【 傀儡の見る夢 移動要塞ヘラクレス 】
 
 
 境界が、曖昧だった。
 ふわりと意識が浮き上がったかと思うと、驚くほどのあっけなさで落下していく。
どこまで落ちていくのかも分からないのに、その落下速度は俺を安堵させていった。深い深い場所へと墜落していく。
その深度が進むに連れて、俺というものは泥のように重くなり、自分を保っているような、どこかへと解けていってしまうような、
曖昧模糊としたものへと変質していく。薄れて、何かに融合して、さながら大きな流れの中に飲み込まれていくような感覚は、
酷く優しく俺をいざない、安らかな気持ちを与えたくれた。
 ぐわんと意識が揺れて、一瞬分からなくなった。
だが、何が分からないのかさえも分からない。意識は断続的で、いつもいまこの瞬間が起点だった。
だから、それ以上も以下もない。現在進行形で認識できるこの場所しか存在していなかった。
つかみどころのない意識とは対照的に、足元はしっかりと地に着いていて、靴底を通して硬い地面の感覚が伝わってくる。
個を失ってしまったわけではないのだろうと、おかしなほどに落胆している。
自分でもその落胆の感情がどこから湧き出てくるのかを説明することはできなかった。
だが、じわりじわりとにじみ出るように、後から後から自己を主張するように、吸い込む酸素に混ざりこんででもいるかのように、
俺の中を占拠していく。
 そんな俺をあざ笑うかのように、かび臭さが鼻についた。ついで、泥臭いにおい。
長い間閉鎖されていた空間は、どこからともなく腐臭とも泥臭さともとれるにおいがした。
呼吸をするたびにそれが肺の中に充満して、心地いいとはいえない。
「あなたは、本当にこれでいいのね?」
 か細いのに、よく響く声色が、薄暗い中に木霊した。ただそれだけで、今の今まで掴みどころのなかった事物たちが固定されていく。
自分という存在が輪郭を保っていることを、他者の存在を通して確信した。だが、ここには俺以外の人の気配はない。
だけれど、確かに声がした。背後から、まるで忍び寄るように。聞き覚えのあるそれに、一気に心の中がざわめいていく。
自分の中に思い浮かんだ女性の名前を否定するように唇を噛んで、
否定したいんだか肯定したいんだか分からない自分の衝動に突き動かされるように、振り向いた。
「本当に、これでいいの? ねえ、シュヴァーン」
いやにゆっくりとした動きだったからだろうか、まるではやくはやくとせかすように、もう一度彼女が口を開いた。
そして声帯を揺らした。息をつめ、目を見開く。視界の端に映る栗色の髪。
それは、ああ、それは、もしかしたらと、もう手の届かないところにいってしまった彼女の残滓なんじゃないかと、
逃さないとでも言うかのようにとっさに手を伸ばした。


名を呼ぶよりもはやく掴み取ろうとした瞬間に、ふわりと香る、甘い花の香り。
だが、それは掴みどころのないままに、立ち消えてしまう。
それを合図の代わりにするように、栗色が黒に変わり小柄な影が自分よりも長身な男へと変化した。
掴んだのは、彼女の手のひらではなかった。剣を持ち、前線で戦う荒れた男の手のひらだった。
「何て顔してるんだよ」
 聞いたこともないような、穏やかな声色。そして、優しく細められた瞳。
小さく傾げられた首に沿うように、艶やかな黒髪がさらりと揺れていく。視界に広がる薄闇には混じることもない、美しい黒。
同じ色をした黒曜石のような瞳も、粗野な彼には不似合いな落ち着きと慈愛のようなものを浮かべていた。
 これは、誰だ。
 前後不覚の記憶を手繰り寄せるように、目の前に人物を睨みつけるが、彼はまったく怯んだような様子は見せないで、
一歩ずつゆっくりとこちらへと近づいてくる。そのたびに、ぼんやりとした記憶がはっきりとして、
