カーテンの隙間から覗く空は、とうの昔に洋墨壷を倒してしまったような藍色に染め替えられた。空が曇っているせいか、いつもならそのきらめきで自己主張している星たちも大人しく寝入ってしまっている。既に何回目になるかもわからないため息を飲み込んで、目の前のテーブルに広がっているトマト料理のフルコースをみやる。二人と一匹の生活には似合わぬ量のそれらは、もう何時間もまえからしこんで作ったものだ。
「俺たちで食べちまうか」
 なあと、同意を求めるようにソファで欠伸をしていたルルに声をかける。しかし、返ってきたのはやる気のないにゃあという鳴き声だけで、まんまるな翡翠色の瞳はおまえが悪いのだろうと責めているようだった。飼い猫にさえ見捨てられてしまったようで、またため息。
 時計の長針はさっき確認したときから二分分しか動いてはいない。魔法でもかかったようにゆっくりとしか進まないそれらがもどかしかった。
 普段なら、もう兄さんは帰ってきている時間だ。いやそれ以前に、帰りが遅くなるのならいつだって連絡をくれた。なのに、随分前からテーブルの上に鎮座しているGHSは、自らの仕事を忘れたように沈黙している。再度開いてメールを問い合わせてみたが、新着メールはありませんという表示が返ってきただけだ。もちろん、兄さんだっていい歳なんだし、八つ下の弟を放っておいて街に繰り出したくなるときだってあるだろう。別にそれを責めるつもりはないし、当然の権利だとも思う。じゃあ何が問題なのかと問えば、溜め込むだけ溜め込んだ宿題をなんとかこなそうと無理な予定を組む子供みたいに、簡単に導き出される答えの周りをぐるぐるまわって、明白な解から逃げ回るずるい俺が顔を出すだけだ。
「なあ、やっぱり俺が悪いのか」
 にゃあと鳴いたルルがソファから飛び降り、床を蹴る軽快な爪音をたてて俺の足元へと擦り寄ってきた。見上げてくる翡翠色に、特別な感情があるわけではない。だが、そこから俺へのあきれを感じとってしまうということはつまり、受け手側の俺の方に問題があるに相違なかった。
「分かってるんだよ」
 テーブルに肘を付いて頭を抱える。二酸化炭素以外の重々しい何かが含まれた呼気を吐き出し瞼を閉じると、簡単に昨日のことを思い出すことができた。だが、あまり思い出して気分がいいものではない。時間がたって冷静になるほどに、自分の至らぬ点ばかりが目に付くようになるからだ。
 きっかけは些細なことだったのだと思う。よくあることだけれども喧嘩をした。仲がいい兄弟だといわれることは多いけれども、それは外から見るからそう見えるだけで、蓋さえ開ければ他の兄弟とかわらない。よくある日常とただ一つちがうことがあったとすれば、珍しく喧嘩が長引いたのだ。いつもは兄さんか俺か、いやお互いに引き際を見極めて大惨事になる前に矛をおさめていたのだ。いうまでもなく兄さんの主張が正しいことのほうがほとんどだったが。だが、今回は違った。何が掛け違えていたのかわからないけれども、些細な衝突は口げんかになって、引き際を見誤れば意地を張り、意地を張れば角が立ち、角が立てば火には油が注がれるばかり。そこまでくれば売り言葉に買い言葉。兄さんの俺を子供扱いするような物言いにかちんときた俺は、いま思えば唇を噛むことしか出来ないような暴言を吐いてしまったのだ。
 曰く、兄さんなんてしらない。いつまでも子供扱いするな。曰く、なんでもかんでも兄さんの思い通りになると思うなよ、それなら兄弟なんてやめてやる。
