【 報われないものを知っているんだ 】


 この世界は等しく不平等であることにおいては何よりも平等であると、ユリウス・ウィル・クルスニクは知っていた。
 それは己の一族が背負った呪いと揶揄できる運命であり、また自らが置かれた状況、壊すことでしか自身の価値を見出すことしかできなかった人生を振り返れば、砂を噛むような不快感とともに簡単に証明することが出来る。
 幼い頃は、何も疑うことなく愛されていると、期待されていると、大切にされていると、信じることができた。いや、あのころの甘い夢があったからこそ余計に苦しいのだろうか、余計に恨みというものが増すのだろうか。ただただ殉教するかのごとく信じ、この身の全てを捧げてもいいと思っていた。幼いユリウスにとって、あの男は世界のすべてだったといってもいいのかもしれない。そんな特別な人に選ばれるために、一族の中でも稀有な力を得ることができたのだと、純粋無垢に歓喜することしか知らなかった自分自身は、地獄の釜に喜んで飛び込むような愚か者だった。だが、それはいまのユリウスだからこそそう思うのであって、あの頃の自分にとっては何よりも幸福であり世界に祝福されたつもりになっていた。
 壊すことになれたユリウスは、躊躇うことを知らなかった。世の中から見れば、整った外見と、子供である自分自身を利用して人の懐に入り込み、たくさんの分史世界をねじ伏せてきた。人殺し、化け物と罵られても、そこが分史世界でしかないのだから、寸分も心は動かなかった。いや、ちがう。自らを愛する人のために殉じているのだとすれば、恐れるものなど何もなかったのだと思う。しかしそれは、ユリウスがアイデンティティーと自己愛を確立するためのそれらは、あの男の演技でしかなかった。いや、演じているつもりもなかったのだろうか。ただ一人でのぼせ上がって、愛されているつもりになって、期待されているつもりになって、自己愛みたいに己に慈しみを感じて、満たされているつもりになっていた。
 だからこそ余計に、だからこそなおさらに、自分が愛されていると思っていた相手から駒として扱われているだけだと知ってからの悲しみであり恨みであり憎しみは、口舌しがたいすべてがない交ぜになったような暗澹とした澱のような気持ちは、何物にもかえがたいくらい深く、ユリウスの内面を蝕んでいった。そうして、たくさんのものを壊してきたユリウス自身の世界に、あっけなくひびが入り、いとも簡単に壊れてしまった。粉々になって四散して、しあわせなのだと信じていたころの欠片さえも己の手のひらにはのこらなかった。形あるものが壊れ、永遠はないに等しいこの世の中で、血の繋がりはなによりも美しく普遍のものとして描かれるというのに、ユリウスはその空想に浸ることさえも許されなかったのだ。嘆きはしなかった、ただただ空虚だった。
 全てを壊しつくしてやりたいという衝動にかられ、あの男を殺してやろうかと思ったこともあった。だが、それには自分の力では足りなかった。たしかに骸殻能力者としての力は発動したが、それは結局限界のあるものでしかなくて、真実を知ることなくあの男のために尽くし続けていたとしても、遠からず打ち捨てられていただろうというくらいの矮小なものだった。ままならぬ自分の力に苛立ちを抑えることができなかった。
 だから、利用したのだ。自らがあの男に道具として利用されたようにユリウスも、一族の悲願を達成するためにと言いながら結局自らの欲望のために己を利用したあの男のように、あの男の息子として当然のように、自分のたった一人の弟を利用しようと思ったのだ。それを恥じることも、躊躇うこともなかった。おさなく何も知らないまんまるな瞳でユリウスを見上げる子供を贄としなければ、自分がこの世界に、クルスニクという一族が背負った業に食いつぶされてしまうのだ。