ベールに包まれたように散漫としていた視界の曇りが晴れていく。
「どうしたんだ?」
よく知っているのに、噛みあわない。よく知っている男のはずなのに、誰なのか分からなくなってしまった。
だって、こんな顔をして笑うなんて、こんな優しい声で俺に語りかけてくるなんて。
いや、そうじゃなくて、彼女が彼に変わってしまうなんて。
自分を落ち着けるようにゆっくりと呼吸を繰り返す。ぱちぱちと瞬きをした彼が、その真っ黒な瞳に俺を映して、そして小さく笑った。
「何て顔してるんだよ。具合でも悪いのか?」
「えっ」
 困惑の声をあげるよりも先に、ひんやりとした手のひらが俺の頬に触れて、そしてまるで赤子をいさめるような穏やかさで両頬を包む。
優しいのにどこか無機質なそれに、違和ばかりがつのっていく。
「それとも」
 ぐいっと、距離が縮まった。怯むように腰を引こうとしたが、頬に添えられている手がそれを許してくれない。
彼の手のひらが俺の頬に触れたまま、今までで一番近い距離で黒い瞳が瞬いている。
それこそ、この距離が至極当然とでもいうかのように。
「それとも、まだ迷ってるのか」
 迷うって、いったい何を?
 彼が問いかけてくることに心当たりがなくて、ただただぼんやりと目の前に広がっている黒を見つめることしかできなかった。
何もかもを飲み込んでしまうような黒色は、すべてのものを染め替えていくような求心力があった。
 頬に触れていた手のひらがそのまま下にさがっていく。首筋をなぞり鎖骨に触れて、鼓動を刻んでいる胸の中心に到達したとき、
目の前にいた彼が、ぞくりとするくらい優しく、俺に微笑んだ。
そして、俺に向けられることなんてないであろう甘い声で、俺の名前を呼んだんだ。
 そう、シュヴァーンと、彼が知ることのない俺の名前を。
「シュヴァーン、あんたは、本当にこれでいいのか?」
 低い彼と、明るい彼女の声が脳内で重なるような気がした。
 まったく違う声色なのに、まるで機械か何かのように同じことを繰り返し問いかけてくる。
本当にこれでいいのかと。言外にお前は間違っていないのかと。でも、この俺に選択権なんて残されていないんだ。
ならば、彼や彼女の問いに何の意味があるのだろうか。
 俺の胸に触れる彼の手のひらに何の意味があるのだろうか。
「なあ、シュヴァーン」
 ああでも、これは夢だから、こんなに頭を悩ませる必要はないのかと、心のどこかにいる俺が笑った。
だってそうだろ、彼が、ユーリが俺に対してこんなにやさしく微笑むわけがないのだから。
こんなにも当たり前のように、俺に手を伸ばしてくることなんてないのだろうから。
だって、俺は何のためにこの青年の隣にいるのかを考えてみろ。そこまで考えて、はたと気づいた。
 そうだ、俺は、なんのために、この青年と一緒にいるんだっけ。答えのわかりきった問い。
なのに、答えを手の届くところで見つけることができなくて、変わることなく優しく微笑んでいる彼を見た。
視線が合ったことで笑みを深くした男は、もう一度はっきりとした声で俺の名前を呼んだ。
「なあ、オレを殺すこと、まだ迷ってるのか」
 ぬくもりのあった優しかった笑顔が、能面のような色のない笑みに変化して、冷たい言葉が彼の口から滑り落ちた。
 まるで、ナイフみたいに冷たい言葉が。
 その冷たさに気圧されるように、一際大きく、まがいものの心臓が脈打ったような気がした。


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 【 二人で見る“ゆめ” 古代塔市タルカロン 】
 
 
 突如としてアスピオの上空付近に現れたこの浮遊都市は、タルカロンというらしい。
都市が浮いているだけでも、なんだか御伽噺の出来事のようなのに、これは古代都市でしかも星喰みに対抗するための力だというのだからなんと
