地の利があるからという理由で任命された情報収集係。
 たいした収穫はなかったけれど、手土産になりそうなものは手に入れたので、トリグラフで行動する際の拠点としているバランのアパートへと戻ってきた。街の基本構造は俺がリーゼ・マクシアに迷い込む前と変わっていないので、たしかに懐かしいものを感じはするのだが、それ以上にまるで他人のようによそよそしい街だった。別に、帰ってきたからといって咽び泣くようなシチュエーションを想像していたわけではない。でも、ここまであっけないものなのかと、自分の中にあったトリグラフという街の理想像が一気に安っぽいものへと変質してしまった。
 この街なんかよりも、結局めぐりめぐって戻ってきてしまったジュードたちのもとにこそ、愛着なんだか執着なんだかもわからないものを強く感じていた。我ながら、歪んでいると思う。だが、こんなもうどうしようもないところまできてしまってもなお縋りたいと思っているのだから、俺の本心に近い部分なのだろう。
 本当にどうしようもない自分自身にため息を一つついて、いつもよりも人気のないマンションの玄関をくぐった。バランはヘリオボーグ基地での研究が忙しいらしく二、三日顔を見ていない。家主から了解は得ているので、あいつ不在のまま勝手しったるなんとやらで部屋を使わせてもらっているのだ。
 僅かに乱れたスカーフを調えながら、ロビーに足を踏み入れると、マンションの住人達が談笑していたりするソファに人の姿はなく、格子のはめ込まれた明り取りの窓だけがいつもと同じようにそこにあった。左右に繋がる通路には、昼間にもかかわらず通路を照らすランプが設置されて、機械的な緑の光を放っている。
 このロビーに他の面子の姿が見えないので、二階の部屋にいるのだろうかと昇降機へと向かおうとしたとき、反対側の通路からよく聞きなれた声が聞こえた。人気もなく伽藍としているせいか、か細い声なのに高い天井に反響して俺の耳にまで届く。
「ジュードは、優しすぎます」
 まだ幼さをたぶんに残した子どもらしく柔らかなエリーゼの声。しかし、出会ったころの彼女とは程遠いくらいに、はきはきとした喋り方だった。むしろ、何処か棘のあるようなそれに、昇降機へと向かおうとしていた足が自然と止まる。
「優しいから、なんだって許しちゃうんです。そうやって、どこまでアルヴィンのことを許し続けるんですか?」
 紅色の唇から紡がれた言葉の中に、俺の名前がまぎれていた。近くにいるのであろうジュードを責めるようなその言葉に飲まれるように、気配を殺して近づいた。好奇と不安と後ろめたさが交じり合ったものを深く嚥下して、二人に気づかれないぎりぎりのラインを探る。
 エリーゼは俺に背を向けるように立っているジュードに対して、酷く不満そうな表情を浮かべながら詰め寄っているようだった。若草色の瞳は分かりやすい嫌悪を滲ませていて、俺という男はそこまで嫌われていたのかと分かりきっていた事実にかすかな落胆を感じた。死角を狙うように壁に寄りかかっているせいか、普段ならば騒ぎ出しそうなティポがそこにいるのかどうかわからなかったが、事を混ぜっ返しそうなあいつがいなくて少しだけ気が楽だった。
「許したわけじゃないよ」
 感情的なエリーゼとは対照的な、酷く優しい声色だった。揺れることなく言い切られたその言葉に肝が冷えた。しかし、この言葉とは逆の普段の受け入れるような態度がまた、彼女を焦れさせるのかもしれない。
なだめるようなその声音は、ワンテンポ置いて俺の名前を呼んだ。もちろん、ここにいる俺自身に呼びかけているものではない。
「アルヴィンの全部を許せるわけじゃない。でも、彼がそれだけの人じゃないっていうのはエリーゼもわかってるよね。君とティポを助けるために戦ってくれたのは彼なんだ。戦っているときに僕を庇って怪我をしてくれたのも、みんなが疲れたころになるとどうしてだかさかんに休憩を取りたがったのも、全部アルヴィンなんだよ」
 まるで童話でも語り聞かせるような口調に、エリーゼが息を呑むような音が聞こえた。それを次ぐように、でも、それでもと納得いかないような少女の声がした。エリーゼが口ごもるのも分かる、俺がしたことは、そんなことぐらいで埋め合わせを出来るほどの生易しいものではない。だが、それを否定するように、声変わりさえ済ませていないような、高めの声がエリーゼの名前を呼んだ。
「それに、ひとりはさみしいよ。エリーゼもよく知ってるよね」
 ジュードの言葉に、体から力が抜けそうになった。衣擦れの音さえ立てないように背後の壁に背中を預けて、つめていた息をゆっくり吐きだす。あの優等生がいったいどんな顔をしているかなんて簡単に想像することができた。自分のことでもないのに、つらそうな表情を浮かべ、琥珀の瞳は寂しげな色をしているのだろう。