自己を正当化することはしなかったが、自らを卑下することもなかったユリウスは、あの男がしたように弟を愛しているように振舞いながら、簡単に騙されてくれる無垢な弟を心の中で笑い踏みにじり利用してきた。生きるために必要な力を手に入れたというのに、空虚は肥大するばかり。足蹴にした幼子は何も知らないくせに、ユリウスを兄と慕う。自分を守ってくれているように見える兄は、むしろルドガーから大切なものを奪った張本人だというのに、それに気づきもしない。それが苛立たしいこともあった。何も感じてなどいないはずだったのに、純朴な翡翠色の瞳にまるで自身の罪を突きつけられているようで、いつの間にか罪悪感を覚えるようにもなった。だというのに、あの幼い手のひらが火傷だらけで自らを迎え入れたその日。痛いくせに泣くのを我慢して、むしろ憔悴したユリウスのほうを心配して見せた、あの夜に、ユリウスの世界は一変した。
 落ちることないと思っていた空が落ちるように、かれるばかりの緑が芽吹いたように、どうしようもなく堪え難い激情にかられて小さな体を抱き締めた。そのぬくもりを、その柔らかさを、そのとき感じたいとおしいという気持ちを、ユリウスが忘れることはないだろう。
 腕の中でにいさんとやさしく自らの名を呼んでくれる弟のそのあたたかさもぬくもりも、掛け値なしの信頼も、全部が全部、あの男から与えられると信じていたものに他ならなかった。ずっとずっとかけたまま、ユリウスの指の間から零れ落ちていったものが、やっと実を結んだのだとそう思った。
これだけが、そしてこれ以上ないくらいにいとおしいものが、そのときはじめてユリウスに与えられた。疑いようもないくらいたしかに、信じようもないくらい劇的に。正史に残らないだけで、薄皮一枚で分かたれた分史世界で、壊して殺して踏みにじって、たくさんの悲鳴と苦しみと怨嗟の上に立っていたユリウスにとって、それは上出来すぎるくらいにあたたかいものだった。もしかしたら、こうふくと、そう名づけてみてもよかったのかもしれない。
 報われないものを知っていた。この世は不平等であると知っていた。でも、それでもよかった。自らが報われたいわけじゃなかった。ただただ思った。願うように、乞うように、吐露するように、祈った。目に見えない何かに。そして、心に決めた。くるしいどうしたのと、混乱して不思議そうな顔をしたこのやさしい人間のために、誰でもないユリウスの、ユリウスだけの弟のために生きようと、そう決めた。贖罪の意味もあったのかもしれない。でも、突き動かされるように、誓うように、小さな弟の名を呼んだ。
 ユリウス・ウィル・クルスニクが死んで、そして生まれた瞬間だったのかもしれない。





【 「みないで。」 】


 分史世界はどこかくすんで見えた。ずっとそう思っていた。だからなのだろうか、ユリウスの目には少しだけ離れた位置を歩いているルドガーがひどく色鮮やかに映った。ブラコンだといわれ笑われたこともあるが、ここまできてしまえばたしかにそうだと自らも認めざるをえない。
 ルドガーに会うのは久しぶりだった。会うことができたのは嬉しいし、元気にしているとわかればもうそれ以上は何もいらない。それだけを祈って願って生きてきたのだから。だが、ここが分史世界だとするならば話は別だ。クラウディアがそうしたように、ルドガーがクルスニク一族の業から逃れられるように、すべてをかけて守ってきたつもりだった。だのにあの男はユリウスをあざ笑うようにして簡単に、薄暗く陰惨なだけの宿命の道へと、あの優しい子供を引っ張り込んだのだ。それが許しがたく、そして、易々と騙され破壊者となったルドガーが憎らしくもある。
 力を使いすぎたせいで痛む腕を押さえて、ユリウスを監視するように向けられた何対かの目におかしく映らないように二・アケリア霊山へと向かう足を速める。どこまでルドガーは知っているのだろうかと、ユリウスは疑問に思わざるをえなかった。自分の犯した罪の数々が白日のもとに晒されるというのなら、無様にも許しを請うようにルドガーの足元にすがって見捨てないでくれと嘆いてみせただろう。いや、もういくつかの分史世界を破壊する中で、慕っていたはずの兄がただの殺戮者でしかなかったということを実感とともに知ってしまったのだろうか。
