まっくろな瞳が俺をみた。
俺以外を映さないまっくろな瞳。
 仄かな室内灯に照らされて、艶々とした光を宿したそれは、人間のもというよりも人形の眼孔の中にはめ込まれている鉱物のようだ。

物言わぬ無機物の雰囲気をまとっているのに、黒々としたそれは、普段の彼よりも饒舌に語りかけてくるから不思議だ。
 直接的ではなく間接的に、無言の視線が何かを語りかけてくる。
 何かってなんだ?
 一日の労働で疲れ果てた頭と体ではもっともらしい答えを用意することはできない。
じっと見つめ続けられるのも変な感じなので、咳払いを一つしてユーリの気を引こうとしてみたが、全く効果がない。もう一度同じことを繰り返してみても、

夜闇を受けて薄暗くなった室内に、俺の咳払いが虚しく木霊しただけだった。
自分だけが躍起になっているようで恥ずかしくなり、誤魔化すようにベッドの上の枕をはたいて使いやすい位置を模索してみたりする。

その間も、背中がむず痒くなるようなユーリの視線を絶えず感じていた。
「あのー、俺様がなにかいたしましたでしょうか」
 我慢比べのような状態に耐えられなくなり、白旗を揚げるように口を開くと、ユーリがぱちくりと瞬きをして、俺をみた。

その口元は、にやにやとした嫌らしい笑みを浮かべている。なにが、人形みたいな無機物だ、嘘ばっかりだ。これは、人間独特の嫌みな笑い方じゃないか。
「べつに」
 あの視線の答えを与えられるかと思ったのに、別には回答になってない。なにその、反抗期の子供みたいな反応。
「べつにって……」
 青年の域へと達しているユーリには不釣り合いな幼っぽさに、質問したはずの俺の方が返答に困ってしまう。
 そのもの言いたげな視線みたいに簡単に話してくれればいいのにと思った。

でも、俺が気がついたと同時に今までの視線を裏切るかのように、無関心を装って、手元で何かをもてあそんでいる。
 小さなそれは、ユーリの瞳と同じように室内灯の光を反射してきらきらとした光を放っていた。

違うのは色くらいだ。真っ黒ではなく、真っ赤。それこそ血のように深い赤というわけではなくて、安っぽいからこその映えるような赤だ。

いったい何なのかはわからなかったが、その大きさとは反比例な自己主張をしていた。
 黒い瞳と真っ赤な石。心地よい微睡みが手招きしている中で、ふとしたフラッシュバックを感じた。

確かな感覚も手応えもない。ぼやけた輪郭だけが脳裏に浮かぶ。
 ああと思った瞬間に、自然と口が動いていた。
「ねえ、どっかであったことない?」
 ユーリは驚いたように目を見開いて、静かに動きを止めた。
そんなに目を見開いたら黒曜石のような瞳がこぼれ落ちてしまうんじゃないかと、場違いな心配をしている自分に笑ってしまう。
 ユーリの動きが止まり、見開かれた瞳と同じように、閉じていた手のひらが開かれたことで、赤色の何かが正体を現した。

一目で銀メッキとわかるリングに、自ら偽物ですと公言しているような人工の赤い石。小さな女の子が喜びそうな玩具の指輪だった。
「あんたと俺が? いったいどこで」
 純粋なで疑問としてではなく、まるで試すような物言いに、消化不良のようにもやもやとした物が残る。

だけど俺は、ユーリからの挑戦に、正解と思わしきものを突きつけることはできそうもなかった。
 どこであったかだって?
 そんなこと俺が聞きたいくらいだ。
眠気で頭がぼんやりしてるせいで霞がかったような頭の奥では、確かにそのまっくろな目が俺のことを見つめていた。

こぼれ落ちるんじゃないかというくらいに見開かれたそれは、いつどこで見たものなのか。既視感ばかりが先走り、上手く思い出すことができない。
 助けを求めるようにユーリの方をみると、待ち人を待ち望んでいる子供のようなまっすぐな視線とぶつかった。

