例えばの話だ。
 例えばの話、目の前に怪しい宗教家が現れて、自分の信じる神について切々とその素晴らしさを説いたとしたなら、

俺は類稀なる信仰心と、正直面倒だから帰ってくれないかなといく気持ちを込めて、

仏教徒なのでと言って玄関のドアを半強制的に閉めるだろう。
 もしも、未来有望な若者が、神を信じなければ世界は滅ぶと、ある種過激な発言をするというのなら、

君の信仰心で世界を救ってくださいとお願いして帰っていただくか、警察に連絡して強制退去してもらうだろう。
 もしも、本当にもしもの話ではあるけれど、目の前に天使とかいうものが現れたとするなら(俺は生まれてこの方、

一度も宗旨替えを考えたことのない仏教徒で、天使に特別な思い入れがあるわけでもなく、本当にもしかしたらの話だ)、

美人だった場合は彼女の身の上話を聞いてご飯ぐらいはご一緒して、男だった場合には思い立ったが吉日とばかりに一一〇番通報して、

一人の変質者を更生させるという、天使かそれに近いものの偉業を成し遂げることだろう。
 これは全て例えばの話であって、もしもそんなことがあったらという、暇な三十代の妄想でしかないわけなんだけれど、

妄想が現実になった場合はどうすればいいんだろうか。そう、この目の前で。半笑いで考えていたことが現実になった場合は……。
「おいおっさん、聞いてるのか」
「え、あ、うん」
「なんだよ、その煮え切らない返事は。だいたい、客が来てるって言うのに、お茶とお菓子もでねえのか」
 客というのは、俺に約束を取り付けて玄関から入ってきた人間のことを言うはずだ。

いやいま考えるべきはそうではなくて、いや、うんそうじゃないはずだ。

お茶うんぬんじゃなくて、俺の目の前にいるこの生物がいったい何なのかということだ。
 換気のために開けていた窓から急に侵入してきた生物は、俺の家の持てなしのなっていなさに酷くご立腹しているようだ。
 男(推定)には不似合いなくらいに長い黒髪を結うことなく後ろに流して、

ダイニングのテーブルに肘を着いて俺の目の前の椅子を占拠している。手も足も二本あって、身長は俺よりも高く、

目は墨汁でもたらしたかのように真っ黒だった。それなのに、肌は男にしては白く、着ている服も最近の流行から逆行しているというか、

それを着て外を歩くのは少々羞恥を覚えるんじゃないだろうかと思えるというか、すごくファンタジーな感じのローブだった。

これも真っ白で、少しでもしみが付いたら、それだけでよく目立ちそうだ。
 いや、一番の問題はそんなところじゃない。
ちょっと服装がおかしくて、窓から入ってきたぐらいなら、頭のかわいそうな変質者ということで片がつく。

問題はそんなにかわいいものじゃなくて。そして、そんなに甘いものでもない。
「本当に話しに聞いたとおりの駄目なおっさんだな。あんたがそんなんだから、オレがここに来てるんだぞ、わかってるのか?」
 すごくすごく失礼なことを言われている気がする。
だけど、その失礼さに腹を立てる余裕もないくらいに、俺の頭の中は混乱していた、それこそ、

いますぐに壁に頭をぶつけてこの夢から覚めますようにと神さまに祈ってもいいくらいには。
 返事のない俺に黒髪の男が怒りをあらわにするたびに、背中にある、その、なんていうか、白いふさふさしたというか、

ふわふわしたというか、なんとも口舌しがたいものが、作り物にしては巧妙な動きをみせた。
「あのー。お一人で盛り上がっていらっしゃるところ申し訳ないんだけど、お宅何者? 家を間違えてないかな。

ちなみに、まだ日本は入梅もしてない六月上旬で、ハロウィンには早すぎるんだけど」
 俺の精一杯の突っ込みに、目の前の男ができの悪い生徒を見るような目でこちらを睨みつけて、大きなため息を付いた。

男にしては造作のいい顔をしているせいで、少し不機嫌な素振りを見せられただけで無駄に迫力がある。
「だーかーらー。あんたが本当になんていうか駄目な感じにしか生きてないから、オレが久々に現世に呼び出されたんだろ。