 いま思い出しても恥ずかしいやら申し訳ないやら。いや、いまだからそういった冷静な判断を下せるのだが、肩を怒らせて啖呵を切った俺は、言ってしまったと思いながらももう引くことなんてできなかった。しかし兄さんは違っていた。俺の言葉を聞いた兄さんは、ぐっと手のひらを握りこんで射るように俺を睨みつけてきたのだ。殴られるかと思った。なのに、いやいっそ、あのとき殴ってくれればよかったのに、なのに兄さんはただ小さく息を吐くと、わかったと、痛いくらいに静まり返った部屋の中に硬質な言葉を投げ出しただけだった。そこまできて、ようやく浅はかな俺は気づいたのだ。なんて愚かなわがままを言ってしまったのだろうかと。なのに、もう十分すぎるくらいに張った意地は簡単には撤回できなくて、ああそうかと語調を荒げ、兄さんに背を向けて自分の部屋に逃げ込んだ。本当は、唇を噛んだ兄さんが泣く寸前みたいに見えて、堪えられなかっただけなのに。
 それから現在に至るまで、会話も電話もメールもしていない。今朝起きたときには、既に家の中に兄さんの姿はなくて、まるで一人置き去りにされたようで惨めだった。幾度も謝ろうと思って兄さんの電話番号を呼び出しては打ち消し、メールを打っては消去した。時間がたてばたつほどに、どうやって謝ればいいのかわからなくなって、ついにはごめんなさいのごの字さえも吐き出せないままに、ため息だけを量産して、友達からはそのうちキノコが生えるぞというお言葉さえいただいてしまった。
 このままじゃ駄目だと一念発起し、精一杯の謝罪の気持ちをこめて兄さんの好きなものを、作りすぎるくらいに作ったというのに、その兄さんが帰ってこないというのだからもう目も当てられない。いっそ、昨日の俺を殴ってやりたいくらいだ。
「絶対兄さん怒ってるし、傷ついたよな。どうしたらいいと思う?」
 兄さんにかわいがられてまるまるとしたルルを抱き上げ膝の上に乗せると、俺の苦悩なんてしらない彼は鼻をならしてテーブルを彩っている料理に目を奪われいる。
「ルルまで俺を見捨てないでくれよ。いっしょに兄さんに拾われた仲だろ」
 なあと、肉付きのいい体をなでると、身をよじって抵抗される。意地になってぎゅうと抱きしめようとすると、体型には似合わぬ軽やかな動きでジャンプして床に着地し、そのまま玄関のほうへと歩いていってしまう。ルルにまで振られてしまったかと思ったが、ルルは俺を呼ぶようににゃあにゃあと鳴く。それに重なるようにドアベルの音がした。
 客人が来るには遅い時間。誰かが遊びに来るという約束もしていないはずだ。押し売りか何かだろうかと疑ったが、断続的に呼び鈴が鳴るということはなにか用事があるのだろう。仕方なしに立ち上がって、兄さんから言い含められていたよう、突然部屋にあがりこまれることがないようにドアチェーンをかけてドアを開けた。
「おい、ユリウス! しっかりしろよ」
 突然耳に飛び込んできた来訪者の第一声に、何事かとチェーンを外して扉を全開にしてしまう。そして、我が目を疑った。見慣れた廊下に、同僚と思わしき人に支えられていまにも倒れこみそうな兄さんが立っていたのだ。
兄さんを支えていた男の人は俺を見ると肩を撫で下ろして、意識があるのかないのかもわからない兄さんの耳元で、おまえの大切なルドガーくんが迎えてくれてるぞと言った。なぜ俺の前に大切なという言葉がついているのかは、軽く理解の範疇を超えてしまっているが、兄さんが僅かに俺の名前を呼んだことで、意識がないわけではないのだということが分かった。
「あの、」
「あ、悪いね突然。珍しく君のお兄さんに誘われて飲みにいったと思ったらこのざまで、なんとかここまで引きずってきたところだよ」
「じゃあ、仕事で怪我をしたとかそういうわけじゃ」
「ないよもちろん。この状態をみればわかるだろ。前後不覚の泥酔だ」
 重々しいため息をついた同僚さんは苦笑を浮かべながら、なにが苦しくてなにが気に入らないのか知れないが、不機嫌そうに眉根をよせて唸っている兄さんを覗き込んで、珍しいこともあるもんだよとひとりごちた。
「すみません。兄が迷惑をかけたみたいで」