リアクションしたらいいのかわからなくなる。まあ、この俺自身も心臓の代わりに魔導器を組み込まれていると考えるなら、
このタルカロンと同じように十分常識はずれな存在かもしれない。
「これ、どこまで登ればいいの」
 ここの扉をくぐる前にも思ったことなのだが、いくら見上げても終わりが見えない。
そして、曖昧な時間間隔の中で疲労感を主観とするのなら結構上ってきたように思えるのだが、やっぱり階段の終わり、
ゴールと思わしき場所は見つからなかった。
 俺としては、全員の気持ちを代弁するようなつもりだったのだが、
終わりが見えないレースの中ではいつ終わりが来るのかという類の言葉は弱音と取られてしまうらしい、
少し前を嬢ちゃんと一緒に歩いていたリタっちが酷く冷たい目をしてこちらを振り返った。
ただそれだけのことなんだけれど、いままでの経験から次にどんな言葉が待ち受けているのかを予測できる。
そして、たぶん、俺の予測は外れない。
「嫌ならいまから戻ってもいいのよ。その代わり、一人でだけど」
 ビンゴだ。やっぱりくると思った。
「あら、おじさまも別に疲れたから離脱したいって意味で言ったわけではないんでしょう」
「わたしたちも疲れたのは確かですから」
 リタっちの後ろを歩いていたジュディスちゃんが、やさしい微笑みを浮かべて俺様のことをフォローしてくれる。もちろん、嬢ちゃんもだ。
「ジュディスちゃんと嬢ちゃんの言うとおりだよ! こっちは人生十分生きてきた感じのおっさんなのよ、
まだまだ元気に永久機関をつんでるちいさな魔導少女と比べないでちょうだい」
「ちょっと、いまどこ見てちっさいって言った!」
 俺の言葉選びが悪かったのか、視線の先が悪かったのか、人の目を見て話すときは目と目の間くらいを見るのが緊張しなくていいという
鉄則を応用して、女性の場合は胸の辺りを見るようにしていたんだが、それが悲劇を呼んでしまったらしい。
「そんなー、セクハラみたいなことしませんよ。心のきれいなおっさんは」 
「何が心のきれいなおっさんよ。もう一回目を見ていってみなさいよ!」
 ここは俺の誠意が問われているような気がしたので、少し歩くスピードを上げてリタっちの隣に並び、
何のためにか握りこぶしを作ってるその手のひらを握って、チョコレート色の瞳を覗き込んだ。
「ほら、曇りのない目をしてるでしょ。こんなおっさんが女性が嫌がるようなことを言うわけないじゃない」
 おいしそうな色をしている瞳は、美味しくなさそうな感情の色を浮かべて大きく見開かれ、あっと思った瞬間には、
握っていたはずの手のひらを振り払われて右頬に衝撃がはしった。少し遅れて、殴られたのだということを理解する。
「いったー! 殴ることないじゃないの!」
「殴りたくなるようなことをいうな!」
 頬を押さえてリタっちに応戦ると、それを見ていた嬢ちゃんは困ったように首を傾げ、
ジュディスちゃんはいまのはおじさまが悪いんじゃないかしらとやさしく微笑むだけだった。
ああ、やっぱりジュディスちゃんはどんなときも綺麗だ。
 よそ見していたのが気に入らなかったのか、リタっちの拳がもう一度、今度は俺の左頬に迫ったときに、
いつの間にか足を止めて騒いでいた俺たちのことを少し先で待っていたカロル君たちの静止が入った。
「おーい、あんまり離れて迷子になると困るから、早くきなよ」
「あー、悪い。いまいくから!」
 好機とばかりに、リタっちの攻撃圏内から脱出して距離の離れてしまった先頭集団を目指して歩き出す。
後ろから地団駄を踏むような音が聞こえた気がしたのだが、たぶん気のせいだろう。
むしろ、胸の辺りに目を向けて小さいといわれただけであんなに過剰反応するのは、リタっちにもよくないところがあるんじゃないだろうか。