オレだって優雅に昼寝して、たまに剣術の練習して、気楽に暮らしたかったのに、おっさんがまじでだめなおっさんだから、

フレンとかハンクス爺さんに無理矢理ここに突き落とされたんだよ! 統合するとあんたのせいだ!」
「なにその乱暴な言いがかり。だいたい、おっさんおっさんって、俺の名前はおっさんじゃないわよ」
「知ってる」
 テーブルに肘を着いていた左手を伸ばして、中央に置きっぱなしにしてあった季節はずれの蜜柑をもてあそばせていた男は、

つまらなさそうにため息をつくと、真っ黒な瞳で俺を射抜いた。

言動と格好から正常な人間でないと知れるが、こうやって正面から見つめられるとへんな緊張感があった。

俺よりも若いはずなのに、まるで飲み込まれるような雰囲気があった。
「レイヴンだろ。それくらい分かるさ。ちなみに、あんたの生まれてからいままでの経歴だって余すことなく知ってるさ。

初体験のときの恥ずかしいエピソードを披露してやろうか」
「ちょっと、待って待って待って! それは誰にも言ってな、いや違う、そうじゃなくて。どこに盗聴器つけてるの! 

正直に白状しなさい! いまなら変質者ってことで通報するだけにしといてあげるから!!」
 勢いあまってテーブルを叩いて立ち上がると、俺のテンションとは正反対の冷めたため息が返ってきただけだった。
著しくいろいろなものを踏みにじられているのは俺のはずなのに、どうして加害者かつ変質者である目の前の男の方が、

非常にイラつく余裕を見せているのだろうか。俺にはよく分からない、というよりも普通に会話が成り立ってるのがおかしいよね。

本当にどうしようもないくらいに。
「オレ、あんたを担当してる天使だぜ。知らない方がおかしいだろ」
「あの、俺、仏教徒なんですけど……」
 覆しようのない世界の真理のように言い放たれた言葉に、俺が返すことができた返答は、

本当に間抜けで、突っ込みとしても不完全なものだけだった。
 てか、やっぱり羽なんだねそれ。現実を否定しようとしても、そのばさばさしてるものはどこからどう見たって羽ですよね。
「そういう細かいところは気にしなくて大丈夫だ。いまの世の中、幅広いニーズに答えられなきゃこの業界生きていけないわけだし、

神のアガペーは無限大だぜ。この心の広さにむせび泣いて、右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しとけよ」
「もう、どこから突っ込めばいいかわからないんだけど」
「突っ込みも何も、とりあえずあんたがいまの生活を見直すところから始めないと、オレの使命全うできないんだよ」
「だって、えーっと、おまえさんが天使とかいう変質者で、俺の生活習慣がなってないから派遣されてきたって、そんなの子供向けの小説にしたって売れないだろ!」
「まあ、小説じゃねえしな」
「だいたい、これ以上ないくらいに健全に生きてますよ! こないだの健康診断だってメタボ検診だって、お医者さんから太鼓判もらったくらいなのよ!」
「そういうことじゃねえよ」
 天使と名乗った男は、手にしていた蜜柑を俺に投げつけて、大きく伸びをすると開いたままの窓の外を睨むようにして小さく呟いた。
 窓の向こうに見える景色は、嫌になるくらいいつも通りなのに、一番近く見慣れているはずの我が家が現実から遠い。

あまりに遠すぎて、いま自分がどこにいるのかわからなくなってくる。目の前の天使(仮)が持つ真っ白な羽が、それに拍車をかけた。

ふわふわとしているそれに好奇心をそそられて手を伸ばしたくなる。どうしようかと手持ち無沙汰にしていた右腕を伸ばしそうになったときに、

ガタリという音をたてて勢いよく立ち上がった彼に驚き手を引っ込めてしまった。
「な、なに」
 羽に触ろうとしていたことがばれてしまったんだろうかと、心のどこかで焦りながら声をかけると、

日の光をバックにたった天使があんたってそれだから駄目なんだと言ってテーブルをまわって俺の前まで歩いてくる。裸足の足は傷一つなく、

二十代らしい外見からは考えられないくらいに、すらりと伸びた背は背中に鉄板でも入れているんじゃないかと思えるくらいに姿勢がいい。
 お茶と茶菓子をせびる姿は幼いのに、こうして俺に向かい合う姿は老成していてちぐはぐな印象を受ける。

