自らが居を構える場所を評するには少々あけすけな言葉なのかもしれないが、ずいぶんと味気ない場所だ。
どこまでも透明度の高い空が続き、世界を形作るために終わりのない歯車が巡り続けている。音もなければ風もない、いや人工的に生み出すことはできるが、そこには地上に降り立ったときに感じたほどの感動は生まれないのだろう。自然の美しさではなく、人工の美しさを持つこの場所は、騒がしいばかりの人間たちと旅を続けてきた私にとっては、あまりに刺激にかけてしまったものなのかもしれない。
この場所に、そしてマクスウェルという立場に収まることを選んだのは私の意志であり、私のたっての願いであった。迷いがなかったのかといえば嘘になる。だけれども、迷いを撃ち殺して選択をするほどには、精霊と人間を守り時を刻んでいきたいと思ったのだ。個である人間を愛し、また全である人間の集合体を愛している。それは、人間たちがいうところの、愛や恋などという衝動的な情動を燃やすものとはまた違った、ひどく凪いだものだった。普遍的にそこにある、違うことなくそこにある。ジュードたちと生々しくまた躍動感のある人間に触れたからこそ、その思いも強まる一方だった。私自身が作られた存在なのだとしても、この想いに嘘はないのだと信じることができた。
 人間としての体を持ってジュードたちと旅をしていたときのように、彼らの傍に身を置きたいという自分も確かに存在している。でもそれでも、私だけではできないことを遠く離れた大地でジュードたちが成そうとしてくれているのだと思えば、この場所でマクスウェルとして存在することができた。だからだろうか、人間としてあった時間など、これからの悠久のときの流れを思えば瞬きの間でしかないのに、食事をして睡眠を取って歩いて走って剣を振って戦って傷ついてつらくて楽しくて泣いて笑って呼吸をしてしゃっくりをして寒さに震えて熱さに苦しんで時を刻んで人間と一緒に歩んで疑って裏切られて信じてただただ前だけに進んで、その全てが何物にも代えがたいほどにいとおしいものだった。
 自分の中の思い出というものに引きずられたのかもしれない、最初はほんの少しの悪戯心だった。あまりにも退屈だったので、暇つぶしのつもりだったのかもしれない。風の微精霊たちを使役して、人間界の音を精霊界にまで伝導させてきたのだ。シルフははじめ、面倒だと嫌がったうえに私らしくないと驚いたようだったが、回を重ねるごとに刺激も必要だと自らも楽しんでいるような素振りを見せていた。微精霊たちの力を調節するのに骨を折ったが、慣れてしまえばまるで自分自身の耳のように自由自在に音を拾うことが出来た。
 凪いだ水面に波紋を描くように、音のない空間に人間達の音を導いていく。音だけではない。風の微精霊に意識を同調させることによって、その場の映像を脳裏に描きだした。
 常夜の中にあるような闇を捨て去り青空を手に入れたイル・ファンは、リーゼ・マクシアとエレンピオスを統合した後も、ラ・シュガルの首都であったときと劣らぬ活気を持ち合わせていた。特に、ジュードが学籍を置いていたタリム医学校は、新たな研究分野の登場にわいているようだった。医学校に復学したジュードも、朝から晩まで忙しそうに研究に勤しんでいる。あまりの働きぶりに、倒れてしまうんじゃないかと不安になることもあったが、それ以上に生き生きとしている表情を見ると、ああこれが本来のジュードのあるべき姿なのかと自然と頬が緩んでしまった。
 ジュードが所属する研究室の研究棟にもうひとつ見慣れた影を見つけた。学者然とした人間達が多い中で、帯刀して派手派手しい服装をしている男は、一際に目をひく存在だった。大荷物をかかえているところをみると、彼が新しく生業にしている運び屋の仕事でタリム医学校を訪れたのだろう。
迷いのない足取りで荷物の受け渡しを済ませた彼は、いままでとは一転してあっちへふらふらこっちへふらふらと一つのドアを気にしながらもその先が不可侵であるかのように、近づいては離れてを繰り返している。
 またかと、そう思った。
 この男、アルヴィンは、私がイル・ファンのジュードの様子を探るたびに、同じようなことを繰り返していた。今日と同じく、タリム医学校のジュードが所属する研究室の扉の前で、あるときにはジュードの自宅の前で、そこがまるで越えられない一線でもあるように躊躇い踏み出しそして躊躇いを繰り返していた。思い切ったようにドアをノックして、もしくはノックもなしに開けて、いままでの迷いなど何処かに捨て去ったように乗り込んでいくこともあれば、今世紀最大の難問に挑むような小難しい顔をして、ため息だけを残し背を向けてしまうこともあった。その悩ましい表情に反比例して、どうでもいいことで気を揉んでいるのだろうと思う。
会いたいのなら、会いに行けばいい。声を聞きたいのならば、声をかければいい。繋げなければ、繋がらない。あいつは簡単に言うなと苦笑いをするのかもしれないが、怖いくらいに簡単なことばかりだった。言わなければ伝わない。悩ましげにため息をつくだけで全てが伝わってしまうのなら、今ごろアルヴィンはジュードから鉄槌を下されていてもおかしくないだろう。