 あいつに甘え、受け入れられることを選んだのは俺だというのに、ジュードの口から漏れた言葉にどうしてだか泣きたくなった。許したわけじゃないといいながら、際限なく受容しようとしているのだ。同情といえば、そうなのかもしれない。それでも、そうだとしても、この俺に手を伸ばそうとしているのだ。エリーゼの言うとおり、優しすぎる男だと思う。優しさだって、度を過ぎれば食い散らかされる愚か者だ。
でも、あいつは愚か者じゃない。自分自身がそうであると理解しているのだから。
「エリーゼの言うことも確かなのかもしれないけれど、僕はアルヴィンの悪い面も良い面も知ってしまったから、もう簡単に切り捨てることなんて出来ないんだ」
 ジュードが軽く首をかしげ、緑色の光を集めた黒髪が揺れる。エリーゼの若草色の瞳を覗き込むように座り込み視線を合わせた彼は、言葉を選ぶように静かな間を置いた。
「知ってしまったからこそ、手放せない物だってある」
秘め事を囁くようにもらしたジュードは、我侭かもしれないけれど分かって欲しいんだと、人形か何かのように繊細なエリーゼの手を握り締める。それに反応するように、エリーゼの瞳が小さく瞬いた。
「さみしいのがつらいのは、私も、わかります」
 いままでの強気を何処かに置き忘れたような声音。エリーゼは戸惑うように視線をさ迷わせ、自らの金緑の髪に触れた。長らく孤独であり、そして家族さえも失った少女は確かに、言葉の響きだけではない孤独を骨の髄まで理解しているのだろう。掠れた声は、本当に寂しさを宿したように頼りないものだった。だが、それを振り払うように、エリーゼの瞳がジュードを射た。
「アルヴィンが、私のためにボロボロになって戦ってくれたことも、知っています。それでも、ジュードは優しすぎる、です」
「優しいんじゃないよ。僕はずるいだけなんだ。エリーゼには、まだよくわからないかもしれないけど」
「ずるくなんてない、です。ずるくなんて」
 いやいやをするように頭を振るたびに、エリーゼのスカートがふわふわと揺れ、風にゆすられる花か何かのようだった。金緑色の髪はランプの光を受けているせいで、普段よりも緑が強い。
 俺からみれば、どちらもぬるま湯みたいに優しい子供だった。精一杯の背伸びをして、世界とかかわろうとする優しい子供だった。これ以上彼らの話を聞くのがつらくて、壁に預けていた上体を起こして、音を立てないようにマンションを出た。
 目の前に広がるマンションに併設された公園では、異界炉計画だとか断界殻をなくして世界を統一するだとか、そんなことなんてまったく知らないであろう子供たちが、少ない緑のうえで暢気に駆け回っていた。俺たちの向かうべき場所と、子ども達の穏やかな日常は乖離しすぎていて、眩暈を感じそうになる。
 部屋に戻る気分にもなれなくて、誰も座っていないベンチに腰掛けてはあとため息をついた。泣けばいいのか、笑えばいいのかよくわからなかった。せめてもの慰めのように、外界を遮断するように、手のひらに顔を埋める。
 ただただ思う。どうして、あいつは、ジュードはあんなやつなんだろうと。あいつがもっとどうしようもない、それこそ俺のように救いようのない人間ならば至極簡単だっただろうに。俺は、こんな、説明のつかないような衝動を、縋りたくなってしまうような惨めな気持ちにならなくてもすんだだろうに。なのにあいつは、呆れてしまうくらいに優しい人間だから、自らをずるいなんていいながら、それよりもずるく卑しい俺を許そうとする。
 本当に、どうしようもない。俺のこと何も知らないくせに。あんなの、ただ俺が、鴨を逃さぬために見せた安っぽい誠意かもしれないのに。そんなこと疑いもしないで、そこに俺を受け入れる理由を見いだすんだ。
 泣けたら楽だったんだろうけれど、もう流す涙など当の昔に枯れ果ててしまった。俺に与えられたのは、俺にばかり優しくない他人行儀な世界だ。俺が変わらなければ世界が変わらないなんてこと分かっている。それでも俺は、やっぱりどうしても、あいつらから離れたくなくて、ジュードがずるいといいながら伸ばした手のひらを掴みたくて掴みたくて仕方がなかった。その手を掴めたのだとしたら、もう手放したくないと、強くそう思ったんだ。
 ひとりはさみしいという言葉が、ぐるぐると頭の中を回る。
 そうだ、さみしい。もうこんなのはいやなんだ。いつまでたったって、俺は六歳のあのときからかわらなくて、むしろ手のひらから砂が零れ落ちるようにさらさらと失い続けている。失った分を補填するような甲斐性なんて、その必要性を感じることなんてなかった。全て自らが招いたことだとしても、もう、ただひとりこの場所に取り残されるのはいやだった。意地汚くたって、疎まれたって、どうしようもなくたって、これはたぶん、俺に与えられた最初で最後のチャンスなのだから。

11・9・27