ざあざあと、鼓膜の奥を揺さぶるように、寄せては返す波の音が聞こえてくる。
 まるで神経一つ一つをひっかいていくように不快感さえ煽られるそれを打ち消すように荒い息を整えながら、汗とそれ以外のものでべたつく手のひらから双剣が滑り落ちないように柄を握りなおした。自分の体温が移ったそれはよく手になじみ、その次どうすればいいかが己の中に刻み込まれているかのように自然と扱うことができる。指の延長と表現するのがびったりかもしれない。フライパンや包丁を握って大切な人のために料理を作る時間から、こんな物騒なものを振り回す時間が増えたのはいつからだろう。そうすることを選び取ってから随分長い時間がたったかのように思えるし、平穏な日常のドアを後ろ手に閉めたのがほんの数刻前のようにも思えた。いまだって、トリグラフの我が家に帰れば、渦中にあるときにはなんでもないと思っていた、慎ましくも平凡な幸せが、待っているような気がするのだ。
 役目を果たした双剣を腰に差してふうと息を吐くと、潮の匂いに交じって一段と濃い生のかおりが鼻孔の奥をくすぐった。それはあまり心地よいとはいえない。人間の薄暗い暗部を連想させるようにすえたどろどろと這いよるような生臭さ。それによって目の前の光景が現実であると再認識させられる。トリグラフの我が家に帰れば日常にもどれるなんて、本当にただの夢でしかなくて、俺にとっての日常は今しがたこの手で粉々に打ち砕いたばかりだった。だが、もちろん選んだのは俺だ。それについて言い訳をするつもりはないし、この事実から逃げるつもりもない。でも、だけれども、そうだとしても、彼らが世界のための選択をと声高に叫ぶとするのなら、これがもっとも正しく違えようもなく世界を守る方法だった。
 いつだって世界は多面的だ。
 小さな頃からずっとそう思っていた。実は毎朝、目を開いた瞬間にいま自分が認識する世が構築され、それがすべてであるとつかみ取っていくのではないだろうかと。だから、他者と自分では見ているもの聞いているもの、あるいは自らの周りのすべてである世界自体が違うのではないかと。この世界は俺だけのもので、ずっと俺にスポットライトが向けられている、断続的に構築される夢の続きだった。もちろん、大人になったいまでは空想科学にあこがれる子供の戯言だと切り捨てることもできてしまうが、それでもどこかでもしかしたらそうなんじゃないかと、お伽噺の世界を否定しがたく、心のどこかでヒーローにあこがれる幼子のようにずっと抱き続けてきた。
 完璧だったのだと思う。つらいことも苦しいこともままならぬことも堪えがたいことも、たくさんあった。世間から見れば、両親はなく兄弟二人だけの生活は、それだけでハンディだという人もいた。わけもなく不躾ともとれる哀れみの情を向けられることもあった。もちろん、隣の芝生は青く、咲く花は赤い。柵の向こうをうらやんだことはないのかと問われれば、答えは否。それでひどく兄さんに迷惑をかけたこともある。いま思えば、子どもの理不尽なわがままであるということは痛いほどよく分かった。だが、そんな卑しい子どもを、兄さんは突きはなすでもなく嘆くでもない、ただただあいしてくれていたのだ。俺が思うよりも深く。愚直なほどに、あいしてくれたのだ。
 だからいつだって俺は、目覚めればいつも同じ世界を導き出し、ゲームの中のセーブデータをロードするように、昨日と地続きの今日を描き出してきたのだ。俺にとっては素晴らしく完璧で手放したくないものだったんだと思う。振り返ったことも人生の総評をしたことはなかった。順風満帆とまではいかないけれども、それなりに上々だった。たぶんこれは、いまだからいえるのだろう。手のひらから零れ落ちるように、失いかけてから気づくなんて、本当に笑えない。零れ落ちてしまったものを急いで拾い集めたからって、元通りの形にすることは出来なかったし、こんないびつなものにしかならなかった。
 でも、いびつだって、欠けてしまっていたって、壊れてしまっていたって、俺の世界だった。これが俺の世界であり、これが俺にとってのすべてであり、これらが、俺の選択のすべてだった。独りよがりだっていうやつもいるのかもしれない。だが、それこそエゴイスティックな理想論者だ。だって、考えてもみろ。世界が滅びると言われてみれば分かる。この世界最後の一日にみんなどうすると、そんな手垢のついた質問をしてまわったならたぶん、家族と過ごすとか恋人と過ごすとか大切な人と過ごすなんていう、つまらないけれどもなによりも真摯な答えをくれるだろうから。
 そして俺も、俺も、その大多数の中の味気ない人間の一人にしかすぎなかったのだ。
 骸殻? 分史世界? クルスニク一族? 世界が滅びる? 