そこには、期待じみたものが含まれているようで、思い出せないことに対する苛つきが増した。
「あーどこだっけ。もう少しで思い出せそうな気がするんだけど」
 どう頭を捻ってみても、それらしい残像さえ掴むことができない。俺の気のせいなのか。

そうだとしても、既視感が強すぎる。昨日今日のことではない。じゃあいつだ。
 自問自答を繰り返し、うんうんと一人で頭を悩ませていると、わざとらしいため息とともにユーリが肩をすくめた。

呆れというよりは茶化すような色合いが強いその表情からは、誰かを待ち望んでいた子供は姿を消し、いつも通りのユーリがいた。
「あんたさ、それすっごい安っぽいうえに、百パーセント失敗するナンパみたいだからやめた方がいいぞ。もう少し捻った台詞でも考えたらどうだ?」
 これ見よがしにもう一度ため息。
いつの間に、俺がユーリをナンパしたことになっているんだ。その変遷を一から優しく教えてほしい。
「ナンパ……」
 見に覚えのない称号と、勝手に評価されて俺の技量にガクリと肩を落とす。

一気に疲れが押し寄せてきた。これじゃあいくら考えたって、既視感の正体を探り出すことはできないだろう。そのうち、変態のレッテルでもはられそうだ。
 いくらユーリが男の中でも美丈夫な部類に入るとはいえ、こんな見え透いた手で気を引こうとするわけがない。

むしろきっかけを作ったのはそっちの方じゃないか。
 頭の中ではいろいろな反論がかけ巡っていくが、口にできたのはせいぜい半分くらいだ。

疲れた体には、口論を持ちかけることも嫌味を交わすことも消耗が激しすぎる。
「いつまでもおっさんのお相手をしてる訳にはいかないから、もう寝る。あんたも若くないんだ、はやく寝た方がいいぜ」
 最後の一言が余計だ。言われなくったってそうするに決まっている。むしろ、就寝間際にユーリの相手をしたことでどっと疲れが押し寄せてきた。
「はいはい、俺なんかの相手をさせてすみませんでしたね。おやすみなさい、ユーリくん」
「おやすみ」
 俺の疲れと歯の隙間に物が挟まったような煮えきらなさなど知らずに、ユーリはベッドの上へと転がり布団の中に潜り込んだ。

俺の方から見える黒髪は白いシーツの上に広がり、艶やかな光を帯びている。

僅かにのぞく寝顔は無意味なくらいに整った顔の造りをしているせいで中性的な美しさを感じさせる。

なにも知らなければ、俺でもナンパしてしまうんだろうか。いや、豪快なユーリ相手に、血迷った考えとしか思えない。
 でもやっぱり、普段の彼のことなんか知らないふりをして一歩距離を置いてみれば、ユーリは十分に綺麗という言葉の範疇にはいっている。

真っ黒な髪と真っ黒な瞳。戦闘で操る剣術は演舞のようで、戦いというフィールドに身を置きながら、見ているものを圧倒するような不思議な魅力があった、
それ以上に彼の内面が彼自身の魅力を強く感じさせる。魅かれるなら、たぶんその内面だ。ユーリをユーリたらしめるゆえん。

だから俺は、いまも捨てたつもりでいたものにすがって、ここにいるのかもしれない。
「阿呆らしい。俺様なに考えてんだろ」
 白々しい言い訳にも思える自分の言葉が、静かな室内を上滑りしていく。残響も残らず消えたはずなのに、心の中に訳の分からない後ろめたさを残す。
「もう、寝よ」
 いつまでも尾を引く後ろめたさを打ち消すために、誰にともなく宣言して枕を整える。自分を平常心へと戻すために必死になっているようで気持ちが悪い。
 この部屋の中でなんの悩みもなく眠りについているカロルと、ご主人様のことなど知らずに悠々自適の休息をとっているラピードが恨めしかった。
 だけど、どれだけ恨めしく思ったって、俺の想いが報われることはなさそうなので、

俺も彼らに倣って終わりのない思考を放棄し、ユーリと同じようにベッドに潜り込む。
呆気なく思考は断たれ、潔いまでの早さで心地よい微睡みが俺の意識をさらっていった。