 あまりにあまりすぎる兄さんの姿に、頭を抱えたくなるのを堪えて謝罪する。
「気にしないでくれ。こっちもユリウスの面白いところが見られたし、例のルドガーくんを拝めて役得だよ。写真でみるよりも本物のほうがかっこいいじゃないか」
 なあ、ユリウスと、兄さんに同意を求めても、兄さんは夢現。ううだとか、ああだとか、どこの言葉を話しているのかわからない。俺の後ろから外の様子を伺っていたルルも、呆れたように一瞥して顔を引っ込めてしまった。
「とりあえず、これで俺の任務は完了だから」
 大仕事を終えたように達成感すら感じさせる笑みを浮かべた同僚さんは、よいしょっという掛け声とともに俺に兄さんを預ける。泥酔している人間の体は案外重くて、足を踏ん張っていたにもかかわらず、兄さんを受け止めきれずに玄関に倒れこんでしまう。同時にルルの尻尾も踏み潰してしまったようで、猫には許されないような悲壮な鳴き声が鼓膜を揺らした。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ここまで、ありがとうございました」
「いやいや、じゃあユリウスによろしくいっといて」
「はい、おやすみなさい」
 俺に答えるように、ひらひらと手を振ったその人は、一緒に飲んでいたとは思えない軽やかさで去っていってしまった。残されたのは、何が例のルドガーくんで、いったいどこから俺の写真が出回っていて、どうして兄さんが泥酔しているかという疑問に継ぐ疑問とあまり知りたくもない真実の片鱗だった。
「兄さん」
 後ろ手に体を支えて、俺の胸に体を預けるようにのしかかってきている兄さんの肩を揺らすが、返答はおぼつかない。というより、兄さんらしくないその姿に本当に兄さんなのかと疑いたくなる。たしかに近づいてみて分かったのだが、アルコールの匂いが酷いし、顔も真っ赤に染まっている。
「兄さん、大丈夫?」
「うっ、ルド、ガー」
「そうだよ、俺だよ」
 体勢を変えて背後の壁にもたれかかり、兄さんを支える。みようによっては床で抱きあっているような状態だが、俺と兄さんだと思うとロマンスも生まれようがない。
 上気した顔を覗きこんで、まどろむ寸前のような瑠璃色の瞳と視線を合わせると、ルドガーとしたったらずな声音で呼ばれた。
 そうだよと答えるよりもはやく、いままで海月みたいだったのが嘘のような機敏さでぎゅうと抱き締められた。いったい何事かと息を呑む。ぎゅうぎゅうと俺を抱き締めている兄さんは、ルドガー、ルドガーと、壊れたレコードのごとく俺の名前を連呼している。
「どうしたんだよ、気持ち悪いの? 吐くならトイレに」
「ちがう、ルドガー」
 一際強く抱き締められて、胸いっぱいにアルコールのかおりが満ちる。俺の肩口に顔を埋めた兄さんが吐き出す息はあつくて、首筋が濡れた熱を持つ。いつもの大人びた兄さんをどこかに置き忘れてきたようなその姿に、どうしていいかわからなくなる。
「すまな、かった」
 滑り落ちたのは、謝罪の言葉。その単語の意味を理解して、泣きたくなった。それは俺が言わなきゃいけない言葉じゃないかと口を開こうとしたのに、俺の台詞を奪うように、兄さんはすまないと繰り返す。
「だから、兄弟をやめるなんて、いわないでくれ」
 俺たち二人とルルしかいない静かな部屋の中に、兄さんの声が響く。まるで血を吐くように苦しげな声音。売り言葉に買い言葉で紡ぎ出しただけの暴言は、兄さんをこうも頼りなくしてしまうぐらいに暴力的なものだったのかと、息が苦しくなった。酔えやしないアルコールのかおりに鼻の奥がつんとして、迫り来るものを堪えるようにぎゅうと唇の内側を噛み締める。
「頼むから、俺をおまえの兄でいさせてくれ」
 俺の首筋に回された両腕。すがりつくようなそれに、泣いているのかと思った。