そのどれもが、余りに現実味のない、それこそ寝物語の世界の中みたいに、ぼんやりとしている。もちろん、心が動かされないわけではないし。どうにかしなければと突き動かされる心もある。でもそれは、このまま黒匣を使い続ければエネルギーが枯渇するという問題に似ている。環境問題を重く受け止める国民はたくさんいても、実際に黒匣を捨て去ることができた人間がどれくらいいるのだろう。つまりは、そういうことなのだ。
 そんな遠大すぎる問題を解決し、誰しもが掲げる世界を掴み取るためではなく、俺はずっとずっと自分の世界を守るために、ただただ自分の手の届く範囲、俺にとっての世界のすべてを守るために選び続けてきた。
 たくさんの世界を壊して、たくさんの可能性を見殺しにして、たくさんの夢と希望と嘆きと苦しみと悲嘆と恋慕と愛と命と始まりと終わりを奪って壊して幕を引いてきた。それはしょうがないことなんだと、自らの大切なものを守るために必要なものなんだと言い聞かせて、俺が立っている場所が正史であり、あのくすんだ作り物めいた世界は偽史でしかないのだと言い聞かせて、たくさんたくさんこわしてこわしてはかいして、この正史を救ってきた。ヒロイズムに酔っていなかったといえば嘘になる。だが、そんな安酒に酔うがごとき陶酔はとうに覚めた。もうそんな澱のようなものでは酔えやしない。クリアになってしまった頭には、情報過多の現状だけが刻み込まれていく。
 俺は、破壊した、壊した。すでに、それはほめられた行為ではないし、分史世界の人間にとってはそれが、俺たちの正史世界と等しいものなのだ。だから、俺の行ってきたことを正当化することは出来ない。償うことのできない罪だとはわかっている。俺は切り口をかえ、見方を変えれば残虐非道な侵略者でしかなかったのだ。抱えてきた大義名分は、結局俺たちの心を慰める偽善でしかない。そんなことをしてこられたのは、俺にどうしても守りたい世界があったからだ。だから堪えることができたのだ。
 だのに、それすらも壊してみせろと言うのか。ともに道行きをともにした仲間たちの守りたいものを守るために。彼らがいったい何を抱えているのかなんて知らない。もちろん察するにはあまりある情報をあたえられ、時を過ごしてきた。でも、それでも、そうだとしても、いやそうだからこそ、彼らの守りたいものを守った末に、俺の大切にしたかったものはいったいどうなるんだ。
 おれの、たいせつな、ひとは、いったいどうなるんだ。
 世界は、いつだっておれをいつくしみあいしてくれたにいさんはいったいどこにいってしまうと、そんなのはぜったいに、ゆるさない、うしなうなんてゆるされない。またこわすというのか。世界を守るためという大義名分をむねにだきながら。だからおれはこうかいなんて、もうこれしか、けしてゆるされぬとしても、もう罪などいまさら、絶対に守り抜けといったのは、守りたくてしかたなかったあの人だ。
 ぐるぐるとめぐる思考を咀嚼するように唇を噛み締める。乾いた喉の奥から血の味がした。そして連鎖的のよみがえる人を切り刻む感覚に胃液がこみ上げてくる。嚥下した唾液は、ただの一時しのぎ。己の犯した罪を忘れるなといわんばかりにがらんどうのこの場所を映し出す瞳を瞬かせた。
「ルドガー」
 乾いた声音。聞き慣れた声。苦しみの余韻を感じさせるそのふるえをいやす方法があるとするのなら、いますぐ教えてくれないだろうか。
 ゆっくりと深呼吸して、視界の端に瞬いた黒や金の髪、色とりどりのあでやかなそれらと、そしてそこに交じる朱を打ち消した。彼らだって大切だった。思い出があった。志があることも知っていた。だが、もう、これしか、いや違う。もう、何を言ったところで言い訳だ。選んだのだから、変えようがない。この世界を偽りだというのなら、それこそ俺にとっての偽史だ。奪う者は許さない。何を惑うことがあり、なにを振り返る必要があるというのか。疑心を打ち払うように頭を振ると、この世の苦行の全てを封じ込めたような声音が、もう一度俺の名を呼んだ。希うように。それこそ夢であってくれと、絶望の片鱗さえ感じさせるように。ごめんねと、ただ一度心の中でつぶやいて、暖かい色をした思い出たちを断ち切り、振り向いた。