普通なら頭がかわいそうな人なのだろうと判断して、手元にある携帯電話で警察に電話をかけてもいいくらいなのに、

それができないのはこの彼の言っていることを否定しがたい雰囲気があるからなのだろう。
 怖いほど静かに近づいてきたその男は、その静けさをそのまま宿したかのような凪いだ瞳に俺を映した。

涙の膜でも張ったかのような艶やかさをもったそれは、目をそらすことを許さないとでも言うかのような妖しさがある。

風もないのに静かにゆれる羽は、彼の背後に大きな影を落とし、もう逃げ切ることのないいまを見せ付ける。

目の前にあるのは、怖いくらいの非日常と、恐ろしいまでの現実だ。
「自分で気づいてないのか? 体調とか生活習慣じゃなくてもっと重要なことだ」
 節くれだった男らしい指が、まっすぐに伸びて俺の胸の辺り、たぶん心臓の上を指した。そして、コンコンと二回ノックする。

それが何を意味しているかはわからないが、自分の指先を見つめる男は怖いくらいに真剣な顔をしていた。
「ここ、空っぽだろ。無駄に綺麗な翡翠色の目なのに、何にも映してないからこんなことになるんだよ」
 言われている意味がよくわからなくて反論する前に、俺の胸の上をさしていた指先がそのまま上へとのぼる。

驚くくらいにひんやりとしたそれは、ためらうこともなく俺の頬に触れラインをたどるように撫ぜていく。

やめろと抵抗するよりも、なんでもないことのように触れる男の指に嫌悪感よりも先に形にならない高揚が胸の奥を襲った。
「意味が…わかんないわよ……」
 説明できない衝動を振り払うように吐き出すと、冷たい指先が俺の皮膚から離れ、その代わりにだから駄目だって言ってるだろという、

今日何度目かになる暴言を浴びせられる。

離れていった指を目線で追ってしまうのはその冷たさを名残惜しく感じているからなのだろうか。
「とりあえず、あんたのここが一杯になるまで帰れないわけ。わかったか?」
 ここというのは、俺の心臓のことなのだろう。だけど、曲解するならば、目に見えない心というもののことなのかもしれない。
 本当に、意味がわからない。どうして、いや、なにが。違う。
 おかしいのはそんなことじゃなくて。本当におかしいのは、この状況をすでに受け入れつつある俺なんじゃないか?
「返事は?」
「え?」
「だから、まじでだめなおっさんなあんたが、オレの指導のもと健全に更生していくという決意の返事は?」
「勝手に話進めないでよ! そんな訳わかんないプランにのってたまるか」
「もう決定事項だから、形式だけの返事でいいんだよ。早くはいって言え!」
 えらそうに腕組みをした天使は、天使というよりも悪魔といったほうがいいような強引さで俺に承諾の証を強要してくる。

しかも、決定事項ってどういうことなの。
「クーリングオフきかないの?」
「天界にそんな制度ねえよ」
「てか、天使ってなによ。そこらへんの突っ込みも忘れてたし! だいたい、これ本物?」
 男の背中にあった羽を勢い任せに引っ張ると、その感触は思ったよりもやわらかく。どうしてだか羽毛布団を思い出した。

布団屋に行ったときに欲しくても手の出なかった高級羽毛布団って、こんな手触りだった気がする。俺がその手触りに浸っていると、ついで絶叫。
「おい痛い! ちょっと! いてぇよ! オレのチャームポイントに何してんだ! 羽がもげるだろ!!」
「若干あきらめつつあったけど、やっぱり本物なの!?」
「ふざけてんのか! 偽者っていう考え方がすでにオレを馬鹿にしてる! ちょっと、やめろ! 本当にいてぇんだよ!!」
 とまあ、そんなこんなで増えた同居人は、ユーリ・ローウェル、外見年齢二十一歳。

職業、まじでだめなおっさんな俺を更生させる天使だそうだ。
頭と胃が痛いのは、気のせいじゃない。
そして、これからは退屈とは縁遠い生活になるだろうことも。





10・6・14