 報われなくてもいいと思っていたくせに、それでもルドガーに軽蔑されたくないと願っている自分にため息をついて、信仰を受け止める霊山の名を裏切らぬような険しさを見せる山道を踏みしめた。分史世界内で得た協力者であるミラの隣ではしゃいでいるエルという少女から目を離さないでいたはずのルドガーが、歩くスピードを落としてユリウスに並んだ。殿を務めていたアルヴィンはルドガーを守るように一歩前に出たが、それを御するようにルドガーが俺のかわりにエルをみていてよと小さく笑う。それがていのいい断りの言葉だということは分かっているのだろう、不審者を威嚇するようにユリウスを一瞥したアルヴィンはしぶしぶルドガーの言葉に従ってユリウスたちを通り過ぎ、ピクニックと見紛うような少女の声になにごとかのちゃちゃを入れた。それはとても自然なもので、ユリウスの知らない間に、ユリウスの知りようもない人間関係を築いているルドガーの姿がそこにあった。そんな些細なことに言いようもない焦燥を覚える。
 隣に並んだルドガーに、ユリウスは唇を噛んで地面を睨みつける。こんなふうに再会したいわけではなかった。なにがどう転んだとしても、ルドガーを分史世界になんてつれてきたくはなかったのだ。今からでもいい、骸殻の能力など捨てて、分史世界のことなど忘れて、クランスピア社となど縁を切って、またあのトリグラフのマンションで穏やかな仮初を紡いでいて欲しかった。あの場所に俺が帰ることは叶わなかったとしても、俺を待って俺のために俺の弟として暮らしてくれはしないだろうか。そうすればそれをいつか仮初などではなく真実の幸福に、平穏に変えてみせる。そのためにいま自分は、全てを差し出してもいいと覚悟を決めているのだから。ユリウスは、自分を正義のヒーローか何かと勘違いしているような自分勝手な考えに、苦笑する。そして、同じくそれを嗜めるように腕が痛んだ。裂傷でも打撲でもない、神経を侵食されるような痛みに眉根をひそめると、兄さんと小さく呼ぶ声が鼓膜を揺らした。心配そうなその声音は、いつの日か破壊したことのある分史世界のルドガーとはちがう、たしかに自らにとって大切な弟のもので、じっと向けられているであろう視線から逃れたくて仕方なかった。見ないでくれと、叫びだしてしまいたかった。たくさんの嘘で塗り固めて、やっと立ち上がることのできたユリウスという人間を、ルドガーにだけは知られたくなかった。なのにルドガーは、そんなユリウスの願いを打ち砕くように瑠璃色の瞳を覗き込んで、翡翠の瞳に嘘つきな兄の苦しげな表情を映す。
 世界を遮断するには頼りない眼鏡のレンズに映るのは、ルドガーの心配そうな表情。それは、ユリウスが己の弟のために生きようと思ったあの晩と同じようにやさしいもので、泣けばいいのか笑えばいいのかよくわからなかった。いっそこのまま一緒に逃げることが出来ればいいのにと考えて、そのあまりの無滑稽さに笑いをかみ殺した。逃げたって待ち受けているのは出口のない終わりへと突き進むだけの短い夢でしかない。
 大丈夫なのというルドガーの言葉に小さく頷くと、次いで耳朶を掠めた言葉にユリウスは瞠目した。ごめんと、そういったのだ。何を謝られているのかよくわからなかった。むしろ謝らなければならないことは自分のほうにこそたくさんあるはずだった。なのに、いらえがないことをなんと思ったのか、ルドガーは苦痛を耐えるように眉根をひそめ、ごめんねともう一度いった。兄さんがこうやって俺のために働いてくれていたことを知らなかったんだ。つらそうなときもあったよね。苦しそうなときもあったよね。