、そんなこと」
もしかしてと期待して、そんなわけがないと自分自身で否定する。そうすることで自分の心のバランスを取っているようだった。遠く離れたジュードが振り向いて、俺に手を差し伸べてくれるんじゃないかとずるい俺が期待する。そんなわけがないって、分かりきっているのに。あいつは、誰にだってああなのだから。特別であることなんてない。
俺が思い描く幸福かそれに近しいものたちも、この世界の誰しもが願うそれらと同じように不安定だ。
11・10・27