別に、小さいのだって悪くない。ステータスだ。そんなこといったら、本当に殴り殺されそうではあるけれど。
 カロルくんのすぐ後ろまで追いつくと、その横をリタっちがすごいスピードで追い抜いていった。
慌てたように嬢ちゃんも早歩きしていくのだから、なんだか申し訳ない気分になる。
「ねえ、レイヴンって緊張したりしないの?」
「え、何が?」
 カロルくんの言っていることがよく分からずに問い返すと。まだ十代の子供には似合わぬくらい表情で胃の辺りを押さえ深いため息をついた。
「なんだか、見たこともない魔物もいるし、いったいどこまで続く建物なのかも分からないし、不安が多いよ」
 ある意味で誰よりも大人びていると言えなくもないカロルくんの胃痛の主張は分かるような気もしたが、
まあここまできたのならそんなことで悩んでも仕方ないじゃないの、と肩を叩いておしまいだ。
「こんなときだからだよ。いつも通りでいいじゃないの。いつまでも緊張してたら身が持たないわよ」
「それにしたって、レイヴンたちはいつも通り過ぎるんじゃないの? あんまり大声を上げて魔物に気づかれるのも嫌だし、ちょっとは注意してね」
「わかってるわかってるって。それよりも、リタっちたちがすごい勢いで進んでるんだけど、あれって大丈夫なの?」
 どんどんと小さくなっていく背中を指差すと、カロルくんがさっきまでの俺たちにも負けない大声を上げてよくないよと叫んだ。
「ごめん、ユーリ! しんがりお願いね。ボクはリタたちを止めてくるから」
 返事を待つことなく駆け出したカロルは、バタバタと大げさな足音を立ててリタっちたちの背中を目指して走り出した。
そして、いままでだんまりを決め込んでいたユーリは、俺の隣に並ぶと、あきれたように小さくため息をついた。
もちろんどの隣には彼の相棒のラピードが歩調を合わせて並んでいる。その口元では、いつもと同じようにゆらゆらとキセルが揺れていた。
「なによ、青年」
 ため息の理由を問うように視線をやると、ユーリが握っていた剣を自己主張させるようにふらふらとさせた。
だが、そこから何を伝えたいのかはまったく理解できなかった。まあ、その行為には何の意味もなさそうだから勿論か。
「いや、カロルも言ってたけど、本当にいつも通りだなと思って。頬ちょっと腫れてるぜ」
 言われて、まだ右の頬がじんわりとした痛みと熱を持っていることを思い出した。
こういう類は、後から後から痛みが酷くなっていきそうなので、できることなら思い出したくなかった。
触れてみるだけでは分からないが、本当に腫れていそうだから怖い。次に魔物と戦ったときに回復術をかけてもらえれば、
ついでにこの痛みも引くだろう。
「あれは、後衛のパンチ力ではないわ」
「あんたが自爆しにいったようなもんだろ」
「いや、他意はなかったのよ本当に。ただちょっと視線の先というトラップに引っかかっちゃっただけで」
 まだ熱を持っている頬から手を放して、走っていたカロルくんを視線で追う。
リタっちたちに合流して、正常なスピードへと矯正させたのか、俺たちとの間の距離はそれ以上引き離されることはなかった。
 確かに、こんなところで離れ離れになって迷ってしまったら、どうやって連絡を取ればいいかわからない。
こちらも、先頭組みを見失うことがないように歩幅だけはあわせて歩いていく。
 全体的にほの暗く、見通しがいいとはいえない。外から見れば古代と名がつくのも分かる気がするが、
建物の中身は今の技術からは考えられないような高度に洗練されたものだった。
だた、洗練されすぎていて機械的というか酷く冷たい印象を受ける場所もあって、あまり俺のセンスとは合わないようだ。
 古代ゲライオス文明。本や教科書、そして伝説の中でしか聞いたことのないそれは、
俺たちが思っていたよりも何段階も上をいくような技術を持ち合わせていたのだろう。