なのに俺は、ただ仕事が大変なのかなって思ってただけで、兄さんが傷ついて泣きたくてどうしようもなくなるような気持ちになっているなんて思いもよらなかったんだ。だから、ごめん。本当に至らない弟でごめんと、いっきに吐き出したルドガーは、まるで自分がその苦悩を追体験しているかのごとく、泣く寸前のみたいに唇を噛んでユリウスの頬に手を伸ばした。触れた指先は、ユリウスが知るものよりも硬く、剣を握る男のものに変化していた。刃物なんて自分に料理をするためだけに握っていてくれればよかったんだと、今度こそ鼻の奥がツンとした。だが、もう涙など枯れ果てた。そんな感傷は当の昔に捨て置いた。ばかやろうと泣き笑いの表情で吐き出し、むしろ至らない兄は自分のほうだと、言葉を投げ捨てた。何よりも正直な本音だったのだろう。だが、いってしまったと思ったあとで、浅ましい己がルドガーに卑下の言葉を否定されることを期待していたのがわかってしまった。目を見開いたルドガーは兄さんはすごい兄さんだよと、はたから聞けば何を言っているのか良くわからないことを力説している。しかし、このどうしようもない弟にどうしようもないくらいまいってしまっているユリウスは、おまえだってすごい弟だと呟いて口角をあげた。
 ユリウスは頬に触れているルドガーの手のひらを掴んで、握り締める。いっそ抱き寄せてしまおうかと思ったが、警戒するように向けられている目線にそのぬくもりを慈しむだけに留めておく。
 腕の痛みはまだ引かない。なんとなく分かっていた。これはやけになって世界の不幸を一挙に背負い込んだようなつもりになっていたころに待ち望んでいた、時歪の因子化の兆候であると。それを悟ったのが、暗澹たる先行きの見えないレールだと思っていた人生の終着点をにわかに垣間見た瞬間だった。だが、ユリウスの意志はゆらがなかった。ゆらぎようがなかった。もう決めてしまったのだから。隣に並ぶ弟のために生きるというのなら、それすら怖くない。それこそが存在意義であるというかのように願い続けていたが、どこかで、真の岐路に立ったときに迷うのではないかという恐れもあった。だからこそ、そう思える自分自身に安堵する。あの自分本位な自己を踏み越えて、真にルドガーを愛することができているのだと、あの男とはちがうのだと、自分の心の中にあるやわらかいものを抱き締めた。
 本当は、ずっとずっと弟のために弟のとなりで生きていたかったという願いは、言葉にすることなく飲み込んで、嚥下した願いの名残を吐き出すように、ただ小さくルドガーとその名を呼んだ。
           




【 走馬灯の中で散りゆく 】


 兄さんおきてとゆすぶられて、目を開けた。飛び込んできたのは見慣れた天井。そして、ベッドの中のぬくもりはなあなあと鳴きながらその体をユリウスに摺り寄せた。ああここはちがうと悟った。なんて穏やかに走馬灯がかけるような分史世界なのだろうかと、心地よいまどろみに体を任せるように。
もしも神というものが存在するというのなら、いまこのときこの場所で、いのってもいいとそう思った。恨んでばかりいた神というものもなかなか粋な計らいをするものだ。いや、もしかしたら、これは彼なりの、呪詛ばかりなげかけてきたユリウスへの精一杯の意趣返しなのだろうか。だとしたら己は相当焼きの回ったマゾヒストだと苦笑せざるを得ない。