 ぶつかった瑠璃色は、俺なんかよりもつらそうだった。自らが死ぬとその覚悟を吐き出したときよりも悲壮なそれ。いつだって、自分よりも俺のことを一番に考える兄さんは、ここまできたって変わらないのだ。それがどうしようもなく苦しくて、どうしようもなくいとおしかった。ずっとずっとこうやって何も知らぬままの俺のことを守り続けてくれていたのだ。どうして、そんなにもやさしい人を切り捨て踏み台にすることが出来るのだろうか。選択を誤ったと彼らは責めたてるのに、俺にとっての世界はこんなにも何一つ変わることなく俺を受け入れようとしてくれている。
「兄さん」
 いびつになることのないようにゆっくりと口角をあげると、泣く寸前みたいに眉根を寄せて顔を歪ませた兄さんがそれしか知らないみたいに、また俺の名前を呼んだ。ルドガーと、そう呼ばれるのがすきだなと、頭の隅でどうでもいいことを考える。
 分史世界と同じく壊して踏みにじったものに背を向けて、俺を受け入れてくれる世界へと一歩踏み出すと、突然兄さんがうめき声を上げて苦悶の表情をみせる。思うよりもはやく双剣を投げ捨てて地面を蹴り、地に膝をついた兄さんを支えた。触れた体は温かいというのに、兄さんが刻む時はいつ止まるとも知れないのだと思うと、胸の奥が苦しくて視界がぼやける。それを知られたくなくて、力なく頭を振った兄さんと視線が合う前に上出来とは言いがたい笑顔で上書きをする。
「ルドガー」
「うん」
 とどまることを知らない波音に、俺たちの声は飲み込まれていく。自分の声が震えていないか心配だった。だが兄さんは答えの見つからない問いを繰り返すように地面を睨みつけながら、俺の名前を呼ぶ。
「ルドガー」
「うん」
 いるように真っ直ぐに向けられた視線。その瑠璃色に映っているのは、いったいどんな表情を浮かべた俺なのだろうか。後に転がる屍を築いた殺人者たる俺なのか、選択を誤った愚かな男の顔なのか、あるいはユリウス・ウィル・クルスニクの弟たる俺なのか。一番最後の弟としての俺であればいいのにと思わずにはいられない。
「おまえは、」
 安堵とも諦念とも取れるような表情を浮かべた兄さんは、それが唯一許された言葉であるかのように俺の名を紡ぐ。それに答えるように兄さんに手を伸ばすと、思うよりも強い力でそれを握られて抱き寄せられた。ぐらりとゆれる体。兄さんの胸のおさまると、かぎなれた兄さんのにおいにたまらなくなる。この人がいる場所こそ、俺のいるべき場所なんだと、じんじんと体の端々までが疼いた。
「おまえは、ばかだ」
 耳朶を擽る声音は、昔から兄さんが呆れたときにもらす声色。罵りとも取れる言葉なのに、その台詞を聞けるだけで嬉しかった。だから、噛み締めるように、繋がったままの手のひらを握り返す。
「ばかで、いいよ」
 答えの代わりに、背中に回された腕に力がこもる。俺たちの間の距離は簡単にゼロになる。いままで、この距離を埋めることができなくて苦しんでいたというのに、こんなに簡単なことだったんだ。首筋を撫ぜるあたたかい吐息に身をすくませると、逃れることを許さぬとでもいうかのようにぎゅうと抱きしめられる。
「もう選んだんだ」
「ああ、本当に。ばかだよ。俺もおまえも。でも、これもまた、俺が望んだ世界、か……」
 滑り落ちた兄さんの言葉に、胸のうちがざわめくのが分かった。兄さんも、俺を望んでくれていたのだと思えばこそ、これが俺だけの独りよがりではなかったのだと思えばこそ、もう振り返らぬと心に決めていたその裏で道を見失った幼子のように震えていた自分が満たされ安堵する。兄さんに、拒絶されることがなくてよかったと。
 返り血で汚れてしまうことも恐れずに抱き締めてくれる兄さんの腕の中は幼いころから変わることのないぬくもりをもっていて、なによりも望んだ安らぎに満ちていた。