 アルヴィンが、ジュードを好いているらしいということは、こうして継ぎ接ぎで精霊界から見下ろすだけでもよくわかった。受の美学と対になるようにしてあった攻の美学によると、受に対する攻は強引なくらいが丁度いいとあったのだが、アルヴィンはまったくなっていない。いまからでもいいからあの本を貸し出して勉強させてやりたいくらいだ。むしろ、私の方が、あの本の内容を実践するのに相応しいのではないかと思えてくる。私が見ているところ、前回は敵前逃亡でジュードの家の扉に背を向けていたので、連敗記録を更新するというのなら精霊の力で扉に顔面から突っ込ませて逃げられないようにしてやろうかと思ったのだが、今回は扉に手を伸ばすことにしたらしい。やけにゆっくりとした仕草でドアをノックして、聞きなれたジュードの声が返事をするのを焦れるように待っていた。わざとらしく咳払いをしたアルヴィンは、自らが扉の前にいることを気づいて欲しいと願っているかのようだった。そこが駄目なんだと、手が伸びることなら背中を押してやりた。なのに、アルヴィンの願いを聞き届けたように、驚きを露にしたジュードが研究室のドアを勢いよく開けた。急なことにアルヴィンは胡桃色の瞳を丸くして、間の向けた声で久しぶりと硬い笑みを浮かべている。久しぶりなどといっているが先日もイル・ファンを訪れて、敵前逃亡したばかりではないか。知らぬはジュードばかりである。
 ジュードも目を白黒させて、アルヴィンを上から下まで見つめ、ぽつりと久しぶりと返した。アルヴィンはそれが引き金になったように、仕事で来たから顔でも見ようかと思って、忙しいのに悪かったな邪魔なら帰るけどと、言い訳を矢継ぎ早に繰り出していく。こんなときばかりは無駄によく回る口だ。素直に会いたかったといってしまえばいいのに。
 徐々に現状を理解したらしいジュードは、アルヴィンの言い訳にくすりと笑うと、丁度休憩しようと思ってたところなんだ入ってよと、彼を招き入れた。急だから吃驚した、嬉しいよ、そういったジュードの言葉にアルヴィンは僅かに安堵の息を漏らした。背を向けたジュードを追うように、逡巡するように伸ばされた手のひらは、すぐ傍にある彼の肩に触れることなく戻されてしまう。その代わりに、この間ジュードが欲しいって言ってた本が手に入ったんだと、厚みのある包みを差し出した。
 アルヴィンの言葉に、まさかと肩を揺らしたジュードは慌ててその包みを受け取ると、興奮したように中を確認する。書名までは盗み見ることが出来なかったが、確かに彼が求めていたものらしく、琥珀色の瞳を瞬かせ頬を紅潮させた。一心に本を見つめるジュードを視界に収めたアルヴィンは、安心したような笑みを浮かべて、ありがとうアルヴィンと掠れた声で言ったジュードに、ようやく許しが出たのかといわんばかりに遠慮がちにその黒髪に触れた。
 見上げるジュードの表情は喜びを隠し切れない満面の笑みで、旅のさなかにあったとげとげしさとぎこちなさはなくなっていた。それをみれば、既にジュードがアルヴィンを受け入れつつあるのだろうということがわかった。だが、アルヴィンには微塵もそんなことが伝わっていないらしい。
 その証拠に、口実がなければ会いにもいけないのだ。敏いばかりで鈍感になっていくあの男に、既に部外者となってしまった私がため息をつきたくなる。
 触れたいのなら触れればいい。望むのならば、実行に移せばいい。現実世界は鏡合わせのように向き合っていて、自ら動いたときにしかその反応を返さない。どうして後一歩が踏み出せないのだろうか。悩み立ち止まるには人間の一生は短すぎる。私が瞬きする間に人間は老い、一眠りする間に死んでいく。ならば、立ち止まる時間ほどに無意味なものはない。アルヴィンが立ち往生してしまう理由も旅路を共にすればこそ理解することができた。だが、いや、だからこそ、あいつがあれほどの選択を繰り返してもなお、ジュードの隣を望み、そしてジュードがそれを許しまた受け入れるというのならば、踏み出さなければいけないのだ。そうして、一人でも走り続けようとするジュードに追いついて、思い出したかのように寂しいという感情を持て余す彼の隣に、いてやってくれないだろうか。遠くはなれてしまった私にはもうできないことだから。
 彼の隣を明け渡してしまうようで、胸の奥がジンと痛むような気がした。しかし、それ以上に、不意打ちのようにジュードが私の名前を呼ぶとき、彼に対して何も返せない自分がもどかしくそして寂しくもあった。届くだけの言葉を恥じ入るように、悲しげな表情を浮かべるジュードを笑顔にしてくれる人間が欲しかった。これは、マクスウェルには似合わぬ自分勝手な願いなのだろうか。さながら人間のようではないかと笑いたくなるが、ジュードが精霊や人間が上手く共存して生きていけるように必死になってくれているのなら、私もこの場所でマクスウェルとして恥じることのないように前だけを見つめていたいと思う。だから、過去を振り返り立ち往生してしまわぬように、願うことくらいはいいだろう。精霊界と人間界を繋ぐ道は途絶え、いつの日か時の流れなどよりも冷たいものに別たれてしまうのはわかっていた。あの旅自体が幻のように拙く、奇跡のようなものだったと思う日がくるのかもしれない。それでも、言葉も体温も届かぬ場所にいたとしても、私は君と、君達のことを想い、願い、祈り、そして時を刻んでいくよ。
 ならばせめて、祈ることだけは、許してくれないか。
 なあ、ジュード。


11・9・23