アルヴィンにはそれが理解できなかった。
たとえば、第三者に己を批判するようなことをされたとき。

たとえば、故意であれ過失であれ、仲間内でなにかしらのトラブルまたは被害を受けたとき。

たとえば、街中で見知らぬ人間に悪意ある言葉や行動の矛先にされたとき。

たとえば、たとえば、彼にとってそれが苦痛としか思えないようなことをされたとき。

どうして、なにもなかったような顔をして、仕方ないなあ困ったなあと体裁だけを取り繕うような表情をみせて、すべてを許してしまうのだろうか。

それが、理解できなかった。

もちろん、彼という人間が怒りという感情を持たないわけではない。

だが、その怒りがアルヴィンの前にさらされるよりもはやく、それらすべてを受容するようなあきらめるような、受け身の態度を見せるのだ。

それならばまだしも、そのような行為をした相手をかばってみせることがある。

心底理解できないし、理解したいとは思わない。また、そのようなことをすることで、彼になにか利があるのかとも思ったが、

どれだけ考えてもその利とやらを見つけ出すことは出来なかった。

あまりに自らをないがしろにするそれに、知恵の回らない人間なのかと思えば、むしろ逆で、年に似合わぬ回転の速い頭を持っている。

そして、それを自分にあった方法で有効活用するすべを知っているのだ。

うまく立ち回ろうと思えば、もっと自分の思うように、また受け入れがたいことを拒絶することもできるというのにどうしてだかそれをしない。

相手に害を及ぼし不快感を与えることのないように自分自身を殺し、そしてそれを苦ともしていない。

お人好しのうえにもう一つおまけがついている。

アルヴィンにとって、ジュード・マティスとはとても共感できそうにないような人間だった。
「どうかしたの?」
木陰で身を休めるように木の幹に背中を預け、本を読んでいたジュードが、不思議そうに琥珀の瞳を瞬かせた。

少しはなれた場所でなにをするでもなく手持ち無沙汰にしていたアルヴィンは、ジュードの質問の意図が掴めずになにがと質問に質問で返す。

だが、ジュードはそれに気分を害した様子も見せずに、手にしていた分厚い本にしおりを挟んで閉じて、

アルヴィンがずっと僕の方を見ていたからとなんでもないことのように言った。アルヴィンは彼に言われてはじめて気づいた。

思考していた内容がジュード自身のことであったから、自然とそちらに目を奪われていたということを。
「あんまり真剣に本を読んでるから、そんなに面白いのかと思って」
おたくのことを理解できそうにもないって考えていたんだと、正直に説明するのも馬鹿馬鹿しくて、特別興味があるわけでもないのに適当な話題をふる。

しかし、その話題の選択がジュードの琴線に触れたらしく、嬉しそうな顔をして閉じた本の表紙をアルヴィンのほうに向けて見せた。
「ずっと読みたいと思ってたのに、なかなか見つからなかった本が、ニ・アケリアのミラの蔵書の中にあったから貸してもらったんだ」
アルヴィンとしては本の内容を詳しく知りたいとは微塵も思っていなかったけれど、誤魔化すためにふった話題を打ち切るわけにもいかず、

満面の笑みを浮かべるジュードに応えるように立ち上がり、彼の隣に腰掛けた。
「ずいぶんと、難しそうな本を読んでるんだな」
受け取った本はずしりと重く、紙が黄ばんでいるところからも時代を感じさせるものだった。

臙脂色の表紙には金でタイトルが押してあって、そのタイトル自体も既にアルヴィンが興味を持てる次元のものではない。

礼儀として軽く目を通すようにぱらぱらとページをめくっていったが、本当に目を滑らせるだけで終わってしまう。

内容を理解することは最初の五行くらいで諦めてしまった。アルヴィンに教養が足りないというわけではなかった。

むしろ、傭兵という仕事や、彼自身の生い立ちの関係もあり、リーゼ・マクシアの歴史や政治、そして精霊や精霊術について、

十分に、いや十分すぎるほどの知識を有していた。だが、それを超えて、ジュードが知りすぎているのだ。

純粋に知識欲を満たすことが、性的な快楽と同じような次元で語られているんじゃないかと思うほどに、少年は貪欲に多くのことを吸収しようとしていた。
「なかなか興味深い内容だよ。もしも学校に戻れたら、卒業論文の資料にしたいな」
本を閉じて、いとおしげな雰囲気さえ感じる手つきで、本のタイトルをなぞった。