 俺の意地を張っただけの言葉にどうしてここまでと、自らの自分勝手さに羞恥と申し訳なさでいっぱいだった。何とか吐き出した呼気で己を悔いる気持ちで暴れ出したくなるのを慰めて、やり場もなく投げ出したままにしていた両手を兄さんの背中に回す。
「ばか、なんでさきに謝るんだよ」
「ばかでいいから、たのむから」
 酔っ払いとの会話が通じるわけもなく、兄さんはただ許しを請うように俺の名を呼ぶ。
 悪いのは俺だ。たしかにそうだ。だが、そんなただの暴言に、こんなふうにして懇願しなければいけないと思っている兄さんに、そしてそう思われてしまっている自分に、腹の奥に名状しがたい澱のようなものが折り重なっていく。あんなの、よくある兄弟喧嘩で、兄弟なんてやめられるわけがなくて、俺の兄さんはこの人しかいなくて、俺はこの人の弟であることが本当に誇らしくて、それは言葉にしたことなんてなかったけれども、俺たちが共有した時間の中で言葉なんかよりもたしかなもので確認しあってきたことだった。なのになんで俺なんかの気紛れと我が侭にこんなにも苦しむんだよ。まるでいままでの時間の中でたしかにはぐくんできたと思ってきたものが、俺の独りよがりにしかすぎなかったみたいじゃないか。それがたまらなく苛立たしくて、こんなにも兄さんを傷つけた自分を許しがたかった。だから、無理矢理兄さんの両肩を握って俺から引き剥がし、迷子の子供みたいに不安げな色をした瑠璃の瞳を覗き込んだ。
「俺の兄さんはユリウスだけだ。いまさら、別の兄さんなんていらないよ」
「あにでいてもいいのか?」
「ばか! 本当に兄弟をやめるわけないだろ! そんなことで泥酔してくるなよばか兄貴!」
「きのうおまえが、あんなこというから、俺は」
「だから、俺が悪いんだから! 兄さんは謝んなくていいんだよ!」
 悪いと言いながら怒鳴り散らすなんて謝る側のとる態度じゃないと痛いほど思ったが、こんな兄さんを見せられたら怒鳴りたくなる俺の気持ちも分かって欲しい。
 ずれた眼鏡のままに俺を見つめる兄さんは逡巡するように瞬いて、回りきったアルコールのせいなのか酷く熱いてのひらで俺の頬に触れた。
「おれのだ」
 零れ落ちたのは、かすれた声。逃げることを許さぬというように俺を見据えた瑠璃色は、酔っているとは思えぬくらいに真剣で、いつも俺の隣に立っている兄さんの裏側を垣間見たようだ。先ほどまでとはちがった焦燥に、わけもなく喉が乾く。
「おれの、おとうとだ」
 まるで恋焦がれるようだと、そう思った。
細められた目も、その奥に宿った艶やかな光も、下弦の月のように美しく弧を描いた口元も。まるで恋焦がれるようだと。だから一瞬、それが俺に向けられているものなのかよくわからなかった。しかし、切羽詰ったくらいに真摯なそれに、突き動かされ魅入られるように、俺の頬に触れる兄さんの手のひらを掴んで一過性とはいいがたい熱を共有する。
「ユリウスだって、俺だけの兄さんだ」
 家族ドラマじゃあるまいし、恥ずかしい。だけれども、冷静な自分をあざ笑うみたいにこの熱に浮かされたもう一人の自分が躊躇うこともなく言葉にする。しかし、滑り落ちたその言葉に、一気に頬が熱くなった。だから、これ以上赤くなった顔をみられるのが恥ずかしくて、兄さんの首筋に顔を埋めると、昔俺をあやしてくれたときみたいにやさしく頭をなでられ、聞きなれたあの歌が鼓膜を揺らした。
 こんな玄関で何をしているのかと、正気にもどったら首をつりたくなりそうだが、いまはまだ少しこのままでいたくて、もう冷め切ってしまった料理を明日に回して、明日こそちゃんと酔いのさめた兄さんに謝ろうと考えながら、俺を抱き締めてくれる腕に身を任せた。




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13・02・25