 どうしようもない己自身に見限りをつけるように、まどろむようなあたたかさのベッドから抜け出して冷え切った床へと足を下ろし立ち上がる。すると、いままでユリウスの隣で丸くなっていたはずのルルも、次の熱源を探すようにすでにいい匂いのしてくるリビングのほうへと走り抜けていった。ようやく起き上がったユリウスに、既に身支度を済ませていた彼の弟が、兄さんは本当に朝が弱いんだからと呆れたようなため息を漏らした。曰く、いくらはやく起きても兄さんのせいでギリギリになる、寝穢いのだけはどうにかならないのか。はたから聞いていれば、妻か母親かよくわからないような小言を漏らしたて、もう朝食の用意はできているからとルルを追うようにリビングへと戻ってしまった。その見慣れた背中を視線だけで追ったユリウスは、何故だかよくわからないが安堵のため息を漏らした。もしかしたら、まだ慈しむべき対象であった弟と、たしかに同一人物であるはずなのに確実に一線を画している彼と対面する心の準備ができていなかったのかもしれない。なにをためらうことがあると、己の顔を冷え切った手のひらで覆ったユリウスは、その手のひらに火傷の痕が残っていることに気づいてもう手の届かないものに触れるように、冷えた指先でなぞった。大丈夫だと、そう思う。やはり彼も、俺の愛すべき弟なのだろうと、もう当に分かりきっていた答えを導き出して、ゆっくりと着替え出す。気合を入れるようにタイを結んで手袋をはめたユリウスは、世界を断絶するように締め切られていた扉を自ら開けて、あたたかくおいしそうな匂いに満ちたリビングへと足を踏み入れた。
 ユリウスの朝寝坊だけが何とかなればという願いのお陰で早起きになったルドガーにお説教を受けながら、それでも結局ギリギリに家を飛び出ることになった彼にまたお小言をいただき、その新鮮さに自然と頬を緩めると、トマトソースパスタとぽそりと低く呟かれ緩んでいたユリウスの口角が引き締まる。ご機嫌を取りながらルドガーの背中を見送ると何とか機嫌を持ち直すことに成功したようだった。
 主の一人がいなくなってしんと静まり返った部屋にもどり、ユリウスはゆっくりとダイニングテーブルへと腰掛け、テーブルの上で丸くなっていたルルをなでる。その口元に浮かぶのは違えようもなく幸福を感じさせる笑み。本当にどこへ行ってもあいつは変わらないなと、それ自体がどうしようもなくしあわせであるかのように、噛み締める。もう体に染み付いた癖で新聞を引き寄せると、さっきルドガーを見送ったばかりの玄関の扉が静かに開いた。
 なれた気配に忘れ物でもしたのかと、ユリウスが振り返ると、そこにいたのはこの世の悲しみの全てを体験したようなに苦悩の表情を浮かべたルドガーだった。
 ああと、ユリウスは思った。なんて幸福な、走馬灯。そして、その終止符を打つのが、彼のいとしい弟であるというのなら、やはり自分には過ぎたものばかりじゃないかと、不謹慎ながら笑みを浮かべてしまう。それがまたルドガーの優しい心を苛んでしまったのか、唇を噛み締めた彼は、どうにもならない現実を恨むように、その手のひらを握り締めた。
 報われないことを知っていた、見られたくない過去ばかりだった。それでも、壊すことしか出来なかったユリウスが、誰かを守り慈しむことが出来るんだということを証明してくれたルドガーは、たしかにユリウスの幸福が具現化したようなものだった。だから、思い残すことなど何もない。だから、そんなつらそうな顔をしないでくれ。ルドガーを守りたかったユリウスが、誰よりもルドガーを苦しめてしまっているのだとしたら、それだけが今生の心残りとなってしまうから。
 ルドガーと、ユリウスは小さく名前を呼んだ。それがまるで、祈りの代わりとでもいうかのように。そしておもむろにルドガーと向き合う。涙を流す代わりに、唇を噛み自らの手のひらに爪を食い込ませ、自身に痛みを与え続けているルドガーは(どうせなら自分を罵ってくれればいいのにと、ユリウスは思わざるをえなかった)、そのやさしい声音に目を瞬かせた。怯んだように、室内の明かりを受けた翡翠色の瞳。そこに映りこんだ自らの表情がどんなものか、ユリウスにはよくわからなかった。それでも、願う。ルドガーが、この世で最後に見る己の顔が、何よりも幸せそうな笑みであればいいと。ルドガーが与えてくれたたくさんの幸福に裏打ちされたような微笑であればいいと。希うように、トマトソースパスタを食べ損ねたなと、彼がそして彼らが愛して止まなかった日常の一欠けらを舌の上で転がした。
















                                       