そのさまに、まだ卒業論文などとなまぬるいことを言っているのかと、アルヴィンはため息をつきそうになった。

既に、Sランク級の犯罪者扱いで指名手配をされているのだ。

常識的に考えれば学校からは除籍されているだろうし、イル・ファンに戻ることがあっても復学は難しいだろう。

それどころか、イル・ファンに戻ること自体がジュードを更に危機的状況に追い込むかもしれないのだ。ジュードが知らないだけで、

巻き込まれている厄介ごとは、国家レベルの出来事だ。加えて、彼が思っているほどに、為政者や国という生き物は志し高く心根の清いものではなかった。

それを嫌というほどに知っているアルヴィンとしては、机上の空論のような考え方をするジュードを愚か者のように感じることがあった。

自分の中のお優しい価値観などを指標として世の中を判別していては、ジュードという少年は食い物にされるだけだ。

ずるい人間は世の中に吐いて捨てるほどいる。そいつらは善人を食い物にすることに罪悪感さえいだかない。

それどころか、騙された善人を愚か者だといって笑うのだ。この子供は、世の中を知らなさ過ぎる。

アルヴィンにはそうとしか思えなかった。だから、理解できないような行動理念や思考回路を持ち合わせているのだろう。
「ずいぶんとすごい論文が出来そうだな」
「だと、いいんだけどね」
肩をすくめるようにして笑ったジュードは、十五歳という年齢にしては大人びていて、なのにまだ現実を知らぬように逃避を続けているのだ。

いや、もしかしたら、もう戻れないとは分かっていながらも、どこかに心のよりどころを探しているのかもしれない。

日常を剥奪され、非日常へと蹴落とされた怒りを誰にもぶつけることなく、巻き込まれる一端となったミラを受け入れそして守ろうとするジュードは、

凪いだ海のように静かなのに、危うささえ持ち合わせているようだった。
「もしも完成したら、俺にも見せてくれよ。ジュードがどんな研究をしてるか興味あるな」
「本当?」
「本当本当。俺嘘なんて言ったことない」
至極真剣そうに眉間に皺を寄せてずいと顔を近づけるのに、わざと作ったような声色。

アルヴィンのおどけたような態度に、ジュードが小さな笑みを漏らした。その態度に、アルヴィンは分かりやすく眉をしかめて不機嫌ですという表情を作る。
「おい、優等生。信じてねーだろ」
「だって、アルヴィンってなんか、怪しいんだもん」
「しつれーなこといってくれちゃうね」
満面の笑みで侮辱とも取れることを言ったジュードに、アルヴィンは左手の親指と人差し指で銃の形を作って少年の眉間を狙って

バンと撃つ真似事をした。ふーっと硝煙を払うように人差し指に息を吹きかけるアルヴィンに、ジュードは狙われた眉間を指先で押さえながら鳶色の瞳を見た。
「やられたーって倒れるべき?」
「サービス精神旺盛だな」
顔を見合わせて笑う二人の間を、風が吹きぬけていった。
まるで仲間みたいだと、アルヴィンは思う。少しはなれた場所まで偵察しにいっているミラも合わせて、

気の合う三人で旅をしているような錯覚に陥ってしまう。だが、世の中はそんなに甘くないし、ジュードに対してもう何度も嘘を重ねていた。

実のところ彼に対して真実など一つも漏らしていないのかもしれない。もしも、アルヴィンが抱えている真っ黒ものの全てを吐き出したとして、

ジュード・マティスは、彼の持つそのある種偏執的なやさしさで受け入れてくれるのだろうか。

無意味なことだとしても、そのもしかしたらを考えるとどこか愉快な気持ちになってきた。
「どうかしたの?」
「なにが?」
「だってアルヴィンすごい楽しそうなんだもん」
「ああ、ちょっとジュードくんのことを考えてたらね」
「また適当にごまかす」
「適当じゃないさ、本当だって」
「本当だとしても、人のこと考えてて笑っちゃうってどうなの」
仕方ないんだからと苦笑を漏らしたジュードに、おたくの方こそ仕方のないやつだよといってやりたかった。

だが、アルヴィンはそれをまだ言葉にはしない。いまは彼らに信頼され、そして彼らを守る存在でなければならないのだ。

子供を守る大人でなければならないのだ。

つまるところ、アルヴィンは世の中に掃いて捨てるほどいる類の人間で、ジュードは食い物にされる側の人間。

これから、どちらが涙を流すかなんてこと分かっているはずだ。なのにアルヴィンは、何処かで期待していた。

もしかしたら、この愚か者は、全てが終わったそのあとでも己を許しいつくしんでくれるのではないかと。

それこと、真の愚か者の考えに違いなかった。







11・10・12