兄さんの肩越しに見上げた空は、俺たちの新たな道行を祝福するつもりもないどす黒く不穏な色をしていた。まんまるな月のように浮かぶ胎児の揺りかごのなかから、誰かが俺を呼んだような気がした。嘆き悲しむようなそれに、一瞬、耐え切れないほどの悲しみを感じる。だけれども、それを掴み取るために俺を包み込んでくれているこわいくらいにやさしい人を犠牲になんてできない。もう、どうしようもないんだ。もうこれしか、俺には残されていないんだ。だからと、すがりでもするように兄さんの肩に顔を埋めて、ここにはいない誰かに言い聞かせる。
「そして、俺が望んだ、世界なんだ」
 なにを捨てても、破壊しても、踏み潰しても、打ち払っても、手を伸ばし掴み取った、選択の果てに望んだ世界なんだ。





 帰ろうと、先に口にしたのはどちらだったのだろうか。
兄さんだったのかもしれないし、俺だったのかもしれないし、もしかしたらルルだったのかもしれない。でも、なによりも俺たち兄弟にとっての幸福の象徴は、トリグラフのあのマンションの一室にあった。
 人払いがしてあるからといって、いつまでも動きがなければおかしいと思われるだろうと、返り血を拭って出来うる限りの身なりを整え痕跡を隠し、自分達の存在を消し去るようにしてトリグラフへともどってきた。幸運にもいつもはかしましい大家さんは近所の人たちに鉢合わせることはなく(これは本当に運がいいとしかいえない。あの人たちに会ったのなら、明日のうちにはトリグラフ中に噂が回っていてもおかしくないのだ)、もちろん時間を選んだせいもあるが、無事に我が家へともどってくることができた。
 ずっと俺のそばを離れることなく、ルルと間違えているんじゃないかと思うくらいに、頭を撫で回してくれていた兄さんをひっぺはがして部屋に押し込むと、恨みがましい視線を向けられたが、男のそれも弟の頭を撫で回していて楽しいことがあるとは思えないし、時歪の因子化が一般の病気と同じなのかは知れないが、座って無為なことに時間を使うよりもベッドの上で寝てくれていたほうが体にいいのは確実だろう。
「反抗期か」
「なに言ってるんだよ。もうそんなの、とっくの昔に通り過ぎた。兄さんのほうこそ、子供返り? 大人しく寝ててよ。いまから、食べられるもの作るから」
 そういった途端に、口火を切ろうとした兄さんの先手を取って、トマトソースパスタは駄目だからなというと、わかりやすく納得がいかないというかのように目を細められてしまった。
「まだ本調子じゃないんだから。リゾットか何かで我慢してくれ。明日になったら、なんでも兄さんの好きなものをつくるから」
 お願いだよと首をかしげて兄さんの枕元を覗き込むと、じいっと瑠璃色の瞳に見つめられて落ち着かない。兄さんの目はこんなにも鮮やかな色をしていただろうかと、いまさらみたいに思った。
「約束だ」
 真面目くさった顔をしているくせに、論議の内容が食事のメニュー。その釣り合いのなさに思わず破顔すると、兄さんも俺の隣で肩を揺らして口角をあげた。まるで、もうもどらない過日をなぞるかのように、わざとらしく演出された明るい日常。もうもどらないからこそ、作らねばならないのかと思うと、痛いほどにこれがかりそめでしかないということを突きつけられる。それでも、どうしようもないくらいに、俺が望んだ世界。望んだ時間。だから、詰めていた息を吐き出して、まっすぐに見つめ返す。
「大丈夫、約束だよ」
 そう、約束なんだと、自らに言い聞かせるように口の中でたった四文字の言葉を転がして、かつて少女と交わした大事な大事な約束を上書きしていく。そう、これが、いまの俺にとっての、破ることのできない約束なんだと、手のひらを握り締める。すると、上体をベッドから起こした兄さんが、僅かな迷いを見抜いたように、まだ時歪の因子化が進行していないほうの手のひらで、俺の頬を撫ぜた。俺なんかよりも迷いを如実にあらわした兄さんの表情に、唇を噛み締める。こんな顔をさせたいわけじゃないんだ。これは、俺に与えられた、この身にあまりあるこの世の甘いものすべてで包み込まれるような世界が明日も続くのだという約束なのだから。兄さんは明日も俺の作ったものを食べてくれるのだという。だが、軽く頭をふった兄さんは自らの罪を吐露するように、逡巡の後に口を開いた。
