もう、帰る家などというものは手の届かない場所にあるのだと思っていた。
だが、いまこの瞬間に、自らを待ってくれる人がいる場所へと帰ることが出来るのかと思うと、信じられないような気持ちと、
自分にとって僅かな救いでもあった女のことを思い出し苦味が入り混じる。
でも、それだけではない。それよりも強く、泣きたいような笑い出したくなるような、ひどく幼くはあるけれども、
欲しくて仕方のなかったものを手に入れられたような幸福感が俺の中を満たしていく。
その全てを俺に与えてくれたのは、十一も年下の少年だというのだから、人生なにがあるのか分からない。
組織を渡り歩き、傭兵家業とスパイを生業としていたときには持たなかった定住場所だが、
新しい商売を始めて落ち着ける場所が必要だと思い、
母さんの家から少し離れた場所に慎ましやかではあるけれども家を購入した。
俺にとっては他人行儀だったシャン・ドゥという街は、いつの間にか、帰るべき場所になっていた。
普段は帰っても誰もいないというのに、今日は遠目に見える窓にほのかな明かりがともっていた。
朝、家をでるときもいってらっしゃいと見送ってくれる人がいた。
たぶん、いまもドアを開ければ俺を迎え入れてくれる、あの優しい声が聞こえてくるのだろう。
それを考えるだけで自然と足がはやる。
夕暮れ時。買い物客の多い大通りを抜けて、見慣れた玄関の前に立った。
慣れた手つきで鍵を開けて家に入ると、普段はあまり有効活用していないキッチンのほうから美味しそうな匂いがしてきた。
そして、それを追いかけるようにパタパタとこちらへかけてくる足音。
少しだけはにかむような笑みを浮かべて俺を迎えてくれたのは、イル・ファンから遊びに来たジュードだった。
「おかえりなさい、アルヴィン」
どこから掘り出してきたのか白のエプロンをして、料理の邪魔にならないように赤いヘアピンで髪を留めている。
この少年が、戦闘になればナックルを嵌めて果敢にも魔物に向かっていくというのだから、世界には信じられないこともあるものだ。
彼の拳の威力は既に体感済みなので、もう殴られるようなことはしたくない。間違っても、絶対に。
「ただいま、ジュード」
なにが嬉しいのか、俺の言葉に笑みを深くしたジュードはちょっとだけ恥ずかしいねと小首をかしげた。
見上げてくる琥珀色の瞳は指輪にはめ込まれた玉のようにまんまるで、舐めたら美味しそうだなと場違いなことを考える。
「ご飯とお風呂どっちにする? どちらも準備は出来てるんだけど」
無意識なんだろうけれど、これじゃあまるで新婚夫婦のような会話だ。それを指摘したら、初心な子どもみたいに真っ赤になって否定するのだろう。
簡単に想像がつくから、見たくなってしまったじゃないか。よこしまな考えが面にでてしまったのか、なににやけた顔してるのとジュードに釘を刺されてしまう。
「だってさー、ジュードくん」
「なに?」
何の疑いも持たぬよう顔で俺を見ているジュードの手を掴んで引き寄せると、驚いたような声を上げて簡単に俺の方へと倒れこんできた。
慌てたように身を捩じらせたが、すっぽりと腕の中に納まってしまっているのであまり意味がない。
ジュードの顔を覗き込むと、頬に赤みが差してさっきまでの子どものような雰囲気を払拭したように、琥珀の瞳が艶めいていた。
「ど、どうしたの、アルヴィン」
「どうしたのってさあ。本当に、ジュードくんはかわいいね」
「ふざけないでよ」
「ふざけてないよ」
腕の中で暴れるジュードをそのまま抱きしめて首元に顔を埋めた。黒髪が頬を擽る。ジュードの吐息が耳元を撫ぜた。
アルヴィンと、弱々しい声音が俺のことを呼ぶ。どうかしたのかと問いかけると、離してよとそんなこと望んでもいないような掠れた声が鼓膜を揺らした。
「いやだ」
「ねえって」
「だめ」
「アルヴィン」
「だめだって」
耳を擽る高めの声。でも、それは、外で聞くよりもどこか甘えを含んでいるようだった。本気で抵抗しているんじゃなくて、じゃれあいの延長上だった。
譲らない俺に諦めたようにため息をついたジュードは、仕方ないんだからと小さく呟いてもう一度だけ俺の名前を呼んだ。
リーゼ・マクシアにきた俺は、いつまでたっても異邦人で、幻想の中に生きるようになってしまった母さんにも置いていかれ、たった一人だった。
なのにこうやって、当たり前のよういつくしむように名前を呼ぶ人がいて、当然のように受け入れてくれる人がいる。
その事実が、本当にどうしようもなくて、腕の中にあるジュードの体を抱きしめた。
「なんか、しあわせなんだ」
小さな肩が揺れた。形だけの抵抗をするように俺の胸を押し返そうとしていた手のひらが背中に回されて、ぐりぐりと頭を押し付けられる。
ジュードの頤を掴んでその顔を覗き込むと、僅かに頬を上気させて優しい笑みを浮かべていた。
まるで幸福を絵に描いたような表情で、俺は笑うよりも泣きたくなった。
「ジュード、なあ、しあわせなんだ」
「うん」
応えるように背中に回された腕に力がこめられる。
子どもだから体温が高いだけなのか、こんなに優しい人間だから温かいのかもうよくわからなかった。
たくさんのものを踏み台にし、裏切り、傷つけてきた。その後ろめたさが俺の後ろ髪を引くようにわいてくる。
償うべきことがたくさんあった。自らを見つめ直さなければいけないこともたくさんあった。
だが、このぬくもりを与えてくれる人が傍にいるのなら、なんとか前に進んでいけるような気がした。
不器用なのに、どうしようもないくらいにいとおしくて、たしかにこれは、俺が求めて止まないものだった。
11・10・1