【 めぐるものがあるとして、 】



 弟を起こすのは、ずっと昔から兄であるユリウスの役目だった。むしろ、ユリウスが起こしにいかなければ、睡眠をこよなく愛する弟を現実へと引き戻すことは出来ない。いつの間にか母は匙を投げ、妹達も面倒ごとは御免だとあのねぼすけを起こす権利をユリウスへと譲渡してしまっていた。家族達はあきもせずによくやるものだと、弟をせっせと起こしにいくユリウスを働き者と評価しているようだったが、ユリウスにしてみれば自分が好きでやっていることで、この役目を誰かに譲るつもりはなかった。
 とはいっても今日は休日で、いつまで眠っていても遅刻することも誰かに責められることもない。しかしだ。すでに時計は昼といってもいい時間を指していて、そろそろベッドから起き上がらなければ、世間様に顔向けするのも恥ずかしくなってくる頃合だ。しかも、折角の休みを寝て過ごすというのももったいないだろうと、過保護のけのある兄心を遺憾なく発揮して、ベッドの上で心地よさそうに惰眠を貪っている弟を軽くゆすった。
「おい、ルドガー」
「ん、」
 むずがるような声音が返ってきただけで、起きるような気配はない。ここまではユリウスの予想通りだ。そして、ルドガーの代わりに、その隣で丸くなって眠っていたルルが顔を覗かせるところまで完璧に計算しつくされている。だてに長く弟を起こしてきたわけではない。もう一度小さく呼びかけると、窓から入ってくる明かりから逃れるように寝返りを打ったルドガーの銀髪がきらきらと光り、どこかおさなっぽい寝顔と相まって一枚の絵画のようにも見える。その心安らぐ光景に、ルドガーは自然と頬が緩むのを感じた。これでは、一番目の妹に本当にどうしようもないブラコンねと罵られ、末の妹にはユリウスはルドガーには甘いんだからと幼いながらに精一杯背伸びした物言いで呆れられるのも仕方ないかと、苦笑を漏らす。
 今度こそと、決意も新たにベッドの端に腰掛けたユリウスは、さっきよりも激しくルドガーの肩を揺らして、起きるんだと耳元で声を張り上げた。すると、地の底を這うようなうめき声とともに、ユリウスの魔の手から逃れるようにベッドの奥へと潜り込んでしまう。そのときに不幸にもルルの尻尾を踏みつけてしまったのか、猫には許されないような鳴き声をあげて、ベッドを飛び出していってしまった。
「そろそろ観念しろ」
 責める言葉の割には、やさしい笑みを浮かべたユリウスは、それでもルドガーを起こす手を休めないでついには布団を剥ぎ取ってしまった。奪い取られたそれを取り返そうとするようにルドガーの手が宙を掴んだが、ついに観念したのかぶるりと体を震わせて、まだぼんやりとした翡翠色の瞳にユリウスを映した。
「おはよう」
「う、はよ」
 かすれた声音は、まだ眠っていたいというルドガーの気持ちを代弁しているようで、ユリウスは本当に仕方ないなと歳の割に柔らかそうな頬に手を伸ばした。その手のひらを掴んだルドガーはそこから暖をとるようにぎゅうっとユリウスの大きな手を握り締めて、恨みがましげな視線を向けた。
「さむい」
「もう、昼だぞ。あと、リビングは十分暖まっているから降りて来い」
 ユリウスの言葉に驚いたように枕もとの時計に眼をやったルドガーは、既に正午を過ぎている短針に愕然としたように嘘だろと呟いた。嘘じゃなくて本当だと、現実を受け入れがたく思っている弟の頭を軽く撫ぜると、どうせならもう少し早く起こしてくれよという文句が返って来た。ユリウスとしては気を利かせて起こしてやったつもりなのに、その親切心に文句を言われるのは少し癪で、まだ起き上がろうとしないルドガーを無理矢理起き上がらせるように繋がったままだった手のひらを掴んで引き寄せ、自分の膝の辺りに抱き寄せて寝癖のついた頭を乱暴にかき回した。