「おまえが、どこまで俺の残した記録をたどったのか知らない。本当は、おまえのことを利用しようとしていた、最低な兄なのかも知れないんだぞ」
 それでもいいのかと、自分なんかをえらんでよかったのかと、壊れ物にでも触れるかのような兄の手のひらが言外に問いかける。
 よみがえる無機質な兄の声。Jコードと呼ばれるそれらは、たしかに兄さんが俺を利用しようとしていた証拠なのだろう。だが、そこにあったのは裏切りへの憎しみではなく、俺がのうのうと何も知らずに生きていた頃に、苦しんで苦しみぬいた幼い兄さんの姿だった。それに気づけなかった自分を悔やむことがあれど、どうして憤ることが出来ようか。そして、記録じゃ覆せないほどに、この人は、ユリウスという人は、俺をあいしいつくしんでくれたのだ。それを疑うことなんてない。そんな選択こそ、俺が兄さんを裏切るということに他ならなかった。
 頬に触れていた兄さんの手をとって、そのまま兄さんを抱き締めてその肩に顔を埋めた。二人分の重みにベッドのスプリングが軋む。うまく言葉にならない。気持ちだけは先走るように湯水のごとく溢れてくるというのに、なんといえば兄さんに伝わるのか分からなかった。だからせめて、この気持ちがうそではないのだということを伝えたくて、その体を抱き締める腕に精一杯の力をこめる。
「苦しいよ、ルドガー」
 泣き笑いみたいな声が、鼓膜を揺らす。兄さんと、その名を呼ぶと、俺にとって世界で一人の兄は、日向のようにやさしい手のひらで俺の頭をなでてくれた。
「兄さんが、俺のことをあいしてくれていたのは、知ってるから。だから、自分のことを否定しないでくれよ。俺の大切なものを、否定しないで」
 喉の奥が苦しくて、目の奥が熱い。悲しいからなのか、しあわせだからなのか、すべてがない交ぜになってもう判別がつかない。それでも、俺の真摯な願いを受け止めるように、兄さんはただ小さくすまないと、囁いた。ばか、違うだろと仕返しみたいに兄さんの頭をぐしゃぐしゃとなでると、そうだなと鼻にかかった声が聞こえたあとに、ありがとうとかすれた声が耳朶に触れた。感情の揺れを感じた言葉を封じ込めるように、大切に嚥下して身のうちに飲み込む。もう、消えてしまうことがないように。
「じゃあ、食事つくってくるから」
 子供じみたことをしている自覚はあったから、恥ずかしくて兄さんの顔を直視することができなくて、逃げるように立ち上がると、そのまま俺を呼び止める兄さんの声も振り払って部屋を飛び出した。
 ありがとうと、その言葉だけで生きていけると思った。
俺も兄さんからもらったたくさんのものを少しでも返すことができたんだと、歓喜に唇を噛み締める。だから、慈しむべき幸福を打ち壊すように無遠慮な電子音を発したGHSを取り出して、躊躇いなくそれを破壊することができた。
 発信者はノヴァ。彼女に恋焦がれた時期もあった。だが、いまは必要のないものだ。いや、兄さんと生きていこうと思ったならきっと重荷になる。やさしい兄さんに、いらぬ心労をかけてしまうかもしれない。そして、いつまでもこの場所にはとどまれないということも分かっていた。だから、俺たちの足取りを知られるわけにはいかないし、そういう意味でもGHSは邪魔でしかなかった。じゃあ、捨てるだけだ。もう、選ぶことに逡巡はない。むしろ掴み取ったものを一欠けらでも、一粒でも、取り落としてしまうほうが怖かった。
 使い物にならなくなった、ただのスクラップをゴミ箱に捨て去って、俺にとって世界で一番大切な人のために台所にたつ。よく考えてみれば、剣を握るよりもこうして兄さんに喜んでもらうために包丁を握るほうが俺はすきたったのだ。
 トマトソースパスタがいいと駄々をこねたって、結局俺が作ったものはなんだっておいしいといってくれる兄さん。それこそ、俺の幸福だったんじゃないだろうかと思い至って、その単純だけれども、難解な解に至れたことに、そしてまたこの場所にもどって来れたことに、こわいくらいに満ち足りたしあわせの片鱗を見た。






作成 12・11・21
更新 13・02・25