「兄さん、やめてよ」
 逃れるように身をよじらせたルドガーはしかし、嫌がるというよりは擽ったそうな笑い声を上げながら自由になる足でバタバタとベッドを蹴りつけている。乱れたシーツが波打つ海のようで、ユリウスも訳もなく愉快な気持ちになった。
「姉さんと、エルは?」
 笑い疲れたのか肩を揺らしてユリウスに甘えるようにその膝の上にこてんと頭を乗せたルドガー。ユリウスとしてはそろそろ起きろという意思表示だったはずなのに、これでは本末転倒だと思いながらも、乱れたルドガーの髪を手櫛ですきながら好きなようにさせる。
「ミラの春物の服が欲しいという要望から、母さんと三人で買い物にいったよ」
「俺たちは置いてきぼり?」
「ああ、荷物持ちとしても解任で留守番だ。夕飯は外で食べてくるから、あなたたちは好きなようにしてという伝言まで言付かったぞ」
「何か食べたいものある? 兄さんの好きなものを作るよ」
「トマト」
「ソースパスタ?」
 ユリウスの言葉を横取りするように、にやにやと笑いながら口にしたルドガーにもちろんと頷くと、兄さんはいつもそれだけどよく飽きないねと不思議そうに首を傾げた。ユリウスにしてみれば、あんなにおいしいルドガーの料理を食べ飽きるなんていうことはないのだが、それを素直に口にするたびに恥ずかしいからやめろよと、足を踏まれるのだから納得いかない。今回も正直な気持ちを吐露したとしても、頬を赤く染めて頭突きの一つでもされてしまうかもしれない。だから、その代わりにまだ乱れていた髪を梳いて、頭を撫ぜた。
「そういえば、」
 自分の頭を撫ぜていたユリウスの手のひらを掴んだルドガーは、まるで何かを探すように自分のものよりも幾分か大きな手のひらへと視線を向け指先で手のひらの隅々までなぞっていく。どうかしたのかと覗き込んでくるユリウスの瑠璃色の瞳に、まんまるな翡翠色が瞬いた。
「火傷の痕ってどうなったんだっけ」
 ねえ、兄さんと、ルドガーの声音がユリウスの鼓膜を揺らした。
ぐわんと頭の中をゆすぶられたような気がした。殴打されたような衝撃はしかし、痛みをともなわない。そのくせユリウスの頭の中をぐちゃぐちゃとかき乱し記憶の引き出しを荒らしてゆく。そのどこを開けたってルドガーの姿があるというのに、火傷の記憶などというものはない。いや、小さなものはいくつかあるが、痕が残るような大事ならば忘れることはないだろう。同じようにルドガーも自分が口にした台詞が信じられないように、あれと自分の記憶とつじつまの合わぬ言葉を紡ぎ出した己の口元を押さえた。ユリウスもルドガーと同じような気持ちだった。そのような覚えはない、だのに、ユリウスの中には火傷の記憶というものがかすむようにおぼろげではあるけれども違うことなく刻み込まれていた。そして同時に、たまらなくなって、ユリウスの手を握っていたルドガーの手のひらを包み込んでぎゅっと握り締めた。
「にいさん?」
 突然のユリウスの行動になにごとかと目を丸くしたルドガーは、体を起き上がらせてまるで長い夢から覚めたようにぼんやりと目の焦点があっていない瑠璃色を覗き込んだ。泣きそうなルドガーと心配そうに自分を覗き込んでいるルドガーがユリウスの中で重なって、触れている手のひらから伝わる体温にどうしようもない幸福感が湧き上がってきた。それは、ながらく探していたものを見つけた達成感のようでもあり、がらんどうのままだった心の中を満たされたような恍惚とした喜びのようでもあった。その衝撃をやり過ごすように、目の前にいるいとおしくて仕方のない弟を抱き寄せると、今度こそユリウスは自分が泣いてしまうんじゃないかと思うくらいの衝撃に襲われた。
 それは、随分と昔に失い、ようやく彼の腕の中に返って来た、なににも代えがたいぬくもりと、幸せそのものだった。







製作 12・12・12
掲載 13・02・25